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沼津周辺にも子供のころ遊んだ思い出の場所、美味しい水、美しい景色など諸々ありここで紹介していきます。ちょっと足をのばせば伊豆、箱根、富士山といった観光地もひかえています。運動をするにも手ごろな場所があり、紹介していきます。
海のページ||千本浜||大瀬崎||戸田村||沼津港||
山のページ||沼津アルプス||愛鷹山塊ハイキング||天城山ハイキング||箱根ハイキング||冨士箱根トレイル||
||身延周辺ハイキング||富士山麓(木山)を歩く||発端丈山(城山、葛城山)||
他のペー ジ||沼津御用邸 牛臥公園||もののふの里葛山||山中城址||柿田川湧水||高尾山(辻畑古墳)||門池||岡宮浅間神社||
||楽寿園、源兵衛||
||白隠の里//青野観音/八畳石||韮山史跡//反射炉||かんなみ仏の美術館||
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平成23年8月20日あらためて香貫山を載せました。桜のページ、沼津アルプス、短歌にも香貫山を紹介していましたが、私にとって一番身近な山なので今まであえて取り上げていませんでした。8月15日午後零時に五重塔(沼津市慰霊平和塔 −−− 日清日露戦争から、第二次太平洋戦争で亡くなった戦没者の供養塔)に居合わせ黙祷しました。そのときまず最初に紹介する必要がありはしないかと思いました。 香貫山は高さ200メートルに足らない低山ですが、中腹には五重の塔のある香稜台には若山牧水の歌碑があり、春には桜が咲き誇ります。頂上には展望台があり、沼津の町を一望でき、愛鷹山とその後ろに富士が望まれ、箱根、伊豆の山々と駿河湾を見渡せます。香稜台より頂上を通って桜台、新桜台を回る、一周約3キロの車道(通常車は入れない−−−1周を30分以内で歩く、大体27分から28分)。其の他のハイキングコースがいろいろあり、沼津アルプスの起点になっています。 個人的には子供の頃から遊びに来り、最近ではここ数年体力向上の為に月に3回程は、山歩きしています。 以下のページでも紹介しています。 沼津アルプス|| 紅葉 || 桜 ||アジサイ|| |
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自宅より車で10分ほどで麓の登山者駐車場に。 沼津アルプスの起点(駐車場) |
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香陵台 | |
広陵台には昔から左の碑、下の碑がありましたが、何なのか調べてみました。 香貫一帯では相変わらず香貫山の水を貯水池に溜めて、これを用水とする水利設備しか持たなかった。香貫に住んだ内膳は、水位のあまり高くない狩野川の流水を、今の通称大滝の土手で石をもって三日月形の堰を構築し、その部分の水位を高め香貫山麓を巡って一条の水路を開削し、苦心惨憺の結果引水に成功した。 植田内膳は寛永13年(1636)11月16日にこの地で没した。墓は本郷町の霊山寺にある。昭和3年(1928)11月、内膳の偉業を顕彰するため香貫山の香陵台に頌徳碑が建立された。 以上沼津HPより |
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貞明皇后(ていめいこうごう、1884年(明治17年)6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、大正天皇の皇后。旧名は、九条節子(くじょう さだこ)。大正天皇の皇后にして昭和天皇の生母。 貞明皇后御遺徳記念碑 どうして立てられたか不明 そのうちに調べます |
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広陵台の少し下に原田濱人(ひんじん)の句碑があります | |
平成24年3月12日枝垂れ梅(白) |
平成24年3月12日紅梅 |
五重塔の内部(平成24年3月24日撮影) |
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香陵台より、舗装されている車道(一周約3キロ)以外に幾つかのハイキング歩道が整備され、沼津アルプスのコースには、夫婦岩が見られ、新桜台には公園が出来ています。 | |
沼津アルプス歩道の一場面 |
夫婦岩 |
根性榎(何処にあるでしょう) |
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公園 |
何処にあるでしょう 平成27年5月31日撮影 |
頂上の展望台 平成22年4月非常時の電波塔が作られました。 | |
シラカシ(展望台) |
エノキ(展望台) |
平成24年1月17日撮影 何の木か不明 香稜台にて |
平成24年1月17日撮影 |
平成27年5月31日 展望台の皐月 |
光長寺正門 | 子供の頃、上の仁王像を見ては不気味に思ったものです |
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平成16年3月27日 お花見 ほとんど蕾 | ||||
平成18年元旦 除夜の鐘を突きに | ||||
平成23年4月10日法事があり、桜が咲いて見事でした。以下、載せました。 | ||||
正門の楠木 |
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平成28年4月8日 |
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平成28年4月8日 |
平成28年4月8日 |
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平成15年2月9日今は亡き父親を連れ出して | 平成15年12月29日子供と年末の一日を | |||
井上靖 記念碑 |
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若山牧水の碑 |
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千本松原 |
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平成17年8月27日千本浜にて 海上より打ち上げられる、水中スターマインをはじめ尺玉花火など1時間ほどの花火の競演に酔いしれる。10年前より8月最後の休日に実施され、昨年は台風の影響で中止。 今回10年ぶりの花火観戦。 |
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平成17年十月 日の入りのひとコマ | ||||
駿河湾の海岸線に沿って、約10kmにわたり連なる千本松原。この松原は、天文6年(1537)頃、駿河の今川・甲斐の武田と伊豆の後北条との戦いで無惨にも伐り払われてしまいました。 その由来は、戦国時代、戦で防風林が切り払われた際に、潮風に苦しむ農民の姿を見た千本山乗運寺の開祖・増誉上人が植えたものと伝えられます。千本浜の直近くに乗運寺があります。天正8年(1580)12月20日遷化 享年89歳 |
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乗運寺 増誉上人(長円)が開祖 牧水の墓があります。 | ||||
乗運寺正門 |
増誉上人(長円) |
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これなんだ? |
??? |
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首塚( 千本公園を車で出るところにあります)下記標識によると1580年の北条と武田の千本浜の合戦のとき亡くなった者の首とのこと。増誉上人(長円)天正8年(1580)12月20日遷化享年89歳とのことで、1537年の武田、北条の戦いとは別の時期の首になる |
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クリックで拡大表示 |
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昭憲皇太后陛下御座所 | ||||
昭憲皇太后は大中寺に9回行啓されていたそうです。大中寺は梅のコーナーで紹介しています。 | ||||
観海学人こと池谷(いけたに)観海は、文久3年(1863)田中藩士池谷歌治の長男として生まれ、名は盈進(えいしん)、通称鉱太郎、号を観海といい、18歳で小学校の教諭、明治35年(1902)40歳の時、沼津中学(現沼津東高校)に招かれて漢学を教え、在職20余年、昭和15年(1940)78歳で亡くなった。 |
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若山牧水旧居石(沼津西校、千本小学校を南に行ったところの北側に案内板あり) | ||||
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平成23年2月4日(立春)天気が良く、裾野中央公園、五流の滝の帰りに寄ってきました。帰宅からは5キロほどで、1号線に面しており、日々通行しているのですが、余りに近すぎて見落としていました。今は綺麗に公園化していますが、子供のころは川の中に入って遊んだ記憶があります。
湧水量は東洋一といわれていますが、昔は何も整備されておらず、汚れており、その後の有志の方の力により、維持、守られてきたそうです。園内には鳥が集まり、野鳥の観察にはいい場所らしい。
左の画像をクリックで拡大表示になります。 | |
楽寿園の南門を出ると、楽寿園より流れ出る水は、蓮沼川(宮さんの川)と源兵衛川になって街中に流れる | |
宮さんの川 今回は源兵衛川を散策 |
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子供が、水浴びを | |
