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『雑記』 1996年 「勝間田哲朗『錯綜する迷宮銀河の考古学』」
『雑記』 1998年 「上條陽子の転回」 「切断と積層が
生む新世界─上條陽子の新作群について─」 「呉一騏 水墨画の新次元」
『雑記』 1999年 「安藤信哉・自在への架橋」
「呉一騏 水墨画の21世紀へ」 「深沢幸雄・人間存在への深い眼差し」
『雑記』 2000年 「内田公雄の絵画世界」
「水墨の原理・易経の哲理」
『雑記』 2001年 坂東壮一手彩色銅板画集「仮面の肖像」
『雑記』 2002年 「坂部隆芳『山王曼荼羅図』」
「ヴァンジの彫刻について」
「記憶の塔ー上條陽子の箱」
「蒼天の漆黒 内田公雄『2002 W−8』」
「久原大河 『才難は、この若者に降りかかった』」
『雑記』 2005年 「世紀を越えて−大矢雅章と佐竹邦子」
「生動力と構造力 佐竹邦子作品への視点」
『雑記』 2006年 「佐竹邦子の21世紀的展開」
『雑記』 2007年 張得蒂「尊敬すべき人生追及──日本三島市K美術館及び館長越沼正先生に
ついて」
『悠閑亭日録』Diary2012年
気になる展覧会
今和次郎 採集講義展
石子順造的世界
ルドンとその周辺 藤牧義夫展
1月31日(火) モノたち
休日明けは美術館内部は冷え切っている。おお、寒。いつもは暖房する前にお掃除を始めるけど、きょうは部屋が温ま
るまで待つ。
先だって、虹の美術館を運営していた本阿弥清氏が来館。石子順造的世界展のパン
フレットを恵まれる。
《 美術発・マンガ経由・キッチュ行 》
《 昭和40年代を疾走した、あまりにまじめ過ぎた野次馬の軌跡! 》
一度は忘れられかけた人が再び浮上する。時代の巡りあわせ。行きたいが、「遠いです」と氏。添付のコピーは朝日新
聞25日付の展覧会記事。
《 「キッチュ」の展示室には大漁旗や食品サンプル、観光地のペナントなど、およそ美術館とは無縁なモノがひしめく。
「芸術を芸術たらしめてきた非芸術の領域としてのキッチュ」を検証することで「芸術」を問い直そうと奮闘する石子の
姿が浮かび上がる。》
今読んでいる『山崎方代全歌集』不識書院にこんな歌。
《 メロットを溶かしてみるとメロットは女のように丸くて重い 》「こおろぎ」
メロットとは何ぞや。三冊の辞書には見つからず、ネット検索して、これか、とたどり着いたのが「メロットメタル」。
歯の技工で使用するモノ。昼食後キャラメルを噛んでいたら奥歯にかぶせてあった金が外れてしまった。なんだかなあ。
メロットを調べたせいかなあ。午後歯医者へ行く。敗者の精神史ならぬ歯医者の精神史を書けそうな気がしてきた。
鉄道マニアで乗る専門の人は「乗りテツ」、写真を撮る人は「撮りテツ」という。モノレールに乗るマニアは「乗リモ
ノ」、写真を撮る人は「撮リモノ」というのだろうか。
ネットのうなずき
《 選挙とか裁判とかは、たぶん、無条件にオトコの心を燃えさせるモノがあるんだろうね 》
民事裁判では原告になったり被告になったりしたので、よくワカル。
1月30日(月) 休館日
午前十時からのグラウンドワーク三島事務所での打ち合わせの後、ブックオフ三島徳倉店へ行く。J・G・バラード
『クラッシュ』創元推理文庫2008年初版、ロダーリ『猫とともに去りぬ』光文社文庫2007年3刷、計210円。しばらく行か
ないうちに通りの景色が変わっている。店舗が消えて更地に、鉄筋コンクリートのアペートが解体中……。風景が激しく
変わっていく。午後はのんびり。
先だって安藤信哉画集(1500円で頒布中)を購入された方からのメールの一部。
《 先年惜しくも亡くなった梅野隆氏が安藤作品に惚れ込んで、ご遺族を探し尋ね見たという
沢山の絵がこれなのかと、古い梅野記念絵画館カタログをひも解き気付かされました。
先日の降雪で偶然、画集にある「雪の日」と同じ寸景に接したことも驚きでした。
中でも作品「壁」に魅入られ、遺稿「法隆寺」のなかの心象風景かと頷きました。
また水彩・水墨に興味が行き、絵の具が垂れるのを苦にせず却ってそれを作画に取り込む
術は大家の趣きです。まだまだ安藤絵画からは教わることがあるようです。
これから更なる底光りする作品の掘り起こしを念じております。》
毎日新聞昨日の書評、山崎正和『世界文明史の試み−神話と舞踊』央公論新社への三浦雅士の評から。
《 同感するものは少なくないだろうが、啓蒙(けいもう)主義者の末裔(まつえい)たる著者はなおかつ希望を手放しは
しない。未来信仰でも過去崇拝でもない、現在を充実させて生きることこそいまやもっとも望まれることではないかという
のである。芸術がその手がかりになる、と。》
最終手段は「芸術」か。
1月29日(日) 新・風に吹かれて
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。菅浩江『カフェ・コッペリア』早川書房2008年初版帯付、姫野カオルコ『ド
