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『雑記』 1996年 「勝間田哲朗『錯綜する迷宮銀河の考古学』」
『雑記』 1998年 「上條陽子の転回」 「切断と積層が
生む新世界─上條陽子の新作群について─」 「呉一騏 水墨画の新次元」
『雑記』 1999年 「安藤信哉・自在への架橋」
「呉一騏 水墨画の21世紀へ」 「深沢幸雄・人間存在への深い眼差し」
『雑記』 2000年 「内田公雄の絵画世界」
「水墨の原理・易経の哲理」
『雑記』 2001年 坂東壮一手彩色銅板画集「仮面の肖像」
『雑記』 2002年 「坂部隆芳『山王曼荼羅図』」
「ヴァンジの彫刻について」
「記憶の塔ー上條陽子の箱」
「蒼天の漆黒 内田公雄『2002 W−8』」
「久原大河 『才難は、この若者に降りかかった』」
『雑記』 2005年 「世紀を越えて−大矢雅章と佐竹邦子」
「生動力と構造力 佐竹邦子作品への視点」
『雑記』 2006年 「佐竹邦子の21世紀的展開」
『雑記』 2007年 張得蒂「尊敬すべき人生追及──日本三島市K美術館及び館長越沼正先生に
ついて」
『悠閑亭日録』Diary2012年
気になる展覧会
今和次郎 採集講義展
石子順造的世界
ルドンとその周辺 藤牧義夫展
2月15日(水) 孔雀狂想曲
18日(土)は休館します。
北森鴻『孔雀狂想曲』集英社2001年初版を読んだ。骨董店・雅蘭堂を舞台に起きる八つの事件。八篇とも鮮やかな切れ
味で魅了された。ファンサイトで一番人気もうなずける。
《 野望によって支えられた精神力はしなやかで強(したた)かだったけれど、永久機関にはなりえなかった。》「ベト
ナム ジッポー・1967」
《 古物商に必要なのは品物の善し悪しを見分ける眼ばかりではない。この世界にも流行り廃りはついて回るから、五感
で捉えることのできない時代の風を読みとる勘もまた、必要な感覚器のひとつといえる。》「ジャンクカメラ・キッズ」
《 あるいは、価値も知らずに、誰かに与えてしまったのかもしれない。美術品に付随する価値とは、しょせんその程度
のものでしかない。それをすばらしいと思わぬ者にとって、油絵とはキャンバスと絵具の塊に過ぎないのである。》「幻・
風景」
《 沈黙はいつでも真実の重みを持っている。》「幻・風景」
集英社文庫版の解説は木田元。
《 では、北森鴻の魅力はどこにあるのか。
まず、北森鴻は人物の造型が実にしっかりしている。》
《 北森鴻は、短篇でも長篇でも、実にキチンとしたプロットを立てる。だから、話がかなりこみ入ってきても、安心し
て読んでいられる。それに落ちがキパッと決まる。よほど頭がいいのかもしれない。》
《 なにを書くにも、調べぬいていいかげんにすまさない職人芸に、私は惹かれているのかもしれない。》
誠に同感。
ネットの拾いもの。
《 コーヒーメーカー=おいしいコーヒーを作る機械だと勘違いしてた。
ただの自動コーヒー淹れ機だった。》
2月14日(火) 贈呈本
18日(土)は休館します。
昨日の書き込みでわかるように、私の好きな分野は探偵小説、推理小説そしてミステリ。時代によって異なった呼称
だけれど。一昨日の毎日新聞、「
この人この3冊」は米澤保信・選の泡坂妻夫。
《 『亜愛一郎の狼狽』創元推理文庫
『妖女のねむり』創元推理文庫
『家紋の話 上絵師が語る紋章の美』新潮選書 》
昨日買った『妖女のねむり』ハルキ文庫は、贈呈用。笠井潔『オイディプス症候群』光文社も贈呈用。
昨日、雑貨屋さんからコーヒー豆を頂いた。お返しにその店に展示してあった、イギリスの古い画集の翻訳本に合わせ
て、ケイト・グリーナウェイの小体な花言葉集の絵本(英語版)を贈ることにする。
北森鴻『ちあき電脳探偵社』PHP文芸文庫(この文庫は初めて買った)を読んだ。デビューした翌年、『小学三年生』
に一年間連載した「ちあき電脳探てい社」全六話を一冊にまとめたもの。なかなか楽しいミステリだ。解説で芦辺拓が書
いている。
《 最も異色にして知られざる存在といえるのが、本書『ちあき電脳探偵社』にまとめられた作品群でしょう。》
