針のむしろ

針のむしろ
人間関係で針のむしろみたいになっている人は、坐禅をしたらいいです。居たたまれなくて、自分の居所が無くて、しかも自分の力ではどうにもならない。針のむしろみたいですが、これ、坐禅と同じなのです。ただ、坐禅は居たたまれなくて大安心です。居たたまれなくて針のむしろなのと、居たたまれなくて大安心なのと、何がどう違うのか。
坐禅に限らず生きているあらゆる場面においてですが、今申し上げる大安心とは、目に見え耳に聞こえ身体に感じるものの中に私というものの余地が全く無い、という事です。私というものの居所が、爪の先ほども無いです。自力というものの及ぶ事柄が一個も無いです。自力とは果たして何の事かなあ、という事です。そうすると、どうか。私の安心というものは無いです。私が大安心を得るのではなく、大安心が生活しているのです。特別な境涯を言っているのではないです。元々、そのように出来上がっているのです。自分の事なのですから、誰でも確かめる事が出来ます。難しい事では無いです。私というものの居所が無くて、どうやって生活するのか。「私」とはこしらえ事です。「私」とは実際ではないです。社会生活を営むためには、物を区別する必要があります。物を区別する為に便宜上「私」という見方を用いているにすぎないのです。
人の苦しみとは何か。道端に落ちている縄を蛇と見間違えてギョッとするようなものです。先入観・思い込みに因るものです。自分の身の上・自分の内容を問う、という事を、世の中では盛んに行っていますが、そういう事は実は成り立ち得ません。人の安心とは、境遇には因らないものですから、誰にでも全く難しくない事です。自分はこんな生き様だから安心を得られないのだ、という事が一切無いです。このままでいいのだ、と言って自分を誤魔化す事も全くあり得ません。「全てを受け入れる」なんて世の中で言いますが、受け入れるも受け入れないも無い事です。 立つ瀬も無く、拠り所も無く、って言うと何だか不安なイメージがあるかもしれませんが、立つ瀬も拠り所も止めて下さい。全く思いもよらないです。