ールハウス』角川文庫1997年初版、計210円。姫野カオルコ、文庫本
だけで25冊もあった。
気を入れて本を読む気力がなくて、周囲の本棚の前に積み上げられた本の一塔を崩す。
《 以前は部屋の中でタワーとして存在感を放っていたのが、家内のそこかしこで低い台地として、生活圏をジワリジワ
リと侵食し続けている…。》
という状態にはまだ程遠いけど……。
五木寛之『新・風に吹かれて』講談社2006年初版を抜く。「どこかの街の喫茶店で」という題に惹かれて読んだ。喫茶
店の話題から東西文化の相違に話が及んだ。
《 ドーピングとナショナリズムが交錯するスポーツの祭典にも、聖火台と聖火ランナーを欠かすことができない文化が
ある。私たち日本人は、それを単なる点火台、点火ランナーとしか見ていない。》
《 民主主義とはなにか。それは民衆に選ばれた大統領が聖書(バイブル)に手をのせて就任し、司教の証人は神に対し
て宣誓し、貨幣には神の名を冠するシステムだ。兵士たちは従軍牧師に祝福されて出撃する神の軍隊の一員である。》
《 私たちはヨーロッパとアメリカを手本として、明治以来の近代化をすすめてきた。しかし、いちばん重要ななにかを
抜きにしてそれを理解してきたのではあるまいか。故意か、早とちりか。》
夏目漱石の問題に直面する。関川夏央・谷口ジロー『「坊ちゃん」の時代』双葉文庫から。
《 漱石を小説家たらしめたもののひとつはイギリス体験である。そしてもうひとつは開放的な家屋のなかに隠れ住んだ
日本の「家」のしがらみである。西欧との戦い、家長としての束縛、この新旧ふたつの圧力と桎梏とが二正面から漱石を
苦しめ、それから自由でありたいという強い希求が漱石の小説創作の根源的動機であった。》「明治三十八年『猫』の成立」
平成に入って資本主義対共産主義という対立軸が崩れ、ある空白の後、それまでほとんど日本の視野の外だったイスラム
圏が世界史にせり出してきた。民主主義対イスラム主義のような対立軸が浮かんできた。しかし、私たちはどちらもどれほ
ど知っているのだろう。イスラム主義に対抗しているのは民主主義ではなく、それを成立させたキリスト教思想ではないか。
宗教の門外漢の私には、なんとも答えの見つからない問だ。
ネットのうなずき。
《 どうはじめるかよりも、どう続けるかのほうがはるかに大切 》
《 回転寿司、客が自動回転して寿司が固定の寿司屋に行ってみたい 》
1月28日(土) 詩とメルヘン
きょうはゆっくり起きようと寝ていたら、地震で起こされた。まあ、いいか、と寝ていたら再び地震。起きた。
午前中は源兵衛川最下流部の草取りなどに汗を流す。カワセミが飛んでいく。三島の日本大学に留学しているアメリカ
人と作業の合間に英語で話を交わす。アメリカと日本の文化の違いについて、一神教と八百万の神の違いを話す。それか
ら日本にはあらゆる場所に神様がいることも。ネイティヴ・アメリカンみたいですね、と彼。山の神のもう一つの意味は、
ワイフだと教えると、えらく受けた。山の神はコワイ。そしたら彼、私が三島で一番ファニー( funniest )だと言う。
なんだかなあ。午後一時開館。
四月から企画展を催す牧村慶子さんから絵葉書。
《 2013年の春から秋にかけて、詩とメルヘンの画家20人位の展覧会を、全国4〜5ケ所でひらくとのこと。私のことは
越沼先生にきいたとおっしゃっていました。本当に詩とメルヘン時代がよみがえるみたいで不思議な気持です。》
やっと向かい風から追い風に変わった……かな。その『詩とメルヘン』の編集者やなせたかしの文が最初に載っている小
冊子『抜粋のつづり その七十一』を広島市の熊平製作所から今年も恵まれる。やなせたかし「多病の幸運」から。
《 人間にとって、生きていく最大のよろこびはひとをよろこばせることだ。
そのことにやと気がついたのは六十歳すぎてからだった。非常におそい。》
遅くはないと思う。気づかないままあの世へ逝く人の多さよ。
1月27日(金) 『吾輩は猫である』を巡るひやひや
きょう来館予定の味戸ケイコさん、風邪が抜けないので、しばらく見送りに。この寒さ、そのほうがいい。こちらは懐
も寒いけど、なんとかしのいでおりまする。
昨日読んだ吉永南央『萩を揺らす雨』文春文庫、主人公が七十五歳のおばあさん。十年前に一念発起して和食器とコー
ヒ豆を販売する店を開いた。そんな話を聞いて友だちが貸して、と。いいよ。昨夕はカズオ・イシグロ『私を離さないで』
ハヤカワepi文庫を知人女性が返しに来館。貸した本が戻ってくるとは。こういうこともあるのか。(村上春樹『海辺のカ
フカ(上・下)』帰還せず)
『吾輩は猫である』岩波書店1994年2刷の注解は煩わしいほどだが、十一章の会話に二度出てくる《 ひやひや 》。
二度目は《 「ひやひや」と迷亭が手をたたくと、》とあるが、注釈はない。これは英語の Hear じゃないかな。普通は
「聞く」と訳されるけど、別の意味がある。手元の辞書『プログレッシブ英和中辞典』小学館1990年第2版12刷から。