ネットの拾いもの。
《 「七転八倒のエンタメ」と書いて、なんか違和感を感じてしばらく考える。おおっと、違う違う、七転八倒じゃなく
て抱腹絶倒と書きたかったんだった。七転八倒してどうする。》
ネットのうなずき。
《 正義はいともたやすく排他主義や画一主義に陥る危険性を内包していることだけは忘れないようにしたい。》
この発言に、牧村慶子さんがメルヘンと絵を描いている『すみきった青い空』サンリオ1977年収録の「マヤ」を連想。
2月13日(月) 休館日
18日(土)は休館します。
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で三冊。北森鴻『ちあき電脳探偵社』PHP文芸文庫2011年初版、高井忍『漂流巌
流島』創元推理文庫2010年初版、米澤保信『遠まわりする雛』角川文庫2010年4刷、105円オマケ券があったので、計210
円。
昼前に自転車を飛ばしてブックオフ函南店へ。笠井潔『オイディプス症候群』光文社2002年2刷、小林信彦『和菓子屋
の息子』新潮社1996年初版帯付、泡坂妻夫『妖女のねむり』ハルキ文庫1999年初版、北森鴻『写楽・考』新潮文庫2008年
初版、姫野カオルコ『結婚は人生の墓場か?』集英社文庫2010年初版、米澤穂信『秋期限定栗きんとん事件・上』創元推
理文庫再版、計630円。『栗きんとん』の下は持っている。
買う本の傾向がわかるなあ。午後はのんびり。
ネットのあるある。
《 「風呂から出てパソ前にダッシュしたが3分間に合わず……。」
「パソ前」を「パン前」と読み違え、「パンツ穿く前に」と勝手に解釈してしまいました。》
2月12日(日) 1971年『石の血脈』
18日(土)は休館します。
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で三冊。ヤッフェ編『ユング自伝(1)』みすず書房1994年23刷、『ユング自伝
(2)』1995年22刷、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)随聞記』ちくま学芸文庫2001年8刷、計315円。
1971年、半村良『石の血脈』早川書房が出た時、評判を聞き及んで本屋へ走り、さっそく読んだ。頭が充血したよう
な読後感だった。これは凄い……。あれから四十年。祥伝社文庫1992年初版で再読。濡れ場の描写は、記憶そのままだ
った。そんな細部はよく覚えている。見事な描写力だ。まったく古びていない。あらためて傑作だと実感。山田正紀・
恩田陸『読書会』徳間文庫2010年初版では『石の血脈』が取り上げられている。
《 恩田 うん。巧いです。
山田 構築力、構成力という点では弱いんだけど、巧いと思ってしまう。うん、やっぱり人間
の造形力かなあ。》
人間の造形力だと思う。一介のサラリーマンから権力へすり寄って上層部へはいがっていこうとする人。それを身を
もって拒否する人……。権力の陰謀によって建設会社を倒産させられ、一介のラーメン屋の主人から新規まき直しを図
る下町育ちの元社長の発言。
《 働く奴が正しいんだ。みんなは……俺たち貧乏人はなぜ汗水たらして働いていると思う。おめえさん方ケチ臭い細
工師にゃあ金輪際判るめえ。働いてる同士の間にゃあ、銭金でねえあったけえもんが生まれるんだ。テレビも車も学校
も、そんなもなァささいなこった。おめえらのボスにゃァその味は一生判るめえ。》「第十七章 偶像破壊」
このくだりを読んで1977年に単行本が新潮社から出た連作長編時代小説『どぶどろ』を連想。2001年に出た扶桑社
文庫版に日下三蔵は書いている。
《 どの一篇をとっても人生への深い洞察に満ちた「大人の小説」になっているのは、さらに素晴らしい。》
《 売上曲線はいつも上を向いていなければならない。資本という生き物は飽くなき増大本能を持っているのだ。停滞
は悪、後退は罪だ。》「第十四章 血の提供者」
《 人が死ぬ。交通事故で死ぬ。だが車は走りつづけている。欠陥車が問題になる。だが不良部分が補修されると、車