水が多くて、川に配備された渡石は一部水没 裸足になり渡る 水の冷たさは相当なもので冷たさに足が痛くなる |
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川の回りの町並みの風景 | |
川の中は水草が生え、小魚が泳いでいます |
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広小路に来ると、三石神社がありました。 | |
時の鐘? | |
後は川沿いに「水の苑緑地」まで | |
水の苑緑地(下の写真) 近くに「雷井戸」「三島梅花藻の里」がある様ですが今回見落とし |
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後は、佐野美術館、田町駅、東本町、三島大社を回って帰途に その間幾つかの神社、お寺を見学 |
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楊原神社 樹齢400年のケヤキがある |
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法華寺 |
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真宗 大谷派 成真寺 | |
薬師院 | |
時宗 高源山 西福寺 |
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沼津駅の北口で、9・8本日限りのビヤガーデンが 家に帰り、居酒屋に 大サンマ、岩蠣と、刺身、焼き鳥で生ビールを飲む 大変に美味しかった |
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2016年8月5日柿田川、その他お寺を回る。炎天下にかかわらず歩きに歩き万歩計は2万6千歩、新たな発見もあり満足した一日であった。以下にとりとめもなく忘備録的に載せました。
サントムーンから三島に向かう途中、丸池という農業用の貯水池がある。「朝夕に見慣れて高し富士の山」他石の句碑がありそこの北側に続き(朝比奈トンボの里)がある |
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浄土宗 光林寺 | |
蓮馨寺 | 光林寺のそば |
誓願寺 | 浄土宗 本重山 |
三島市役所の側 |
源頼朝 源 再興の旗揚げ |
曹洞宗 法華禅寺 三島山 | |
松井山 祐泉寺 | 法華寺の向かえ |
百日紅の花が咲き誇る |
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日蓮宗 本覚寺 | |
愛鷹神社 | 国道一号線 川を挟んで福山通運 回転寿司「かっぱ寿司」の裏 |
源平川のスナップ | |
みしまばいかも |
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平成16年11月4日 自宅よりウオーキングでビューオーを見学 | ||||
沼津港 |
食堂街として有名になってくる |
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平成21年5月14日撮影 沼津みなと新鮮館オープン |
食堂街 |
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以下の写真平成24年3月24日撮影 沼津港深海水族館港八十三番地など新しい建物が増えています。 |
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平成23年2月10日撮影 市内観梅のあとラーメンを沼津港の「松福」で食す。静岡で一番人気のあるラーメン らしい。大盛り頼んだら普通のラーメンの倍の量があった。 |
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沼津港の西側に港口公園があります。勝田香月と本居長世の碑があります。 | ||||
勝田香月は明治32年(1899)駿東郡沼津町本町に生まれたが、大正2年(1913)の大火後、大宮町(富士宮市)へ転出。23歳の時「出船」を載せた詩集「心のほころび」を出版した。また、昭和4年(1929)29歳で東京市中野町会議員に当選、その後政治家として社会民主運動に貢献した。通信講座の草分けでもある。昭和41年(1966)、67歳で死去した。この「出船」の歌は、香月18歳の時の作品である。碑は昭和56年4月に、香月会により建てられたものである。墓は東熊堂の大泉寺にある | ||||
明治18年(1885)東京に生まれた本居長世は、江戸時代国学者本居宣長の6代目の子孫で、「赤い靴」「十五夜お月さん」「七つの子」「青い目の人形」等、たくさんの童謡を作曲して、日本の童謡の父と言われている。昭和20年(1945)死去。 碑は伊豆湯ヶ島の柿木石で、上部に西条八十作詞、本居長世作曲の童謡「残り花火」の一節が楽譜と共に刻まれ、下には、国語学者金田一春彦の書で『作曲家 本居長世は 沼津をこよなく愛し 毎年夏にはこの地を訪れ 海辺の生活を 楽しんだ 春彦書』 とあり、横の副碑には「七つの子」「赤い靴」「汽車ポッポ」など16曲が、作詞者名と共に刻まれている。 |
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2020年2月杉原千畝の顕彰碑 |
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杉原千畝(すぎはらちうね)は、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる日本の外交官です。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れるために逃げてきた約6000人に渡るユダヤ人に、彼の独断で亡命するためのビザを発行したことで知られています。 「私は人として当たり前のことをしたまでです」 「苦しみし二夜は明けぬ夫と我の命かけ救わむ心定まる」。 幅1・4メートル、高さ1・6メートルの御影石に夫妻のレリーフとともに、千畝の言葉と幸子の短歌が彫られる。夫妻が好きだったという海辺の景色が広がる沼津港近くの港口公園に建立される。 |
港口公園の鯉のぼりが新聞に紹介されており、五月晴れの陽気に誘われて、また千本浜で昼飯を食べてみたくなり出かける。
園児らが大勢来て、その父兄であろう、大人たちが戯れて賑やかである。開きやシーラカンシスの鯉のぼりもある。園児らの独特の鯉のぼりに心癒される。
港口公園の近くに津波避難用築山がある。こんなものでほんとに用をなすのか心配。ときわ幼稚園の退避用のものらしい。
その後、千本浜の景色を見つつサンドイッチと結びを食べていたら鳶がサンドイッチを手からさらっていった。見上げれば鳶や鴉が上空を群れてまさにとびかかる気配、残りのサンドイッチを放り投げて、そのうちに逃げ出す。こんなことが現実にあると自然とのかかわり、鳥の見方も変わってくる。新たな自然の驚異と、ふれあいと色々考えた一日でした。
2017年9月3日 昨日の沼津広報に「岡宮浅間神社のクス」が載っていた。毎日通勤で通っていたが、全然気が付かず、早々に帰りに寄ってみた。場所は光長寺から新幹線をくぐる所にある。(所在地 : 静岡県沼津市岡宮285)
樹齢 千数百年 目通り 八メートル 根回り 十四メートル 高さ 二十一メートル
||奥沼津アルプス||
平成17年記 先日静岡新聞に沼津アルプスの記事が載っていました。 登山者が増加全国区に 変化にとんだコース とのこと。 沼津市役所より国道414号線に沿って南方面に海側と反対の所に香貫山、象山、鷲頭山などの標高の低い山があることは知っておりましたが アルプスと命名されていた>とはユメユメ思いません。子供のころは香貫山などに遊びに行った思い出があります。 私には登山の趣味はありませんが、だまされると思って一度行ってみようと思いました。 ホームページで 沼津アルプス を検索するとその数、半端ではなかったことも動機のひとつです平成17年5月26日天気がよく休暇でしたので妻と出かけました。 |
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>工程 9:50自宅出発(徒歩) 10:45霊山寺(香貫山入り口) 11:00五重塔 11:20山頂 (標高193m) |
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12:00横山に向かう 12:35横山山頂(昼食)(標高183m) | |||
13:00徳倉山(別名 象山)に向かう 14:00山頂(標高256m) | |||
14:30志下山に向け出発 志下坂峠 15:30志下峠 今回鷲頭山の登坂を時間が遅くなったのでやめて志下に下る |
香貫山 |
ピクニックの気分で行くところ 頂上からの沼津の景観良し。桜の名所としても有名です。 | |
平成22年4月追加 沼津アルプス登山者用駐車場がありました。場所は沼津市役所の前の道路を東に向かって走り、沼津中央病院の向かえになります。駐車時間は8:00より17:00です。 | ||
以上 | ||
平成22年4月非常時の電波塔が作られました。 |
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[[戻る] | ||
横山急勾配でロープ伝いに (心臓バクバク) |
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徳倉山(象山) |
急坂多く ロープを伝って 休み休み | |
平成20年5月1日追加 (徳倉山登山道入り口) |
本格的な登山として宮の下から登ることをお勧め。 香貫側から横山トンネルを見ると左側に下記の登山入り口があり、そこから入っていくとすぐに横山、沼津商業、徳倉山の標識があります。そこから300メートル?(鎖が補助に張られています)急勾配が始まります。 |
