手術の翌日

2015年12月25日

それは長い長い一日の始まりでした。

朝は経過が順調で、主人と少し話ができました。

しかし、夜には無言の帰宅となりました。

(会話文は私が受けた印象を文章化しています。一字一句正確なものではありません。)

9:00am前

息子は友人に会いに出かけ、同居している義両親を連れて3人で病院へ向かおうとしていた時、私の携帯が鳴りました。主人からでした。

私 「おはよう。」
主人「おはよう。」
私 「もうしゃべれるの?スゴイね!これからそっちに行くところだよ」
主人「痰(たん)がひどくてティッシュ持ってきて。」
私 「えっ、持っていったの使っちゃったの?」
主人「うん、看護婦さんからもらってる」
私 「わかった。ひとパック持っていくね。」

手術翌日にもう声が出せるなんてスゴイと思いました。

「一般的な手術ですが、術後は咳や痰が出ることがある」
と、術前に主治医の説明で聞かされていたので何も疑いもありませんでした。
一週間の入院で徐々に治まってくると言うことだったので想定内のことでした。


9:00am過ぎ

15分ほどで病院に着くと、主人はすでに観察室から一般の病室に戻っていました。

首を動かせないので、薄い緑色のカラーを付けたままベッド上にあぐらをかいて座り、正面の白い壁を見ている状態でした。ツラそうでした。

本当に咳と痰がひどくて、1分間に2~3回出ていたと思います。

私 「来たよ。眠れた?」
主人「(かすれた小さな声で)…痰がひどくて眠れなかった。」
私 「そっか。寝てなくて大丈夫?」
主人「…寝ると息が詰まりそうだから…」
私 「そうなんだ…。寝れないのはツライね。痰は1週間くらいで徐々に治まるって言ってたから大丈夫だよ。ご飯は食べられた?」
主人「(首を横に振って)…。」
私 「お茶くらい飲めた?」
主人「うん。」

その後、看護師さんが来て、
「今日からリハビリの予定だったんですけれど、痰がひどくて気分がすぐれないようですから、主治医からリハビリを延期して安静にしていることにしたんです。朝ご飯はヨーグルトをちょっと食べました。」
と報告してくれました。

義父が看護師さんに
「ずいぶんと息子の首のところから胸のところまでが赤いんですけれど大丈夫ですか?」
と聞くと、看護師さんは
「今朝、ドレーン(血液排液をとる管)を外したばかりですし、主治医の診察もあって様子をみることになっていますから。」
と答えていました。

本当ならここで私が気づいてあげるべきだったのかもしれません。
すっかり先生を信じてお任せしていたので、何も疑わなかったのです。
この時点で、主人の気道の周りに恐ろしいことがおきていました。


10:00am少し前

しばらく病室にいて、主人が
「暑いから窓開けて」
と言ったので、しばらく窓を開けたら気持ちよさそうにしていました。12月で寒かったのですが、新鮮な空気は心地良かったのだと思います。
私と義両親と三人でいろいろ話をしているのを、主人はじっと聞いていました。
腰が悪い義母を気遣って、主人が口を開きました。

主人「もう大丈夫だから帰っていいよ。」
私 「え?…あ、からだ休めたいよね。じゃあ、義父さんと義母さんをウチに帰してから、ティッシュとのどスプレーを買ってまたすぐ来るよ。」
主人「のどスプレー?」
私 「痰にいいでしょ?」
主人「ああ。うん。」
私 「じゃあ、後でね。」

と言って三人で病室を出ました。


10:30am頃

私は、義両親を自宅に送ってから家に入らず、すぐにドラッグストアへ向かいました。

ティッシュを2パックと、のどスプレーを5個購入してレジで清算していると、私の携帯が鳴りました。

病院からでした。

病院「奥様、すぐに病院に来れますか?」
私 「…はい? 今、主人に頼まれたものを買い物中ですぐ行きますが…。」
病院「何分で来れますか?」
私 「…10分以内には行けますが。」
病院「お願いします。お越しになったらナースステーションに声を掛けて下さい。」

