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平成26年8月10日オープン
平成26年8月10日 記
西行など空海の足跡を慕う、歌詠みもおり、自分も空海とはどんな人であったか、神話に近い人なのか以前より漠然としたものがありました。天才か鬼才か神の子なのか漠然とした概念を一度整理してその中から何か得られることがあればと、ここでとりあげてみました。短歌とは直接関係ないけれど、人の生き方,高僧の生き方を通して歌詠む糧になればと思います。
沼津には臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師生誕の地で、いろいろこのHPでも紹介しています。親鸞は静岡新聞の小説で大方の理解はできた気がしています。さて空海とはどんなかたかな。
歌は詠まれていないようけど
昭和46年購入の本、西田幾太郎『善の研究』を詠む。終活ではないけれど、本の片づけをしていると、いまだに残っていた西田幾太郎の日本の名著第47巻 「禅の研究」の本の購入日が昭和46年11月26日と書かれてある。若き頃の青春の心意気であろうか,読んだ形跡ははあるが途中であきらめたものらしい。あらためて少し読んでは見たが全然わからず、解らないのもしゃくなので、ここに少しづづ整理をしてみようと思います。歌人とは詩人であり、思想家であり、哲学者(どういう人か漠然と)でもある、ありたいと心の隅に記憶しているものがある。どうでもよいと思いつつも知的好奇心を捨てる気持ちになれぬ自分の性がいじらしい。
以上は短歌のページに載せていた時のコメント
内容が増えてきたため、今回ページを別にする 平成29年8月30日
☆||仏教について||空海||白隠と臨済宗||般若心経||近場の仏教美術館ほか||
☆||鎌倉ぶらり||
☆||日本国憲法について||
☆||西田幾太郎の「善の研究」||
||仏教体系||仏教とは何か||お彼岸について||本尊とは||
西行、空海、など仏教と日本の歴史は短歌の世界でもある程度の知識が必要に感じられます。万葉集、百人一首、古今集、古今和歌集の登場人物、時代背景も仏教が基本になってはいないか。そんなことからネットで必要と思われる仏教体系を取り上げてみました。奈良時代、平安時代、鎌倉時代の歴史の中でも色々な宗派が出てきています。沼津の梅の紹介でも、大中寺は臨済宗妙心寺派であり、我が家のお寺さん(大聖寺)も同じ派です。修善寺は梅、紅葉で紹介していますが、修禅寺は空海が開祖です。(中国にわたり、その時に土木の技術も取得したようで、温泉を発見したり土木関係の貢献があったようです)。富士の岩本山は梅、桜の名所で紹介していますが、そこの実相寺は日蓮宗の大きな寺がありました。先日三嶋の妙法華寺に始めて梅見にでかけましたが、そこも実相寺と同じで、日蓮の像があり、徳川家康の側室お万の方のお手植えの松がありました。こんな訳でとりあえずまず概略から取り上げていきます。
聖徳太子と仏教
日本の仏教は、聖徳太子(574~622)によってその基礎が据えられたとされる。太子は、仏教思想を非常に深く受容し、これを治世にも活かしたといわれている。太子はまた、法隆寺や四天王寺などを建立している。
奈良仏教
遣唐使によって唐から輸入された学問仏教が奈良の諸大寺院で学ばれた。これは一口に南都六宗といわれており、三論・成実・倶舎・法相・華厳・律の6宗をいう。このうち法相宗とは、インドに由来する唯識教学を研究する学派で、今日、興福寺と薬師寺を二大本山とし、その伝統を伝えている。また、華厳宗は、東大寺を大本山とし、中国の賢首(げんじゅ)大師法蔵が華厳経に基づき大成した華厳教学を研究する学派である。東大寺には、752年、華厳経の教主・毘盧遮那(びるしゃな)仏をかたどる大仏が建立され、東大寺を総国分寺とする国分寺の組織も整備された。総じて、奈良仏教は、鎮護国家的性格を有していた。なお、754年、唐から鑑真(688~763)が来朝し、授戒の制を確立した。鑑真の開創した寺院が唐招提寺で、今に律宗を伝えている。
平安仏教
●天台宗
天台宗の開祖は、伝教大師・最澄(767~822)である。最澄は天台教学を究め、さらに密教と禅と律の伝授も受けて帰朝し、806年、円(天台教学)・密・禅・戒・の四宗を綜合する天台法華宗を開創した。天台教学は法華経に基づくものであり、あらゆる人々は仏となる困(仏性)を有しているという一乗思想のほか、三諦円融(さんたいえんにゅう)の教え、一念三千の教えなど非常に高遠な思想を有している。と同時に、心を統一しつつ自己と存在の実相を観察する“止観”を中心とした実践行も重視し、教観双修を標榜する。天台宗には、峰々を毎日歩きまわる回峰行、長い年月山に籠る籠山(ろうざん)行など極めて厳しい行が伝わっており、今に、これを修する人が絶えない。なお、最澄は戒に関して特に大乗の立場での戒を主唱し、日本仏教における戒観の基礎を築いたことも忘れることはできない。このほか日本の天台宗はもとより密教を含んでいたが、その後真言宗の影響を受けたり、円仁(794~864)、円珍(814~891)が出てさらに密教化し、真言宗の東密に対し台密と呼ばれる密教を栄えさせた。
天台宗の総本山は比叡山延暦寺である。天台宗からの分派としては、円珍門下の余慶が三井の園城寺に拠ったところから始まる天台寺門宗、戒称一致(大乗円頓戒と称名念仏を統合)の教学を唱えた慈摂(じしょう)大師真盛(しんせい)による天台真盛宗などがある。なお、戦前、四天王寺や鞍馬寺、浅草寺は天台宗に編入されていたが、戦後いずれも独立して一派を形成した。
●真言宗
真言宗の開祖は弘法大師・空海(774~835)である。空海は唐で恵果より真言密教を学び、ことごとく秘法を伝授されて帰国し、真言宗を開いた。823年には、嵯峨天皇から東寺を賜って皇城鎮護の道場とし、835年、高野山で入定(入寂)した。この間、布教活動とともに福祉的活動や橋をかけるなどの社会事業にも尽力した。密教というのは、歴史上の釈尊が説いたとされる顕教に対するもので、法身仏(いわば絶対者)である大日如来が、直接説いた教えという。生きとし生けるものは、宇宙の根源的な生命である大日如来の顕現であり、我々も身・口・意の三密行の実践により即身成仏することができると説く。そのほか具体的な行として阿字観などがあり、また諸尊の加護を求めて加持祈祷がしばしば修される。曼茶羅は密教の悟りの世界=宇宙の大生命を象徴的に図画でもって示したものであり、かつ現実世界がそのまま理想世界であることを示すものである。また、高野山は、弘法大師・空海の入定の地であり、大師の救いを信じて南無大師遍照金剛と唱える大師信仰の中心となった。この高野山金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗は真言宗団の中でも最大の宗団である。また、真言宗は皇室と緑が深く、大覚寺、仁和寺等の門跡寺院が多くあり、それぞれ一派を形成している。
12世紀には、覚鑁(かくばん)(1095~1143)が出て密教と高野山の復興につとめた。覚鑁は金剛峯寺と大伝法院の座主を兼任するなどしたが、金剛峯寺勢力と折り合わず、高野山を離れて根来(和歌山県)に本拠を置いた。その後、頼瑜(らいゆ)(1226~1304)が出て大伝法院を根来に移し、新義真言宗として独立した。根来寺が豊臣秀吉に焼かれると、専誉(せんよ)と玄宥(げんゆう)の二人の能化は、それぞれ大和長谷寺、京都智積(ちしゃく)院に移り、現在の真言宗豊山派と真言宗智山派の基を据えた。
鎌倉仏教
鎌倉時代には多くの宗派が生まれている。平安末から鎌倉時代にかけては政治の実権が貴族から武士へと移る転換期であり、その一方、天災・飢饉・戦乱などによって民衆の苦悩は深まっていった。しかも仏教史観によれば、末法の時代でもあった。そうした中で貴族階級中心の平安仏教に代り、民衆の救いへの願いに応える仏教が生まれたのであった。
●浄土宗
浄土宗系の教団で宗祖とされている法然(1133~1212)は初め比叡山に上り、次に南都に遊学し、諸宗の奥義を究めたが満足できず、ついに中国の善導大師の『観経疏』の一文に触発されて、専修念仏を唱導する浄土宗を開創した。すなわち、この末法の時代には阿弥陀仏の御名を称えることによって極楽浄土にひきとっていただき、そこでやがて悟りを開く方がふさわしいと、専ら念仏の易行のみを修する立場を選択したのであった。この他力易行としての念仏は、愚人、悪人こそが救われる道として、当時の民衆に大きな影響を与え、法然のまわりには貴族から遊女らに至るまで集まった。しかし、従来の諸宗は伝統的な仏教を否定するものとして反発し、朝廷に念仏停止(ちょうじ)の令を発するように働きかけた。結局、法然は、土佐(実は讃岐)流罪に処せられ、高弟らも、死罪や流罪に処せられた。
現在の浄土宗は、法然の高弟のうち特に九州地方で活躍した弁長(1162~1238)の鎮西流を中心とする宗派である。第3祖の良忠(1199~1287)は主に関東を中心に伝道しその門下からさらに全国に弘まった。法然の高弟の一人証空(1177~1247)の門流は、現在、西山三派といわれている。
●浄土真宗
浄土真宗の宗祖は親鸞(1173~1262)である。親鸞は初め比叡山で修行に励んだが、29歳の時、京都六角堂に参籠したおり、聖徳太子の夢告を得て、法然の下に参じたといわれる。やがて法然の高弟の一人となり、法然が四国流罪とされたときには越後流罪に処せられた。その後、関東で教えを弘め、晩年には京都に帰ったが、手紙(消息)により関東の門弟を指導し続けた。親鸞は、法然の唱導した浄土門の念仏の教えこそ真実の教え(=浄土真宗)であると考えていた。もっとも親鸞の立場はむしろ信心に徹底し、信が定まったときに必ず仏となる者の仲間(正定聚という)に入る、すなわち、浄土往生以前にこの世で救いが成就する(現世正定聚)とされた。しかもその「信心」も「念仏の行」も、如来より施与(廻向)されたものとされ、絶対他力の教学を完成した。晩年には自然法爾(じねんほうに)と述べている。なお、親鸞は妻帯も仏道を妨げないことを唱え、非僧非俗と称し、出家教団とは異なる教団を形成した。
現在、真宗教団で最も大きなものは浄土真宗本願寺派(西)、真宗大谷派(東)の東西本願寺教団である。本願寺は元来、親鸞の廟堂(びょう‐どう・・・霊を祭るところ )であり、親鸞の子孫が管理した。三代覚如(1270~1351)の時、本願寺となり、第8代の蓮如(1415~1499)は活発に布教活動を展開し、今日の大教団の基礎を築いた。なお、東本願寺は、徳川家康が当時現職を離れていた教如(光寿)に施与したもので、それ以前からあった本願寺を西として、東西両本願寺が並び立つこととなった。
補足
誤った考え
本願ぼこり 阿弥陀如来は悪人こそ助けてくれる。だから悪いことをしてもかまわない。
造悪無碍 悪を造ることを恐れず、何をしても構わない。ことさら悪いことをするならそれは自己正当化である
賢善精進 善いことをすればするほど救われる 他力よりも自力をたのむおごり
真の信心の人をば如来とひとしと申す
浄土の往生が定まればその地で仏となる未来が約束されたということ
阿弥陀仏ただ一筋に生きよ
だだし、神祇不拝というかたくなな姿勢とは違う。本願は全ての人を救いたいという願いだから善人悪人を選ばない
そのほか浄土系の宗派の代表的なものとして融通念仏宗と時宗の二宗がある。
●時宗
時宗の開祖は一遍(1239~1289)である。一遍は証空門下の聖達に学び、後に熊野本宮で神勅を得るなどして自らの教学を形成した。一遍は捨聖(すてひじり)といわれ、遊行(ゆぎょう)をこととし、彼の門弟も一遍に従って諸国を遊行した。また念仏を称えた人には算(さん)という念仏の札を与えた(=賦算)。その宗団は、初め、時衆と呼ばれ、室町時代にかけて大きく成長した。清浄光寺(遊行寺)が総本山である。
●禅宗
鎌倉時代に成立した禅宗に、臨済宗と曹洞宗がある。