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以上3コマ平成20年5月1日追加 | ||
急坂多く ロープを伝って 休み休み | ||
徳倉山より志下(しげ)に向かうと途中戦時中の防空壕の後があります。 | ||
志下坂峠、志下峠 |
途中 景観良好 蛇イチゴ 採取 志下峠で15:30疲れました。又遅くなったので鷲頭山は後日。 やぶ道を通り下山 帰りはバスで沼津駅まで |
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静浦方面 |
千本浜方面 |
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休み休み行けばフィールドアスレチック気分で登れるところ 途中 景観がよく(今回富士山が見れなかったのが残念)鳥のさえずりなど結構楽しみました。蛇が出ました。 機会があったら鷲頭山,大平山を登ります。 |
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[[戻る] | ||
鷲頭山、大平山 |
平成17年5月26日の継続として平成18年11月10日残りの鷲頭山、大平山に登る。 上り口は前回下山した志下より志下峠にあがり、中将宮-ー>小鷲頭山-ー>鷲頭山-ー>大平山ーー>多比口峠ーー>大平(山口道)のコース(休憩を含み三時間) |
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今日は秋晴れの為愛鷹山の位牌岳に登る予定で水神さんまで行ったのですが、そこでであった狩猟監視員のおじさんに子ずれの熊が出るので注意してくださいといわれ怖くなり急きょ鷲頭山に登ることにしました。(次回、熊よけの鈴を準備して日曜など登山者の多い日に登ります。) 久々の山歩きの為すぐに息切れになり、やっとのことで志下峠に この間30分 |
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志下峠より少し登ると中将さん(中将平重衡)の宮があります。平の清盛の五男で幽閉されその後切腹?(宮の左側に逸話が案内されていたが細かい内容は忘れました。切腹した場所は小鷲頭山の富士山と駿河湾を展望できる見晴らしの良いところです。賽銭箱があり、気持ち入れてきました。) | ||
中の写真 補足 後日、中将平重衡についてネットで検索すると下記のようになっているのが通説のようだ。 もう一度案内板を確かめる必要がありそうだ。いずれにしろ歴史上の人物がこの地に登場することに歴史に疎い自分にとって驚きの場所のひとつになりそうだ。 重 衡 の 最 後 迎えた南都では、重衡の処刑に関する詮議の結果、結局武士の手に渡して、木津のあたりで斬ることに決定した。 木津川の川ばたで遂に斬られようとすると、数千人の大衆の見物人が無数に押しかけて来ていた。この時、重衡が多年召し使っていた侍である、木工右馬允知時という者が、旧主の最後を見届けようと駆けつけてきた。知時は、まさに斬られようとするところに駆けつけ、重衡の傍らに来て、 「知時が、最後の御有様を見奉らんとここまでやってきました」 と言うと、重衡は、 「志のほどまことに神妙である。いかに知時、あまりに罪深く思われるので、最後に仏を拝み奉って、斬られたいと思うがどうであろう」 と、願うので、知時はたやすいことと承り、警護の武士と話し合い近くの里から、仏を一体おむかえしてきた。 重衡は仏に向かい祈願した。 「われ不慮に伽藍焼失の余あうにまとはるる。ただし達多が逆心ありとも、天王如来の記別にあづかる。閻王が悪逆もすなはち善根の身を得る。願わくは、安養浄土へ引導し給へ」 これが平家物語に残る重衡最後の言葉である。数千人の大衆みな袖を濡らしたとある。重衡の心に一片の悔いもなかったのであろうか。見事な最後である。 首は、般若寺の大鳥居の前に釘づけにしてかけられた。治承の合戦の時、重衡はここに立って伽藍を焼き滅ぼしたからである。奥方はこれを聞くと、たとえ首ははねられても、 むくろはさだめし捨ておかれてあるにちがいない。もらいうけて供養しようと考え、重衡の体を日野へ持って帰ってきた。待ち受けてこれを見た奥方の心の中はどんなであったか、 推し量られあわれである。 その後、首も返され重衡の葬儀をすますと奥方は、すぐに姿を変え、濃い黒染めにやつれ果てて、亡き重衡の菩提を弔い続けたという。 本三位中将. 平清盛の五子。 従三位左近衛中将。 源頼政を宇治川に破り、また東大寺・興 福寺を攻めてこれを焼き払った。 のちに一の谷の戦に破れ、捕らえられて鎌 倉に送られるが、大東寺・興福寺僧徒の要請で、奈良に送還され木津川で斬 られた |
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切腹の場所 | ||
小鷲頭山より 富士山が見えました。 この場所が今回では景観のよいところ。 |
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小鷲頭山より鷲頭山までは急なのぼりでロープが張ってあります。 | ||
鷲頭山より多比口峠までは尾根づたいに所々写真のような岩があります。多比口峠より大平山には10分ほどで登り、峠まで引き返して、大平側に下山しました。 始めは息切れをして登りなどきつかったのですが徐々に体がなれて一定のスピードで進めました。 自宅までは2時間程かけて徒歩でかえりました。 今回の登山では紅葉、景色は乏しかったのですが、帰途は秋の一日狩野川河川敷や農家の野菜を眺め、そして柿の色を堪能して快い疲労感に満足しました。 沼津アルプス縦走は達成しました。大平山より奥アルプスルートがあると大平山の山頂に案内がありました。 機会があったら登ってみようと思います。 |
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[[戻る] | ||
平成22年11月11日 今日は天気が良く、先週位牌岳に登ったので、今年最後の山歩きとして出かけました。車を香貫山の登山者専用の駐車場にとめ、9時20分出発。コースは香貫山、横山、徳倉山、鷲頭山を往復する予定でしたが、結果として、鷲頭山より、大平に出て、平地を歩き、香貫山の駐車場のコースとなりました。どの山も、結構きついので往復していると日が暮れてしまうことと、駐車場が17時で閉まいます。本音を言いますと、鷲頭山の頂上で又同じ道を引き返すのに自信がもてなかったのが本音です。香貫山以外はロープ、鎖、竹の手すりがあり、相当傾斜がきつい。沼津アルプスのいいところは、どの山も途中で登山を打ち切れる所です。位牌岳はそうはいきません。どっちがしんどいかははっきり言って差がありません。景観的には、やはり位牌岳のほうがスケールが大きく、山登りした気分を味わえます。以下は今回のスナップです。 |
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香貫山より、鷲頭山方面。横山、徳倉山真ん中が、鷲頭山。 | ||
徳倉山より富士山を写す。今回は一度も富士が見れなかった。 | ||
徳倉山から鷲頭山に向かう下りにここだけ竹の手すりがある。 | ||
残りの山は鷲頭山。 | ||
中将さん | ||
「中将さん」の中にある阿弥陀如来の石像 | ||
中宮さんの前に、大正天皇お手植の松跡があります。 | ||
鷲頭山の山頂。この跡大平に出て帰途。大変疲れました。 |
「中将さん」の写真は上を参照(平成22年撮影) 中将さんの由来 カメラで全体を撮るのを忘れてしまい、拡大写真が出来ません。以下に記述して載せました。 |
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中将さんの由来 本三位中将平重衡(清盛五男)は一の谷の合戦に敗れ(一一八四年)須磨方面に逃走中、馬に矢があたり馬と共に倒れた所を源氏に生け捕られ、京都市中を引き回しの上土肥実平に預けられていたが、源頼朝の命により梶原景時に付き添われて鎌倉に送られて尋問を受けたが平家ただ一人の生き残りの重要武将なるによって、一時優遇され狩野宗茂に預けられ、後伊豆狩野の里に軟禁されていた。 しかし重衡が治承四年(一一八〇年)南都攻撃に平家の大将軍として出陣し、東大寺、興福寺や奈良市内を焼いた罪は僧侶はもとより一般民衆の恐れる所となり、重衡を処断する為引渡しをすることになった。 このことを逸早く知った重衡は狩野の里を出て、海岸沿いに逃げてきたが、道が無く馬を捨て山に入り鷲頭山中腹の洞窟に隠れ住んでいた。其の後追手によって遂に発見され包囲され、大岩上まで逃れたが重衡の運命これまでと切腹自害し果てた。 此所を「中将切腹の場」と言う。又、重衡が隠れすんでいた洞窟を「中将さん」と言って浜の人々がその霊を慰めるため祭ってきたが、この中将岩は大平分なので文明十四年(一四八〇年)より大平の村人が祭ることになり延宝七年(一六七九年)阿弥陀如来の石造を造り、此処の岩窟に納め、毎年四月三日に祭りをおこなってきた。 尚、境内に大正天皇東宮当時のお手植えの松の大木があった。 平成一九年三月 中将奉納会 大平郷土史研究会 |
平清盛のドラマがNHKでやっているが、清盛、西行は同年齢で清盛の五男の重衡がここに登場してきた。頼朝と政子の蛭ヶ小島とか、三嶋大社に頼朝、政子の座した岩などがあり、歴史が面白きなって来た。 |
象山より見た富士山 |
象山より見た駿河湾 |
山頂の鷲頭神社? |
山頂に夏みかん?2個いただきました。その内の1個はお賽銭とともに鷲頭神社にお供え |
大平に下山途中 「長寿の泉」 |
大平に下山途中「馬の蹄跡」 |
香貫山より | |
象山より | |
志下より登り始める途中にアケビが実り、何とか撮りたいものといろいろ考えたが今回は眺めることで良しとしました。 | |
中宮さん この後、小鷲頭山まで急勾配 小鷲頭山からの展望はよく箱根の神山、駒が岳 手前に広がる田方平野が良く見えます。 |
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鷲頭山の山頂は以前の写真を参考に 鷲頭山を越えると多比口峠・大平山の標識が ここからしばらくウバメガシの岩尾根が続きます。500メートル以上はあったかも |
