戒名

 最近、終活という言葉をよく目にします。自分の死に際の始末をどうつけるか、という事のようです。棺の中に入ってみる体験会みたいなのもニュースになっていました。また、生前のうちに自分の気に入った戒名を、とか、予め自分で考えて決めてしまう、と言う様な事もあるようです。しかし、これは戒名とは言えません。戒名とは、お釈迦様の弟子としての名前です。
 お戒名がつく前には俗名があります。世俗の中にあって「私」をたて、この「私」の身の上の出来事についてが生きる上での問題となる、その際の名です。
 お釈迦様の弟子になるとは、この「私」というものを捨てる、物心ついて以来それまでを過ごしてきた人生から卒業する。そういう修行生活に入ることです。ですから、どのような人生を送ってきたとしても、それまでの人生をなげうって、この「私」を捨てる修行生活に入る。もしくは、捨てる物など端から無かったと知る。この時にあたり、気に入るとか気に入らない、と言う「私」の勝手な言い分の立ち入る猶予はあり得ないのです。
 戒名を授かる前に、先ず懺悔という事があります。
 「私」の苦しみの根本の原因は、この「私」そのものです。ですので、この「私」を仏に返す。形式的な文言上の事柄ではありません。実際の事でなければ、その後のどのような修行も仏弟子の修行といえるものではありません。「私の修行」では、修行とは言えないです。どこまでいっても、苦しみの原因である「私」を増長させる事でしかありません。
 この懺悔の後に、仏・仏の教え・仏弟子に、身心をあげて帰依することを誓い、諸々の戒めを能く保つ事を誓います。
 戒名とは、これらの事の上で仏弟子としての名を、という事なのです。
 世間の事とは、「私」の身の上の良い事や嫌な事・七転び八起きの右往左往が、しょっちゅうです。
 仏弟子となって戒名を授かる。これは、世間の事=「私」の身の上の事、であり、世間という軛・「私」という首枷から出る=出家、という事を示すものです。お坊さんの名前に、愚や魯といった、愚かとか間抜けという意味の字がついていることがあります。これまでの自分を捨てる、という事を端的に示しています。
 「戒名というものは、結局は自分が死んでからの事だからどうでもいい」、と言う意見も、「私」という首枷の中での意見です。仏教が人の苦しみの解決を示し戒名がその証である、という事を、僅かばかりも妨げ得ません。肉体の有無もやはり「私」の上の事であって、肉体の有無は実は問題にならない、と自らの身心の上で証明してみれば、生死という事柄も既に解決済みであった、むしろ初めから問題になどなっていない。
 問題が無ければ答えを求めてうろうろする事も無く、只の人の只の日送りという日々是好日です。