少し古い話だが、医師生活19年間の中で、最も医師らしくなく、最も暇で、しかし我が人生にとって最も有意義な経験であった約3ヶ月間について紹介します。
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■乗船まで
医師になって丁度2年がたったある日、医局長に呼び出され、次は船に乗ってくれといわれた。我が医局では日本鰹鮪漁業協同組合連合会から委託を受け、医局員の中から常に誰か1人が船医としての生活を送っていたのだ。一回乗ると最低三ヶ月は乗ることになる。まだまだ未熟者で勉強中の身の自分としては、実践の場をしばらく離れることになり立ち後れてしまうのではないか、たった一人の医者という重責に耐えられるか、といった不安があった。が、まあ、誰かが乗らなければいけないわけで、また先輩医師の話を聞いてちと興味があったのも事実で、船に乗ることを決意した。
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■ジャパンツナ2号
船はジャパンツナ2号という中型タンカーで、太平洋赤道直下を航海しながら、洋上で操業する日本の小型漁船とおちあい、原油(船の燃料)や魚の餌を筆頭に、下着からカップラーメンに至るまで、ありとあらゆる日用生活品を販売する補給船、言ってみれば洋上の「コンビニ」である。先代の1号は日本で2隻目のインマルサット搭載船であり、昭和57年にNHK特集で取り上げられたこともある。私が乗った時の航路はホノルルからロサンゼルスへの往復であった。
当時外科医師2年目で、大学病院では今では考えられないくらい肉体的にも精神的にもハードな毎日で、食生活も睡眠時間もまともでなく、先輩医師や看護師に怒鳴られるのもしばしばだったが、そんな若造を現地の関係者は懇切丁寧に迎え入れてくれ、豪勢なもてなしの連続、ドクタードクターと囃し立てられ、その地獄から天国に一変した環境にたいへん感激したことを覚えている。(JALのExecutive
Classにも初めて搭乗させていただいた)。また、ジャパンツナ2号のキャプテンや無線局長はじめ船員の皆も、人間味あふれる明るい海の男達ばかりで、大変暖かく迎えてくれた。
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■いきなりの船酔い
医師としての仕事はというと、補給船の乗組員の健康管理だけではなく、どちらかというと漁船の乗組員の診察および治療がメインである。もちろん看護師も助手もいない。さて、希望と不安を胸にホノルルから出航したわけだが、情けないことにすぐに船酔いとの戦いとなった。タンカーとはいっても中型で巨大客船とはわけが違う、だから時化ってなくてもゆっくり左右に揺れる。でもこのくらいの揺れなら平気だろうと乗り込んだときはそう思っていた。しかし出航して数時間もすると何かがおかしくなってきた。そのうち、5分と起きていられず食事もまともに摂れない状態となった。食べては吐く、の繰り返しである。横になっていればなんともないのに、起きあがるとダメなのだ。ただ、通常、船が赤道直下付近まで南下する数日間は医師としての仕事は全くなく、その間に慣れるだろうと考えていた。しかし、出航して3日目、近くの漁船より意識障害で倒れた船員を診てもらいたいとの緊急連絡が入る。ほどなくその漁船は視界に入り、伝馬船に乗って漁船に向かうことに。しかしこの漁船がくせ者で、小型故とにかく揺れがハンパでない。私は終始しゃがんだ姿勢で重心を低くし、かろうじてドクターダウンという失態を免れた。意識障害の船員は軽い脳梗塞の疑いがあり、早急に最寄りの港に寄港するよう指示をした。結局船酔いは出航して5日ほどで軽快、慣れというのは恐ろしいもので、ロスで3日間下船して再乗船した時も全く問題なかった。
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■働きっぷり