《 Hear! Hear! 謹聴、謹聴(言われたことに対し同意を示すために用いる)》
関川夏央・谷口ジロー『「坊ちゃん」の時代』双葉文庫2002年初版を読んだ。当時の風景を知るに大いに参考になった。
《 漱石はこの機に乗じて精神の治療のために小説を書いた。それは当時の常識からいえば小説とは呼びにくいあまりに
も斬新なスタイルをもち、当時大潮流となりつつあった自然主義文学とは完全に無縁のものだった。漱石には文学的野心
はなく、ただ自己の精神の解放と慰安が目的であったから、これはきわめて当然なことだった。》116頁
刊行百年後の2006年に出た本に河内一郎『漱石、ジャムを舐める』がある。その文庫版、新潮文庫2008年初版の出久根達
郎の解説。
《 自著の『心』は、箱、表紙、見返し、扉、奥付、検印など、全部自分で考案し描いている。/序文で、装幀について
述べている。「今度はふとした動機から自分で遣つて見る気になつて」とある。この「ふとした動機」が知りたい。》
動機については半藤一利が発行元の岩波書店との関わりで推測しているが、推測程度では、なあ、なんだろう。続いて
出久根は書いている。
《 動機から漱石の装幀観を探り、漱石著書、及び同時代の装幀を研究すれば、「日本近代装幀史」にまとまるのではな
いか。》
三月に催す白砂勝敏展の刷り上がった案内葉書を持ってきた知人が、味
戸さんの新聞さし絵を観て仰天。これは凄い、人に教えなくっちゃ、と葉書を持っていく。ワカル人にはワカル。が、ワカ
ル人は少ない……。
ネットのひやひや。
《 文化的差違を考慮しない比較は浅薄な結果を露呈するのみ。》
1月26日(木) 吾輩は猫である・続き
昨日ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスの訃報に接し、彼の映画『ユリシーズの瞳 ULYSEES' GAZE 』1994年のオリジナルサウンドトラック盤を
夜、聴こうとCDを出したら、NHKテレビで由紀さおりの歌。彼女のアルバム『1969』海外盤の冒頭曲は黛ジュン
の『夕月』なので、そのEP盤を出して聴いた。やっぱりオリジナルの方が好き。昭和歌謡づいて、故・青江三奈のカバー曲集を聴いた。ナイトクラブにはと
うとう行く機会がなかったなあ。寝た。
『吾輩は猫である』最終章第十一章から。
《 「死ぬ事は苦しい、然し死ぬ事が出来なければ猶苦しい。神経衰弱の国民には生きて居る事が死よりも甚しき苦痛であ
る。(引用者:略)必ずや死に方に付いて種々考究の結果斬新な名案を呈出するに違ない。だからして世界向後の趨勢は
自殺者が増加して、其自殺者が皆独創的な方法を以て此世を去るに違ない」 》
《 真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫の夢幻を永久の事実と認定したがるものだから、
少し飛び離れた事を云ふと、すぐ冗談にしてしまふ 》
《 アリストール曰く女はどうせ碌でなしなれば、嫁をとるなら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きな碌でなしよ
り、小さな碌でなしの方が災少なし……》
《 ピサゴラス曰く天下に三の恐るべきものあり曰く火、曰く水、曰く女 》
《 ソクラテスは婦女子を御するは人間の最大難事と云へり。デモスゼニス曰く人若し其敵を苦しめんとせば、わが女を
敵に与ふるより策の得たるはあらず。家庭の風波に日となく夜となく彼を困憊起つ能はざるに至らしむるを得ればなりと。
セネカは婦女と無学を以て世界に於る二大厄とし、マーカス、オーレリアスは女子は制御し難い船舶に似たりと云ひ、プ
ロータスは女子が綺羅を飾るの性癖を以て其天稟の醜を蔽ふの陋策に本づくものとせり。》
《 「みんなですか、それはあまり慾張りたい。君一夫多妻主義ですか」
「多妻主義ぢやないですが、肉食論者です」》
肉食といえば、最近はロールキャベツ男子、アスパラベーコン男子と言うそうだ。前者は見た目は草食系だが、実は異
性に対して積極的な肉食系の男性のこと。後者は逆。
吉永南央『萩を揺らす雨』文春文庫2011年初版を読む。収録のデビュー作「虹雲町のお草」に《 ということは、一月
二十六日の出来事。》の一文。
ネットの拾いもの。
《 テーマ・エッセイ『なんでもベスト5』「復刊して欲しい野球ミステリ・ベスト5」のタイトル。
「ダルビッシュはくれてやるから、この野球ミステリを復刊させろ」》
1月25日(水) 吾輩は猫である
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。荻原浩『押入れのちよ』新潮文庫2009年初版、吉永南央『萩を揺らす雨』文
春文庫2011年初版、計210円。今朝、ブックオフ長泉店で二冊。道尾秀介『球体の蛇』角川書店2009年初版帯付、井上ひさ
し『イソップ株式会社』中公文庫2008年初版、計210円。昨夕、見送って気になっていた本が『イソップ株式会社』。単行