臨済宗は中国で成立した禅の一派で、禅匠臨済義玄の禅風を伝える宗派である。日本には栄西(1141~1215)が宋より伝えた。ただし、現在に伝わる臨済宗各派のほとんどは、鎌倉末期から室町期に活躍した大応国師(南浦紹明 なんぽじょうみょう)、大燈国師(宗峰妙超 しゅうほうみょうちょう)、関山慧玄といういわゆる応燈関の流れである。さらに江戸時代には白隠(はくいん)(1685~1768)が出て、これを中興した。禅とは精神統一の状態を意味する禅那(ぜんな)の語に由来する。すなわち、坐禅を組んで精神統一の状態に入り、自己の本性を見徹し、悟りを開くことを目的としている。その悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で心から心へと伝えられる(不立文字 ふりゅうもんじ、教外別伝 きょうげべつでん)、という。また、古来、禅僧には、その悟りの立場から発する奇抜な言動が禅問答として遺されているが、それらは後に禅の学人にとって自らの修行を深めるよすがとして活かされるようになった。これを公案(こうあん)という。白隠禅は公案による禅修行を主体としている。
臨済宗の中で最も大きな宗団は臨済宗妙心寺派である。妙心寺の開山は関山慧玄(1277~1360)で、室町時代に雪江宗深によって全国的な広がりをもつ一派となった。その他、主な大本山とその開山を挙げると、建仁寺は栄西、南禅寺は無関普門(1212~1291)、天龍寺は夢窓疎石(1275~1351)、大徳寺は宗峰妙超(大燈国師)(1282~1337)、建長寺は蘭渓道隆(宋1213~1278)、円覚寺は無学祖元(宋1226~1286)、また、相国寺は夢窓疎石を開山、春屋妙葩(みょうは)(1311~1388)を二世とし、各本山ごとに宗派を形成している。
臨済禅は武士階級に好まれ、また、絵画(水墨画)、演劇(能)、茶道等、中世の文化に非常に大きな影響を与えた。
なお、江戸時代、明の禅僧・隠元(いんげん)(1592~1673)によって臨済禅がもたらされたが、現在、黄檗宗として伝えられている。京都宇治の黄檗山万福寺を本山としている。
曹洞宗は、やはり中国の曹洞宗の禅を、道元(1200~1253)が入宋して伝えたものである。道元は初め、比叡山に上り修行し、その後、栄西にまみえて禅を修するようになった。さらに宋に渡って禅宗諸師に遍参し、ついに天童如浄の下に、「身心脱落(しんじんだつらく)、脱落身心」と大悟し、印可を受けた。帰朝したが、旧仏教の圧迫を受けたり、幕府にも受け入れられなかったりしたため、越前に移り、永平寺を開き、弟子の育成に尽力した。
曹洞禅は臨済禅と考え方がやや異なり、公案は用いず、只管打坐(しかんたざ)、ただ坐るということを重んじている。坐禅は仏のはたらき、仏の活現に他ならないということで、これを「本証の妙修(ほんしょうのみょうしょう)」という。また、曹洞宗では、「行持綿密」、「威儀即仏法」といって日常生活の微に入り細にわたって綿密な規定がなされている。
道元の家風は、極めて厳格で、格調の高いものであり、一般に広まる性格のものではなかったが、その門下の第四祖、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)(1268~1325)が禅を大衆化し、現在の大教団の基礎を築いた。瑩山紹瑾は、石川県の能登に総持寺を開創したが、これは明治に入って火事にあい、横浜の鶴見に移っている。現在、曹洞宗は福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制をとり、道元を高祖、瑩山を太祖として尊崇している。
●日蓮宗
日蓮宗は、日蓮(1222~1282)を宗祖とする。日蓮は初め、清澄(きよすみ)山に登って仏教を学び、後、比叡山で天台教学を究めるなどし、故郷(千葉)に帰り、建長5年(1253)、清澄寺で南無妙法蓮華経と高唱したのが開宗とされる。その後、鎌倉を中心に布教活動を展開し、幕府に対して法華経に帰依すべきことを訴えたが聞き入れられず、そのことにより数々の法難を受けた。佐渡に流されるが、やがて許されると身延(みのぶ)山に入り、そこで専ら法華経の宣揚と道俗の訓育に当たった。7年間ほどして病いを得て身延山を下り、常陸に療養に向かう途中、立ち寄った池上で示寂した。
日蓮宗では、南無妙法蓮華経の題目(経の題名)を唱える唱題を説くが、それは、法華経こそが釈尊の悟りのすべて、すなわち宇宙の実相を表しており、しかも「妙法蓮華経」の題目は、単に名称ではなく、法華経の説く内容、つまり仏陀の証悟の世界そのものである、と日蓮が見出したからである。なお、日蓮は、南無妙法蓮華経を中心に、諸仏諸尊を回りに配した図によって末法の衆生を救済するという釈尊の本壊をを顕わしたが、その図顕の大曼茶羅(まんだら)も本尊として礼拝の対象としている。
現在、日蓮系の教団には、身延山を祖山とし、池上本門寺に宗務院を置く日蓮宗を初め、顕本法華(けんぽんほっけ)宗、法華宗(本門流・陣門流・真門流)、本門法華宗等々、種々の宗派がある。ここには、法華経に対する解釈の相違が介在している。なお、日蓮の寂後、身延の御廟は日蓮の定めた六老僧が管理したが、その中の一人、日興(1246~1333)の流れを汲むのが日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)であり、富士の大石寺に拠っている。
仏教とは読んで字の如く"仏(ほとけ)の教え"です。
では仏(ほとけ)とは何でしょう?
ご存知のように、仏教の開祖は釈迦(しゃか)です。
釈迦はインドのシャカ族の王子でその名をゴーダマ・シッダルタといいましたが、出家し、菩提樹の下でこの世の真理に目覚めました。
釈迦は弟子たちから"釈尊"、"ブッダ"と呼ばれていました。
"ブッダ"とは"目覚めた人、真理(この世の道理)を悟った人"という意味になります。
仏の字は"ブツ"と読みます。もともとはインドの言葉であった"ブッダ"という言葉を漢字に当てはめ、仏陀と書いたのが"ほとけ"の始まりです。
釈迦が悟った真理は永遠不変の真理であるから、釈迦が出現する以前にも"仏(真理を悟った人)"はいるはずであり、また釈迦以後においても仏が出現する可能性があります。
釈迦は仏の一人にすぎず、仏教(仏陀の教え)とは、諸仏の教えなのです。
仏教には「仏陀の教え」と「仏陀になるための教え」という2つの側面があるのです。
つまり仏教は、仏陀の教えを学びそれを実践し、私たち自身も仏になることが期待されます。
では釈迦が悟った真理とは何か?
釈迦が菩提樹の下で悟ったのは「縁起」の理法であったとされます。
釈迦はこの世の真理について次のように分析しました。
諸行無常(しょぎょうむじょう)・・一切の形成されたものは"無常"である。
この世に形あるある全てのものは、同じ状態を保っているものはない。
不定であり、たえず変化している。
諸法無我(しょほうむが) ・・一切の形成されたのものは"無我"である。
この世に形ある全てのものは、私でもなければ、私のものでもない。実体はない
・・・(涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)・・・ここまでが三法印)
一切皆苦(いっさいかいく) ・・一切の形成されたのものは"苦"である。
この世に形ある全てのものは、望んでも得られない、私の思うようにならない避けられない、苦しみである。
それは"いかなるものごとも独立して存在するのではなく、それぞれの原因と条件が相互に依存しあって存在している"からであり、自然の摂理によるところであると説いたのです。
これを 衆縁和合(しゅえんわごう)="縁起(因縁生起)"といいます。
釈迦は"人生は苦である(生きていくことは苦しみの連続である)"ことの原因は、そのすべてが「縁」によって「起こる」のであることを明らかにしました。・・・十二因縁 (じゅうにいんねん)
一つ一つが実体として存在しているものではなく、すべて縁によってあらわれてくるにすぎないと考えたのです。
この縁起の法が釈迦によって最もわかりやすく説かれたのが
「四諦(したい)」です。
一、 こは苦なり
二、 こは苦の生起なり
三、 こは苦の滅尽なり
四、 こは苦の滅尽にいたる道なり
「四諦」とは「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の四つ。
「苦諦」とは"苦"に関する真理、人生とは本質的に"苦"であると説く。
第二の「集諦」は"原因"に関する真理で、苦の原因を明らかにする。
第三の「滅諦」は、原因の"消滅"に関する真理で、苦の原因である煩悩の消滅が苦の消滅である、と説く。
そして最後の「道諦」は、"実践(修行)"に関する真理、つまりいかにすれば苦の原因を取り除けるか、を説いています。
釈迦は、絶妙のバランス感覚とも言うべき「中道(ちゅうどう)」を説きさらに、苦を消滅させるために八つの正しい道「八正道(はっしょうどう)」を教示しています。
一、 正見 (しょうけん・・・正しいものの見方)
二、 正思惟 (しょうしゆい・・・正しい思索)
三、 正語 (しょうご・・・正しい言語活動)
四、 正業 (しょうぎょう・・・正しい身体的行為)
五、 正命 (しょうみょう・・・正しい生活)
六、 正精進 (しょうしょうじん・・・正しい努力)
七、 正念 (しょうねん・・・正しい注意力)
八、 正定 (しょうじょう・・・正しい精神統一)
このような修行を積むことによって煩悩を克服し、その結果として"苦"を克服することができる、というのが釈迦の基本的な教えです。
"我ありと執着するところに迷い・苦の根源がある"。
“我思うゆえに我あり(デカルト)”と信じている、我さえもその存在を否定してしまうのだから、その我がもっている「苦」など存在しようがないのです。
これを釈迦は相手の理解力の程度や素質に応じて、臨機応変に説法の内容を変えて説きました。
「対機説法」「応病与薬」と呼ばれるやり方がこれです。
仏教の死後の世界観は基本的にインド人の考えたものです。
古代インド人は現世を六つの世界に分類し全ての世界は苦痛であるとしました。
(天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)
そしてこの六つの世界を"六道"と呼び、人はこの六道を生まれ変わり死に変わりして輪廻転生を続ける、つまりわれわれは死後六道のいずれかに再生し、そこで苦しみまた輪廻転生して苦しみを続ける、といった、永遠に苦しみを続けねばならぬ存在であると古代インド人は考えていました。
そこで仏教はこのような輪廻転生の世界から永遠に脱出することを目指したのです。
この輪廻の世界への執着を断ち切って、この世から完全に脱出することを釈迦は教えました。
その脱出を「解脱(げだつ)」と呼び、解脱した状態(そういう世界ではない)を「涅槃(ねはん)」と呼びました。
釈迦は霊魂の有無、死後の世界という経験も論証も不可能な問題は、「無記」(むき・・善とも悪とも記述・説明がつかないこと)として退けたのです。
これは有名な「毒矢の喩え」によって一層明らかになります。
毒矢に射られた人が、矢を射た者はどこの種族か、名前は、弓の種類は、弦(つる)はなんの弦か、矢鏃(やじり)・矢の幹・羽はどんな種類のものから作られたか・・とそれが分からない間は毒矢を抜かずにいるとしたら、彼は毒がその間に体中にまわって死んでしまうだろう。
彼にとっては、毒矢を抜くことが生命を永らえる一大問題なのである。
霊魂の有無・滅不滅の問題を考えるよりも、先決問題であり一大事たる人の生きるべき真実の道を明らかにすべきである、と釈迦は教えたのです。
インドの地に釈迦が出現して仏教が創始されましたが、その仏教が日本に伝来してくるまでに千年以上の時間がたっています。
仏教は、インドから中央アジアを通って中国朝鮮へと伝わり、日本へ入ってきました。
その時間と空間の中で仏教は、大きな変化を遂げ、多種多様な仏教が成立しました。
日本において仏教は、その定着化の過程のなかで、在来の民間信仰に意味付けを与えて、積極的に仏教体系のなかに組み入れてきたといえます。
葬送儀礼は、中世以降、積極的に仏僧が葬儀に関与したために、仏教葬が基本的葬法となり、先祖供養の習俗が一般化して今日に繋がっています。
