坂部隆芳『山王曼荼羅図』


K美術館館長 越沼正


 優れた絵画は、観る者に、多彩な印象と多様な連想からなる美しい反響と 協奏の調べを与える。坂部隆芳氏の新作『山王曼荼羅図』150×150cm,2001年は、 私の心を強く惹きつけ、そして美術の先達たちの優れた絵画を想起させた。 長谷川等伯の『松林図屏風』16世紀、酒井抱一『夏秋草図屏風』 19世紀、そして1950年代のマーク・ロスコの壁画のように大きな抽象画 (川村記念美術館蔵)の三作である。
 等伯の消え入るようであり、向かってくるようでもある霧の実体感、 抱一の鮮やかな緑の不思議な生気、ロスコの異なる色相の浸透しあう 微妙な境界。この三点からの投影を、この新作に見いだすのである。 当然ではあるが、画家はそんなことはまるで考えていないし、知らないに 違いない。私の勝手な想像である。けれども、優れた絵画は、それぞれが 時代と場所を遠く隔てていても、優れた絵画と深いところで何らかの 意味合いでこだまのように繋がっているものである。この作品の場合、 こだまは分厚い音楽の階層となって私の心の洞に打ち響き、揺るがした。 心は大きく打ち震えた。すなわち感動。
 坂部氏の絵画にたいしては静寂、静謐という表現がよくなされた。私も 使用したが、それがこの新作を前にしてもはや有効ではないことを私は 悟った。ここで静寂と静謐の意味合いの私なりの違いを披露しておく。 例えば、深く広大な森の奥にひっそりとある湖のほとりに立っていると する。天空に一片の雲もなく、風も凪ぎ、梢はすんともそよがず、鳥も 鳴かず、全く静かな一刻である。その時の停止したような湖から受ける 印象を、私は静寂と呼ぶ。息を呑むような静けさである。そして、その湖水の 水面、水鏡のごとき水面、そのとてつもなく深い水底から形成される湖水の 全容量が必然的に有する稠密な実体の、その外部(水面)に表れる情景の、 圧倒的な量の水の存在が放つ息詰まるような静けさ、それが静謐である。
 坂部氏の絵画は、静寂の気配の濃く立ち込めた初期作品から、静寂その ものがその最も深い部分で緊密に連関し、呼応し、反響するその場から 立ち現れる静謐という精神的実体空間の表現へと変貌していった、と私 には思える。この時点でも、私にはただ舌を巻くしかない、画家の切磋琢磨の 到達点、ちょっとやそっとでは到底実現しない、実に高度な表現の段階なのだが、 坂部氏はその到達に満足し、安住することをせず(安住すれば精神的実体空間 はただの上手な実体空間表現に陥って、絵画は空疎になりかねない)、かつ この段階を強固な地盤になるまで固める(画家の作風の確立)ために立ち止まる のではなく、さらにその先へ、眼差しを向けた。その先は実体のない、というか 実体を超えたというか、既存の言葉では表現し得ぬ位相である。批評の言葉は 常に、言葉の外側から来るもの(ここでは絵画)に揺さぶられ、破壊され、解体 され、そうしてそこに新たなる意味表現をまとった新生の言葉が構築される。
 坂部氏のこの絵画は、山王=絶対の存在もまた絶対であるゆえに、その内部 から変容する、絶対とは不変のことではなく、反絶対の雲霧と浸透と融合を永劫 に続けることによってのみ、絶対であり続けるという世界観を私に語りかける。 そして、それはまた存在の森羅万象の生(あ)れる処を描いている。(と象徴的 にしか私には表現できない)
 論考ー思考ー思念ー想念ー感想ーそして観想。ただの語呂合わせだけれども、 目を閉じることによって見えてくる、という意味で、観想と黙想の双方を思索の 彼方からの引力でぐいっと止揚し、その先にあると私が予感する深遠なる直覚を、 坂部氏は心の奥深く自覚し、その直覚を直覚のままに画面に重ねてゆく。言葉 という限界性をそのまますんなりと受け入れるのではなく、受け入れる前の、ある がままの実体が氏の外感覚と内感覚を通して深く浸透し、深々と共振するゆらぎを、 ゆらぎのままにそっと画面に移してゆく。画家の類い稀な描写=表現力によって、 そこには、そのゆらぎを一つの反映とする小宇宙=曼荼羅が映し出される。その 絵画「山王曼荼羅図」は、言葉による思考から構築された既成のあらゆる曼荼羅 絵画とは全く異なった「和」の相貌を見せている、と私は思う。
 私のそんな勝手な想像とは全くかけ離れたところから、坂部氏は画家自身のテーマ を深く掘り下げていく孤独な創造行為の過程で、この描写=表現に行きついた。見る 方は、画家の思い入れや考えとはまるで無縁なところから、その絵画から激しく受けた 感動の根拠を言葉に表現しようと、ただひたすらに思いを凝らす。そうしてひねり出 された愚かにも失笑を買う拙文を、恥を承知でお見せした次第である。

(2002年1月22日)

(注)坂部隆芳四半世紀展は、2002年1月21日(月)〜1月26日(火)まで
   大阪府立現代美術センター 展示室(A)で催された。