私は『なんだろう。何か我がままな事でも言って看護師さんを困らせてるんじゃ…』と思いながら、清算を済ませ一人で病院へ向かいました。

2Fの主人の病室の目の前にナースステーションがあるので、病室を見るとたくさんの人影が見えました。驚いた私は、言われた通りナースステーションに声を掛けました。

私 「あの、お電話頂いたんですが。何が起きてるんですか?」
病院「あ、奥様ですね。あとで主治医から説明がありますのでしばらく談話室でお待ちください。」
私 「は?…。」

病院スタッフに促され、一度談話室に入りましたが、何が起こっているのかこの目で確かめたくて、主人の病室のドアを遠くから見ていました。

ドアが開くたびにたくさんの人が病室にいるのが見え、床にはたくさんの電源コードが這っていました。

まだ何が起こっているのかわからない状態でした。何かの処理に追われているのだろうと楽観視して主治医が来るのをまっていました。待っている間、最初に頭に浮かんだのは「血液凝固因子不足による出血」かもしれない、ということでした。とにかく主治医からの説明を待って行動しよう、と自分に言い聞かせていました。

主人の病室を見ていたら、事務員のような制服を着たひとりの女性が近づいてきました。名刺を渡されました。

肩書は『社会福祉士 介護支援専門員』と書いてありました。すると、彼女は、

「困ったことがありましたらご相談くださいね。」と声をかけてくれました。私は、「何が起きているんですか?」と聞いたら、「後で主治医から説明がありますからお待ちください。」とやさしく言ってくれましたが、この方がどんな方なのか全くわかりませんでした。(おそらく医療対話推進者だったのでしょう)

待っている間にも、主人が心停止をしているなどと、夢にも思いませんでした。


11:00am頃

やっと主治医から呼び出され、別室にて説明がありました。

担当医「現在のご主人の状況をお知らせします。気管が圧迫され呼吸困難になり、酸素が行かず心停止を起こしました。現在心マッサージを続けています。
私  「え?心臓止まったんですか?」
担当医「今、救命措置を、心マッサージをしています。」
私  「……あの…………それは家族を呼んだ方がいいということですか?」
担当医「……呼べますか?」
私  「……はい……呼べます。」

こんな会話をしたと思います。

まずは義両親を驚かさないように言い方を考え、冷静になって自宅に電話をしました。「病院から呼ばれたから行く準備をしておいてね。」と。

自宅に着き、義母を車に乗せ、別の病院にいた義父と、友人と遊んでいた息子を拾い、そのまま病院へ向かいました。

家族には車の中で「心臓が一度止まってしまったみたいで…。でも、今、心マッサージしてくれてるから大丈夫だよ。身体が強いから大丈夫!もう動いている頃だよ。」と自分自身に言い聞かせるように説明したと思います。


11:30am過ぎ

当然、心臓が動き出しているはずと思いながら、家族と病室へ向かいました。ところが、状況は変わっていませんでした。

同じ階の談話室には、主人の仕事先の上司の方も駆けつけて下さっており、ご挨拶をして缶コーヒーをお出ししたことは覚えています。

何か会話をしたと思いますが、全く覚えていません。初めてお会いしたので、どのような関係の方なのかそれを知るのは数日後でした。


12:30pm頃

時間が過ぎてゆくだけで、何もすることができず、実姉にメールをしました。

主人の見舞いを予定していた私の友人も、息子さんを連れてすでに病院に駆けつけていました。
実姉も病院にすぐに向かうと連絡がありました。

義両親は椅子を借りて、主人の病室の前で祈るように様子を見ていました。

息子には、友人の息子さんがずっと寄り添ってくれていました。

私にも友人がずっと寄り添ってくれていました。

みな談話室で事の成り行きを見守っているしかありませんでした。


13:30頃

病院側から、再度説明がありましたが、状況は変わりませんでした。

このときに初めて主人の病室への入室が許され、義両親と息子と私と主人の仕事先の上司の五人で入りました。

足元にはたくさんのコードがあり、病室の奥に進むにつれ、主人の顔が見えてきました。寝ているような表情でした。

でも、首から下は、気道確保のため、喉もとを切開されチューブが入っており、身体は心マッサージのために上下に大きく揺れていました。

首元やベッドのあらゆるところに血がついていました。

目の前の主人に起こっていることはいったいナニ???