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ここからウバメガシの岩尾根が(沼津アルプスのハイライト) 岩の稜線を歩く 岩尾根はごつごつした岩にウバネガシが岩を抱えるように生えており、セメントで固めたような岩がしばらくアップダウンを繰り返しながら続く。以下にそのスナップを載せました |
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岩を這う様に根が覆う ウバメガシについて ウバメガシは日本産の常緑のカシ類では特に丸くて小さく、また硬い葉を持つカシである。海岸や岩場に多く、しばしば密生した森を作る 乾燥や刈り込みに強いことから街路樹などとしてもよく使われ、その材は密で硬く、特に備長炭の材料となることでよく知られている。 |
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こんな岩の塊もちょくちょく見受けられる セメントで固めたようで、石が張り着いている |
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大平山には往復で20分 ここから今までは大平に下っていましたが、今回は多比に始めて下る |
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大平山 356m ここから奥沼津アルプスが始まるようなのですが今回もパス |
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奥沼津アルプスの地図があります (2001年大平会) |
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多比のバス停までは30分 下って行くと先の標識がありここからは舗装されている 途中に栗のイガのぬけガラが地面に転がって栗の木が多いのがわかる |
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途中の景色 淡島、後ろは金冠山や達磨山方面が見える (道路脇に大きなタンクがある こちらに進む) |
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三叉路になっている | |
振り向けば 大平山か | |
下った先は 鷲頭山江月寺 | |
アルプスの上り口の案内が無い 写真の奥に出てきた バス停は 多比発が写真の手前にバス停が それ以外は道路の反対側にバス停がある 沼津まで470円(14:05発)休みの日の本数は少ない。他の時間を調べて置けばよかった |
天気快晴沼津アルプス縦走に出かける。奥沼津アルプスは三月に歩き、年に一度は沼津アルプスを縦走しようと以前より決めていたが今回何とか実践をして満足。持続してゆこうと思います。
自宅〜香貫山〜鷲頭山〜多比にでてバスにて沼津駅
今回のハイキングで結構忘れていたこと、新たなものも知り、冨士山や駿河湾、紅葉の山などを眺めつつ十分に満足できる山歩きでした。残念なのは息切れや足が思うように進まず、休憩の多かったことです。毛無山を登った時もしんどかったが、この山も結構きついことを実感。ここのいいところは何処からもリタイヤし帰れることでは初心者向きなのかも。簡単に今回の景色など載せました。
香貫山広陵台から |
富士山が綺麗 |
徳倉山(像山)に登るときは結構しんどい(こんなにもきつかったか もっともすたすた登ってゆく人を見送り少々ガッカリ |
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この看板は今まではなかった 塩満町には何かありそう |
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歴史の町「 塩満」 を紹介している看板が他に二か所あり |
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志下坂峠 象山を下りこの峠から志下山〜志下峠までは駿河湾や冨士山の景色を堪能 「カヤの尾根」と言うらしい |
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中将さん |
大平地区を見下ろす |
中将さんから一気に小鷲頭山への急こう配がある 第二の難関 |
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気色が良く小鷲頭山で昼食 |
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鷲頭山山頂 左側にダイダイが実る 登って三個ゲット |
狩野川放水路が見える |
鷲頭山を下って岩尾根の景色 下る途中は裏山の如く暗いが紅葉に染まった山々と田形平野を見下ろす |
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岩尾根がかなり続くがこんなにもアップダウンの根かとうんざりする | |
岩尾根が終わると今回の行程は終了 大平山はここから十分、何回か行っているがわざわざ行くこともなく パスして多比に下山 結構しんどかった |
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岩尾根の終了し今回の行程は終了 くどい様だが富士山が綺麗でした。写真では表現できず カメラ操作に問題があるのかも |
娘が沼津アルプスを歩くため、犬のビスコを連れて来る。色々調べたようで多比から登りたいとのこと。
当日は多比まで車で送ってもらい8:30よりスタート。天気が4月か5月の陽気ですぐに汗だくになる。各々の峠や山は何度も紹介しているので今回も簡単に取り上げてみました。
久々の山歩きで体が鈍って足が進まなく休憩しつつ歩く。このところの体調不良(血圧が高い、中性脂肪が高い、コレステロールのL/Hが倍になっている。歯の治療時に目眩など)を克服する目的もある。ボチボチ歩きました。以下簡単なスナップを載せました。
多比からの登り道に案内がある。 |
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大平山の分岐点に9:00ここから10分くらいで大平山に着 | |
分岐点に戻り、沼津アルプスのハイライトウバメガシの岩尾根に向かう | |
岩尾根が終わるといよいよ鷲頭山に |
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鷲頭山から小鷲頭山より志下山に 大気が霞んで景色はもやっていた。 |
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鷲頭山 | 千金岩 |
志下山より | |
志下山より徳倉山に 途中なだらかな山道が続く この辺りは「象の背」 一度下って山頂に |
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急な傾斜に息が弾む | |
徳倉山 富士がかすかに頭を出していた 今回は香貫山はパス 横山トンネル(香貫小)に出て終了13:30下山 結構疲れたが久々の山歩きは心地よい疲労に満たされた |
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ビスコは達磨の頭巾を |
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平成27年3月14日以前より気になっていた奥沼津アルプスを歩く。
ネットで調べてみると意外に多く紹介されており、今回は伊豆箱根の原木駅より狩野川の石堂橋を渡ってそこを左に歩いて行くと茶臼山の登山の入り口がり、そこを起点として大平山まで歩きました。
茶臼山11:45スタート 大嵐山(日守山)12:30着
大嵐山13:00スタート 大平山 14:30着
後は多比に出てバスで帰宅
原木駅より石堂橋までは500メートルほどか その橋を渡って左折、数百メートルほど行けば 入口の標識がある |
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ここから茶臼山経由で大嵐山まで一山越える 大嵐山は依然歩いたことがあり、そこからスタートすれば 駐車場もあり時間の節約にはなるが、今回は奥沼津アルプス は初めてなので全て歩くことにした。 |
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茶臼山の低山を登り下りで日守山に向かう。 山道は急こう配などなく楽に歩ける。 |
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大嵐山(日守山)は標高192メートル 山頂は広くほとんど公園の風情 天気が良ければ冨士山や箱根の山が見渡せる この山は伊豆中央道のトンネルが貫通し、伊豆縦貫道や 狩野川のくねった景色も見ごたえがある。 |
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大平山の入り口に入る | |
山道に添って下ってゆくと江間に下る標識がある 取り立てて危険な個所、急な個所もなし |
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おもしろい樹が在る。 結構大きな木です |
ボケの様な花が咲いていた |
見晴し場の案内 確かに見晴しが良く江間や、葛城山や発端丈山 、内浦の海が見渡せる。 |
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新城に下る案内がある |
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この変から稜線が岩場になって、見どころになっている 梯子がかかっている もう一か所同じ場所にも梯子がかかり、どちらでもよさそう |