は再び走りはじめる。道路が建設され、延長される。車がそこを疾走し、また人が死ぬ。人々は車で走る権利を手に入
れ、そのために何パーセントかの血を払う。人々は常に緊張を続けることを要求され、ぼんやりと歩く権利があったこ
とを忘れてしまっている。》「第十四章 血の提供者」
四十年前と変わっていない。一昨日の毎日新聞夕刊「特集ワイド この国はどこへ行こうとしているのか」、京大教
授佐伯啓思の発言。
《 「日本人が今いる文明は極めて米国的なものだと知ること。欧州とは違う。ましてや、もともとの日本の価値観や
考え方とも全く違う。昔の日本人はものが少なくても、生活を楽しめた。質素倹約を大事にし、物質的なものに幸せを
感じるよりも、もう少し人間のつながり、もう少し静かなたたずまいに、幸せを感じることがあったと思うのです」》
《 ひとつは、この震災・事故を近代文明への大いなる警鐘と見なし、自由、幸福、富などの無限拡大をめざし効率性
を追求する今日の経済システムの大転換を図る、という「脱近代主義」(略)もうひとつは、この震災・事故を繰り返
しなされる近代主義への障害のひとつと見なして、より高度な技術開発によってその克服をめざすという「超近代主義」
…… 》
《 「脱近代主義」は突き詰めれば、脱原発に向かうという。(引用者:略)一方の「超近代主義」は、技術に信頼を
寄せてより安全性の高い原発を開発し、これまで以上に豊かな生活を追求していくことを意味する。近代主義の見直し
は、経済だけでなく価値観の転換をも迫ってくるという。》
ネットのうなずき。椹木野衣のことば。
《 あるときは丸一日掛けて、別の日にはちょっとだけ立ち寄って、思い出せない細部だけ見る、というようなことを
とにかく繰り返す。すると、見知っていたはずの絵が、実はまったく違う絵であったことに気付くのだ。》
ネットの拾いもの。
《 四大陸フィギュア、いつも思うんだが島国の日本は参加してもいいんだろうか。大陸じゃないのに。》
2月11日(土) 1910年
18日(土)は休館します。
1979年、今はなきリッカー美術館で催されたハインリッヒ・フォーゲラー展の図録には竹久夢二は一つも言及されて
おらず、この三十年余気になって仕方がなかった、昨日記した仮説(フォーゲラーの夢二への影響)が、樋田直人『蔵
書票の魅力』丸善ライブラリーを通読して、いとも簡単に証明されてしまった。
《 次々とロマンティシズムの作品を誕生させたハインリヒ・フォゲラー(一八七ニ〜一九四ニ)は、一九一○年に白
樺派による日本最初の彼の作品展示会行われたが、彼の思潮に、当時の日本の作家は大きく影響を受け、中でも川路柳
虹や竹久夢二らが、競ってロマンティシズムの書票を作ったのもこの頃である。》27頁
《 明治四四年十月、東京・赤坂の霊南坂下三会堂で、白樺主催の版画展覧会が開催された。(引用者:略)そして、
こぼれ話として、この展覧会の第一号入場者は竹久夢二で、彼は朝八時の開場の二十分も前にやってきて開館を待った
というから、いかにこの展覧会を期待をもっていたかがわかる。》42-43頁
《 一九一○年代には、(引用者:略)竹久夢二も、ハインリヒ・フォゲラー調のロマンティシズムの書票を作った。》
50頁
樋田直人『蔵書票の魅力』は、明治期の美術・文芸から学校制度までが、じつにわかりやすく簡明に記述されていて、
今まで読んだ本で、最も理解しやすい本だった。これはいい本だ。
K美術館の本棚には『月刊美術』1995年7月号がある。特集は「蔵書票の魅力」。副題は「紙の宝石」。樋田直人『蔵
書票の魅力』1992年の副題は「本を愛する人のために」。この方向性の違いが誌面に表れている。
二十世紀初頭の画家では、2003年東京のブリヂストン美術館で開催された、レオン・スピリア
ールト Leon Spilliaert が印象深い。また見たい
画家の一人。
ネットの拾いもの。
《 北海道でこのあいだ初めて食ったが、赤飯に甘納豆はガチで旨かった。九州人
甘納豆って赤飯以外でなにに使うかよくわからない 。どさんこより 》
2月10日(金) 1972年
