喧嘩の原因
世の中には争い事が絶えませんが、争い事はどうして起こるのかという事です。自分に思惑があり、他人にそれを求め、それがかなわずに無理強いする時に、争い事は起こるようです。
お釈迦様が生きておられた時代の少し後の時代にできた経典にこうあります。「欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するもの得て、心に喜ぶ。」「欲望をかなえたいと望み貪欲を生じた人が、もしも欲望をはたすことができないならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。」(スッタニパータ 岩波文庫 中村元 訳)
人は社会の中で生きているのですから、他人に対して何かを要求することは必ずあります。要求に応えてくれる時は、それはそれで何の問題もありません。それがかなわない時でも、「ああ、そうですか。」と言って終われば、何事も起きないです。思い通りにならない事は思い通りにならないままで居ればかなわないままで居れば、争い事の起こる余地はないです。また、思い通りにならないからといって、かなわないからといって、思い煩う事もありません。それを、他人の意思に反して自分の要求を無理強いすれば、そこには不和や争いが生じ、また、自身も思い煩う事となります。
思い通りにならないという事は、何も他人に対して起こるばかりではありません。自分一人で居る時でも、常に思い通りになっておらず、更に、何の不平不満も無く、思い通りになっていないことすらも知りません。目に見る物・耳に聞く物・何もかも、思い通りではありません。見よう聞こうという思惑を常に抱きながら見聞きしているわけではありません。見聞きする時に「自分の思い通りに」見聞きしよう、という事が全くありません。そうして、何の問題も無く、全く過不足なく、実に見事に機能しています。
思い通りに見聞きしないとは、猫を見て「これは猫ではない、これは犬だ。」と言う事が無いのと同じです。
空華という仏教語があります。空中に咲いているはずのない花を咲いていると思い込んでいる様子で、「煩悩にとらわれた人が本来実在しないものをあるかのように思ってそれにとらわれる事。」と、されます。思い通りに見聞きするとは、自らの思い込みのせいで正しく見たり聞いたり出来ていない事が、往々にあります。
ご法事の際にはいつも、「お参りする時にお先祖様が『あんたも同じ仏だよ』と、お釈迦様の教えを示してくれています」と、申し上げています。ご先祖様にお参りする事・思い煩うことが無い事・他人との間に争いが起きない事、どれも同じなのです。ご先祖様がお釈迦様の教えを私達に示しているとわかれば、自分が思い煩う事・他人との争い事が起きる、等々の事から、既に救われ終わっているとわかります。仏教は、人間は、そのように出来ています。