しかし日本仏教は系譜の上からはインド仏教、中国仏教につながってはいるが、教義レベルからでなく生活レベルから見るならば、日本の精神風土の土壌のなかで、在地の信仰・習俗と習合し、日本民族が育て上げた独自の宗教となっています。
したがって、表面は仏教信仰となっていても、その体系下に在来の信仰・習俗が息づいているのです
新聞にお彼岸についての記事がありました。「牡丹餅」と「おはぎ」、六波羅蜜についての内容でした。<仏教とはなにか>で「四諦(したい)」について書かれていましたので、関連して六波羅蜜についてまとめてみました。
四諦をもう少し解かりやすく解説してあったものがありましたので、再度のせました。
四諦(したい)は、釈尊の最初の説法から入滅まで、一貫して説かれた人生の真理の教えである。人生の悩み苦しみを根本的に解決し、釈尊と同様の悟りに至らせるための方法論ともいえる教え=「苦しみを解決する方法を説いた教え」が四諦である。
苦諦(くたい) 人間の歴史が始まってからこのかた、一貫して人間が行なってきたことは、苦しみからのがれる努力だった。苦しみを苦しみと感じなくするにはどのような方法があるかということが問題になるが、それが苦諦であり、つまり、人生は苦であると悟る=諦ることである。
集諦(じったい) 集諦の集は<集起(じゅうき)>の略で、原因という意味である。見かけは簡単なものごとでも、その奧を探ってみると、いろいろな作用が集まって起こっており、それゆえ、ものごとの原因を集起という。生苦にも必ず原因がある。その原因を探求し、反省し、はっきり悟らねばならぬと釈尊は説いており、その悟りを集諦というのである。欲望は本能であり、善悪以前に自然なものであると釈尊は説いているが、その欲望を必要以上に増大させると、回りが見えなくなり、知らず知らずに自分中心のものの見方に陥ってしまい、それがあらゆる苦しみ・不幸の原因となるのだと教えられている。
滅諦(めったい) 集諦によって、苦の原因は人間の心の持ち方によるのだということがわかり、「心の持ち方を変えることによって、あらゆる苦は必ず消滅するものである」ということになる。このことが 滅諦の悟りである。
道諦(どうたい) つまり、ほんとうに苦を滅する道は、苦からのがれようと努力することではなく、正しくものごとを見、正しく考え、正しく語り、正しく実行し、正しく生活し、正しく努力し、正しく念じ、正しく心を落ち着かせることであると教えられた。 そうすれば、苦は自然と消滅してしまうというのである。
六波羅蜜(ろくはらみつ)
波羅蜜とは、サンスクリット語のパーラミターのことで、「究竟(くきょう)する」「彼岸に至る」「渡る」ということである。「究竟」というのは、真理を究め尽くし、仏道修行を完成した境地のことをいう。
布施(ふせ)
布施とは、一般的には第一に「他人に物を施すこと」、第二に「僧に財物を施すこと」 という意味であるが、仏教的には次の3種類がある。
財施・・・財の布施。他人にお金や物を施すこと。募金活動など。
身施・・・身の布施。他人に身体を使った労力を施すこと。清掃奉仕など。
法施・・・教えの布施。他人に仏の教えを施すこと。説法すること。
なお、これらの施しを行なうときにはある動機が必要不可欠であり、それは、一切の見返りを求めず(そういう心を持たず)、他人の幸せを心から祈るということである。つまり、ギブアンドテイクでは決してないということである。
そして、この3つの布施の中で最も尊いとされるのが法施である。もちろん、財施も身施もいわゆる人助けとしては尊い行ないであるし、奨励されるべきことには違いないのだが、ややもすると、募金も奉仕も、それを受ける人にとっては、
一時しのぎに終わってしまう可能性もありうる。
そこで法施が重要になるのである。
開発途上国などに対し、医療費や食料を援助するのは、人間として大事な行ないであるが、それに加えて、田畑の開墾の仕方や農作物の育て方などを伝授することができれば、当地の人びともいつか自立できる日がくるというものである。すなわち、人の幸せを祈願して行なうということが成り立って初めて布施といえるのである。
持戒(じかい)
持戒とは、身を慎むということである。特に、布施を行なうことによって、ややもすると 驕り高ぶってしまいそうになる気持ちを慎み、布施させていただけたそのこと自体に 感謝できる心になることが大事である、ということを説かれたのが持戒であるとも 解釈できる。
忍辱(にんにく)
忍辱とは、他に対して寛容であり、どんな困難をも耐え忍ぶということである。持戒によって、歯を食いしばって教えを守るというたんなる忍耐ということではなく、そこに寛容さを兼ね備えることが忍辱の教えるところである。
精進(しょうじん)
精進とは、たゆまず純粋に努力することをいう。一時的な持戒、ある一時のみの忍辱ではなく、一心不乱に継続して努力することこそが精進の本来の意味である。
禅定(ぜんじょう)
禅定とは、どんなことが起こっても迷ったり、動揺したりせず、静かな精神を保ち、常に真理に心が定まっている状態をいう。継続して行なう精進も、常に落ち着いた心で行なうことが大事であると説かれる。
智慧(ちえ)
智慧とは、真理を見極め、真理によって判断、処理できる能力をいい、仏教徒が目指す最終到達点であり、仏の智慧ということである。仏教でいう智慧とは、単なる知恵(知識)ではなく、真理を認識しているということが大前提であるとされる。
以上の「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」が、六波羅蜜であり、人を救い世を救えるような理想的な人間になるためには、どれも欠くことのできない条件である。特に具体的なのは布施であり、できることから少しずつ実践し、仏の境地へ一歩でも近づいていこうと、仏教では教えている。
お寺さんに付け届け、布施を年に4回お渡ししているが、このへんが以前より疑問に思っていたのですが、これで解消された気には未だなりません。彼岸には仏様を偲び御参りすることは生活習慣として当然のように育ってきましたし、こういった節目が無いと墓参りに行くことがなく、意味のあることと思います。牡丹餅を食べるのも好きです。六波羅蜜の行き着くところはこの世(此岸)から、(彼岸)生死を超越した悟りの境地を目的とした生き方ではないか。お彼岸にあたり、色々勉強になりはしました。
春・・・越冬した小豆を使うのでこしあんにして「牡丹餅」(ボタンの咲く時期なので形状は丸)
秋・・・収穫して間もない小豆を使うのでつぶあんにして「おはぎ」(萩の花に似て形状は楕円形)
葬式、法事でお寺さんに行くのですが、宗派により本尊、お経が色々違いこの辺がすっきりしない。
一度整理しなければと思っていました。我が家は臨済宗妙心寺派ですがその中でも色々な宗派に分かれているようです。
以下は色々なHPで検索し、載せています
仏教はインドのお釈迦様によって説かれ、その後、二千五百余年もの長い時をかけ、また数多くの人々により中国・朝鮮とわたり日本に伝えられました。 そして、その時代の流れのなかで姿を変え、形を変えながら今日のようなさまざまな宗派が生まれました。 しかし、すべて宗派の根源はお釈迦様であり仏教の根本的な考えはみな同じなのです。 時代の中でそれを受け入れた宗祖の考えや教義に合わせてご本尊様も宗派により違いが生まれましたが、ご本尊様はそれぞれの宗派の象徴であり、重要な意味をもっています。
お仏壇の中心にはご本尊様をお祀りします。
わたしたちの住む家には、そこに住む人たちの心のよりどころの場というものが必要です。お仏壇はご先祖をお祀りするだけでなく、その家の信仰する宗派のご本尊様をお祀りするところでもあります。仏教では、常にご本尊様が信仰の対象となりますから、必ずお仏壇の中心にご本尊様を安置します。お仏壇に向かって祈念することは同時にご本尊様に礼拝することになり、人の心は慰められ生きていく力をいただくことができるのです
以上が某仏壇販売の記述があり、それ以上は色々調べてもすっきりしない。そこでどんな本尊があるかを調べてみました。
大日如来 だいにちにょらい
大日如来は金剛界と胎蔵界の二種類があります。図は金剛界の大日如来です。胎蔵界の大日如来は手の位置と形(印相)が違います。金剛界は智拳印、胎蔵界は法界定印です。
大日如来~密教(真言宗)にのみ登場する特殊な如来で最高仏。宇宙そのもの。すべての仏像は大日如来が時と場所を超えて変化した姿とされている。仏の中の仏。真言宗のお寺なのに本尊が大日如来じゃなく、釈迦如来や薬師如来だったりする場合があるけど、それは結局どの如来に手を合せても、真の姿は大日如来になるからだ。大日如来を中心に宇宙の構造を図で示したものが曼荼羅(まんだら)。大日如来は坐像しか彫られていない。別名、毘盧遮那(びるしゃな)如来で奈良の大仏はコレ。
薬師如来 やくしにょらい
左手に薬壷を持って、右手の薬指が前に出ているのが特徴です。奈良時代に作られたものは、薬壺を持たないものもあります。如来の中で、物を持つ如来は薬師如来だけです。人々の病に応じて薬を施し救う仏様です。通称は「お薬師様」ですが、薬師瑠璃光如来やくしるりこうにょらいと言います。左手に薬壺(やっこ)を持っており、身体と心の病気を癒してくれる。阿弥陀の次に悟りを得た如来。薬は生きている者だけに役立つことから、阿弥陀如来があの世の象徴であるのに対して、薬師如来は“生
”の象徴とされている。
仏界の東方浄土を7人の薬師仏で治めているので、代表の薬師如来は背後に背負っている光背(こうはい)に6体の化仏をつけている。見ているだけで病気がスッと治るような有難さを持った、そんな薬師如来
阿弥陀如来 あみだにょらい | |
極楽へ往生させてくれる。釈迦と同じインドの王子だが、悟ったのは釈迦以前。現在は極楽浄土の主。阿弥陀(極楽)には多くの仏がおり、その阿弥陀仏軍団のリーダーが阿弥陀如来。臨終の際に名を唱えれば、極楽から弟子の菩薩たち(25人)を従えてお迎えに来て下さる。仏界の西方を治める。 (南無阿弥陀仏の「南無」は“おまかせします”という意味) ★阿弥陀如来の印相~親指と人差し指でOKを作っている。 ★阿弥陀如来の脇侍~勢至(せいし)&観音菩薩。 ・勢至菩薩…智恵の仏。水瓶(すいびょう)を持っていて、中には汚れを払う霊水が入っている。 |
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釈迦如来(釈迦牟尼仏) しゃかにょらい | |
お釈迦様は装飾品を付けていないのが特徴です。また誕生仏は上半身裸の子供の姿で、右手で天を左手で地面を指しているのが特徴です。釈迦如来~悟りを開かせてくれる。本名ゴーダマ・シッダールダ。B.C.500ごろインド北部の釈迦国に生まれた王子。29才で王位の継承を放棄して出家、35才で悟る。80才で死ぬまで説法を続けた。座っている像は人々を救う方法を考えておられる姿、立っている像は人々を救おうと立ち上がった姿だ。坐像と立像ではこうした内面の違いがある。 | |
弥勒菩薩 みろくぼさつ | |
菩薩とは、本来悟りを求める者、すなわち修行者の意味です。修行者は、本来は僧侶なのですが、多くの菩薩像は僧侶の姿とは異なります。(地蔵菩薩の場合は僧侶の姿をしています。) 釈迦の次に如来になることが約束されている人物で、56億7千万年後に世界を救いにやって来る。現在どのように人々を救おうかと、菩薩としては例外的に瞑想中。仏教思想では世界の中心に須弥山(しゅみせん)という山がそびえ(高さ1億2千480万km!)、上空の兜率天(とそつてん)に彼がいることになっている。 |
天台宗
教え(御本尊 釈迦如来・阿弥陀如来・観世音菩薩)
久遠実成無作(くおんのじつじょうむさ)本仏釈迦如来・阿弥陀如来・観世音菩薩など教えすべての人、生物、存在には仏になる可能性があると教えています。
お唱えする言葉
「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛(なむしゅうそこんぽんでんきょうだいしふくじゅうこんごう)」ですが、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