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岩の山道がしばらく続く |
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この梯子を通過するとあとはロープが延々と頂上まで続く 結構きつい |
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このあたりでうごめく音と唸りがしてあたりを見渡すが イノシシか猿か、熊か 何とも物騒 山頂の案内板 大平山に来るたびにこの看板が気になっていたが今回のハイキングで 解消されました。 大平山を多比に下り帰宅 日守山から大平山〜鷲頭山〜香貫山を歩けば結構きついが面白そう そのうち歩いてみます |
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水神社
平成19年8月17日 娘たちが海を見たいというので、出かける。 国道414号を口野、水戸シーパラダイス、と1時間ほどで到着。戸田に行く途中にあります。 当日ペルーの地震の影響で津波注意報が出ており遊泳禁止。1時ごろ解除。最近は猛暑、熱中症、の言葉が頻繁にニュースで出てきます。異常に暑いのではだしになって波打ち際で水遊び。 大瀬崎の景観は戸田村とよく似ており、白い灯台、スキューバダイビングのメッカ、大瀬神社があります。 大瀬の名勝 神池 海の半島の中にある池。 海にすぐ近いのに淡水でコイなどが生息。伊豆の七不思議のひとつになっています。 ビャクシン樹林 国指定の天然記念物で、その景観は千年以上の歴史を呈しています。 大瀬祭り 女装した奇祭のようですが、まだ見たことがありません。毎年4月4日に行われるとのこと。 |
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神池 |
神池に餌の自動販売機(100円)があり、餌を与えると鯉がうようよ寄ってきます。 |
沼津アルプス |
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平成25年3月12日撮影 |
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ビャクシン |
外海の景観 |
平成24年4月4日松崎の那賀川のお花見の途中に |
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前日は日本全国台風並みの爆弾低気圧に見回れました。今日は風が強いが、晴れ渡り、松崎の那賀川の花見に出かけ、途中内浦漁港で恒例の大瀬祭りに遭遇、祭りの雰囲気を始めてみました。以下その様子です。 | |
沼津御用邸は明治26(1893)年、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために造営されました。詳しい解説は沼津市のホームページに載っていますのでそちらをみてください。 場所は沼津駅より車で15分ほど414号線を南下した場所で、牛臥海水浴場と島郷海水浴場の間にあり、自宅から徒歩で1時間程です。小学生の頃は夏になると仲間と歩いて海水浴に行った思い出があります。当時と比較すると今は海岸線が整備され、平成20年4月には牛臥公園が開園され昔の面影がありません。ウインドサーフィンが盛んなところでもあります。アジサイのコーナーでも一部紹介してあります。 |
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平成22年6月15日撮影 |
平成22年6月15日撮影 |
平成22年11月4日 菊花展に行ってきました。毎年開催されているようです。天気良く、すばらしい菊を堪能しました。 | |
平成23年2月10日観梅の時期で、出かけて見ました。内容はお世辞にも素晴らしいとは言えず。とりあえず写真を掲載します。 | |
平成26年11月02日2014松籟の宴に出かける 皇室ゆかりのこの地でおもてなしの宴を 観る、聴く、味わうのキャッチフレーズ 食べずに臭いを嗅ぐ 白隠禅画展、松間の管弦などが催される。(金千円で「白隠とその時代」の本を購入) |
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2018年11月10日 松籟の宴
小春日和に誘われて出かける。これと言った目玉はないが菊を眺めて、アイスクリームを食べてのんびり海を眺めて心地よい。
その後は「よさこい東海道」を見物、ソーラン節などの音頭に浮れて、踊り子らの勢いにエネルギーをもらた気がする。
平成20年5月1日 沼津広報に牛臥公園がオープンした記事が載っていたので徒歩で自宅よりむかう。1時間ほどで到着。公園の南側は海水浴場になっており、その南に沼津御用邸、島郷海水浴場、静浦漁港と続いています。公園自体はオープンしたばかりできれいに整備されていますが、運動広場とか海釣りに開放されているとかいった特色がなく(公園の前の海岸は遊泳禁止、釣り禁止) 砂遊びが出来る程度で少し残念。 その後沼津アルプスが近くに控えていたので志下(静浦漁港のすぐ近く)より登山開始。 |
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平成23年2月10日撮影 御用邸に梅の花を観賞に行ったときのスナップ。近くに「芹沢光治良記念館」があります。 | |
御用邸より眺めると「ひょっこりひょうたん島」 |
芹沢光治良記念館 |
平成23年1月11日 静岡新聞で紹介されていました「歴史ロマンと自然美」に出かけてみました。「もののふ」とは武士のことで今回1.葛山城址2.影ヶ島渓谷 の二つを紹介します。国道246号線を沼津より裾野に向かって行き、途中千福より県道24号線に入り東名高速をくぐった所です。自宅より15キロほどの所でしょうか。東名と第二東名(工事中)の間に位置しています。今まで何度となく24号線は利用していますが、全て須山方面に行っていましたので、こんな近場にこんな所があるとは今まで全然気が付きませんでした。高速道路に囲まれて時代を坂のぼる、一瞬タイムスリップした錯覚に陥ります。
平成23年2月4日
葛山に行く途中に、ある寺。「信玄ゆかりの寺と千福城址跡」との事。
すその駅より車で5分ほどの所にあり、影ヶ島渓谷の下流に位置し、12メートルの滝が3本ながれて、五竜館といわれています。公園にはつり橋と、
夢の橋という赤い橋があり、公園内には牧水の歌碑がありました。
クリックで拡大表示 |
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上記写真が五竜の滝の解説。(クリックすると拡大) 右が牧水の歌碑 |
平成21年9月8日静岡新聞に「辻畑古墳国内最古級か」の記事がのっていました。沼津市教育委員会が昨年から発掘調査を進めており場所は高尾山神社移転跡地でまもなく道路になる場所。古墳時代初頭にあたる250年ごろのものと見られ、東日本では最古級、国内でも最も古い前方後方墳に分類される可能性があるとのこと。13日に現地説明会があるとのことで出かけました。以下にとりあえずそのときのスナップを載せました。歴史に疎い自分ですが中国では三国志の時代、その他の文明と対比したらどうかといった日本の文化、時代の考察に今回の身近な事柄を通じて古のロマンが湧いてきます。。
以下の写真は2006年11月25日の高尾山のお祭りの一こまです。この時の神社の下で今回の発掘がされました。現在の高尾山神社はこの隣に移転されました。 | |
平成24年11月25日
高尾山の祭典が24,25日と行われ、思い出し今回追加記事を載せました。辻畑古墳として載せていましたが讀賣新聞の記事で高尾山古墳として紹介されていました。2008年〜09年にかけて沼津市教育委員会により発掘され道路の建設予定地になっているが工事は中断したままになっているとのこと。
古墳の年代説に二通りの説があり、230年代、250年代で議論されているそうです。
230年代−−−−−大和に前方後円墳が登場する前から駿河で古墳が作られていたことになる。魏志倭人伝に邪馬台国と敵対したと記される匈奴国(くなこく)が伊勢湾沿岸にあったとする赤塚次郎愛知県埋蔵センター副センター長が主張。被葬者は西暦200年前後のこの地の英雄で匈奴国の仲間の一人では。長野の弘法山古墳、栃木の那須八幡塚古墳といった前方後方墳が見つかっておりこの古墳は東海系文化の広がりを示す「最古級の前方後方墳」。
250年代−−−−−寺沢薫奈良県桜井市まきむく学センター所長は「副葬品の鏡や鉄製品は3世紀半ば以降と考えられ、周溝などにはたまたま古い土器が紛れ込んだと考える」と主張。前方後方墳は政治的に対峙する形で作られたのではなく、前方後円墳の影響で生まれ、この古墳は東海系文化の影響も大きいが、背後に大和の影響が見え隠れすると主張している。
いずれにせよ重要な古墳だそうです。
平成27年7月26日
高尾山古墳取り崩しへ
沼津市教育委員会は25日の市議会文教消防委員会で、市の都市計画道路「沼津南一色線」の建設予定地にあり、保存するか撤去して道路を建設するかの検討が進められていた高尾山古墳につき道路建設を前提に古墳の大部分を取り壊す発掘調査を行う方針を明らかにした。日本考古学協会が保存と活用を求める会長声明を発表している。「古墳時代最初頭の重要遺跡と強調、沼津市のみならず日本の歴史において重要な価値がある」と訴える。
市は古墳を保存するため道路の迂回、陸橋など検討したが構造上不可能、周囲の道路の混雑を考えると、できるだけ古墳に配慮する形で道路建設を進めるとのこと。古墳のレプリカなどの制作を検討する考えも示した。
平成25年2月11日東田子の浦の山部の赤人の碑(まだ工事中、3月中に完了とのこと)を富士山をバックに写真に収めるべく出かけたが未だ工事中。朝日新聞の夕刊(2月6日)で白隠禅師の紹介を美術欄に載っていたので、帰りに生誕の地を訪れました。(文化村・ミュージアムで白隠展が催されている。)今回はあくまで生誕の地、及び住職として過ごす松蔭寺を写真に収め、美術関係、及び其の生涯については後日おいおい調べようと思います。500年に一人と言われる名僧らしい。