昨晩、用事で出かけたついでにブックオフ三島徳倉店まで自転車で行く。藤原伊織『残り火』文藝春秋2007年初版帯付、
樋田直人『蔵書票の魅力』丸善ライブラリー1992年初版、計210円。後者は「ハインリヒ・フォゲラーの蔵書票」に10頁が
費やされているので。
《 ただ、この フォゲラーの若き日の名作「春」は、明治四四(一九一一)年に、当時、創刊して間もない雑誌『白樺』第二巻
第十二号でフォゲラー特集が組まれ、掲載されたので日本でも一般に知られるようになるが、前年の一九一○(明治四三)
年に白樺社主催の美術展が開かれ、フォゲラーの銅版画が多数出品されたのが日本の美術界に知られた最初である。》
「春」1896年や「蛙の王様」1896年、「七羽の白鳥」1898年等の銅版画に流れる抒情的雰囲気に、日本の抒情画の源流
を見る思いがする。
雑誌『芸術生活』1974年8月号芸術生活社の特集「さしえの黄金時代 大正・昭和なつかしの挿絵名作集」から。
《 近代の挿絵を芸術に高めた草分けの人は、いうまでもなく鏑木清方である一葉女史の『にごりえ』による挿絵は、か
け値なしの絶品である。幕末から明治初年の浮世絵にこびりついていた泥臭を、清涼な水でサアッと洗いあげたような画
品のさわやかさは、まさに新しい芸術の名にあたいしよう。》落合清彦「近代挿絵評判記─挿絵における美人画の系譜」
日本における抒情画の草分けが鏑木清方、と私はかね考えていた。竹久夢二は、フォーゲラーの銅版画に影響されて抒
情画を描き始めた、とにらんでいる。鏑木清方は1878年に生まれ、1972年に亡くなった。1972年が抒情画の区切りの年と
考えている。すなわち1973年にやなせ・たかしの編集による雑誌『詩とメルヘン』サンリオが創刊された。そこから味戸
ケイコさんたちの新しい抒情画が生まれた。
ネットの拾いもの。
《 今日はニートの日!
ニートの日が終わり建国が始まるわけか。
偉大な先人たちはそこまで考えていたんだな。》
2月 9日(木) 2002年
昨夜のNHKBSプレミアム、坂茂(ばん・しげる)の特集。
全部見たわけではないから断言できないが、彼の設計した、うちの近所の特種東海製紙の紙の博物館Pamは放送されなかった。2002年に竣工したこの建物は総ガラス張り。なので、
光熱費がやけにかかってしょうがない、とか。そうだろうなあ。今は部外者には公開されていなくて残念。管理がいろい
ろ大変なんだろうな。
東京国立近代美術館で、グラフィックデザイナーの
原弘展(はら・ひろむ)が催されているけど、彼の膨大な遺品は遺族から上記Pamに寄贈されている。
お昼に来館された年配のご婦人は、味戸ケイコさんの新聞さし絵の風景画が素晴らしい、と感想を述べられる。何人も
の方が同じ感想。その前に来館されたベテラン洋画家は、牧村慶子さんの画集を手にして、いい絵だねえ、と感心される。
四月が楽しみ。
ネットのうなずき。武田邦彦のブログから。
《 でも、もっと基本的なこと、原子力の安全を保つためには、原子力を現実にやっている人が絶対に安全を審査しては
いけないという基本方針がこれほど無視されていても、それを政府も、専門家も、報道もなにも言わない社会は気持ちが
悪いほどです。》
ネットの拾いもの。
《 どちらかといえばオマエの人生はアウトだ……だがまだワンナウトだ……
そう言われたの3回目なんだけど…… 》
2月 8日(水) 100年70年
毎日新聞昨夕刊、『ことばの周辺』大井浩一「萩原朔太郎と大正文学」の冒頭。
《 今年は石川啄木の没後100年に当たるが、啄木と同年生まれの萩原朔太郎(1886〜1942)の没後70年でもある。》
石川啄木と萩原朔太郎。どちらも愛着のある作家だ。斎藤茂吉の短歌にはどうも親しめないが、石川啄木には共鳴す
る。中原中也の詩にはこそばゆい感じがつきまとって読み通せないが、萩原朔太郎には共感する。
《 その魅力を知るには、詩人の野村喜和夫さんの近著『萩原朔太郎』(中公選書)が道案内になる。》
《 野村さんによれば、朔太郎は妹の同級生だった女性(洗礼名エレナ)に思いを寄せたが、彼女は他家へ嫁ぎ、さら
に若くして結核で死んでしまう。》