主な教典
法華経、大日経、金剛経、蘇悉地経(そしつじきょう)、梵網菩薩戒経(ぼんもうぼさつかいきょう)、仁王般 若 経、阿弥陀経、観無量寿経、無量寿経
真言宗
教え(御本尊 大日如来)
「即身成仏」を教えの根幹にしている。これは密教の修行の実践により、誰でもただちに仏になることがで きるという教えです。
お唱えする言葉
「南無大師遍照金剛」 なむだいしへんじょうこんごう
主な教典
大日経、金剛頂経、般若理趣経 はんにゃりしゅきょう
浄土宗
教え(御本尊 阿弥陀如来)
阿弥陀如来の救いを信じ、南無阿弥陀仏を唱えていると、心も体も清らかになり、人生を心豊かに生きぬ き、死後浄土に生まれて仏さまになることができるのです
お唱えする言葉
「南無阿弥陀仏」
主な経典
観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経
浄土真宗
教え (御本尊 阿弥陀如来)
(本願寺派)自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」
ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が浄土真宗の念仏なのです。
(大谷派)もともと本願寺派と歴史を同じくするわけですから根本は変わらないと思いますが教義解釈の表現に宗風の違いがあるようです。
阿弥陀の救いは阿弥陀仏と人間衆生との関係の中で表現されるわけですが、本願寺派は仏の側からの表現の傾向が強く、逆に大谷派は衆生の側からの表現傾向が強いように思われます。
お唱えする言葉
「南無阿弥陀仏」
主な経典
観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経、教行信証
臨済宗
教え(御本尊 釈迦如来)
人間が生まれながらに、だれもがそなえている厳粛で純粋な人間性をみずから悟ることによって、仏と寸分も違わぬ人間の尊さを把握するところにあります。
お唱えする言葉
「南無釈迦牟尼仏」
主な経典
般若心経、観音経、大悲呪
曹洞宗
教え(ご本尊 釈迦如来)
ただひたすらに坐禅を行うこと(只管打坐しかんたさい)を最も重要に考えます。 そして、坐禅の心とすがたで、日常生活を生きてゆく(即心是仏)ことを説きます。
お唱えする言葉
南無釈迦牟尼仏
主な経典
般若心経、観音経、法華経、修証義、正法眼蔵
日蓮宗
教え(御本尊 大曼荼羅 日蓮上人)
お唱えする言葉
法華経を日本に広宣流布した日蓮聖人の教説を通して法華経を理解し、実践してゆくのが日蓮宗です。法華経は本仏の声そのものであり、法華経の功徳すべてが「南無妙法蓮華経」の七文字にこめられていると日蓮聖人は考えました。そこで、「法華経の内容をすべて信じ帰依する」という意味の「南無妙法蓮華経」を唱えることを、何よりも重要な修行としています
お唱えする言葉
「南無妙法蓮華経」
主な経典
法華経(妙法蓮華経)
自分の家の宗派は臨済宗。(臨済宗にも更に多くの寺派があり、よく解からず、現在の臨済宗は中興の祖白隠禅とのこと)武家に指示され、枯山水、水墨画など自己の心を磨くものが受けていたのでは。
私は今まで無宗教で通してきたのですが(歴史上の宗教戦争をはじめ政治と宗教の関係に疑問あり)、自分の性格にかんがみて自然と山が好きで、枯山水、築山の真似事を庭で楽しむ性格は自然と臨済宗向きかと最近わかってきました。近くに白隠禅師生誕の地もあり、少し禅の道を歩こうかと考えています。我が家のお寺は大聖寺と言い、白隠禅師と関係があり(この辺は「沼津近郊のページ」の”白隠の里”で取り上げてある)。臨済宗を更に取り上げてみました。
中国で臨済宗を開いた臨済義玄(りんざいぎげん)を宗祖として仰ぎ、日本に臨済宗を開いた明庵栄西(みょうあんようさい)を開祖としています。しかし、栄西の系譜は早くに途絶えました。その後、中国からの渡来僧を開山とする多くの臨済宗寺院が建立されます。そして、現在の臨済宗のほとんどは江戸中期に修行体系を完成した白隠慧鶴(はくいんえかく)の系譜に属しています
釈迦牟尼仏
(ただし縁によっては、薬師如来や観世音菩薩などをお祀りすることもあります。)
臨済宗の教えは、人間が生まれながらに、だれもがそなえている尊厳で純粋な人間性をみずから悟ることによって、仏と寸分も違わぬ人間の尊さを把握するところにあります。もちろん禅宗ですから、坐禅を最も重視します。臨済宗の禅は、「看話禅」(かんなぜん)と呼ばれ、師匠が「公案」という問題を出します。弟子はこれを頭だけで理論的に考えるのではなく、身体全体で、理論を越えたところに答えを見いだします。そして、この結果を検証するのが参禅です。師匠と二人きりで対面した弟子が、見解を提示し、これを師匠が確かめるのです。
な む しゃ か む に ぶつ
「南無釈迦牟尼仏」
はんにゃしんきょう
『般若心経』
だいひしゅう
『大悲呪』
かんのんぎょう
『観音経』
はくいんぜんじ ざ
ぜんわさん
『白隠禅師坐禅和讃』
しゅうもんあんじんしょう
『宗門安心章』
宗 派 | 本 山 | 所 在 地 | 開 山 |
妙心寺派 | 正法山妙心寺 | 京都市右京区花園妙心寺町 | 関山慧玄 |
建仁寺派 | 東山建仁寺 | 京都市東山区大和大路通り | 明庵栄西 |
東福寺派 | 慧日山東福寺 | 京都市東山区本町 | 円爾弁円 |
南禅寺派 | 瑞龍山南禅寺 | 京都市左京区南禅寺福地町 | 無関普門 |
天龍寺派 | 霊亀山天龍寺 | 京都市右京区嵯峨天竜寺町 | 夢窓疎石 |
相国寺派 | 万年山相国寺 | 京都市上京区今出川通烏丸東入 | 夢窓疎石 |
大徳寺派 | 龍宝山大徳寺 | 京都市北区紫野大徳寺町 | 宗峰妙超 |
建長寺派 | 巨福山建長寺 | 神奈川県鎌倉市山ノ内 | 蘭渓道隆 |
円覚寺派 | 瑞鹿山円覚寺 | 神奈川県鎌倉市山ノ内 | 無学祖元 |
仏通寺派 | 御許山仏通寺 | 広島県三原市高坂町 | 愚中周及 |
永源寺派 | 瑞石山永源寺 | 滋賀県神崎郡永源寺町 | 寂室元光 |
国泰寺派 | 摩頂山国泰寺 | 富山県高岡市太田 | 慈雲妙意 |
方広寺派 | 深奥山方広寺 | 静岡県引佐郡引佐町 | 無文元選 |
向嶽寺派 | 塩山向嶽寺 | 山梨県塩山市上於曽 | 抜遂得勝 |
弟子が師匠から法を受け継ぐことを、特に禅宗では重視します。それは、仏教開祖のお釈迦さまの悟りを引き継いでいる、ということを大切にするからなのです。禅宗はお釈迦さまから二十八代目にあたる菩提達磨によって中国へ伝えられました。そして、達磨から六代目の六祖慧能、さらに慧能から五代目の臨済義玄に法が引き継がれ、中国に臨済宗が開かれました。日本に臨済宗をもたらした明庵栄西や、円爾弁円は中国へ渡ってこの教えの流れを引き継いだのです。さらに、中国から帰化した蘭渓道隆や無学祖元なども日本へ臨済宗を伝えました。
室町時代には武家の帰依を受けた夢窓疎石らによって臨済宗は発展を遂げ、建築や水墨画、文学などの禅文化が花開きます。また、大応国師、大燈国師、関山慧玄によって「応燈関の法灯」と呼ばれる系譜も形成されます。そして、江戸時代中期に白隠慧鶴によって現在に直接つながる臨済宗の教義が完成したのです。
臨済宗には多くの分派があり、飾りかたに相違があるので詳しくは菩提寺のご住職に相談してください。 仏壇の中央にはご本尊として釈迦牟尼仏をまつることが多いようですが、両脇は各派で違いがあります。 例えば妙心寺派の場合は向かって右に開山の無相大師の絵像を、左には花園法皇の絵像を飾ることが多いようです。 ※右の図は一例です。地域や仏壇の大小などによってまつり方に違いがありますので、正しくは菩提寺にお聞きください。 |
||臨済宗とは||白隠の生涯||白隠禅師坐禅和讃||般若心経||
宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。とくに室町幕府により保護・管理され、五山十刹が生まれた。その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。
達磨 | → | 南浦 紹明(大応) 宗峰 妙超(大燈) 関山 慧玄 |
→ | 至道 無難 | → | 道鏡 慧端 (正受 老人) |
→ | 白隠 慧鶴 (正宗 國師) |
→ | 東嶺 円慈 峨山 慈棹 |
公案体系
宋代以降公案体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。
公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。
主な宗派
建仁寺派
建長寺派
円覚寺派
南禅寺派
大徳寺派
妙心寺派
天龍寺派
私のHP気になる歌人・「仏教について」より抜粋
●禅宗
臨済宗は中国で成立した禅の一派で、禅匠臨済義玄の禅風を伝える宗派である。日本には栄西(1141~1215)が宋より伝えた。ただし、現在に伝わる臨済宗各派のほとんどは、鎌倉末期から室町期に活躍した大応国師(南浦紹明 なんぽじょうみょう)、大燈国師(宗峰妙超 しゅうほうみょうちょう)、関山慧玄といういわゆる応燈関の流れである。さらに江戸時代には白隠(はくいん)(1685~1768)が出て、これを中興した。禅とは精神統一の状態を意味する禅那(ぜんな)の語に由来する。すなわち、坐禅を組んで精神統一の状態に入り、自己の本性を見徹し、悟りを開くことを目的としている。その悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で心から心へと伝えられる(不立文字 ふりゅうもんじ、教外別伝 きょうげべつでん)、という。また、古来、禅僧には、その悟りの立場から発する奇抜な言動が禅問答として遺されているが、それらは後に禅の学人にとって自らの修行を深めるよすがとして活かされるようになった。これを公案(こうあん)という。白隠禅は公案による禅修行を主体としている。
臨済宗の中で最も大きな宗団は臨済宗妙心寺派である。妙心寺の開山は関山慧玄(1277~1360)で、室町時代に雪江宗深によって全国的な広がりをもつ一派となった。その他、主な大本山とその開山を挙げると、建仁寺は栄西、南禅寺は無関普門(1212~1291)、天龍寺は夢窓疎石(1275~1351)、大徳寺は宗峰妙超(大燈国師)(1282~1337)、建長寺は蘭渓道隆(宋1213~1278)、円覚寺は無学祖元(宋1226~1286)、また、相国寺は夢窓疎石を開山、春屋妙葩(みょうは)(1311~1388)を二世とし、各本山ごとに宗派を形成している。
臨済禅は武士階級に好まれ、また、絵画(水墨画)、演劇(能)、茶道等、中世の文化に非常に大きな影響を与えた。
●十牛図
悟りに至る10の段階を10枚の図と詩で表したもの。「真の自己」が牛の姿で表しているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者)の姿で表している。
作者は中国北宋時代の臨済宗の禅僧郭庵(かくあん) 内容はこちらで
近場のお寺や、我が家のお寺さんの紹介
大中寺(観梅で知る)
「開山は、夢窓国師です。しかし、夢窓国師以前から既にこの地には寺院が存在し、近在の古寺のもつ歴史と同じく、その当時は真言宗に属していました。密教系の仏である不動明王に、その頃の面影が偲ばれます。
夢窓国師は正和2年(1313)39才の時、現在地より北方4キロの愛鷹山中の山居という所に、弟子7~8人と庵を結んで修行されました。後世、その庵室を移して臨済宗の寺としたものが、現在の大中寺であろうと考えられています。」
「明治30年(1897)、大正天皇(皇太子御年18)がはじめて当山へお立寄りになり、寺中を逍遥されました。現在の梅園は、そんなふうにして御用邸からお成の皇室の方々のお慰めとすべく、翌31年春より梅数百株を植え、33年に完成したもので、以来、すでに百十年の歴史を閲してきたことになります。