上図のように原駅の手前西より西念寺(せいねんじ)、松蔭寺、長興寺、清梵寺(せいぼんじ)と寺があり、白隠の里といわれている。北は富士と愛鷹山を正面に見える。我が家より、5キロほどの所。いかに各々の写真を載せていきます。
白隠の生涯は墓の所の立て札に書かれており、読みにくいが以下に掲載しました。
西念寺
一遍上人の弟子素現が鎌倉時代の弘安年間 に開山しました。時宗のお寺です。 こちらは1983(昭和58)年に再建された天満宮です。 天満宮の神さま天神さま(菅原道真)は牛の神さまと 言われ、丑年、丑の日、丑の刻に生まれた白隠禅師 は生家の裏にある西念寺の天満宮によくお参りをし たそうです。 |
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長興寺
興寺の創建は南北朝時代です。旅の臨済宗の僧が 潮騒の音に感動し、砂上にお堂を建て虚空蔵菩薩を 奉り、鎌倉建長寺の末寺となりました。 このお寺は海に浮かんでいるように見えたので山号 を海上山としました。 江戸時代中期に白隠禅師が現れると周辺の臨済宗の お寺と同じように清見寺(梶原景時の墓がある寺) の末寺となり、今は京都妙心寺の末寺です。 こちらの茶室「静心庵」は大徳寺の国宝「密庵席」 を模したものです。 山門左手には山号に因み、海の安全を守る金比羅さ んがあります。 庭のきれいなお寺です。 |
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茶室 |
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清梵寺
萬山清梵寺は「原のお地蔵さん」と呼ばれる臨済 宗のお寺です。ご本尊は十一面観世音菩薩像と地蔵 菩薩像です。創建時期は不明ですが、少なくとも戦 国時代には存在していたようです。 |
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平成25年10月2日静岡新聞に「白隠禅師の教え後世に」の見出しで沼津市江浦の照江寺(橋本宗一住職)で江戸時代の高僧白隠禅師の書画を刻んだ石碑群の完成を祝い、点眼供養法要が営まれたとの記事があり、3日どのような物か早々に出かけました。場所は御瀬岬、戸田は行くときに常に通っていた南浄化センターの直近くですが、寺がこのように存在していたことを今回はじめて知りました。白隠禅師の書画にどんなものがあるか知りたかった。とり合えず写真に収めてきたので、幾つか載せました。
||城 山、葛城山||
平成26年5月6日 朝からはっきりしない天気で、午前中家で過ごしていたが折角の休日、午後からネットで調べて、近場の山で見落としていた発端丈山に出かけました。ほったんじょうやまが正しい読み方らしい。場所は伊豆三津シーパラダイスの裏山にあたり、伊豆長岡からロープウェイで葛城(かつらぎ)山頂に、ハイキングコースとしてつながっています。今回は登り口が幾つかありますが、三津北口に車を止めて発端丈山から益山寺(ましやまじ)、雄飛滝を回り重須口に抜けて、車の留めてあるところにコースを設定しました。以下にマップを載せました。
海岸線を水戸シーパラダイスに向かって走り、130号線に右折すると内浦小学校があり、その先のバス停に咲きの標識があり、ここに車を止める | |
ここから登山道は頂上まで1時間ほどかなりきつい登りが続く | |
途中には(山頂を益山寺に向かうときも同じですが)桜の老木がかなりあり、花の時期はさぞ素晴らしかろうとおもいます。 | |
途中の標識 長浜、三津中央口と今回登ってきた三津北口がある |
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山頂は標高407メートルで銀杏の木がある ここからの景色は天気が良ければ冨士がみれそう 海側も視界が悪く、残念。葛城山山頂も見える ここで休憩益山寺に向かう |
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下りのコースは、よく整備されている 広いし、そんなに急な斜面はない |
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このあたりの標識がはっきりせず、ハイカー向けの変更案内が、木に張られたり 今回は予定通り益山寺に向かう |
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しばらく行くと、益山寺の裏側に出る | |
平成26年5月6日撮影 |
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平成26年12月8日撮影 銀杏はすでに葉が落ちて、楓はいまだ色づかす。周りの木々は黄葉するも |
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平成27年12月15日 撮影 |
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標高300mの益山の上にある真言宗で、高野山の末寺。空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられています。
山中にある落ち着いた雰囲気。お地蔵様、石仏など安置されています。根回り5.46b、目通り4.05b、樹高27b、樹齢900年ほどで県下最大の楓です。木肌が美しく保存は良好で、瘤が多くあり盛り上がる力強さは、風雪に耐えた歴史を見せています。 |
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平成26年12月08日撮影 |
平成26年12月8日撮影 |
このあたりにアヤメの様で、花の小さな花が目立つ | |
この寺から、ハイキングコースを歩いてもそれらしき道が途中で絶えてわからず、結局は寺から舗装されている道路に出て、雄飛滝に向かう。 | |
途中に左記の案内があり、ここまで車で来れば相当に楽 ここから重須口まで山道をくねくね1時間以上 |
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雄飛滝までかなり歩いたような(標識では600メートル) | 上段と下段に別れ、上段は落差20m、下段が落差10m。滝の下に不動明王が祀られています。すばらしい柱状節理が印象的です |
まっすぐ行くと広野、三津方面に右折 | |
かなり下ってきたか、発端丈山ハイキングコースの標識があるが 標識どうりにゆくと雄飛滝に行けない(この辺も不安要因) |
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振り向くと岩山が見えるが、なんでしょうか 城山 |
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ハイキングコース 重須口の案内 | |
光明寺 ここからすぐに414号線に |
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長浜城址 (414号線沿い) 光明寺の看板があるところからハイキングコースに |
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その後三津シーパラダイスを過ぎて駐車場に向かい 途中に三津中央の登り口が気多神社の脇に 手前750メートル程に長浜口があったようですが見落とし 今回は発端丈山から三津に出て、登り口までかなり歩いたような 天気が晴れてきて、益山寺が意外と興味を持てて、とりあえず良しとします。 機会があれば桜の花の咲くころに来れれば、また秋の益山寺の楓、銀杏は素晴らしかろう 楽しみが増えました。 |
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桜はすでに葉桜 残念 |
山頂より富士が薄ら |
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葛木山の展望台が |
平成27年2月12日大仁神社の観梅に出かけたが、まだ三分咲き、諦めて狩野川の向かいにそびえる城山に登る。標高399メートルの山ですが、狩野川沿いの道路136号線からは絶壁の山、ロッククライミングの山のようで、そそり立って、絶対に登れる山ではないと思っていたが、ハイキングコースがあり、城山、葛城山、発端丈山とつながっているようです。如何に写真で紹介します。
工程は城山峠までほぼ30分、そこから20分程で頂上。 途中に2か所ロッククライミングの標識がある。 途中の景色はほとんど見えないが、途中に岩がそびえたつのが見える |
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見上げるとまさに絶壁が恐ろしくそびえたつ |
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しばらく登ると城山峠に そこから20分程で頂上 頂上からは狩野川や田形平野、大仁の街並みを見渡せ、 冨士箱根鉄道が走ってゆきます。 |
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以上 |
以前城山から葛城山目指して歩いたが、道を間違え下山。平成27年11月27日車で車道を登ると、偶然間違えたところに行けて、葛城〜発端丈山ハイキングコースを見つける。次回はここから登るとしよう。
城山と葛城方面との分岐 | |
巨大な岩が珍しくある |
この看板を見ずに下山してしまう。(ここまで車で) |
平成27年12月15日 前回の峠まで車で行き葛城山、益山寺(発端丈山分岐点)まで歩く。 天気予報では本日曇り、夕方から雨の予報。予報に反し朝から快晴、気温が高く、せっかくの休みは勿体ない。 手ごろなところでこのコースを選ぶ。 |