司修『エレナ! 萩原朔太郎[郷土望景詩]幻想』小沢書店1993年初版を再読。朔太郎の詩に司修が絵を添えている。
「エレナ」に言及した詩はないが、掲載詩はどれも失われた時への深い哀傷に満ち満ちている。朔太郎の詩への深い感
動から生まれた絵が、こちらの心にも共感の深い航跡を刻む。
リンクページを手直し。更新状態などによって、リンク先をときどき添削している。今回は高橋松亭の研究サイトの
私の英訳などを追加。
ブックオフ長泉店へ。小さい段ボール一箱分の古本を処分。310円也。5冊値がつかなかったので、予想価格350円は
ほぼ当たった。
2月 7日(火) 生温い風雨
二月の雨にしては、朝は台風並の激しい風雨。生温いので、濡れても寒くない。しかし、よく濡れたわ〜。
昨夜、BSプレミアム極上美の饗宴「
モジリアーニ」を視聴。子どもの頃はモジリアーニの薄青い目が気持ち悪かった。この番組で、眼玉を描くと絵が
まるでつまらなくなることが証明される。へえ〜。妻ジャンヌを描いた遺作では、顔の左半分が正面から、右半分が斜
めから描かれているち明かされる。よって、ドアの左右の壁が一直線つながらない。番組では、ピカソに対抗して、モ
ジリアーニが案出した描き方だと言っていた。
《 一見シンプルに感じる描き方には、ピカソを超えようとした画家の知られざる格闘が刻まれていた! 》
安藤信哉の油彩画を連想。

セザンヌの影響を見たけれど、モジリアーニからの影響もあるのかもしれない。
ネットの豆知識。
《 炊き粥は生米から炊き、入れ粥は米でなく飯から作る。
通常の粥とは汁粥のことだが、全粥(米の5倍量の水で炊く)、七分粥(米の7倍量の水で炊く)、五分粥(米の10倍量
の水で炊く)、三分粥(米の20倍量の水で炊く)に分かれる。》
2月 6日(月) 休館日
雨なのでのんびり過ごす。昨日は東京や横浜からも味戸ファンが来館。今回の展示に皆さん驚く。すごくいい! と。
私もそう思う。私がこれはとびっきりいい! という絵が、何人かと重なるのが面白い。それから同じことを仰る。散
逸が心配、と。294枚全部をまとめておくべき、と。同感。
2月 5日(日) Broken Promises
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。芦原義信『続・街並みの美学』岩波書店1984年2刷、久世光彦『触れもせで
向田邦子との二十年』講談社文庫1996年初版、計210円。懐かしい音楽を聞きながら『触れもせで』をパラパラと読む。
《 あるとき、ある雑誌から<無人島に持っていく一冊の本>というアンケートを求められて、何のためらいむなく「
猫」と答えて出したところ、向田さんも同じ回答をしていたことがあった。別に奇抜でもなんでもない選択なのだが、
それを見てもう一つ向田さんを信用した覚えがある。》「漱石」
《 欲しいと思うものを、奪れるようでなければ人間一流でないと言っていた向田さんが、たった一つ、奪れなかった
ものがある。他人の幸せである。さびしい恋をしていた。あの人の恋は、みんなそんな恋だった。ここで自分の気持を
通したら、きっと誰かが一人不幸になる。そういう赤提灯の歌謡曲の世界で泣いていた。》「おしゃれ泥棒」
《 娼婦の素質があんなにありながら、娼婦になれなかったのが向田邦子だった。》「恭しき娼婦」
しみじみと酒を飲んでしまった。先だって年配のご婦人からいただいたイタリアのレモン・リキュール。初めて見た
銘柄だった。32度。それを一緒にいただいた小さなグラスに注ぎ、飲んだ。甘酸っぱい芳香が切なく広がった。
十代半ば、初めて買ったレコード盤が何だったか覚えていないが、シル・オースティン Sil Austin の『黒い傷あとのブルース』ド−ナッツ盤は、
その最初の頃に買ったもの。それと同じ音源で You Tube で聴けるなんて、すんげえ時代になったものだ。元の題は『
Broken Promises 』。私が知ったのは、小林旭の映画『黒い
傷あとのブルース』から。テレビで放送されたこの映画、もう四十年あまり見ていないが、最後の場面、可憐な吉永
