生死

生死
 修証義の冒頭「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と、あります。「生とはどういう事か、死とはどういう事か、を本当に知ることが仏教徒にとって大事である。」と、言っています。ここで、本当に知る、とはどういう事か。
 自転車の乗り方を知っているという人はいないです。自転車の乗り方を本当に知っているとは、自転車に乗れるという事です。自分の身心で実際に行われています。言葉で理屈で知っているのは、本当に知っているとは言えません。
 それでは、「死とはどういう事か」を本当に知る、とはどういう事か。しかも、想像ではなく実際にです。
 常識と思われている事で言えば、生命活動が終了して棺に入っていれば、これは死だな、と。しかし、たった今この瞬間には生命は活動し棺にも入っていません。ですから、死を常識的に考えるのでは、死を本当に知る事にはなりません。
 死んだ人はどんな様子か。棺に入った人を見ると、「遂に一切の生命活動が止まった。」と、わかります。しかし、それは棺に入った人を見た感想です、他人の言い分です。棺に入っている当人はどうなのか。自分が死んだ事も知らずに、棺の中で横たわっています。死が実際に行われている様子とは、死んだ事すらも知らない、自分を全く知らない、という様子です。生命活動の云々は外から見た他人の言い分です。或いは、知識・考えの上での事です。
 ですから、死の実際とは身体の有る無しを問うていません。自分の内容を問うていません。問う人がいないです。ということは、これは、別に棺に入っていなくてもいい事です。更には、たった今の様子であってもいい事です。ですし、実際そうです。
 「生を明らめ死を明らむる」とは、生と死と別々の事を言っているのではないです。死を本当に知って初めて、本当に生を知るのです。