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昼頃に目的地に着く。平日の火曜日であるがすでに4台駐車していた。 |
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今日は景色がはっきり解り気分爽快 | |
外山の観音様 樹齢500年の老松あり 見渡す限りそのようなものはない。 (左下の石が観音様らしい) |
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数百年前伊豆半島の揺籃期に誕生 里人は「篠鉢山」と呼ぶ |
それがこれ? |
ふっとりば 「強い西風に人暫し佇む」と書いてある |
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葛城山背面登山口 「姥目樫の自然美林あり」 の看板 興味が湧いてここを登る |
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登りはじめたら斜面の急こう配に難儀 しかも山道らしきものがはっきりせずに手探りしてほぼ30分は延々と |
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やっと登り切ったら広場に ここからの展望は素晴らしい (結局葛城山の頂上のすぐそばでした) |
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狩野川がくねり 左に城山 |
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広場をぬけると葛城山の展望台などがある。 板の歩道を渡っていくとロープウエイの終点に 「恋人の聖地」鐘を突く |
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淡島と駿河湾 | |
ハイキングコース 下りはここから 比較的なだらかな斜面でした 下った先は舗装さっれた道路に出る |
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葛城神社ロープウエイのお客さんが多い |
花富士 食堂でおにぎり2個を食す |
百体地蔵 |
萩原麦草 句碑 「その上ミの あきかぜ聞くや 寝釈迦山」 |
鷲頭さん方面富士山は雲の中 真ん中上空 |
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葛城山を下ると「葛城山登山口入口」の看板 もしまた来ることがあればここから山頂に ここからは舗装された道路を発端丈山、三津方面に向かう |
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舗装された道をしばらく行くと左の看板 ここからまた自然道に入る |
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益山寺までは30分程 意外と近いのに驚く |
以前発端丈山を歩いた時はここに出て「雄飛滝」経由で三津まで歩いた |
いろは紅葉の彩が素晴らしい |
銀杏は散っていたがモミジは素晴らしい |
帰りは車の場所まで50分ほど これで城山〜葛城山〜発端丈山 のルートは完走 |
平成26年3月25日
願成就院の運慶作諸仏が日経新聞で紹介されて、早々に出かけました。当日は生憎の休館日(火曜、水曜)境内見学して、裏の守山神社より散歩歩道を歩き、真珠院、政子の産湯の井戸などを春野の狩野川の堤を、ぶらぶらと歩きました。桜はまだ蕾でしたが天気が良く汗流しつつ神社やお寺と巡って此処にも歴史上の遺産が多いのを改めて認識。今回新たな発見は136号線沿いは民家が立ち並びごちゃごちゃ下町かと思いきや守山周辺の家々の間取りは広く立派な家が立ち並び驚くとともに、狩野川の堤防の道路は綺麗に舗装され昔の面影がほどんどないことです。今回の目的である運慶の作品は後日見るとして、今回訪れた処で印象に残った処を紹介します。
令和3年10月30日
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映に合わせて伊豆の国市郷土資料館(伊豆の国市三福253-1中央図書館2階)にて北条義時が生まれた里『伊豆の国』の中世を開催、早々に出かけました。平成26年3月の時とダブったところもありますが『義時の生まれた里』として記録に残しました。
||願成就院||守山八幡宮||真珠院||その他 守山回り||義時の生まれた里||
北条氏ゆかりの願成就院の後方、守山の中腹にある守山八幡宮は、647年(大化3年)、大山祗神を祭神として創建され、907年(延喜7年)、宇佐八幡宮の八幡神が勧請され合祀された。 1180年(治承4年)には、源頼朝が源氏再興を祈願して挙兵している。 現在の本殿は、1632年(寛永9年)に久能城主榊原照久によって造営された建物。 |
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守山八幡宮の裏側を上るとハイキングコースになる。頂上には展望台があり、冨士山や韮山の町が一望に見える 歩道を下ってゆくと子神社社殿に出る(下) |
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子神社から狩野川に向かうと川沿いにたたずむ寺院 この寺が今回の中で一番綺麗で、真珠院というだけある 狩野川台風の時の水位が表示され、今は綺麗になった川沿いに桜がまさに咲こうとしていた |
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八重姫御堂 |
仏が彫ってある |
右の拡大 |
狩野川沿いは公園になって整備されている | |
史跡北条氏邸跡(円成寺跡) |
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北条政子産湯の井戸 |
伊豆の国市は2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時ゆかりの地である。北条氏は伊豆の国市を本拠とした武士であり、義時はこの地で生まれ、幼・少年期を過ごした。1180年源頼朝は伊豆の国市で平家の家人山木兼隆を攻め滅ぼし、石橋山の合戦、富士川の合戦を戦って、東国の地に武士を中心とする政権「鎌倉幕府」を作り上げた。義時は頼朝の義弟として、また最も信頼される御家人の一人として常に頼朝を支え、数々の合戦や瀑布運営で活躍した。市内には韮山地区四日市・寺家の守山周辺や長岡地区江間を中心に、義時や父時政、姉正子、そして頼朝などにかかわる文化財や伝承が残っている。
令和3年10月30日その地を歩いてきました。
義時が長男安千代の為に建北条義時館跡(江間公園)のすぐ近くにある。
向かって右側が義時、左が後妻佐伯氏娘(伊賀の方) |
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現在江間公園として整備され、公園の一角に「北条義時(江間小四郎)屋敷跡」の石碑が残る。
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屋敷跡の所に天然記念物「地震動の痕跡」 | |
建久年間に奈良東大寺の再建に尽力した僧重源が開設したと伝わる。伊豆修禅寺で亡くなった2代将軍頼家の面相を写したとされる「病相の面」が残っている。頼朝の伊豆の館はこの寺の周辺にあったと言われている。
鎌倉幕府2代将軍源頼家が修禅寺に幽閉され病を患った際、鎌倉に住む母政子に症状を知らせるため7日ごとに面相をほり、鎌倉まで届けていました。ある日、面を携えた使者が鎌倉に向かう途中、逝去の急使に追いつかれ、近くを通りかかった光照寺この面を収めたと言われる。この面については謎が多く、守山の麓の真光寺の寺伝には、「源(武田)信光(信光寺の開祖)が使者であった」とする記述が残っている。
信光寺(曹洞宗)は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の第五代当主武田信光の開基。 寺の名は、信光の名にちなむもの。 寺の縁起によれば、信光は、修禅寺に流されていた源頼家を見舞い、その帰路、頼家が亡くなったことを聞いて出家し、光蓮と称して頼家の菩提を弔ったのだと伝えられている。 信光は修禅寺に幽閉されていた頼家の監視役だったのだという。 境内の出土物などから、鎌倉時代には願成就院の寺域に含まれていたと推定されている。 本尊は十一面観音菩薩(秘仏)。
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鎌倉幕府執権北条市の館と、鎌倉幕府滅亡後に北条氏の菩提を弔うために建立された円成寺との複合施設。鎌倉武士の生活と、南北朝〜室町期に繁栄した寺院の姿を伝える貴重な遺跡として平成8年(1996)国史跡に指定される。
北条氏の館
平安時代末から鎌倉時代前半にかけての約100年間に建てられた建物や塀、井戸、などが発掘されている。鎌倉時代後半の建物は見つからない為館が使われたのは3代泰時の頃までで、それ以降、北条氏の生活の中心は鎌倉に移ったものと考えられる。
円成寺
1333年、鎌倉幕府が滅亡し、北条一族の多くが滅んでいきました。しかし一族の女性たちは生き残り、14代執権高塒の母である「覚海円城(円城尼)」と言う尼僧にひきいられて、伊豆にもどり「円成寺}を建立する。円城尼後、伊豆国守護をつとめた山之内上杉氏の庇護をうけ、上杉氏の女性が尼となって繁栄する。
史跡北条氏邸跡(円成寺跡) |
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北条氏の当時の様子 |
円成寺の東寺の様子 |
平成28年1月27日三島の大吊橋(スカイウォーク)の後、訪れる。
反射炉は小学校の頃写生をしたのが思い出されます。早いもので半世紀以上が過ぎています。その後何回か訪れていますが、今回世界文化遺産(平成27年7月)に登録されたので行ってみました。以前の寂れた状況は一転してバスが次々とやってきます。世界遺産登録の効果をまざまざと思い知ることになりました。天気は快晴、富士山が一日姿を見せ久々の長閑な冬日を楽しみました。