本で持っているけど、小体な文庫サイズに惹かれた。和田誠の絵がいい。買えてよかった。
午後、ふらりと入ってきた女性、恩田陸の小説と知り、展示している新聞の切抜きを全部読みたいと言う。それはかまわ
ないけど……。「時間がなくてきょうは無理だから」そうだよなあ。
夏目漱石『
吾輩は猫である』岩波書店1994年2刷を読了。旧字体の全集本で読んだのはこれが初めて。というよりまともに読んだ
のはこれが初めて。愉快だった。大いに笑い苦笑した。若い時に読んでもこの面白さをどこまで理解できたか。第一章にこ
んなくだり。
《 いくら人間だつてさういつ迄も栄へる事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよからう。》
猫の低い視点から人事を見るので、世間の裏側が筒抜けに見通せる。つまりは辛辣にして愉快な批評となる。
《 又況んや同情に乏しい吾輩の主人の如きは、相互を残りなく解するといふのが愛の第一義であるといふ事すら分からな
い男なのだから仕方がない。》第二章
《 彼の考によると行さへ改めれば詩か賛か語か録か何かになるだらうと只宛もなく考へて居るらしい。》第三章
《 御両人は結婚後一ケ年も立たぬ間に礼儀作法と窮屈な境遇を脱却せられた超然的夫婦である。》第四章
《 世の中には悪い事をして居りながら、自分はどこ迄も善人だと考へて居るものがある。》第五章
《 どうしたら好からう。どうしたら好からうと考へて好い智慧が出ない時は、そんな事は起る気遣いはないと決めるのが
一番安心を得る近道である。》第五章
《 「ええ、大概の事は知って居ますよ。知らないのは自分の馬鹿な事位なものです。しかし夫も薄々は知つてます」》
第六章
《 セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。偶には股倉からハムレットを見て、君こりや駄目だよ位に云ふ者が
ないと、文界も進歩しないだろう。》第七章
《 凡そ天地の間にわからんものは沢山あるが意味をつけてつかないものは一つもない。どんなむづかしい文書でも解釈し
やうとすれば容易に解釈の出来るものだ。》第八章
《 強情さへ張り通せば勝つた気で居るうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落して仕舞ふ。不思議な事に頑固の本
人は死ぬ迄自分は面目を施こした積りかなにかで、其時以後人が軽蔑して相手にして呉れないのだとは夢にも悟り得ない。
幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのださうだ。》第九章
《 然し今の世の働きのあるを云ふ人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の目玉を抜く事と、虚勢を張
つて人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事より外に何も知らない様だ。》第十章
明日へ続く。
ネットの拾いもの。
《 ドリフターズも今なら5人から48人まで増えているかもしれない。DRF48。》
1月24日(火) 幽(かすか)
松浦寿輝『幽(かすか)』講談社1999年初版を読んだ。江戸川のほとりで借家住まいをしている四十代の無職の独り者の
隠遁生活のような日常が描かれている。冒頭一行。
《 川のそばに寝起きしていいのは朝な夕なに水の匂いを嗅げることだった。》
藤牧義夫の隅田川の白猫絵巻を連想させるなあ。
《 とりとめのない街歩きで日々の時間を費消したがこの頃よく感じるのは何かいたるところで光や影が徐々に寄り集まり
様々なかたちにしこってゆくようだということだった。》
日和下駄か。
《 幽明境を異にするなどと言うが、たぶんこの家はその幽と明の間の境界そのものなのだろう。》
泉鏡花か。
《 こうしてついと手を伸ばせばこの美しい女に触れられるのだと思うとやはり月と孤独に向かい合っているよりはこちら
の方がいいようだった。》
だれでも同じ。
《 一人だろうと二人だろうと何人でいようとこの世のきわで幽(かすか)に身を持て余していることの淋しさはいささか
も減じはしない。》
《 このところ生きていることのリズムが遅くなってそれで今まで見えなかったものがだんだんと見えるようになってきた
ように思う。》
《 光と影がしこった透明な織物になり匿名の幽霊になって 》
《 まなざしが逸れたとたんにぼうっと半透明になってしまうようだった。》
最後の頁から。
《 人影もぼうっと白く霞む幽(あえか)な染みのようにしか見えなくなっている。》
幽、かすか、あえかという言葉を巡る小説か。読点「、」がじつに少ないのも、幽を巡るためか。
彼の小説『半島』文春文庫2007年初版の表紙には「デンマークの画家ヴィルヘルム・ハメルショイ(1864-1916)」の「背
を向けた若い女のいる室内」が使われている。 Vilhelm Hammershoi 。『芸術新潮』1998年8月号の記事にはグッゲンハイム