玄璋和尚は『大中寺沿革誌』の中で、その築園の主旨を「人工を加えず、務めて造化の自然に順い、樹木は、之を剪栽(せんさい)、矯揉(きょうじゅう)することなく、他の奇木・珍石を蒐(あつ)めて希に誇り、異を衒(てら)うを学ばず唯、樹(う)えるに梅数百章(しょう)を以てするのみ」と言い、自然の風情を最大限に生かす庭造りを心がけました。
この和尚さまは、室号を吾愛吾梅庵(ごあいごばいあん)、自らを梅禅と号して漢詩にも堪能(かんのう)でした。またこの和尚さまの時代を中心に御用邸との格別の縁が結ばれ、
昭憲皇太后 9回
大正天皇 5回
貞明皇后 2回
昭和天皇 6回
の行啓を仰ぎました。」
大聖寺(我が家のお寺さん)
臨済宗 天瑞山 大聖寺(てんずいさん だいしょうじ)
宗 派 | 臨済宗 妙心寺派 別格地 | |
法類寺院 | 松陰寺 龍沢寺 龍泉寺 長興寺 | |
本 尊 | 行基菩薩作の香木観音菩薩像あり、戦災にて焼失す。 昭和51年本堂再建に際し、沢庵禅師記名の釈迦牟尼佛 坐像(阿弥陀印指)入佛落慶す。 |
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沿 革 |
文亀年間(約500年前)沼津仲町に創建、鎌倉建長寺より鏡山禅師を拝して開祖とす。 7代後北条氏の乱に遭い全焼。その後法脈中絶、真言宗に属したが天正12年災害により寺運衰退、慶長12年沼津城主大久保右衛門忠佐より境内外地9石8斗寄贈、清見寺より説心和尚を招き、中興開山始祖として妙心寺に転宗す。 宝永年間当時、名僧白隠恵鶴禅師は大聖寺の徒弟として、第5世息道和尚のもと、禅の修行の初一歩をふみだしている。 平成12年6月1日、足高霊園大聖寺別院に白隠禅師座像入山。 |
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平成26年新しい観音菩薩 |
***
平成27年10月11日 大聖寺 『白隠とその弟子墨跡禅画展示会』お寺さんより 『白隠とその弟子墨跡禅画展示会』 の案内があり、沼津足高霊園内 大聖禅堂にて大聖寺秘蔵の白隠とその弟子のにわか作りのミュージアムを開くとのこと。茶席、大正琴、沼津歌声の開も行事にあり、午後2時から大正琴と禅画を見てきました。以下にその様子を乗せました。
坐禅のCDもいただき、坐禅の雰囲気を味わいました。以下にその様子を載せました。
桐陽高校OBによる演奏 | |
「夢達磨」 白隠筆 |
達磨図 見性成仏 |
盆さん石山寺に云々 白隠筆 |
観音図 白隠筆 |
「老いては子に従う」白隠と弟子の遂翁との合作 |
寒山拾得図 遂翁筆 |
富士山図 東嶺( 白隠の後継者) |
東嶺禅師 |
東嶺禅師自賛の図 |
卓州筆 |
***
「白隠の里」の墓にある案内板に以下のように書かれている
白隠禅師は1625年12月25日駿河の国原宿(沼津市原)長澤家の三男に生まれ幼名を岩次郎と言いました。幼いころから聡明で6歳の時お寺にお参りして法華経の講義を聴き、帰ってから人々にその話を語って聞かせたといいます。15歳の時松陰寺で出家し「慧鶴」(えかく)と名付けられました。19歳の時諸国行脚の旅に出て美濃、四国、京都などで修業しました。そして五百年に一人の名僧と言われ臨済宗中興の祖と仰がれるようになりました。享保二年(1717)に松陰寺に入り住持となりその翌年白隠と号しました。白隠の名は全国に知れ渡り「駿河には過ぎたるものが二つあり。冨士のお山に原の白隠」とうたわれました。白隠はまた禅画に堪能で釈迦、達磨、観音などを好んで描きました。それらの禅画は松陰寺などに多数現存しています。明和五年(1768)12月11日84歳で入寂し後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(しごう)を、明治天皇より正宗国師の諡号を送られています。
「2014松籟の宴」が沼津御用低で行われ、その時に白隠禅画展が同時に開催。その時に『白隠とその時代』の本を千円で購入、その時の年賦を取り上げてみました。 町田瑞峯氏の資料、『白隠禅師墨蹟集』の年譜を合わせて載せました。
西暦 | 和暦 | 年齢 | 白隠の生涯 |
1685 | 貞享二 | 1歳 | 12月25日駿河の国原宿(沼津市原)長澤家の第五子・三男に生まれ幼名を岩次郎 |
1688 | 元禄一 | 4歳 | 小夜の中山の歌を暗唱、記憶力の旺盛さに驚く |
1695 | 元禄八 | 11歳 | 母に従って原宿昌原寺で日厳上人の「地獄の説法」に恐れる |
1696 | 元禄九 | 12歳 | 鍋冠り日親の人間浄瑠璃芝居をみて、法華経の威力に感嘆、出家を考える |
1697 | 元禄十 | 13歳 | 柳沢の八畳石に観音像を刻み修行する |
1698 | 元禄十一 | 14歳 | 徳源寺より句雙紙を借り、3か月で暗誦する |
1699 | 元禄十二 | 15歳 | 原宿松陰寺三世単嶺和尚について得度し 「慧鶴」と名付けられる (出家) |
1700 | 元禄十三 | 16歳 | 沼津大聖寺の息道和尚の下で修業する |
1703 | 元禄十六 | 19歳 | 大聖寺を辞し、清水禅叢寺衆寮に挂鍚する 雲水行脚にでる |
1704 | 元禄元 | 20歳 | 美濃瑞雲時の馬翁和尚に師事する |
1707 | 宝永四 | 23歳 | 国元に帰る。宝永山噴火に遭遇し、山川鳴動、堂屋鳴動するが一人坐禅を続ける |
1708 | 宝永五 | 24歳 | 飯山正受老人を訪ね、8か月間修行する 正受庵に挂鍚中、師匠息道の病の知らせで大聖寺に帰る |
1710 | 宝永七 | 26歳 | 病魔に犯され、洛東白河山中の白幽真人から内観の秘法を授かる 後に『夜船閑話』に著す |
1711 | 正徳元 | 27歳 | 新井の龍谷寺から佐倉の養源寺に行脚する 大聖寺息道和尚の看病につく |
1712 | 正徳二 | 28歳 | 息道和尚遷化 |
1715 | 正徳五 | 31歳 | 美濃厳瀧に籠山する |
1716 | 享保元 | 32歳 | 父病に臥すし、松陰寺に帰る |
1717 | 享保二 | 33歳 | 松陰寺の住職となる。父没。 |
1718 | 享保三 | 34歳 | 妙心寺(花園)第一座に転じ、白隠と号す |
1719 | 享保四 | 35歳 | 雲水に請われ『五家正宗賛』を講ずる 松陰寺に籠り坐禅、勉学に専念する |
1726 | 享保十一 | 42歳 | 法華経を詠んで深理に契当し、四弘誓願の菩提心を大悟し、大自在を得る |
1730 | 享保十五 | 46歳 | 比奈の杉山政女参ず。間門の金剛寺雲山和尚に称賛される |
1732 | 享保十七 | 48歳 | 松陰寺で『臨済録』『碧厳集』を提唱する |
1737. | 元文二 | 53歳 | 他山(伊豆河津の林際寺)の拝請で『碧厳集』を提唱、(各地の寺院からの招請が始まる その後、東嶺初め』古月会下の雲衲が白隠の下に参集する |
1740 | 元文五 | 56歳 | 松陰寺で『虚堂録』を講ずる |
1741 | 寛保元 | 57歳 | 甲州金井の桂臨時林寺で 『碧厳集』を講ずる |
1743 | 寛保三 | 59歳 | 圓慈来参す。『息耕録開延普説』を上梓す |
1746 | 延享三 | 62歳 | 『寒山詩闡提紀聞』を上梓。慧牧礼参す |
1749 | 寛延二 | 65歳 | 『槐安国語』を上梓す |
1750 | 寛延三 | 66歳 | 岡山藩主池田継政侯の招請に応じ、途中大乗寺、貞永寺、龍谷寺により講演を行う |
1751 | 寛延四 | 67歳 | 上洛 妙心寺微笑塔を拝塔 塔頭「養源院」で『碧厳集』を提唱する 池大雅が来参す |
1752 | 宝暦二 | 68歳 | 比奈無量寺を復興し、東嶺圓慈に補席を託す |
1753 | 宝暦三 | 69歳 | 山梨平史郎治重に慈運了徹の号を授ける 甲府東光寺にて正受老人の33回忌を修す |
1757 | 宝暦七 | 73歳 | 甲州・信州を巡鍚する。『夜船閑話』刊行。 |
1758 | 宝暦九 | 74歳 | 『荊叢毒薬』が発刊される 三島心恭軽寺の別院龍沢寺を入手す |
1760 | 宝暦十 | 76歳 | 沢地龍沢寺で開山の儀をなす 東嶺圓慈に嗣席を命ず |
1764 | 明和元 | 80歳 | 松陰寺を遂翁元蘆に託す 松陰寺にて末期の大法界を開き大應録を講ず |
1766 | 明和三 | 82歳 | 『壁生草』を清書し終える |
1768 | 明和五 | 84歳 | 十二月十一日 遷化。十五日葬送、十六日火葬。 |
1769 | 明和六 | 後桜町天皇より、 神機独妙の禅師号を諡される。 | |
1884 | 明治七 | 5月26日明治天皇より正宗国師の号をおくり名される |
白隠が何故に五百年に一人と言われる名僧なのかは、彼の書物や、活動などを通してしか理解できないが、仏教徒でもない自分には無理。『白隠とその時代』の本で諸々の禅画や書を眺め、白隠の禅画を少々見たがよくわからず。取りあえずその本の解説から生誕及び出家の考察の概要を把握してみました。 詳しくは沼津市歴史民俗資料館発行の「白隠とその時代」に
白隠の母 味噌や長沢家の一人娘 長沢家は富士市岩本の元天台宗実相寺(現在は日蓮宗)・・・梅のコーナーで岩本山を紹介しているが、同時に実相寺を載せています・・・修行僧で、日蓮上人が立正安国論を起草するため逗留した折、その徒弟になった。その後日興上人に帰依、大石寺、浮島の本広寺の檀家となる。白隠を懐妊するとき、及び出産する時、伊勢神宮の神託を授かった瑞夢を夢見たという。
白隠の父 父権右ェ門は江梨の出身で姓は杉山氏。長沢家の一人娘妙遵の婿となる。その叔父が鶴林山松陰寺の中興の祖大瑞宗育。杉山家は熊野神社の鈴木三郎重家の家臣で源平戦を戦うも頼朝義経不仲により義経に従い平泉にゆくところ清水の三保から対岸の伊豆西浦の突端大瀬崎に渡り江梨の地に土着したのが江梨鈴木氏発祥とされる。その家臣である杉山氏から鶴林山松陰寺の中興の祖大瑞宗育とその甥、白隠の父権右ェ門が出ている。
いずれにしても杉山氏はまさしく熊野武士であり源の義経の配下で武功を立てて勇猛を知られた家柄であった。従ってその血流を受け継いだ子孫に自ずとその刻苦心と勇敢、不退転の賦質流動していたのは当然である。その血流と母の人並みに勝る新佛信仰の精神が、胎教となり、白隠がこの世に顕現したものと思われる。
出家の由来
幼名の岩次郎は非常に頴智で強記であり、四歳の時、小夜の中山の夜泣き石の隅用俚謡。三百余言を暗誦し、至る所で謳ったが一字も間違えず人々は物覚えの良いのに驚く。五歳の時仲間と遊びにいったおり、一人砂に座り駿河湾の青い海原の沖、水平線に浮かぶ白雲をし、じっと見つめ白雲の起伏生滅、隠没自在、その不思議な有様に心を奪われた。
天性人並み以上に感受性の強い人だった。霊感性を多分に抱懐した。信心深い母は近所の松陰寺、西念寺(時宗)、昌源寺(日蓮宗)に説法を聞きに行くときは連れて行き、生まれつき仏に縁があった。七歳の時、西念寺の坊舎に、休心坊と言う念仏者が居り、岩次郎の顔相を見て、この子は奇骨あり、将来は必ず偉人になるであろうと言う。「一つ、食汁の余りは湯を加えて服すること。二つ、蹲って尿すること。三つ、北東を慎み、便並びに脚することなかれ。これを守れば間違いなく福寿を増すであろう」の指南あったらしい。
元禄八年岩次郎十一歳のとき、日厳上人の魔訶止観の説教で悪業のもの必ず地獄の責苦を逃れること出来ぬと地獄絵を掲げ、聴く者の心を揺さぶる。この時感受性の強い岩次郎は人一倍に戦慄。地獄の恐怖、悪因悪果の責苦を、いかにして脱却することができるか。この克服に白隠はほとんど半生を苦行により逃れ得て、地獄極楽如同の大諦理を感得し、安心立命の大解脱に透徹したのであるが、このことも出家の原因らしい。
岩次郎は、出家の志を固くし、仏行に励む。愛鷹山麓に柳沢村が有、ここに赤野観音堂が有、郷民の信心場所であった。その途中に渓谷が有、そこに八畳岩と言う大石があった。そこを修練の境地として修行に励んだ。家から二里近いところでどの八畳岩に観音像を彫りその前に坐禅し一心に唱誦して、出家本願を祈った。