小百合がレストランで一人、小林旭を待っている横顔が、今も目に焼き付いている。当時はなんでえ、という気持ちだっ
たけど、今になると、小林旭が声をかけずに去っていった理由がよくわかる。年の功だ。
ネットの解説には吉永小百合は喫茶店で待っていたとある。どっちかなあ。1961年の映画かあ。遠い昔だけれども、鮮
烈だ。しばし懐旧の情に耽る。これはレコードで買えず、後年CDを手に入れて長年の渇を癒した。
それにしてもYou Tube はすごいことになっている。昨夜、レコードを聴いていて、これはないだろうと思ったギリシャ
の歌姫スーラ・ビルビリ『誘惑のテーマ』まであるとは。
毎日新聞、読書欄、古川日出男が詩人
吉増剛造の三冊を選んでいた。『黄金詩篇』思潮社1970年思潮社と『大病院脇に聳えたつ一本の巨樹への手紙』中央
公論社は持っている。四十年あまり前、本屋に並ぶのを待ちきれなくて、市ヶ谷の思潮社まで『黄金詩篇』を買いにいっ
た。表紙を飾る赤瀬川原平の絵が鮮烈だった。古川は書いている。
《 <ああ/下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字の一行だ/ここには湖がない>
この3行に出会った時、僕は、膝から力が抜けて本当にその場にへたり込んだ。》
当時の私と同じだ。
ネットのうなずき。
《 一度失った信頼はなかなか取り戻せないように、一度切れたやる気スイッチはなかなか入らない。》
本を読むより昭和歌謡を聴いてばかりのきのうきょう。
ネットの拾いもの。
《 節分の夜、死んじゃった人を
布団に簀巻きにして、北北西の枕にする、
この古くからの風習を地方によっては、
恵方巻き葬、と言います。》
午後五時、昼食。
2月 4日(土) 1984
昨朝はこの冬一番の冷え込みだったけど、立春というのに今朝も冷える。しばし蓑虫状態。それにも飽きていつもの時
間に蒲団を出る。
ブックオフ長泉店には村上春樹『1Q84 BOOK1』新潮社が105円棚に。ジョージ・オーウェル『1984』は昔
読んだ。
由紀さおりのアルバム『1969』に刺激されて、先だってカセットテープの棚から取り出して聴いたのが、高橋真梨子
のカバー曲集『紗』。近藤真彦『愚か者』、タイガース『花の首飾り』、井上陽水『ジェラシー』、松田聖子『 sweet
memories 』そして中森明菜『 desire -情熱- 』など十曲。1989年の作品だ。今聴いてみると、オリジナルのほうがいい。
井上陽水のカバー曲集『 UNITED COVER 』2001年収録の『花の首飾り』のほうが断然いい。高橋真梨子のは、特にカッコよ
くと意気込んだ演奏が時代の制約=古さを感じさせる。残酷なまでの歳月による風化の力。
にわかに昭和歌謡を聴きだした。中森明菜のベスト盤CDを聴いて『十戒(1984)』にああ、やっぱりいいなあ、とオリ
ジナルのEP盤を取り出して聴く。それから大好きな昭和の歌のEP盤(17センチ・ドーナッツ盤。平成には絶滅していた
なあ)をかけまくる。で、気づいた。あの盤もこの盤も1984(昭和59)年の歌だ。
中森明菜『十戒(1984)』
田原俊彦『チャールストンにはまだ早い』
小林麻美『雨音はショパンの調べ』
薬師丸ひろ子『メイン・テーマ』
チェッカーズ『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』
井上陽水『いっそ セレナーデ』
安全地帯『恋の予感』
内山田洋とクール・ファイブ『恋さぐり 夢さぐり』
原大輔『流されて』
西島三重子『夕闇のふたり』
いやあ驚いた。1984年のドーナッツ盤をこんなに買っていたとは。それぞれの歌にはそれぞれの哀しい思い出が貼りつい
ている。封印していた記憶の函の蓋が開いてしまう。若かったあの頃。若過ぎたあの頃。(知人が♪胸さぐり股さぐり〜♪と
歌っていたのはヒミツだ)それにしても、全曲 You Tube で聴けるとは。
ネットの拾いもの。富士山で地震。
《 富士山の地下から、なにか怪獣でも出てきそうな勢いだな。
自殺の名所 富士の樹海ってあったじゃない?
