法話

感応道交


 僧堂安居の時分に原田雪渓老師に「『どうしてお仏壇にお参りするのですか』と尋ねられたら何と答えますか。」と問われ、答えられませんでした。「感応道交して、あなたも同じ仏ですよ。」と、言われました。感応道交という言葉も知らなかったですし、よくわからなかったです。
 感応道交という何かしらの境涯なのかと思いましたが、何の事はない、眼耳鼻舌身意・色声香味触法です。仏壇にお参りすれば即ち自分とは仏です。こちらから自分が見るのではなく現れているものが自分です。自分とは、現れているものっきりです。自分を対象化して自分を解説するという事が成り立ちません。茶碗や山や鳥の声といった現れているもの、これを見たり聞いたりして、これを茶碗や山や鳥の声と「わかる」のではないです。茶碗や山や、鳥の声、これは自分です。自分と言うだけ不要です。茶碗や山や鳥の声、これは、茶碗や山や鳥の声です。この他に何かあると思うなら、その分だけが、不安や苦しみや悩みや疑問が有ると思い込んでいる原因です。無いものを有るはずだと思い込んでいれば、永遠に解決はありません。それではどうかしてしてしまうのも道理です。
 「わかる」のではない、とは、言葉や判断能力の欠如というのではないです、言葉とは、手段です、道具です。いつともなしに、それと知らないうちに、必要に応じて使用するに至ったものです。見たり聞いたりするものを言葉という手段を介して「わかる」のは、そのものの実際をわかる事にはなりません。
 他人事じゃありません。元から感応道交しています。





生死


 修証義の冒頭「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と、あります。「生とはどういう事か、死とはどういう事か、を本当に知ることが仏教徒にとって大事である。」と、言っています。ここで、本当に知る、とはどういう事か。
 自転車の乗り方を知っているという人はいないです。自転車の乗り方を本当に知っているとは、自転車に乗れるという事です。自分の身心で実際に行われています。言葉で理屈で知っているのは、本当に知っているとは言えません。
 それでは、「死とはどういう事か」を本当に知る、とはどういう事か。しかも、想像ではなく実際にです。
 常識と思われている事で言えば、生命活動が終了して棺に入っていれば、これは死だな、と。しかし、たった今この瞬間には生命は活動し棺にも入っていません。ですから、死を常識的に考えるのでは、死を本当に知る事にはなりません。
 死んだ人はどんな様子か。棺に入った人を見ると、「遂に一切の生命活動が止まった。」と、わかります。しかし、それは棺に入った人を見た感想です、他人の言い分です。棺に入っている当人はどうなのか。自分が死んだ事も知らずに、棺の中で横たわっています。死が実際に行われている様子とは、死んだ事すらも知らない、自分を全く知らない、という様子です。生命活動の云々は外から見た他人の言い分です。或いは、知識・考えの上での事です。
 ですから、死の実際とは身体の有る無しを問うていません。自分の内容を問うていません。問う人がいないです。ということは、これは、別に棺に入っていなくてもいい事です。更には、たった今の様子であってもいい事です。ですし、実際そうです。
 「生を明らめ死を明らむる」とは、生と死と別々の事を言っているのではないです。死を本当に知って初めて、本当に生を知るのです。







十重禁戒の第一、不殺生戒。一般的には、殺すことなかれと言われます。
しかし、これは、修行方法・努力目標を言っているのではありません。仏の様子を示しています。不殺生戒だけではないです。
誰でも等しくこの戒をよく保っている時があります、棺桶に入ってしまえば戒を破りようが無いです。生命活動が無くなったから、ではありません。遂に、私を知らないからです、私を問う人がいないからです。
ということは、棺桶に入るのを待つまでもないのです。私を知らないとは、どんな人間か・どんな生活をしているか、とか問うところではないのです。こんな簡単なことはないです。だからって、何をしてもいいんだと自分を認めれば、一生軛から逃れられないです。只の自堕落です。




己の取り得


「(中略)ほんとうの悟る、二三日は興奮して眠れなかった由、もっともこれを長長出させて本来のものになればよし、おのれの取り得などいう中途半端じゃそりゃなんにもならんです。」

 雪担老師の生前の書き込みです。

 悟りを言う人がいない。これから悟る人が元からいません。それにもかかわらず、悟りという持ち物をもって坐禅の基準とすれば、却って不寛容な人間になりかねません。







針のむしろ


人間関係で針のむしろみたいになっている人は、坐禅をしたらいいです。
居たたまれなくて、自分の居所が無くて、しかも自分の力ではどうにもならない。針のむしろみたいですが、これ、坐禅と同じなのです。ただ、坐禅は居たたまれなくて大安心です。居たたまれなくて針のむしろなのと、居たたまれなくて大安心なのと、何がどう違うのか。

坐禅に限らず生きているあらゆる場面においてですが、今申し上げる大安心とは、目に見え耳に聞こえ身体に感じるものの中に私というものの余地が全く無い、という事です。私というものの居所が、爪の先ほども無いです。自力というものの及ぶ事柄が一個も無いです。自力とは果たして何の事かなあ、という事です。そうすると、どうか。私の安心というものは無いです。私が大安心を得るのではなく、大安心が生活しているのです。
特別な境涯を言っているのではないです。元々、そのように出来上がっているのです。自分の事なのですから、誰でも確かめる事が出来ます。難しい事では無いです。
私というものの居所が無くて、どうやって生活するのか。「私」とはこしらえ事です。「私」とは実際ではないです。社会生活を営むためには、物を区別する必要があります。物を区別する為に便宜上「私」という見方を用いているにすぎないのです。

人の苦しみとは何か。道端に落ちている縄を蛇と見間違えてギョッとするようなものです。先入観・思い込みに因るものです。自分の身の上・自分の内容を問う、という事を、世の中では盛んに行っていますが、そういう事は実は成り立ち得ません。
人の安心とは、境遇には因らないものですから、誰にでも全く難しくない事です。自分はこんな生き様だから安心を得られないのだ、という事が一切無いです。このままでいいのだ、と言って自分を誤魔化す事も全くあり得ません。「全てを受け入れる」なんて世の中で言いますが、受け入れるも受け入れないも無い事です。

立つ瀬も無く、拠り所も無く、って言うと何だか不安なイメージがあるかもしれませんが、立つ瀬も拠り所も止めて下さい。
全く思いもよらないです。