14歳の時徳源寺より句雙紙を借り、3か月で暗誦する 。三年小僧泣かせと言われたものをである。
原宿松陰寺三世単嶺和尚について得度し 「慧鶴」と名付けられる (出家)。19歳まで大聖寺の徒弟として、第5世息道和尚のもと、禅の修行の初一歩をふみだしている。
当代臨済宗は正にその命運を失墜し、枯渇終滅に瀕する臨済正宗の真風を挙用し、起死回生の大改革をなし、世界を風靡するに至った。
白隠とその時代(高橋 敏)
白隠自画賛の怪 あらゆる仏から嫌われるようになり、すべての悪魔からも憎まれるに至った。ただ座って目をつぶっていれば悟りが開けるという現生の誤まれる僧侶集団の抑える一方、近年力を得てきた因果の理法を認めず、現世を享楽する堕落した僧たちを皆殺しにしてやりたい。みよこの自画像の醜悪なとんでもない坊主を、醜いうえにさらに醜さが重畳している。
白隠にとって、敢えて醜悪怪奇な面相をしてまでも、戦わなくてはいけない何者かがあったのだろう。それを説くカギは白隠が生きた時代にあることは間違いない。さらに言うなら、白隠は彼の生きた社会、現世・世俗に拘泥したと言う事である。
白隠は、現世から隔絶した山岳や洞窟の仙人のような存在にならず、禅僧としては市井や巷の世俗にまみれた行脚・説教の僧に終始した。白隠の旅は京都・江戸間は頻繁に往来、高名な師を求めての修行でもあり、地域社会とそこに生きる人々との交流により、さまざまな見聞、体験をしたと思われる。
江戸時代の仏教は、キリシタン取り締まりと表裏一体となって、宗門改めのための檀家制度のよりどころとなった。村々や宿場に置かれた寺院は住民の檀那寺となることにより、幕府や藩の領民支配の一機関であった。一方で寺院の統制は宗門ごとに本山・末寺制度によって寺社奉行の管轄されるに至った。白隠は行脚を通して様々な出来事を見聞したが、なかでも脳裏に焼き付いたのは百姓一揆であったろう。生き地獄の様な社会状況を悪性パターンとして捉える。享保期から宝暦明和期は、幕藩制社会の変質に対応して幕藩領主の農民に対する旧来の単純な支配方式に代わって酷使と村長が結託した新法とも呼ぶべき過酷な窃取が行われた。追い詰められた民衆は進退窮まり武力抵抗に立ち上がるが、酷使の巧妙な罠にかかり、鎮圧される。白隠の一揆に対する描写は、鎮圧に力を貸す寺院への怒りを秘めて、往時の僧侶として異色と言うほかない。現世に何が起ころうが、民衆が如何に苦しもうが、これを超越してただひたすら坐禅し、黙認することによって開悟する教団の趨勢に批判の矢を放った。酷使、村長と結託し、富を貪る寺院・僧侶に対しては皆殺しにするとまで言い放った。
白隠の因果応報思想
前世・今世・来世の有様は、因果の理法によって応報される。たとえ「国主でも、大臣でも」生きとし生けるものこの宿命から逃れ難いとした。従って悪性の付けは必ず因果応報して、張本人の処に巡り巡ってくる。白隠の警鐘は、大名・旗本の封建貴族のもならず、その家臣、村長クラスにまで乱打された。
白隠と鵠林居士群
暗君・酷使・村長の悪性パターンは幕藩領主が支配者としてそれぞれの職分を守り責任を全うしないから起こる。村落からすれば幕初以来の村長の名望家としての危機の現れであった。暗君・酷使と目覚めてきた民衆の狭間にあって道を誤れば没落しかねない。かくして、白隠に共鳴し、救いを求める村落名望家たちが鵠林に群参したのである。白隠は彼らに道号を送ったり、龍杖を与えて組織化した。これが鵠林居士群である。駿河・伊豆にまたがる白隠と豪農の一大サロンは、続々と掘り起こされる白隠の多数の書画によって立証できるのである。
白隠慧鶴と並河誠所
白隠とほぼ同時期に伊豆地方に影響を与えた儒学者に並河誠所がいる。享保九年(1724)五十七歳にして三島に来て抑止館を開塾、三島で地方農家の育成に晩年を捧げようとしたのだろう。彼の教えは、四書五経のみならず本草学まで及んだと言われる。門人に鵠林居士群が多かったという。享保から宝暦明和にかけては、幕藩制社会の一大転換期であった。危機を意識した豪農たちは白隠慧鶴、並河誠所の門をたたき教えを受けた。ここに二つの文化集団と呼ぶべき地方文化が誕生、独自に村落に根を張り相互に交流して局面をリードしたのである。
白隠禅画
白隠の禅画については興味があるが、その作品を紹介するのは資料もなく無理ですが、多少のことは参考までに上げておきます。
2013年2月6日の朝日新聞に
『白隠展 HAKUIN 禅画に込めたメッセージ』が紹介されていた。その記事を簡単に載せます。
空前絶後の独自の筆致
一つ目の達磨に、頭髪がクルクルした釈迦。時に下書きから大きくずれる線は、奔放かつ強い。いずれも布教に用いた禅画だ。幕府が寺院を組織化し、体制に取り組んだ結果、仏教が世俗化したと言われる江戸時代。白隠は駿河・原宿の寺を拠点としつつ、修行者のみならず民衆にも禅を教えを広めた。現存の多くが60歳を超えてからのもので、画業は「遅咲き」と言える。「半身達磨」で比べると、35歳の作は顔の線も細く神経質。40代は表情にまだ迷いが見える。しかし83歳のそれにはよどみがなく、瞳は全てを飲み込む虚空の深みをたたえる。監修の山下裕二明治学院教授は
・・・「達磨は白隠の自画像とも言うべきもの」修行の深まりが筆に影響したのか。白隠は雪舟を頂点とする水墨画の系譜や狩野派から外れるため、従来、日本美術史の中で、正当に位置づけられていなかった。先人から影響を受けた様子が見えない点で、空前絶後。さらに池大雅の絵に白隠が文章を添えた出展作が示すように、蕭白や若冲ら18世紀京都画壇の画家たちに影響を与えた可能性も近年浮かんできた。・・・
「すたすた坊主」の布袋やお多福や七福神など親しみやすいキャラクターを描くユーモラスな作品も多い。全身全霊を込めて描いているが、暖かさもある。そういう『身ぶり』が見える点が面白い。白隠が禅画に込めたメッセージを理解するには、本来添えられた文章も含めた読み解きが必要だ。しかし、まずはそのパワーの洪水に身を任せるところから始めてもよいのではなかろうか。
以上
2014松籟の宴(沼津御用邸)平成26年11月2日~
白隠禅画展~四智円明の月さえん~が同時に開催され、見てきました。写真撮影禁止で作品は載せられず
出展が少なくがっかりしたが初めて生の作品に触れる。
『白隠とその時代』の解説の中に以下のことが書かれており参考になる。
達磨像に見られる3つのタイプ
タイプA(60歳後半の作品)・・・髪、髭、髯、鬚ともに見るからに黒々として、なおかつ一本一本が丁寧に描かれている。また胸のあたりが黒く塗られているのは胸毛であろうか。目はやや左眼遣いで瞳は小さい。眼は楕円形をしている。耳介は2段ないしは3段に波打っており、鼻筋もゆったりとしていて弾力があり力強い。
タイプB(70歳頃の作品)・・・髪、髭、髯、鬚が一本一本描かれることはなく、一定の幅でまとまって描かれている。眉毛はAに比してジグザグでなく,目尻のあたりで長く垂れ下がっている。眼はややまるびをおび、瞳も左上目づかいで、Aと同じように一点を凝視している。鼻筋はすっきりのびているがAのように力強さはない。墨のの薄いものが多く、全体に力強さが欠けている様だ。
タイプC(80歳晩年の作品)・・・髪がさらに薄くなる。眼はますます丸くなり、正面に近くなる。瞳は正面をグッとにらみつけているようである。髪、髭、髯、鬚も薄く短い。鼻は大きく描かれているが力強さはない。墨は薄くなり全体に弱々しい。
その他作品の所持のされ方、紀年名ある墨書画などいろいろ考察してあるが興味が湧かず
平成27年10月11日 大聖寺 『白隠とその弟子墨跡禅画展示会』
沼津足高霊園内 大聖禅堂にて大聖寺秘蔵の白隠とその弟子のにわか作りのミュージアムを開く。
その時の禅画などを載せています。
ほかには沼津市江浦の照江寺(橋本宗一住職)で江戸時代の高僧白隠禅師の書画を刻んだ石碑群も参考になるかも。
平成30年(2018年)2月14日 静岡市美術館にて白隠禅師250年遠諱記念展
静岡市美術館に行って、白隠禅師250年遠諱(おんき) 記念展「駿河の白隠さん」の展示物を観賞。
2018年2月10日から3月25日までの開催。三島の佐野美術館では5/26~7/1とのこと。
展示物はこれが全てかと思われる数が出ており、白隠の書画などは今回を最後にと、隅から隅まで丁寧に観賞した。池大雅の作品も少々、30歳ごろに白隠との接点があったらしい。池大雅の画風に少なからず影響を及ぼしたようだ。作品の個々については述べる資格はないが(撮影も禁止されている)十分に納得できる内容にはなっている。
その後駿府公園や駿府城の発掘場所を見て歩く。家康の像は初めて見た。ブラブラと浅間神社を回り、昔(ほぼ四十五年前になるか)夜桜見物の花見の宴会をした場所を訪ねて浅間神社の小山(賎機山)に登る。頂上からの静岡市街の展望はよく、富士山が見れて幸いであった。静岡の最初の下宿屋は茶町で、その場所を探してみたがすべて変わってはっきりしない。町に流れる茶の香りだけがなつかしく感じた。人間の一生は短いものと改めて思った一日であった。白隠禅師の亡くなってからまだ250年、今の日本をどう思うか聞いてみたいものである。
平成30年10月5日沼津市立図書館4F「白隠展2018 ㏌ぬまづ」
9月27日~10月13日白隠禅師250年遠諱 を展示していた。5日初めての沼津図書館に。朝から退職老人であろうか1fの雑誌コーナーは人が多い。
4回の展示コーナーはほとんどが掛け軸で15展のみ、ほとんどが過去に見たもの。改めて少ないものを隅々まで観賞出来た。
白隠禅師坐禅和讃 | ||
衆生本来仏なり | 私たちは本来仏なのである。 | |
水と氷の如くにて | それは水と氷の関係のようなもので | |
水を離れて氷なく | 水がないと氷ができないように | |
衆生の外に仏なし | 私たち以外に仏はありえないのである。 | |
衆生近きを知らずして | ところが、私たちが仏であるにもかかわらず | |
遠く求むるはかなさよ | 自分の外に仏があると思ってあちこち探しまわっている。 | |
譬えば水の中に居て | それは水の中にいて | |
渇を叫ぶが如くなり | のどが渇いたと叫んでいるようなものである。 | |
長者の家の子となりて | また、裕福な家の子に生まれたのに | |
貧里に迷うに異ならず | 貧しい里をさまよい歩いているのと同じである。 | |
六趣輪廻の因縁は | いつまでも迷いの世界から抜け出すことができないのは | |
己が愚痴の闇路なり | 真実を知らぬからである。 | |
闇路に闇路を踏みそえて | 迷いに迷っていて | |
いつか生死を離るべき | いつ苦しみを離れることができようか。 | |
それ摩訶衍の禅定は | 大乗の禅は | |
称嘆するに余りあり | 私たちの大きな支えとなる。 | |
布施や持戒の諸波羅蜜 | 他人への施しや自分自身への戒め | |
念仏懺悔修行等 | お念仏や懺悔(反省)、他力の信心、自力の修行など | |
その品多き諸善行 | 数々の善行があるが | |
皆この中に帰するなり | それらは皆「禅定」の中に包括されるのである。 | |
一坐の功を成す人も | ひととき、心を落ち着け坐った人は | |
積みし無量の罪ほろぶ | 今までの迷いや不安は無くなり | |
悪趣いずくに有りぬべき | 悪い出来事などどこにもありはしない。 | |
浄土即ち遠からず | 浄土は今ここにあるのである。 | |
辱なくも此の法を | ありがたいことに、この法(おしえ)を | |
一たび耳に触るる時 | 一たび耳にしたとき | |
讃嘆随喜する人は | 讃え、喜び、信じ、受け入れる人は | |
福を得ること限りなし | 必ず幸福を手に入れるであろう。 | |
いわんや自ら回向して | ましてや自ら修行して | |
直に自性を証ずれば | 本来の自分が分かれば | |
自性即ち無性にて | 迷いや不安などはなく | |
すでに戯論を離れたり | それはもう、すでに煩悩から離れたのだ。 | |
因果一如の門ひらけ | 私たちは今、仏と一体となり | |
無二無三の道直し | そこに、真実の道が真直ぐに通っている。 | |
