呉一騏 水墨画の21世紀へ
K美術館館長 越沼正
十九世紀と二十世紀を跨いで屹立するフランスの画家ポール・セザンヌは、サント・ヴィクトワール山
を繰り返し描いた。彼にとってその山を描くことは、哲学することと同義であった。陽光により季節により、
その時々で全く異なった表情を見せるけれども、サント・ヴィクトワール山そのものは、そこに厳として
存在する。その存在することを、彼は西洋哲学の枠組み、すなわち主客二元論の立場から絵筆によって
哲学した。主体(描く自分)と客体(描かれる対象である山)との、分離と隔たり。その確固たる隔絶を
前提にしつつも彼自身は、それを超越する新たな哲学、新しい世界観を無意識のうちに切望していた。
その切望が、サント・ヴィクトワール山を描いた絵画から痛烈に放射されている。同時に、その裏側には
苦悩が満ちている。それは生活や人生の苦悩ではなく、時代の制約と限界にぶち当たっている苦悩である。
セザンヌの、その限界突破の厳しい思索=絵画描写の象徴として、サント・ヴィクトワール山があるのに対し、
呉氏の描く山もまた、哲学の深い思索の象徴としてある。二人とも絵を描く目的は、自らが納得し確信できる、
自分に合った新しい世界観を絵画によって創造することである。目標は同じであるが、二人は全く異なった道を
辿っている。その違いは、西洋哲学と東洋哲学の出自と思考の道筋からくる相違であろう。
セザンヌが現実の山を前に激しく思索を深めて描いたのに対し、呉氏は現実の山、例えば現在の住居では
富士山を前にして、そこから受ける思索への刺激を糧に、深い哲学的思索の到達点としての山を描いている。
セザンヌは山の外観描写から、描くことの本質である未踏の世界観へと迫っていったのに対し、呉氏は
山の内在的描写から、描くことの本質である未到の世界観を立ち上げて行く。セザンヌのざっくりと描写された
強固な山肌に対し、呉氏の山は急峻ではあっても、こまやかな気配を見せている。またその表面は、薄皮一枚の
ような表情をしている。けれども、その表面はしなやかにして強靭である。セザンヌが山の本質を
絶対不動の存在としてとらえていたのに対し、呉氏にとって山とは内部からぐつぐつと煮えたぎるマグマが、
山の表面を突き破って噴出することもある、常に変動する予兆を孕む山である。呉氏は、セザンヌのように
陽光当たる現実の山を描くのではなく、薄明の中の思索から山の描写を立ち上げている。それは結果として、
宇宙的深遠に呼応する山の深部からの葆光の自立的生成という氏独自の斬新な表現手法を生み出した。
その水墨画は「山光演繹」という言葉どおり、山の深淵からの変容(知の輝きによる発光)という、今まで
にない新しい局面を少しずつ切り開きつつある。セザンヌが、絶対不動の山の存在という西洋哲学の時代的制約の
なかで苦闘して約一世紀、呉氏は西洋の絵画を視野に入れつつ、東洋絵画の流れのなかで新しい思索と知見を
深めることによって、独自の存在の山を描いてゆく。それは、西洋人画家セザンヌの限界突破の苦闘への、
東洋の水墨画家からの百年後の呼応のように、私には思えるのである。
(一九九九年十月十三日)