さて、漁船から診察を受けにやってくる乗組員だが、生活習慣病で内服している人には投薬、しかし多くは打撲や捻挫、肉体労働からくる腰背部痛(通称セコイタ)で、なかには意味なくアリナミンくれ、という方もいた。明らかに骨折していると思われる指の変形・・、しかし受傷して既に1ヶ月がたっている、といったケースも稀でない。日本に半年以上帰っていない海の男達のタフネスぶりを垣間見る一方で、精神的に弱くなにやら怪しげな不定愁訴を並べてリタイア希望する詐病の方にも少なからず遭遇した。補給船には入院施設(ただの空き部屋だが)があるので、こういった詐病と思われる方もやむを得ず入院していただいた。ただ、入院したとたんに不定愁訴がなくなり談話室で麻雀までされて、キャプテンから「どうなってるの?ドクター?」と言われた時には慌てた。入院させた私の手前、少しは病人らしくしてほしいものだ。もちろん自室での安静を指示してことなきを得たが。
喜んでいいのか悪いのか船にはX線撮影装置が付いていた。しかし当然ながら撮影も現像も全て手動である。X線技師も看護師もいない中、四苦八苦しながらも撮影技術は徐々に上達し、現像液の臭いにも徐々に慣れ、きれいな写真が出来るようになった。おかげで航海中の最大の重傷者の一人である補給船のボースン(甲板長)の足根骨粉砕骨折をきちんと撮影できたのだから皮肉なものである。
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■暇な日々
薬の処方や日計を出すのも全てドクターの仕事、しかし慣れればたいしたことはない。それでも時間は余るのだ。夕方以降は毎日フリーの上、3〜4日に1日は全く仕事がなく、ここぞとばかり持参した医学書を読みあさるが、気が滅入ってなかなか集中できない。ゲーム好きの無線局長とファミコンにこうじたり、キャプテンと将棋を指したり、陸地では決して観ることのない火曜サスペンス劇場やドリフのビデオを見たり、ボースンやサードッサー(3等航海士)らと食堂で飲んだりもした。彼らの貴重な体験談はとても面白く内地の人間にとっては全てが新鮮で飽きることがなかったと記憶している。無線局長が絶賛していた映画「ケイン号の叛乱」は後日購入して鑑賞したが、船に素人の私には無線局長が言うほどの面白さは理解できなかった。おそらくプロの視点から観るとまた違った味わいがあるのだと思う。当時ハマっていた基盤ゲームを日本からロスへ送ってもらったときは、むき出しの基盤ゆえ、爆弾などの時限装置ではないかと怪しまれてちょっと大変だったなんてエピソードも今ではなつかしい・・今だったらきっと没収されてたに違いないが・・
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■ぬくぬく
暇な午後は屋上で日光浴(誰もいないので全裸)をすることが多かった。青い海に青い空、果てしなく続く360度水平線の世界はこれまた何度見ても飽きの来ない素晴らしい光景であった。でも、陸地が見えた時は少し嬉しくなるものだったが。さてこの日光浴、湘南の浜辺ならSPF60・PA+++のオイルを塗っても1時間で真っ赤っ赤になる私が、赤道直下で陽射しの強さを痛いほど感じるのに3時間寝ていてもさほど焼けない。良質の日焼けサロンで焼いているかのように、じわりじわりと日ごとに確実に黒くなっていく。また、赤道直下で気温が40度以上でも意外に過ごしやすかったのは、空気が乾燥しているためか、暑いというより熱いのだ。
最後に肝心の食生活について。補給船には日本のコックが同乗してくれているため、カレーライスに天ぷらなど日本にいるのと全く同じメニューが食卓をにぎわす。当然毎食ごと漁船からの差し入れであるマグロの刺身が山盛りでテーブルの上に置かれ食べ放題であったが、鮮度は高いもののそれほど旨くはなかった。旨いところは売り物になるから回ってこないせいなのか、当時の私の舌がバカだったのか・・。
なにやら中途半端になってしまったが、ぜひ当時の船員の皆に会って貴重な経験をさせていただいたお礼がしたいと思う今日この頃である。
じゃぱんつな2号は今どこに・・
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追記
2006年1月、たまたまこのページを見ていただいた当時の無線局長から、このHPを経由してメールを頂きました。よくぞ発見していただきました!17年ぶり!大感激!こんなことってあるんですね。インターネットがとりもつ不思議な縁に感謝感動です。
追追記
2006年5月、その無線局長さんと17年ぶりの再会を果たしてきました。大感動物語でした。
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