無相の相を相として | 無常の相を実相とし | |
往くも帰るも余所ならず | どこに行っても、こころの安らぎを見いだそう。 | |
無念の念を念として | 雑念を起こさなければ | |
謡うも舞うも法の声 | 謡うことや舞うことなども仏の法(おしえ)であり、仏の声である。 | |
三昧無礙の空ひろく | こだわりのない心は、大空のように自由に果てしなく広がり | |
四智円明の月さえん | 悟りとういう美しく清らかな月が輝く。 | |
この時何をか求むべき | この時何の求むべきものがあろう。 | |
寂滅現前するゆえに | 迷いや不安がなくなり心の安らぎが得られた今 | |
当処即ち蓮華国 | ここが浄土で | |
此の身即ち仏なり | この身がそのまま仏なのである |
経文 | 現代語解釈 |
---|---|
表題・経文 『坐禅和讃』(題号) |
表題・訳 『坐禅和讃』 |
段1・経文、以下段落27まであります。 衆生本来仏なり水と氷のごとくにて (しゅじょう ほんらい ほとけなり みずと こおりの ごとくにて) |
段1・訳 私たちは、皆生まれながらに、仏さまと同じ心を持ち合わせています。それはあたかも、「水」と「氷」の関係のようです。 |
段2・経文 水をはなれて氷なく衆生の外に仏なし (みずを はなれて こおりなく しゅじょうの ほかに ほとけなし) |
段2・訳 氷は、水が固まってできたものであり、もとは同一のものです。水蒸気や雲も、水が変化したものです。水、氷、蒸気は、それぞれ形が違いますが、全て同じものであります。一般に「さとり」と呼ばれ、何か超人的な能力と思われがちな心も、また、凡人と思っている私たちの心も、本当は同一の「仏心」なのです。その「仏心」は、遠く離れた天国にあるわけではなく、水と氷のように、私たち自身の肉体と、その心を離れて存在するものではありません。 |
段3・経文 衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ (しゅじょう ちかきを しらずして とおく もとむる はかなさよ) |
段3・訳 ところが私たちは、誰でも「仏心」を持っている、ということを信じないために、選ばれた聖人のみに「仏心」が宿っていて、凡人には、さとる資格がないものだ、と思っているのです。または、厳しい修行を行った末に、ようやく外部から「仏心」が降臨してくるものだ、と思っているのです。 |
段4・経文 たとえば水の中に居て渇を叫ぶがごとくなり (たとえば みずの なかにいて かつを さけぶが ごとくなり) |
段4・訳 それは例えて言うならば、水の中にいて、のどが渇いた、と叫んでいる(周りは全て仏心であるのに、仏心を信じず、得ようともしない)ようであり、 |
段5・経文 長者の家の子となりて貧里に迷うに異ならず (ちょうじゃの いえの ことなりて ひんりに まように ことならず) |
段5・訳 また、金銀財宝がつまった蔵のある家に、その子供として生まれていながら、その蔵があることを知らずに乞食をしている(仏心という宝を、生まれながらに持っていることを、知らずにいる)ようなものです。 |
段6・経文 六趣輪廻の因縁は己が愚痴の闇路なり (ろくしゅりんねの いんねんは おのれが ぐちの やみじなり) |
段6・訳 人間は、餓鬼・畜生・修羅・人間・天上、という6つの世界(六趣または六道)を生まれ変わる、とされ、それは「輪廻転生」と言われています。悪行の結果として、地獄・餓鬼・畜生の3つの悪趣に生まれ、善行の結果として、修羅・人間・天上の3つの善趣に生まれる、とされています。そして、苦しみからの解脱は、3つの善趣に転生すること、と考えています。しかし、そのような考えは、私たちが愚かで、仏心を信じないがために、そう考えるのです。もともと釈尊の教えでは、私たちの苦しみには、必ず原因があり、その原因を無くせば苦しみは消滅する、という考え方です。その教えを知らないから、私たちは輪廻転生に、救いを求めているのです。 |
段7・経文 闇路に闇路を踏そえていつか生死を離るべき (やみじに やみじを ふみそえて いつか しょうじを はなるべき) |
段7・訳 それは、暗い夜道を、灯りも点けずに歩いていくようなものです。暗い夜道を歩いていっても、目的地に辿り着くのは難しく、これでは、苦しみから抜け出すどころか、さらに苦しみの迷路に入り込んでしまいます。 |
段8・経文 夫れ摩訶衍の禅定は称歎するに余りあり (それ まかえんの ぜんじょうは しょうたんするに あまりあり) |
段8・訳 大乗仏教と呼ばれる、現在の日本仏教の教えの中に、「六波羅蜜」という6つの実践徳行があります。すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、という、仏教徒としての大切な行いのことです。その中でも「禅定波羅蜜」は、最も重要であります。 |
段9・経文 布施や持戒の諸波羅蜜念仏懺悔修行等 (ふせや じかいの しょはらみつ ねんぶつ さんげ しゅぎょう とう) |
段9・訳 なぜ「禅定波羅蜜」が重要なのでしょうか? その理由は、布施・持戒・忍辱・精進・智慧の各実践行の他にも、仏教徒のつとめる行いとして、「念仏を唱える」「日々反省をする(自分の過失を認め、叱責を甘受し、悔い改めること)」「毎日の生活の中でするべき勤めをする」といった、 |
段10・経文 其の品多き諸善行皆この中に帰するなり (そのしな おおき しょぜんぎょう みな このうちに きするなり) |
段10・訳 功徳を積むためのいろいろな行いがありますが、これらの実践には、すべて「禅定」が必要不可欠だからです。 |
段11・経文 一座の功をなす人も積みし無量の罪ほろぶ (いちざの こうを なすひとも つみし むりょうの つみほろぶ) |
段11・訳 例えば、たった一度の坐禅経験でも、その坐禅が真剣な坐禅であったならば、その功徳はいくつもの悪行を消し去るに値します。なぜかと言えば、正しい坐禅は、強大な禅定力を養うことができるからです。 |
段12・経文 悪趣いずくに有ぬべき浄土即ち遠からず (あくしゅ いずくに ありぬべき じょうど すなわち とおからず) |
段12・訳 果たして、3つの悪趣など、どこに存在するのでしょうか? 西方十万億仏国土の彼方に、阿弥陀如来の住む極楽浄土がある、と言われていますが、そんな気の遠くなるような世界に行けるとでもいうのでしょうか? ひとたび坐禅をするならば、それは私たちの妄想に過ぎないことが解るはずです。なぜなら、坐禅をしている間は、心は静寂であります。静寂な心の中が、極楽浄土そのものだからです。禅定力があれば、どんなに汚れた世の中にいても、この場所がそのまま清浄なる世界であることに気付き、阿弥陀如来と自分とが一体であることに気付くからです。 |
段13・経文 辱なくも此の法を一たび耳にふるる時 (かたじけなくも こののりを ひとたび みみに ふるるとき) |
段13・訳 幸いにも私たちは、釈尊の世から伝えられている、さまざまな説法を、「お経」という形で読むことができます。お経を読んだり聞いたりした時に、 |
段14・経文 讃歎随喜する人は福を得ること限りなし (さんたん ずいき するひとは ふくを うること かぎりなし) |
段14・訳 もしもあなたが「有り難いなあ」「うれしいなあ」と思ったとすれば、それは釈尊の感じた幸福感と、全く同じものなのです。 |
段15・経文 いわんや自ら回向して直に自性を証すれば (いわんや みずから えこうして じきに じしょうを しょうすれば) |
段15・訳 ましてや、自ら率先して読経をして、その功徳を、世の中一切全てのものに与えたい、と願うなら、その慈悲心こそが仏心に他ならないのです。私たちには、真実の清浄な心が備わっていたのだ、と確信するはずです。その真実の心に、聖人・凡人の区別があるのでしょうか? このような区別や、善悪などの差別を超越した、ただ1つの仏心があるのみです。 |
段16・経文 自性即ち無性にてすでに戯論を離れたり (じしょう すなわち むしょうにて すでに けろんを はなれたり) |
段16・訳 その仏心は、形なく、得ることも、失うこともない、老若男女の別もない、生まれたままの純粋な心、捉えようにも捉えようのない、無心の心であります。そう自覚して得られた仏心は、他人には説明のしようがない、説明など不要な仏心であります。 |
段17・経文 因果一如の門ひらけ無二無三の道直し (いんが いちにょの もんひらけ むにむさんの みちなおし) |
段17・訳 善い行いには、善い結果が得られます。悪い行いには、悪い結果が待っています。苦しみに直面した時、その苦しみには必ず原因があります。釈尊の言われた原因と結果の関係は、それぞれを縁によって結びつけています。種をまき、実を収穫するまでには、そこに、土壌・水・日光などの善い縁がなくてはなりません。私たちは、ともすれば結果ばかりを追ってしまいますが、因 → 縁 → 果 という一連のプロセスが大切なことは、もうお解りかと思います。では、原因と結果の道理からは逃れられないのでしょうか? そうではありません。因果の道理そのものは、大切な教えですが、これにとらわれている間は「迷い」であり「苦しみ」であります。それは、因と果とを、区別して考えているからです。区別するということは、つまり迷っているということです。禅定を養うことによって、このような区別から離れるのです。因/果、苦しみ/幸せ、と区別して考えている心は、私たちの心に他ならず、それは仏心にも違いないのです。禅定により区別を離れるならば、苦楽も一体、因果も一体、迷いすらも仏心と一体です。区別や差別を離れて、平等の入口を開けるならば、その先には、一本の真実の道が、まっすぐ延びているのみです。2つ、3つと分かれる迷い道など存在しないのです。 |
段18・経文 無相の相を相として行くも帰るも余所ならず (むそうの そうを そうとして ゆくも かえるも ことならず) |
段18・訳 では、迷いを断ち切り、禅定力を養うためには、どうしたらよいのかを考えてみましょう。1つめは、「目で見えるものの、姿・形にとらわれないようにする」ということです。この世に永遠のものはなく、形あるものは全て、常に変化しています。永遠不変のものはない、と考えることにより、煩悩・執着から離れることができるのです。煩悩・執着がなければ、欲望を抑えることができるのです。そうすれば、私たちの心は、どんな場合でも乱れることがないのです。とらわれを離れた心は、平安な心であり、「いつ」「どこで」「なにをして」いようとも、まるで我が家でくつろいでいるような安心感があるのです。 |
段19・経文 無念の念を念として謡うも舞うも法の声 (むねんの ねんを ねんとして うたうも まうも のりのこえ) |
段19・訳 2つめは、「心で感じたこと、一念一念を悪く考えないようにする」ということです。私たちの脳は、絶えず思考をしています。一瞬ごとの思考、すなわち一念の積み重ねによって、記憶・学習をしています。しかし、もしも悪い念が積み重なったとしたら、そうして造られた記憶・学習は、悪い結果を招くことは明らかです。そう考えると、たとえ僅か一念でも、苦しみの原因になり、積もった念、すなわち、出来上がった記憶は、苦しみの結果となるわけです。一念に振り回されないことです。少なくとも、自分の記憶と、他人の記憶は、全く異なるものであり、他人が自分と同じ事を考え、行動するなどとは考えないことです。そのように毎日努めるならば、他人の言動に一喜一憂することなく、仮に苦言を聞いたとしても、大切なアドバイスだったと、肯定できるはずです。見るもの、聞くもの、全てが新鮮な法話であり、立ち居振る舞い、どれをとっても、仏祖の行いと変わらないのです。 |
段20・経文 三昧無礙の空ひろく四智円明の月さえん (ざんまいむげの そらひろく しちえんみょうの つきさえん) |