異常現象で自殺した死体が生き返ってさまよってるんだって。
死霊の盆踊りかい。》
2月 3日(金) 買えない味
昨晩、近所のスーパーで買い込んだ食料品の中にチョコレート二箱を紛れ込ませた。二月はチョコを買うのに冷や汗。
バレンタインなんてものがあるんだからあ。で、こんなチョコ
セピアちゃんは欲しいねえ。京都のフランス屋製菓の商品。私は買えな
いなあ。
ブックオフ長泉店で二冊。近代ナリコ編『 FOR LADIES BY LADIES 女性のエッセイ・アンソロジー』ちくま文庫2007
年2刷、山田風太郎『天狗岬殺人事件』角川文庫2010年初版、計210円。前者は贈呈用。後者は2001年に出た出版芸術社版
単行本(持っていない)の文庫化なので(そんな理由かい)。
平松洋子『買えない味』筑摩書房2007年3刷を読んだ。ここにはたしかに「買えない味」がいっぱいあるわ。
《 米は冷えてから味がわかる。貯金は減ってからありがたみがわかる。》「冷やごはん 炊きたての裏側」
同感。どっちにも同感。痛感。
《 寝る前に鉄瓶に水を満たし、沸騰させるのも習わしになった。火を止めて一晩置き、翌朝あっためてつくる白湯のお
いしさといったら、もう。なんといえばよいか、からだが喜ぶのである。》「鉄瓶 おいしい白湯を飲もう」
鉄瓶ねえ。高校生の時、修学旅行で行った盛岡でわざわざ買った鉄瓶を、平松洋子と同じ失敗をやらかして、こりごり。
《 このむなしさを味わうこと三回。》
四回目には……か。鉄瓶と女ほど扱いが難しいものはない。
《 さて。オトナの夏ともなれば、アイスクリンの代わりにハイボールである。》「本 一冊にくぐもる味と匂い」
流行になる何年も前にハイボールだよ。ハイボール、私は飲んだことがない。オトナ、オジサンをすり抜けて大人しい
オジイサンになってしまった私。
料理本は、台所に五、六冊ある。以前は本を参考に火加減の具合とかを勉強した。ガス台はプロ仕様。昭和の時代のこ
とだ。最高の料理を作るには最良の食材が必要、そんな食材の入手法がわからず、フツーの料理で間に合わせるようにな
った。本も棚で埃をかぶっている。友だちから平松洋子の本を依頼され、以前ブックオフでこのちくま文庫版を見つけて
渡したことがあった。今回買った単行本は自分用。大上段に構えず、日常生活に味わいを増すささやかな手段がどっさり
盛られている。不精な私でさえ試してみようかな、とその気になる(だけ)。
2月 2日(木) 山崎方代・続き
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。野尻抱影『野尻抱影の本1 星空のロマンス』筑摩書房1989年初版、平松洋
子『買えない味』筑摩書房2007年3刷、計210円。「買えない味」というと広小路駅の缶コーヒーの広告看板を思い出す。
「この味は変えない」。
やり投げはスポーツ。投げ槍はスポーツの槍。投げ遣は、やりっぱなしのだらしのないこと。山崎は方代。し放題では
ない。
岡井隆『現代百人一首』朝日文芸文庫1997年初版では山崎方代の歌が選出されている。
《 甲州の柿はなさけが深くして女のようにあかくて渋い 》
遺歌集『迦葉』収録歌。岡井は書いている。
《 山崎方代の歌の懐かしさのようなものは、長くこの列島に住んで農業を基本にして育ててきた文化の懐かしさで、