― 私は動けませんでした。

誰かが「呼びかけて!」と言ったような気がしました。そこで、現実に戻り、彼の名を呼びながら手を握りました。冷たかった…。

同時に義母がしぼるような声で「こんなに冷たくなって。」というと、病院側の誰かが「心臓が動き出せば温かくなってきますから。」という声がしました。それを信じてみんなで呼びかける声が病室内に響いていました。

どれくらい経ったでしょう。ベッド上で跳ねる主人の身体が動いたように思えて、やっぱり冗談なんだ、と何度も思いました。

でもそれは、心マッサージによる反動。

―悪夢を見ているようでした。

それから「救命措置を続けるので、」と病室の外へ促されました。

憤りとか怒りとか、そういう感情はまだなく、状況把握をすることに懸命で、ただただ呆然としていました。

 


15:00頃

主治医から2度目の説明がありました。

主治医と私・息子・義両親・仕事先の上司がいたと思います。主人の病室の前にある3畳くらいの診察室のようなところでした。

主治医はゆっくりと経過報告を話し始めました。

ご主人は、頚部に出血が溜まっていて、それがじわじわと気道を圧迫し塞いで腫れており、挿管できず呼吸不全を起こし心停止になりました。現在、心マッサージを4時間以上継続していますが、蘇生されません。厳しい状況です。

『厳しい…呼吸不全って???』耳を疑うような言葉…。

私  「…厳しいということは、もう蘇生ができないということですか?」
主治医「厳しいです。」
私  「覚悟をしろと…」
主治医「……厳しいです。なぜあんなに急に心臓がとまったのかわかりません。経験上、心マッサージを始めて10分ー15分で蘇生されるのですが。」
私  「それは凝固因子が足りなくて首の中で出血を起こし、窒息したということですか?それを止める    薬は用意していなかったのですか?」
主治医「術前検査では正常値内だったので用意していません。」
私  「え?」

私は、 血友病A の患者への対応マニュアルってそうなのか?…と思ってしまいました。
患者側としては、当然、万が一のために製剤を用意しているものと思っていました。

この後、どんな会話になったのか覚えていません。

主治医に促されて、主人の病室に家族で向かいました。

病室の床にたくさんのコードがあったこと、青い看護服を着た男性が主人のベッドに乗り、汗を流しながら一生懸命心マッサージをしていたことは鮮明に覚えています。

私は「なにやってんの!目を覚ましなさい!」と叫んでいたと思います。家族みんなも叫んでいました。

でも一向に温かくならない主人の手を握りながら、私は「どうしたらいいの?」と傍らにいた中学3年の一人息子に言いました。息子は「俺に言われても…。」

『そう。私が決断しなければいけない。14歳の息子に決めてもらおうなんて酷な事してはいけない。』と目の前の出来事を直視しました。

心マッサージの反動で、人形のように跳ねる主人の身体、
汗だくの男性看護師さん、
鳴り響く乾いた機器の音、

義両親に「どうしよう…」と尋ねると「わたしには決められない…」
病室のすべての動きが私のひとことで決まる……決断力のない私がいつも助けを求めていたのは主人でした。いつも的確な判断をしてくれる主人が目の前にいるのに、頼ることができない絶望感と逃げることができない重圧感で押しつぶされそうでした。口に出したらもう元には戻れない……私は人生最大の重い決断をすることになりました。