美術館で催された「ヴィルヘルム・ハマーソー展」。この表紙絵に惹かれて数年前、東京西洋美術館で催された「ハンマースホイ」展へ行った。この絵を含む二十世紀初頭の五年間に
飛び抜けて良い作品が集中していた。
毎日新聞昨夕刊にはこんな記事。
《 詩人・小説家として活躍する松浦寿輝さん(57)が3月末で東大教授を退職することになり、このほど東京・本郷の東京
大文学部で記念講演を行った。》
《波打ち際という「陸と海のあわいにある空間」の魅力を語った。「波の緩急のリズムや、ぬれた砂が砕けていく心もとな
さ、よるべなさの感覚は、私の感性の中核を決定している」。》
某美術館の学芸員から四月に催す牧村慶子展の問い合わせ。風が吹いてきた。
1月23日(月) 休館日/感覚の幽(くら)い風景・続き
いつもの起床時間に目が覚めるけど、休日なのでまた目を閉じる。一時間ほどして目覚め。蒲団のなかでぐずぐずしてい
るのは心地よいが、すぐ飽きてしまい、起きる。
鷲田清一『感覚の幽い風景』中公文庫の後半は前半の掴みがたさとは打って変わって読みやすい。前半は哲学者エマニュ
エル・レヴィナスからの影響を感じたが、後半は服飾、モードがらみ、鷲田の得意分野(?)か、文章がなめらか。
《 わたしたちはまるで感冒にかかったように、つねに「新しい」スタイルによって煽られ、意識を拉致されるのだが、こ
の「新しさ」は意味の新しさではない。それは、いま流通しているものとは異なるという、形式の新しさである。》「うつ
ろい」
《 みずからの神経をモードのそれで編みなおした消費者にとって、欲望は感じる以前にまずは煽られるものである。》
「うつろい」
《 「帰っておいで」という声がするのにもう帰れない、そういう痛みをともなった引き剥がしをいやでも思い起こさせる
ものとして、乳房は男たちの前に現れる、遂げられぬがゆえによけい渇くような、憧れと憎しみとがないまぜになったよう
な「分離の形象」(松浦寿輝)として、乳房は現れるのだ。》「やつし」
これになるとよくワカラン。
《 では、女性にとっての他人の乳房、あるいは女性のじぶんにとってのじぶんの乳房とは、どういう存在なのか。これは
わたしにはまだ手に負えない問題でありつづけている。》「やつし」
正直な人だ。「幽」つながりで、次は松浦寿輝の小説「幽(かすか)」を読むか。
1月22日(日) 感覚の幽(くら)い風景
ほんの傍らにあるのに、まるで気づかないことがある。昨夜、はっと気づいたこと。味戸作品の
コメント頁で紹介している一行。
《 「味戸ケイコの絵はほんとうに生命の傍らで描かれている。」》 椹木野衣(さわらぎ・のい)
心にぐっときた。生命に向いて生命を描くのではなく、生命の傍らで描いているのだ。
《 ふるえる手の転び方では死とも生とも受け取れる両義の絵を彼女は残すのだ。》
幽明をまたぐ絵……。中沢新一『はじまりのレーニン』岩波現代文庫にこんなくだりがあった。
《 「有」を語るヘラクレイトスのことばには、特有の「かそけさ」がある。ところが、ヘーゲルのような近代哲学の語る
「有」には、そういう「かそけさ」にたいする鈍感さや無感動な強さが感じられて、レーニンはちょっと嫌な気持ちになっ
てしまったのだ。》「第4章 はじまりの弁証法」
かそけさ。手元の『大辞林 第二版』三省堂1995年には「かそけさ」はなく、「かそけし」がある。「幽し」と書き、《
かすかである。淡い。》とある。『新 漢語林』大修館書店1994年には「幽」は字義として《 くらい かすか 》等が
ある。他の辞書には「かそけさ」は「かそけし」の名詞形とある。意味深なことばだ。味戸さんの絵は暗いと言われる。それ
は違う、といつも言うのだが、それは「かそけさ(幽けさ)」にある絵なのだ。
鷲田清一(きよかず)『感覚の幽(くら)い風景』中公文庫2011年初版を読んだ。
《 最近、ある建築家のこんな嘆きを耳にした。パソコンのCAD(コンピュータ利用設計システム)による製図が家をだめ
にするというのだ。(引用者:略)それはからだの震えを介さず、平行線だとか楕円形だとかベージュ色といった記号を介し
て線を引く。そこからすっぽり抜けるのは、線を引くというひとつの行為のなかに巻き込まれてくるはずのからだのさまざま
な部位の感覚である。その行為のなかで身体のさまざまな感覚が重層的に折り重なってくるという出来事が、そこでは起こら
ないのである。そういうふうにして設計された建物には、だから佇まいというものがない。匂いたつものも、迫りくるものも
ない。》「ふるえ」
昨日話題にした味戸さんの風景画。それへのヒントがこの本にある。
《 ここで外転とは「生体が刺戟のほうへ向かい、世界によって引き寄せられる」ことを意味し、逆に内転とは「生体が刺戟
から遠ざかって、おのれの中心のほうへ引きこもる」ことを意味する。》「まさぐり」
《 外に向かっておのれを開いてゆくことと内に向かっておのれを閉じてゆくこと、と言いかえてもよい。》「まさぐり」
味戸さんの風景画を観るときには、内転と外転が同時に起きているのだ。観るほうにはそう感じる。ありえないようなこと
