蒼天の漆黒 内田公雄『作品 2002 W−8』


K美術館館長 越沼正


 画家内田公雄(きみお・1921年生まれ)にとって絵を描くとは、例えば、魔術師が虚空に挙げた掌から 一輪の花を鮮やかに取り出すようなことである。その魅了の一瞬のために、魔術師はすべてを賭ける。 画家内田公雄もまた、その一瞬の出会い・一瞥によって観客が息を呑む絵の制作にすべてを賭けている。 魔術師の鮮やかな手さばきのように、この新作「2002 W−8」は、この世に軽々と出現した。それは、 さっき切り取られたばかりの生花のように瑞々しく美しい。
 この絵はあたかも画家が虚空からさっと取り出したかのような、重力の作用を全く受けていないような 軽みがある。黒の物質で一面描かれていながら、黒の物質としての堅さは消尽し、黒の虚空が出現している。 その黒の虚空は漆黒の室内ではなく、また漆黒の宇宙でもない。強いていえば、漆黒に反転した青空といえ よう。漆黒といえば、マニエール・ノワール(黒の技法)で知られる長谷川潔を先達として黒の深さを追求 した銅版画家たちの作品とも、異なっている。ここには、魔術師が蒼天のもと、その掌から取り出した漆黒 の花のような、軽やかな虚空がある。この軽やかな虚空こそ、この絵の見所であろう。その虚空に浮かぶG のかたちの透くような白。黒の中の白、この絶妙な対比には、私にはまだ相応しい言葉が見つからない。その 軽やかな描写に、私は画家の超絶的な技巧を見いだす。その超絶技巧は、画家にとって必然的な帰着であった。 それゆえにこの絵は実に深い説得力でもって、見るひとに日常的範疇を超える深甚な思索へといざなう。その 観点からこの新作「2002 W−8」は、画家内田公雄の現在の到達点を提示しているといえよう。
 さて、一般的には画家は普段彼が美しいと感じたものや感動したものを描く。内田公雄は、そういう絵画の 水準に満足しない。内田公雄にとって絵というものは、そこに留まるものではない。すなわち、描くという行 為の必然的要素である世界認識の契機を、内田公雄は深く自覚している。現代に画家が絵を描くということは 日常的な行為ではなく、日常を超えた、あるいは日常から逸脱した哲学的思索の一形態であり、苦闘する思索 のひとつの帰結として絵があるという思想的立場である。
 美とは何か、感動とは?と画家は自らへ問いかける。さらに彼は自分はなぜ描くのか、何を描こうとするのか、 絵画とは?と画家の原点へ問いかけてゆく。そのようにして、彼は描くという行為の初源にまで遡り、そこから 根源的に思索する。画家内田公雄にとって描くという行為は、思索すること=自らの世界認識への不断の問いか けである。一筆一筆が描くことへの問いかけとなる疑問符の痕跡である。その疑問符=思索の軌跡のひとつの帰着 が、抽象画と呼ばれる絵としてここに現れる。
 現代の芸術としての視覚をもつ絵画は、日常感覚を揺さぶり、日常感覚に亀裂を生じさせる劇薬としての作用を もつものである。その絵画に深く感応したひとは、未知の世界が開かれるような、自らの日常的世界が揺れるよう な感覚を覚える。この新作「2002 W−8」は、そのような劇薬のひとつといえよう。ただ、劇薬といえども、これ は万人に作用を及ぼすわけではない。
  

(2002年9月3日記)






内田公雄「2002 W−8」 100×80cm