「…これ以上はもう……心マッサージとめてください…」

主治医の指示で看護師の心マッサージは静かにとまりました。機器は心臓が動く気配をとらえてはいませんでした。

― 16時12分、臨終となりました。

主人の今後が自分の決断にかかることの重圧は、あまりにも苦しく、辛く、悲しく、とてつもない罪悪感が一気に押し寄せてきました。もう涙が止まりませんでした。

どれくらい泣いたでしょう。家族みんなで。気がつくと病室にいたスタッフ全員が頭を垂れて黙祷をしているようでした。落ち着いてきた頃に看護師長さんが「ご主人、頑張りました。血だらけなってしまったので、私たちがきれいにいたしましょう。ご家族は談話室でお待ちください。」と言われました。

談話室で待っていた友人を見つけて、抱きついて泣きました。

 


17:00頃

私は今までが何だったのか、これからはどうなるのかいろいろなことが頭の中で整理できずにいる状態でした。

病室から看護師さんが談話室で待つ私たちのところに来ました。

「お身体をきれいにしました。お会いになってください。」

と言い、私たちを主人が待つ病室へと促しました。

『悪い夢なんだ。きっと元に戻っている』と思いながら、家族と友人と共に病室に入りました。

でも、現実は残酷でした。今朝、私と話していた主人は、目の前でベッドに仰向けになって目を閉じ冷たくなっていました。

手を握って名前を叫んでも、もう冷たくてピクリとも動きません。あのまま心マッサージを続けてもらっていたほうがよかったのか、私の判断は正しかったのか、どうすることがよかったのか、何の心構えも知恵もないまま、悪夢のような現実を受け入れられずにいました。

「しばらく家族だけにしてください。」

と病院スタッフに出て行ってもらいました。

ここから私の気持ちは『何が起きた?』から『どこで間違った?』になってきました。

そして、呆然とした息子を見たとき、『私がしっかりしないと何も進まない。』という感覚が、迷走した気持ちの片隅から割って入ってきました。

その時に思い浮かんだのは、

『解剖』

きっと病室にいた全員が同じことを思っていたのかもしれません。

「司法解剖っていうのしたほうがいいのかな…。」

と私が言ったとき、義弟が「突然のことで全く知識がないから、解剖を依頼するとどうなるのか、聞くだけ聞こう。」と言ってくれたことで私の気持ちは動き出しました。

看護師長さんを呼んで解剖を依頼するとどうなるのか聞きました。看護師長さんも経験がない様子で、一度退出して担当医に聞いてきた様子でした。

看護師長「ここでは解剖診断ができる病理医がいません。一番近くて○○大学病院か○○医科大病院に依頼することになります。もし依頼するのであれば、すぐに連絡をしてご主人を搬送することになります。詳しいことは担当医がお話ししますのでお待ちください。」

と言われました。

傍らの主人は、気管挿管によって切開した首から体液が落ち続けており、それを拭っては涙が出てきました。解剖をして、これ以上痛い思いをさせたくない、とも思えてきました。

義両親は「これ以上切られるのはたまらない。どんな姿になっても生きていてほしかった。」と言いました。痛いほど気持ちがわかりました。

いつの間にか、実姉もかけつけてくれていました。

 


19:00から

看護師長さんが、「主治医からご説明がありますので、先ほどの診察室にいらしてください。」と言われ、私と息子、義両親、義弟、姉、友人の7人で向かいました。

部屋には、主治医と看護師長、看護師数名がおり、後から主治医の父である理事長も加わりました。

2時間弱の説明と面談がありました。(義弟がすべて録音してくれていました。)

私たちは、目の前にいる主治医たちから納得ができる説明を受けられるとは到底思えませんでした。

主治医は、主人が心停止を起こしたときに他の手術をしており、一刻を争う緊急時にいなかったのです。フォローに入った医師がいたのですが、家族への説明時に、その医者も携わった看護師たちもすでに帰路についてしまっていました。説明できるスタッフは一人もいなかったのです。

それでも主治医は、起こったことを説明し、実行した治療と救命措置を述べ、結論は『術後出血による気道狭窄で痰が詰まり窒息を起こしたと思います。』と言っていました。

それは、主人の痰が多かったことが原因と言われているようでした。術前の説明では、術後にしばらく咳や痰が多くなることは聞いていましたが、窒息の危険があるとは聞いていませんでした。納得できるわけがありません。