だけど。
《 対象を探りにゆくという能動性、そう聴診のように、対象の様態を慎重に確かめる、あるいは対象をそのままいただくと
いうような、外物への強い関心のなかでこそ、触れるという出来事は起こるのだ。》「まさぐり」
《 触診、聴診のみならず、見ることもまたすぐれて世界をまさぐるという行為なのだろう。》「縁(へり)」
ブックオフ長泉店で三冊。中井英夫『虚無への供物(上・下)』講談社文庫2004年初版、相沢沙呼ほか『放課後探偵団』
創元推理文庫2010年初版、計315円。前者は贈呈用。
ネットのうなずき。
《 何かをするつもりで部屋を出て、何をするのか忘れて戻る。
何かを検索するつもりでブラウザを立ち上げて何を調べるつもりだったか忘れてる。
調べるつもりだったことすら忘れて普通にニュースサイトとかを見る。
←後々、調べるつもりだったことを思い出して気づく。》
1月21日(土) はじまりのレーニン・続き
目覚まし時計が鳴る前に目覚めると、鳴るまでぐずぐずと待っているけど、鳴ると眠くなって起きたくなくなる。なぜだ
ろう。今朝も小雨。山はまだらに雪模様。
今回展示している味戸ケイコさんの110点の絵、旧作と勘違いする方が多い。新作と聞くと、へえ、と驚かれる。はあ。今
回は風景画が見所。絵を描いている二人の女性と私の三人が最も興味を惹かれる絵が一致。日本のどこにもある山間の風景画
だけれども、違う。この違いの意味をずっと考えている。
中沢新一『はじまりのレーニン』岩波現代文庫の引用続き。
《 マルクスとレーニンの「唯物論」が、ヘーゲルのかなたに切り開こうとしていたものとは、「生命のようなもの」の「底
」を破って、そこから生命そのものにたどりついていく、未知の思想の運動を発芽させることだった。概念には、「底」があ
る。価値にも「底」があり、商品社会のフェティシズムは、そのことを見えなくさせる。商品社会は、生命そのものを隠す社
会なのだ。》「第5章 精霊による資本論」
《 共産主義とは、そうしたもろもろの「底」をつき破るための思想ではないのか。概念の「底」、価値の「底」を突き破っ
て、底なしである生命の運動が出現する。》「第5章 精霊による資本論」
《 マルクス主義には、三つの源泉がある、といわれている。フランス唯物論、ドイツ観念論、そしてイギリス経済学だ。だ
が、レーニン主義の三つの源泉は、それとはちがう。古代唯物論、グノーシス主義、そして東方的三位一体論が、その三つで
ある。》「第6章 グノーシスとしての党」
《 唯物論とは、文化によってあらかじめ表象の系からはずされ、排除されているために、人々の意識から隠され、見えない
もの、記憶されないものとなってしまったモノ(これこそがモノ自体ではないか)の立ち戻りと回帰をめざした、ひとつの反
抗(revolt)の形態なのだ。そのときどきの社会において支配的な表象の糸によって、時間の外へ追いやられたもののすべて、
もっと言うといっさいの「はじまり」の状態にあったものの立ち戻りをめざした運動が、唯物論と呼ばれるものなのだ。》
「唯物論のための方法序説」
《 表象は言語的なものの連鎖からなる。そのためにリアルの真実を、その全体性でとらえることができないのである。》
「岩波現代文庫版へのあとがき」
以上、気になる箇所を抜書きしてみた。じつに面白かった。ドアが開いて未知の世界がそこに広がったよう。地球空洞説の
ようなトンデモ本かもという気もする。私にとっては、市川浩『精神としての身体』1975年、河合隼雄『影の現象学』1976年、
佐藤信夫『レトリック感覚』1978年、そして中村雄二郎『共通感覚論』1979年と並ぶ刺激的な本だ。おや、どれも1970年代の
刊行。1980年代で記憶に残る思想書は……なかったのか。
ネットの拾いもの。
《 干物つくってんのに雨とか勘弁してくれ 》
もう一本。米コダック社破綻を受けて。
《 「フジ」の裾野に「サクラ」咲く「アサヒ」の中で
「ニコン」と笑った、君の微笑み「キャノン」砲
この恋「ミノルタ」みの「ライカ」
思わず「ハッセル」正直者の「コダック」さん
筋肉痛に「オリンパス」 》
1 月20日(金) はじまりのレーニン
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。五木寛之『新・風に吹かれて』講談社2006年初版帯付、高橋睦郎『読みなおし日
本文学史』岩波新書1998年初版、計210円。
雨なのでバス。味戸ケイコさんの来館予定が一週間遅れる。27日(金)を目処に来たいとファクスが届く。
中沢新一『はじまりのレーニン』岩波現代文庫2008年3刷を読了。1994年に出た元版に一章増補されている。中沢新一の本
は初めてだけれど、じつに刺戟的。啓蒙、蒙を啓かされた感じ。レーニンの生き方と思想を探りながら、視線ははるか古代ギ
リシャのはじまりの哲学まで及ぶ。マルクス、ヘーゲルも当然話題に挙がるが、その扱いは、なんというか専門学者から見れ