反射炉の歴史やその構造様式はもろもろの情報にて調べてみればと思います。ここでは今回のスナップだけを載せました。
韮山反射炉解説パンフレット(おもて)(PDF:1,910KB)
韮山反射炉解説パンフレット(うら)(PDF:4,307KB)
この美術館は以前より気になっていた。函南、韮山周辺は頼朝と政子の出会いから鎌倉幕府成立までの歴史上、また近年の世界文化遺産にノミネートされた韮山反射炉を初め、守山周りの史跡には目を見張るものが有ります。その延長線で鎌倉も歩きました。
平成27年6月25日「かんなみ仏の美術館」その近くの高源寺、滝山不動尊を訪れて歴史の一端を垣間見た気になります。韮山(守山周り)、発端丈山のページと一緒に見ていただくとより分かりやすいかも
||かんなみ仏の美術館||高源寺||滝山不動尊||桑原薬師堂(西国三十三か所観音霊場)||
【願成就院の 不動明王ニ童子像、毘沙門天像が、像内納入品等から運慶の真作であると確認されていること等から、阿弥陀如来像も運慶の作とされている。なお本堂にも13世紀ころの作と推定される阿弥陀如来坐像が安置されている。2013年(平成25年)6月19日、後述の不動明王二童子立像、毘沙門天立像を含めた5躯一括で国宝に指定された。】
この美術館に展示されているのは同時代の実慶の作である阿弥陀如来及び両脇侍像 薬師如来坐像 十二神将立像である。何れも国宝。
桑原薬師堂から かんなみ仏の美術館へ(パンフレッドより抜粋)
函南町桑原地区では、平安時代の「薬師如来像」や鎌倉時代の「阿弥陀三尊像」など、二十四体の仏像群が、里人の厚い信仰心によって守られてきました。これらの仏像群の散逸を防ぎ、後世に保存承継していくための施設として、明治30年代後半に桑原の有志により、長源寺の裏山中腹に「桑原薬師堂」が建てられました。2008年(平成20年3月)に桑原薬師堂の二十四体の仏像群が、桑原区から函南町に寄付されました。そして町民の財産である貴重な文化財を後世に保存承継するとともに、多くの方々が観賞できる施設として「かんなみ仏の美術館」を設置しました。
何時も思うのですが写真禁止は解除してもらいたい。記憶は薄れる
『箱根山縁起并序』には、桑原・小筥根山新光寺という七堂伽藍をもつ大寺が建立された(弘仁8年・817年)という記載があり、桑原では薬師如来像はこの新光寺の本尊であったと伝えられています。 また「阿弥陀三尊像」は、『吾妻鏡』に石橋山合戦で戦死した北条宗時(北条時政の嫡男)の墳墓堂が伊豆国桑原郷にあったことが記されていることなどから、源頼朝の舅・時政が、戦死した息子の慰霊のために、慶派の仏師・実慶に造像させたと考えられています。実慶は伊豆市修善寺(1183)の本尊大日如来坐像も作っている。願成就院や、その周辺には北条氏による仏教文化の繁栄や仏師運慶一門の活躍を伝える仏像が数多く残されている。 |
入口 |
庭園 |
当館では二十四体の仏像群を鑑賞していただく仏像展示室とともに、無料で入場できる資料展示室を設けています。 資料展示室では、仏像の種類や役割、その特徴などを学ぶことができる「仏像鑑賞図鑑」を常設展示しています |
資料展示室の薬師如来の説明ではじめて十二神将立像を知り、仏の世界の体系、及び印の種類や木像制作の方法の一端を垣間見る。また歴史の系譜も参考になる |
近場に行ったついでに新聞でクリスタル薬師如来像の販売を初めてとの記事を思い出し、購入
その後長源寺の三十三か所巡りを訪れる
当館の展示仏像の中で人気の高い薬師如来坐像をクリスタルの中にレーザーで彫った「クリスタル薬師如来像」
商 品 名 クリスタル薬師如来像(化粧箱入り)
販売開始日 平成27年10月21日(水)
販売金額 1個 1,500円(税込)
サ イ ズ 高さ6cm×幅4cm×横4cm
我が家の仏壇の中に飾っております。我が家の本尊は釈迦如来 (阿弥陀如来、薬師如来も元をただせば仏の世界 問題ないと自己判断) |
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平成27年11月26日クリスタル薬師如来像購入のついでに函南仏の美術館のすぐ近くの長源寺に行きました。その裏山の桑原薬師堂から諸々の仏像が函南仏の美術館に移された。西国三十三か所観音霊場を一通り回ってきました。(時間にして十分ほど)。同様なものが湯ヶ島の熊野山33観音めぐりは以前湯ヶ島の湯道のときに回ってきたが小一時間は要した。コンパクトで良い。
かんなみ仏の美術館を見学後近くの高源寺を訪れる。まさにシンプルな佇まい、何もない雰囲気が石畳と苔の生えた木々にマッチして癒される。
以前似たような寺を見たことが有る。それは松崎の那珂川の桜見物の時に寄った21世紀の森の富貴野山(松崎市街地の北東、天城の長九郎山と並んで、松崎・西伊豆両町の境界線近くにそびえる標高550mの山。)の山頂にある曹洞宗富貴野山宝蔵院で、大同3年()空海(弘法大師)が密教の霊場として開いた古刹で、当初は富貴野地蔵密院と称していた。境内には、樹令400年ぐらいと推定される南伊豆最大のスギ(周囲6.5m、高さ34m)、樹令150年のオオシマザクラなどがうっそうと生い茂り、参道を中心に180体余りの野の仏≠ェズラリと並んでいる。苔むした石仏群の姿が何か侘しげに見え、ひたすら人の世の無情を大合唱しているかのよう。
高源寺は弘法大師(空海)によって開かれたという古寺。
平治の乱の敗北によって伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が文覚と源氏再興の密議を行った寺と伝えられ、石橋山へ進軍する頼朝軍の「軍勢ぞろいの地」とも伝えられている。 当時の高源寺は、長久寺と称する真言宗の寺で、修行の道場として伊豆国一円を支配していたものと考えられている。
山火事によって伽藍を焼失してしまうが、1190年(建久元年)に源頼朝が再興し、名をそれまでの「長久寺」から源氏の一字を入れた「高源寺」と改めたと伝えられている。 現在は曹洞宗の寺。
滝山不動は、文覚がこの場所で源頼朝に源氏再興の挙兵を勧めたと伝えられていることから旗挙不動とも呼ばれている。
本堂(不動堂)には、源頼朝が文覚とともに祈願崇拝した不動明王(旗挙不動明王)が安置され、奥の院の不動の滝は、源頼朝が源氏再興を祈願した滝といわれている。
奥の院下の洞窟は、文覚が隠れた場所といわれ、奈古谷の毘沙門堂に通じているという
静岡県伊豆の国市韮山山木 (富士見パークウェイに入ってすぐ) |
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不動堂 |
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瀧の高さ 18メートル |
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奥之院 |
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平成26年10月3日沼津広報に、白隠禅師が紹介され、八畳石は岩次郎と呼ばれていたころ、ここでお経の勉強をしたそうです。早々にでかけました。場所は国道一号線を沼津より原のほうに向かい、大塚の交差点を右折して山に向かって行くと、青野観音の標識があり、東名と新東名の間にあります。赤野観音堂のすぐ山側に新東名が走っています。
八畳石の手前に山道があり、ここをあがって行くと赤野観音堂の途中に弘法大師堂がある |
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弘法大師堂 何故にここにあるのか解らない | |
青野観音境内にカヤのきがあり、(市指定天然記念物) 樹齢600年、目通り3.9メートル、高さ23メートル 内部の様子は解らず、正面には天女の舞う姿が、天井には龍が画かれている らしいが、中に入ることができず、外からの写真ではわからず。 本尊は十一世紀頃の製作と推定され十一面観音像らしい。 以下に某HPでの解説を載せています。 |
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江戸時代より駿河一国三十番札所及び横道十五番札所として知られている。 この赤野観音堂は、市内では数少ない江戸初期の建築様式を示す建物で、市指定有形文化財となっている。 木造、茅葺き、寄棟造の平屋建てで、内陣は唐様式の鏡天井で、天井には龍、正面両側の壁面には飛天(天女)の舞う姿が描かれ、 外陣・外回り軒裏は化粧天井になっている。屋根の茅葺きを除き創建時そのままなのでかなり老朽化し、 極彩色の絵画も薄れているが、よくまとまったお堂で、「ぬまづの宝100選」に選ばれている。 この辺りの地名を阿気野といい、もとは阿気大神が祀られていたと伝えられてる。 この神社は現存しないが、その本地と考えられる寺院の観音堂だけが残り、現在は広大寺が管理している。 また、この建物には左甚五郎が藁人形に手伝わせて一夜のうちに造ったという、わら人形伝説が伝えられている。 本尊は、十一面観音像(市指定有形文化財)で、頭部から胴心部及び両臂(りょうひ)まで共木から彫りだされた純粋な一木造の像である。 現在は木肌を現し、天衣にわずかに赤色の顔料が残り、全体的に素朴な作風である。なかでも両耳の内耳を省略し、両肩のあたりに丸ノミのあとを残している作風は、東国に流行した鉈彫(なたぼり)に近いものがあり、本像が小高い丘の上に祭られていることとあわせ、11世紀頃この地で製作された仏像であることを物語っている。 |
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八畳石のいわれは上記の看板に書かれている。一回り写真に写し、その上に登ってみたが、さすがに広い。 石の種類は安山岩 高さ3メートル 石の上の平佐は50平方メートル |
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石の上 | |