ほとんど飜訳の不可能なものかもしれない。》
《 仕舞湯に漬け込んでおきし種籾がにっこり笑って出を待っている 》
岡井は好きな歌として、上記の歌を挙げ、書いている。
《 短歌史上から言えば定型と話言葉の擦り合わせのいみじき一例を作ったのである。》
上記の歌を含む『迦葉』から私の好みを。
《 そなたとは急須のようにしたしくてうき世はなべて嘘ばかりなり 》
《 大きな波が寄せてくる 大きな笑いがこみあげてくる 》
《 太書きの万年筆をたまわりぬキリスト様は何も呉れない 》
好みだからといって、これらがとりわけ優れているとは、私は思わない。岡井隆『現代百人一首』には福島泰樹の歌も
選出されている。
《 眼下はるかな紺青のうみ騒げるはわが胸ならむ 靴紐むすぶ 》
この歌を昨日掲出した山崎方代の歌に並べる。
《 ほどけたる靴ひもをゆわきなおさむとかがめる時に吾がある 》
ネットのうなずき。
《 40代はローンと嫁抱えてリストラで死にかけてる。》
《 電車でどこか遠くに行きたい。「青春18きっぷ」の2倍の効力がある「疲れた大人36きっぷ」とか売ってほしい。》
しかし、こう寒いと……。
《 昔:倒れたら嫁が世話してくれる
今:倒れたら嫁が離婚して慰謝料請求してくる 》
《 ま夜中をひとり静かに茶をたてて心の中をあたためておる 山崎方代 》
2月 1日(水) 山崎方代
朝イチで床屋へ。風が強い。向かい風なので自転車を漕ぐのが大変。肩が凝る。
《 マッサージに行きたいけど、どこでインフル拾っちゃうかと思うと躊躇。》
同感。こういう時は冬ごもりじゃ。
『山崎方代全歌集』不識書院1996年2刷収録の四歌集『方代』『右左口(うばぐち)』『こおろぎ』『迦葉』を読んだ。
没後まもなく刊行された『迦葉』を読むと、「山崎方代(ほうだい)」という虚構の歌人を主人公にした作品集(歌集)
という印象を受ける。
《 夕日の中をへんな男が歩いていった俗名山崎方代である 》
《 方代の名刺を刷って手の平の上に一枚のせて見にけり 》
《 ころがっている石ころのたぐいにて方代は今日道ばたにあり 》
《 早生まれの方代さんがこの次の次に村から死ぬことになる 》
以下の歌に、山田風太郎を連想する。
《 欄外の人物として生きて来た 夏は酢蛸を召し上がれ 》
山田風太郎は自身を「列外」と自覚して生きて来た。欄外と列外。同じ外でも隔たりは大きい。四歌集を通読して、最初
が高くてしだいに下ってきた、という印象を覚えた。『方代』から気に入った短歌。
《 シグナルの青と赤とのまたたきよ平和はここに溢るるばかり 》
《 宿無しの吾の眼玉に落ちて来てどきりと赤い一ひらの紅葉 》
《 東洋の暗い夜明けの市に来て阿呆陀羅経をとなえて歩く 》
《 道ばたに焚火があればまたぐらをあぶりて又歩き出す 》
《 くりかえしつたえる朝の報道の事実と云えど信じるなかれ 》
《 茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ 》
《 一足の黒靴がならぶ真上より大きな足が下りて来たる 》
《 ほどけたる靴ひもをゆわきなおさむとかがめる時に吾がある 》
などなど。読み返すと選出歌がガラリと変わってしまう。困ったことだ。
旧日録 2012年 1月 続
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