ば、イチャモンをつけたくなるような。唯物論も観念論も門外漢の私でさえ、そんな印象を覚えるのだから、1994年にこの本
が出た時、《 毀誉褒貶にさらされることになったのも無理からぬこと 》だ。そんな嵐をつゆ知らず、今読んで正解。しかし、
私はどれだけ理解できただろうか。唯物論、観念論をまともに齧ったことのない私には、この論の正当な判断は無理。だから、
以下に興味を引かれた箇所を引用するのみ。
《 これらの文章を読みながら、レーニンは舌を巻いていたのだ。思考のこの躍動感はなんだ。かぎりなく抽象的な言葉をつ
かって思考を表現しているのに、ヘーゲルの手にかかると、そのドライな抽象語が、まるで生き物のように動きだすのだ。そ
れは、ことばが、存在の見えない奥底でおこっている事態を、正確に反映しているからだ。》「第3章 ヘーゲルの再発見」
《 哲学者たちは、同じ客観の運動を、ことばによる思索の場にうつしかえることによって、形而上学を開始させる。ところ
が、ことばというものは、客観の運動をつかみとることができると同時に(理解ということばは、もともと握りつかむ、とい
う意味をもっている)、その運動をことばのなかで静止にむかわせようとする傾向をもつ。そこで、運動の静止をつきくずし
ていくために、弁証法がつくられたのだ。》「第4章 はじまりの弁証法」
《 プラトン以後の哲学は、はじまりの哲学者たちの存在思想がもっていた、底なしの「暗さ」を忘却することによって、が
っしりとして堅固なその存在論の大神殿をつくりあげることができた。》「第4章 はじまりの弁証法」
《 私の考えでは、レーニンは、「素朴」なヘラクレイトスの弁証法の背後に、ヘーゲル的な「精神」によってはせきとめる
ことのできない、ある別種の運動を感知していたのだ。はじまりの哲学者たちのもとでは、素朴さは深遠であることの別表現
であり、近代の哲学が誇る体系の複雑や巧妙や堅固さなどは、その深遠の忘却の上につくられた、軽薄の神殿にすぎないので
はないか。》「第4章 はじまりの弁証法」
《 カントもまた、「物自体」のなかには踏み込んでいかないで、それを抽象的なもののままに、放置した。しかし、ヘーゲ
ルの考える論理学とは、いっさいの形式論理学にさからって、まず生命そのものの論理をとらえるものでなければならなかっ
た。》「第5章 精霊による資本論」
以下、明日へ続く。
ネットの拾いもの。
《 突っ込みどころがありすぎて突っ込むのがめんどくさくなる
という意味で反論の余地もない。 》
1 月19日(木) 手探りで創る共感美
先だってのこと。知人画家が、白砂勝敏氏の木彫椅子を批
評し、その後、椅子の本から推薦する三つの画像を送ってきた。幹をざっくり削って作られた三つの椅子。昨夕白砂夫妻が来
館されたので、その画像をお見せして、これでは、ねえ、と私の感想を述べたが、白砂氏の指摘で英語の人名に気づいた。
David Nash 。デイヴィッド・ナッシュの作品
は1985年に東京青山の草月会館の個展で見ている。その時のパンフレットから彼の言葉。
《 未形態の概念は形を求める。概念に動機づけられて、存在(生命エネルギー)が行動(創造的活動)を開始する。その結
果を熟考することによって、概念の理解がもたらされる。すなわち、理解とは「存在と行動」のあとからやってくる。》
勅使河原宏が書いている。
《 植物の原形がもっていた美しさ・面白さを殺さないでおきながら、一方では明確に自分の理念や個性を盛り込んだ彫刻に
作りあげているのです。》
デイヴィッド・ナッシュの作品は、そのとおりだと思う。勅使河原宏は続けて書いている。
《 そのように、作品としては意思的な方向を持ちながら、ナッシュの制作は大変柔軟な仕方で進められているようです。》
会場で私もその大変柔軟な仕方に感心した記憶がある。彼の作品と白砂勝敏氏の椅子を較べれば、白砂氏の木彫椅子には、
他の人にはない特徴──樹幹に寄り添い、手探りで創る共感美とでもいうべき個性がある。それは《 自分の理念や個性を盛り
込んだ彫刻 》にはない、樹幹への無私の受身の姿勢によってのみ生まれるものであろう。樹幹から生まれた椅子は、座る人を
何気なく受け入れる。座った人は、さりげない開放感に包まれ、手で撫ぜてその木肌のゆるやかにすべる感触を楽しみ、その
温かみを受け取る。
端的に言えば、デイヴィッド・ナッシュは、視て、触って、作る。白砂勝敏氏は、診て、触れて、作る。
ネットの拾いもの。
《 「脳は使うと伸びるよ。
適度に運動してね。
脳の使い方は図書館の本で学んでね。」
「寿老人みたいになるのか。嫌だ。」
笑っちゃった事故。
《 阪神高速「大きな豚が歩いている」渋滞10キロ 》 記事
1 月18日(水) 日々談笑
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)『インターセックス』集英社2008年初版帯付、
小沢昭一対談集『日々談笑』ちくま文庫2010年初版、計210円。日々談笑。いい言葉だ。これ以上ナニを望む?
