照見五蘊皆空という事。内容を問うのでないです。 タイに移住した参禅者がいて、旅程とか全部手配してくれるというので、他の参禅者数人とお供で行ってきました。ホテルにオイルマッサージというのがあって「よし、やってみよう」といって、やってもらいました。こっちはほとんど全裸で、却って緊張しました。その後に老師が言う事には「あのお姉ちゃんを救った。」と言うのです。「この爺さんは何を言っているのだ。」と、その当時は思いました。が、やっぱり老師が言う通りなのです。言葉だけが方便ではないです。また、「何を」言ったり為したりするのか、ではなく、「何が」、が問われています。 ある時、空中に手をやって、「虚空とこれ(自らの体を示して)とは等価だ。」と言いました。チンプンカンプンではないにしても、やはりわかりませんでした。で、やっぱり老師の言う通りです。自らを問うという事は無いのですから、無いというか成り立たないのですから、虚空だろうともこれであろうとも同じです。 体の有る無しも、問うところではないです。生と言い死と言っても、同じ事です。死んでみて初めて生です。
川上雪担雪担老師が生前に言った事など
原始野蛮人
これは度々言われました。老師に参じていれば「自分を観察しない」という事だろう、という事はわかります。しかし、わかってもしょうがない。で、どうか。知るものが無い。不識と言い、或いは、花は自分を知らないの喩えの通りです。
向こうでこっちを見ているふう
こちらが向こうから見られている、というのじゃないです。こちら、というのじゃないです。「イメージングするのではない。」と、言った時がありました。「向こうでこっちを見ているふう」という景色をイメージするのじゃないです。
自分無ければ相手丸見え
こんなことを聞くと、坐っている他人の背中を眺めて、どういう事だろうかと見てみたものです。ですが、そういう事ではないです。自分という、何か主体的らしき何物かがこちら側にあり、向こう側に相手を認め、そうして、こちらから向こうにいる相手の様子を観察する。という事ではないです。むしろ、物理的です。こちら側の自分、という物は無い事ですから、相手が向こう側にいるのではなく、向こうもこちらもなく相手がそのまま自分、という事です。認識云々の話ではないです。
200%
「いいですか100%じゃまだ自分の皮つら残るんです、色即是空パーラミイターとほうらねあっちとこっち一つこと200%でしょう。
はいこれ坐禅です。」
こっちの100%とあっちの100%と足して200%、というのではないです。
100%と言う時は必ず200%です。こちらだけで100%というのは無い事です。
「仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」(現成公案)
こちらに自分があり向こうに他があるというのではないですから、自分だけが救われるという事はない事です。自分が救われてから他人が救われる、という事ではないです。
へん(辺)にはへん(辺)がある
「日々あらたなり」とも言っていました。
時々あらたなり
刻々あらたなり
刹那刹那あらたなり
「ここまで」と区切りの付けようのないものです
覺道の荘厳をあらたにす(弁道話)