不信感が少しずつ湧き上がってきました。

医療知識のない私たちが、想定しなかった出来事に対抗できる策は、「解剖」だけでした。

私たちは当初「司法解剖」という言葉を使っていました。主治医は、「この場合は『病理解剖』といいます。」と教えてくれました。それほど解剖に対して知識もありませんでした。

説明を受ける中で何度か「解剖」の話を出しても、主治医に「窒息であることは間違いないと思います。」と言い、「解剖をさせてください、とは心情的にもこちらからは言えません。」と言いました。

後で知ったことですが、『病理解剖』とは、より良い医学を行うために、問題点を検証し、同じ様な病気の患者さんによりよい医療を提供するために役立てるものなのです。よって、病院側から病理解剖を提案することは妥当なことなのです。

医学的知識のない私は、病院側から解剖依頼ができないこと、窒息という原因がはっきりしていることで解剖の意義がわからなくなったこと、解剖をしても主人は生き返らないこと、主人にこれ以上メスを入れてほしくないこと … 長時間の医療機関側の説明で家族の意見を聞き、悩みに悩んだ末、解剖をせず、主人と家に帰ることにしました。

この段階で、主人の処置に携わった医師や看護師がすでに帰路についてしまっていました。人が亡くなっているのに何故すぐに原因究明の行動を起こさないのか不思議でした。

結局、詳しい状況を聞くことができませんでした。
家族もどうしたらよいのかわからず疲弊していました。

また後日に説明のための面談を行うことを約束しました。

 


21:00過ぎ

説明が終わり、主人がいる病室に戻りました。

家族全員疲弊していて、何をしたらよいのかわからず、家族で主人とともに病室にいると、病院側から今後の手順の話がありました。

「この後、ご主人をご自宅に搬送することになりますが、どうされますか?」

と言われました。突然の出来事でどうするべきなのかわからないのに何を言っているんだ、と思い

「どうしたらいいのかわかりません。どうすべきですか?」

と問いただすと、

「葬儀社と契約していらっしゃれば、そちらに搬送をお頼みします。こちらで連絡しますが契約先はありますか?」

私は「○○の互助会に入っています。」と答えると病院側が連絡をしてくれました。

そのあとの病院側の言葉が忘れられません。

「22:00までに病院から搬送することになります。ご準備します。」

なぜ時間に追われなければならないのか違和感を感じました。主人は数日間入院をする予定だったのに、なぜ退院しなければならないのか、予定と違うと思っていました。

こうして、私たちは『遺族』となりました。


その後、姉と友人が先に自宅に行って、主人が休める場所を作っておいてくれることになり、私と息子、義両親と義弟はずっと主人の側にいました。

自宅まで搬送する車が到着し、私たちはエレベーターで1Fに向かいました。

エレベーターを降りると、そこは日中賑わう外来の待合室。

人のいないソファーの間に看護師や職員が数名おり、その中に私の知人がおりました。当該病院で仕事をしている方でした。

私は、その知人にすがって泣きました。知人も一緒に泣いてくれました。言葉はありませんでしたが、人としての温かい気遣いを感じました。

職員の方に促され、正面玄関とは別の場所に向かうと、夜真っ暗の中、病院の1Fに救急車のような色をしたワゴン車が横付けされていました。

担当医、理事長、看護師長、数名の職員が12月の寒空の中、搬送車脇に立っていました。主人が乗ったストレッチャーがワゴン車に吸い込まれると、皆深々とお辞儀をしていました。

私は、「一緒にウチに帰ろう。」と主人に話しかけていました。はやくここから遠ざかって、自分のテリトリーの中だけでこの出来事を反芻したい、と考えていました。

主人を乗せたワゴン車は先に自宅に向かいました。

私たち家族は、2台の車で自宅に向かいました。

1台は、主人が入院したときに乗ってきて、退院時に乗って帰る予定で病院内に駐車していたデリカD5です。

主人が乗って帰る予定の車でした。