毎夜いろんな夢をみているけど、未明の夢は面白かった。自宅向かいの神社の前に停まったバスからジャズシンガーのア
ニタ・オディ Anita O'day が降り立って「 Taking a Chance …
」と見事に歌い始めた。傍らには往年のグラマラス(今でいえば巨乳)女優のラクウェル・ウェルチが見守っている。
彼女にマリリン・モンローとの思い出話を語りかける私。ウェルチは「彼女、いい人だったわね」と応える……そこで眼が
覚めた。部屋はやたら冷え切っている。夢ならではの時空を超えた競演。夢ならば覚めないでほしかった。
ネットの拾いもの。オリンピックの年なので「近代五種」にちなんで。
《 「近代バラエティ五種」競技を作ったらどうだろう。局の垣根を越えて、いろんな企画を1日で全部やるの。
・逃走中
・大喜利
・赤坂二丁目ミニマラソン
・全部当てるまで帰れま10
・SASUKE
ハンターから逃げ切って、座布団10枚たまった人からワイナイナと心臓破りの坂を走り、徹夜でお腹いっぱいの後にロー
リング丸太。》
1 月17日(火) 「震」に「辰」あり
『サンデー毎日』の見出し。《 「震」に「辰」あり 》。ありうるなあ。しかし、震えるのは体。未明に雨。周囲の山
はまだら雪模様。富士山は、昨日とは打って変わって雪化粧。
今、中沢新一『はじまりのレーニン』岩波現代文庫2008年3刷を読んでいる。「第三章 ヘーゲルの再発見」から。
《 そのころ、ヨーロッパの全土には、第一次大戦の戦火がますます広がっていた。》
《 すべてが流動していた。ヨーロッパのあらゆる国々を動揺させている、この戦争のなかから、革命の生まれる可能性が、
胎動していた。しかし、その可能性を現実化する主体の側には、そのために必要な「意識」が欠けていた。希望の萌芽は、
たしかに大地の下に芽吹いているようだった。だが、地上では、いっさいの希望を凍え死にさせる無力感が、あたりを支配
していた。》
きょうは阪神淡路大震災の記念日。東日本大震災と原発災害そしてEUの通貨危機を目の当たりにして、このくだりがや
けに印象深い。
国会の東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の厖大な中間報告書は、すごい。機器への未熟なマニュアル認識と危
機対応のまずさが重なって甚大な原発災害へ発展していった。
加藤陽子は15日の毎日新聞コラム「時代の風」、「原発事故の原因」をこう結んでいる。
《 資料編も見ていただきたい。VI章─13「アクシ
デントマネジメントに関する教育等の方法及び頻度」という東電の内部資料。本資料からは、運転員を対象とした事故
時の対応につきいかなる教育研修がなされていたか分かる。頻度は年1回、方法は自習と運転責任者による講義だけなのだ。
/ あれほど法的規制好きな霞が関が何故、自習と講義程度の研修でパスさせたのか。本紙の昨年9月25日付朝刊が明らか
にした、東電への天下り50人以上、との事実がその背景だとすれば、あまりの分かりやすさに慄然となる。》
ネットの拾いもの。
《 何を食べたのか忘れるはど忘れ
食べたことを忘れるのが認知症 》
東電と政治家官僚はどっちだろう。
《 首相がキティちゃんだったら、どれほどマシだったか……
副首相はフランケンだけど…… 》
《 「局部麻酔」と聞いても、それが身体のどの部分かはわからないのに、
「局部切断」だと、一発であそこだとわかっちゃう日本語の不思議。 》
1 月16日(月) 休館日
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で三冊。島田荘司『ハリウッド・サーティフィケイト』角川書店2001年3版。仁木悦子『
子どもたちの長い放課後』ポプラ文庫ピュアフル2011年初版、計210円、永田萠画集『たまゆら』サンリオ1987年7刷が52円、
総計262円。
寒くて曇天。引きこもり冬眠状態。
ネットのうなずき。ジェイムズ・ジョイスの言葉。
“The supreme question about a work of art is out of how deep a life does it spring.”
《一個の芸術作品に対する最高の問いは、生がどれだけの深さから汲まれているか、ということである。》
ネットの拾いもの。
《 友だちいないなら作ればいいじゃんって思って紙粘土で人形作った。
最近は人形作るのも面倒になって粘土に話し掛けてる。》
旧日録 2012年 1月
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