ヴァンジの作品を前にして思ったことなど


K美術館館長 越沼正


 彫刻というものにたいして、私の感受性はどうも居眠りをしてしまうようであった。東京国立 西洋美術館の前庭に鎮座しているロダンの「考える人」「カレーの市民」を前にして、私はいつも 考え込んでしまっていた。ロダンの肉体表現の見事さを称賛する文章を読んでも、この鈍い感性は 奮い立たず、言っていることはワカルけれども・・・であった。そんな彫刻音痴の私が、写真だけで 「おお、これは凄い」と感心したのは、ミニマルアートとか呼ばれるジャッドの四角い単調ともいえる 作品と、いくつかの展覧会場で目の当たりにした、戸谷成雄の巨大な木彫作品だった。 考えてみれば、どちらも人体彫刻とは程遠い作品である。自分は人体彫刻はワカラナイのだろうか? と悩む直前にはたと気づいたのは、マネキンだって人体だぜ、だった。マネキン人形は大好きだし (なにせ色っぽいから)、ビスクドール大好き。エロオヤジというなかれ、ロダンなんかもっと エロチックだぜい、と啖呵を切りたくなるのは、横に置き、そんな私が、写真で見たジャッドの 立体に次いで写真を見てビックリしたのが、ジュリアーノ・ヴァンジの彫像だ。そして、きょう、 やっと実物にお目にかかれた次第。感想は一言、「凄い」。どこが凄い?ロダンが筋肉モリモリで 表現した人体を、ヴァンジはゆるやかな簡明な曲線、というか膨らみで見事に表現しおせている。 それは、ただの人体表現の新しい次元を開いた、というだけではない。生命の塊として、ギリギリ まで削ぎ落とした表現であり、そのことによって、生命の膨張する力、力動が、まぎれもない確かな 存在感として、こちらの胸にぐっと応えるのである。ぐっとくるのであるけれども、そこに迫って くる圧迫感は微塵もなく、そこにある=いることで、親近感を感じるのである。威圧感はまるでない。 けれども、ここに、まさにここにある確かなる存在感。こんなに親近感があって、同時に深い手ごたえを感じさせる作品は、私は他に知らない(無知をさらしてしまった)。実に人間臭いともいえる。 肉体を削ぎ落とすことで、生命の存在感を際立てたジャコメッティにたいし、ヴァンジは、削ぎ落と した肉体を再び回復させる(彼なりの流儀=認識によって)ことで、現代人の希望としての肉体= 生命造形を創造した。現代人の疎外された実像をジャコメッティは造形し、世界に衝撃を与えた。 それを受けて(?)、ヴァンジは、疎外された現実の肉体に希望の生命を造形した。末端肥大症の ように大きな手と足先のしっかりした造形に、ヴァンジの自然=大地から受ける生命の包容を感じる。 エジプト彫刻からジャコメッティに至る人体認識、人体表現を、ぐいっと全身で引き受けたヴァンジ は、希望の表現としての人体=生命造形を構築している、と私には思えるのである。そしてそれは、 戦乱と絶望の繰り返しであった20世紀を生き抜いた芸術家の、21世紀に向けての希望のメッセージ とも受止められる。そうして2002年。20世紀を生き延びて今、ヴァンジの彫刻造形作品を前に して、生きていること自体が、希望であることをに、ふと気づく。   

(2002年4月28日深夜)


(追記:4月29日朝、実に豊かな感情表現の夢を見た。)

(注)ヴァンジ彫刻庭園美術館(クレマチスの丘)は、2002年4月28日(日)に
   静岡県駿東郡長泉町スルガ平に開館した。K美術館から北へ車で約20分ほど。