段20・訳 このようにして養った禅定力を用いて、精神を統一してみましょう。身体中の感覚(眼で見る・耳で聴く・鼻で嗅ぐ・舌で味わう・皮膚で感じる・心で認識する)はそのままに、心を集注して、意識を乱れないようにするのです。それは一切のとらわれを離れた、自由自在の境地です。雲一つ無い青空が広がっているかのように、煩悩の無い、晴れやかな心になっているでしょう。さらに、仏心から出てくる4つの智慧を信じることです。それは、【1】真実を見つめて、清い心を持つ(大円鏡智)、【2】我見・差別を捨てて、慈悲の心を持つ(平等性智)、【3】道徳行を無心でする(成所作智)、【4】物事を正しく判断して、不安を取り除く努力をする(妙観察智)、これら4つの行いを、自分・他者の区別無く、行おうとすることです。この4つの智慧は、迷いの暗闇を明るくする光です。4つの智慧が相結ぶ時、あたかも中秋の名月のように、智慧の光は冴えわたり、たとえどんな困難に遭っても、真実の道を明るく照らし現してくれることでしょう。三昧(さんまい)= 仏語。心を一つの対象に集中して動揺しない状態。雑念を去り没入することによって、対象が正しくとらえられるとする。
むげ【無碍/無礙】=何ものにもとらわれないこと。また、そのさま |
段21・経文 此の時何をか求むべき寂滅現前するゆえに (このとき なにをか もとむべき じゃくめつげんぜん するゆえに) |
段21・訳 ここまでくれば、もう迷うことはありません。真実を、遠く離れたところに求める必要はありません。求めるどころか、おのずから目の前に広がっているのです。苦しみは消滅し、無念無相の世界が、静かなる大海のように広がっているのです。 |
段22・経文 当処即ち蓮華国此の身即ち仏なり (とうしょ すなわち れんげこく このみ すなわち ほとけなり) (坐禅和讃おわり) |
段22・訳 私たちの日常そのものが浄土であり、日々が好日にして、幸せな毎日です。眼で見ること、耳で聞き取ること、身体で感じること、その全てが、仏祖と何ら変わらない生活であり、この自分自身こそが「仏心」そのものなのです。(訳おわり) |
かんじざいぼさつ 観自在菩薩 (観音菩薩が、) ぎょうじんはんにゃはらみったじ 行深般若波羅蜜多時 (深遠な知恵を完成するための実践をされている時、) しょうけんごうんかいくう 照見五蘊皆空 (人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本 質的なものではないと見極めて、) どいっさいくやく 度一切苦厄 (すべての苦しみを取り除かれたのである。) しゃりし 舎利子 (そして舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子 よ、) しきふいくう 色不異空 (形あるものは実体がないことと同じことであり、) くうふいしき 空不異色 (実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在 するものである。) しきそくぜくう 色即是空 (したがって、形あるものはそのままで実体なきもの であり、) くうそくぜしき 空即是色 (実体がないことがそのまま形あるものとなっている のだ。) じゅそうぎょうしき 受想行識 (残りの、心の四つの働きの場合も、) やくぶにょぜ 亦復如是 (まったく同じことなのである。) しゃりし 舎利子 (舎利子よ、) ぜしょほうくうそう 是諸法空想 (この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、 という性質があるから、) ふしょうふめつ 不生不滅 (もともと、生じたということもなく、滅したという こともなく、) ふくふじょう 不垢不浄 (よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、) ふぞうふげん 不増不減 (増えることもなく、減ることもないのである。) ぜこくうちゅうむしき 是故空中無色 (したがって、実体がないということの中には、形あ るものはなく、) むじゅそうぎょうしき 無受想行識 (感覚も念想も意志も知識もないし、) むげんにびぜつしんに 無限耳鼻舌身意 (眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もない し、) むしきしょうこうみそくほう 無色声香味触法 (形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞ れの器官に対する対象もないし、) むげんかいないしむいしきかい 無限界乃至無意識界 (それらを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる 分野もないのである。) むむみょう 無無明 (さらに、悟りに対する無知もないし、) やくむむみょうじん 亦無無明尽 (無知がなくなることもない、) ないしむろうし 乃至無老死 (ということからはじまって、ついには老と死もなく) やくむろうしじん 亦無老死尽 (老と死がなくなることもないことになる。) むくしゅうめつどう 無苦集滅道 (苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そし てその方法もない。) むちやくむとく 無知亦無得 (知ることもなければ、得ることもない。) いむしょとくこ 以無所得故 (かくて、得ることもないのだから、) ぼだいさった 菩提薩垂 (悟りを求めている者は、) えはんにゃはらみった 依般若波羅蜜多 (知恵の完成に住する。) こしんむけいげ 故心無圭礙 (かくて心には何のさまたげもなく、) むけいげこむうくふ 無圭礙故無有恐怖 (さまたげがないから恐れがなく、) おんりいっさいてんどうむそう 遠離一切転倒夢想 (あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、) くきょうねはん 究境涅槃 (永遠にしずかな境地に安住しているのである。) さんぜしょぶつ 三世諸仏 (過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものた ち”は) えはんにゃはらみつたこ 依般若波羅蜜多故 (知恵を完成することによっているので、) とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 得阿耨多羅三藐三菩提 (この上なき悟りを得るのである。) こち 故知 (したがって次のように知るがよい。) はんにゃはらみった 般若波羅蜜多 (知恵の完成こそが) ぜだいじんしゅ 是大神呪 (偉大な真言であり、) ぜだいみょうしゅ 是大明呪 (悟りのための真言であり、) ぜむじょうしゅ 是無上呪 (この上なき真言であり、) ぜむとうどうしゅ 是無等等呪 (比較するものがない真言なのである。) のうじょいっさいく 能除一切苦 (これこそが、あらゆる苦しみを除き、) しんじつふこ 真実不虚 (真実そのものであって虚妄ではないのである、と。) こせつはんにゃはらみつたしゅ 故説般若波羅蜜多呪 (そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。) そくせつしゅわつ 即説呪曰 (すなわち次のような真言である。) ぎゃていぎゃていはらぎゃてい 羯帝羯帝波羅羯帝 (往き往きて、彼岸に往き、) はらそうぎゃてい 波羅僧羯帝 (完全に彼岸に到達した者こそ、) ぼうじ 菩提 (悟りそのものである。) そわか 僧莎訶 (めでたし。) はんにゃしんぎょう 般若心経 (知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける 経典。)
以下の解説「……なんだそうだ、般若心経」 名取芳彦 HPより 抜粋
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
=① 仏説+ ② 摩訶+ ③ 般若+ ④ 波羅+ ⑤ 蜜多+ ⑥ 心+ ⑦ 経
①「仏説」とは、「仏さまが説いた」という意味
②「摩訶」は、梵語(釈迦さまの時代のインドの言葉)で「マハー」という言葉が音写された字
摩訶の意味は「偉大な」「大きな」です。ただの不思議ではなく、とても不思議なことを摩訶不思議といいますが、その摩訶です。
③「般若」も音写された言葉。もともとは「智慧」を表す
④「波羅」も梵語です。「あちらの岸」という意味の「パーラム」の音写です。日本でおなじみの彼岸ということ
⑤「蜜多」も「到る」という意味の梵語「イター」の音写された言葉
⑥「心」は大事なもの、エッセンスという意味
⑦「経」という漢字の意味は、縦糸のことです(地球の経度は縦に走っている線のこと)。
題全体の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」というのは、「仏さまが説いた[仏説]、彼岸に到るための[波羅蜜多]、偉大な[摩訶]、智慧の[般若]、エッセンスの[心]、教え[経]」ということです
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時
観自在菩薩」です。観音さま(観世音菩薩)の別名です
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時」 (観音さまが、とても深い智慧を身につけるための修行をしていた時に…)
照見五蘊皆空
「照見」とは「分かった」「了解した」ということです。何が分かったかと言えば「五蘊というものが、みんな空なんだ」ということが分かった、というのです。
「空」は「シューニャ」という梵語の訳語です。ものごとは条件によって成り立っているといってもいいでしょう。あなたが「ある」と思っているものは、条件によって成り立っているもので、そのもの固有の実体は「ない」のだということを表しています
「五蘊」です。蘊は「あつまり」のことです。仏教では、私たち五つのものが寄り集まっていると考えます。これを称して「五蘊」といいます。
この五つのものは、後にも出てくる「色」「受」「想」「行」「識」です
形のことを仏教で「色」といいます
「見るということ」が「受」
判断するもの「行」
過去の経験から蓄積された知識から出てくるから「識」
度一切苦厄
「苦」=「思い通りにならないこと」例 生病老死
「度」というのは「渡す」と同じ意味で、全ての苦しみやわざわいを彼岸の岸に渡してしまって、安らかな気持ちになったことを表します。私たちで言えば、ご都合通りにならないことを、仏さまに任せてしまうことと言ってもいいでしょう
舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色
般若心経ではまず、その物がさまざまな条件の集合体であること、そして、条件の集まったものが物になるとといいます。
これを、
「色は空に異ならず、空は色に異ならず」[色不異空、空不異色]
「物」というのは「条件の集まり」と異ならない、また「条件のあつまり」は「物」と異ならない――条件によって「物」の形が変化するのだから、その形が永遠にかわらぬということはない
「色は即ち是れ空、空は即ち是れ色」[色即是空、空即是色]
(「物」はすなわち「条件の集まり」ということだし、「条件のあつまり」がすなわち「物」という形になる)
受想行識亦復如是
「受想行識も亦復是の如し」[受想行識亦復如是]
(受、想、行、識も同じように条件によってできあがっているもので、永遠不変ということはないのだ)
舎利子是諸法空相不生不滅
「是の諸法は空の相である」[是諸法空相]
相は人相、手相の相。ありさま、様子、性質を持つという意味です。
(すべての本当のありようは,空なのだよ。すべては、さまざまな条件によって成り立っているということなのだ)
「不生不滅」は、いいかえれば「何も無いところから生じるなんてことはありえないし、滅してしまえば何も無くなるということはない」ということです。縁があって生じ、そして縁があって滅していきます。そして滅すること自体が一つの縁になって、また何か生じていきます。ものの見方をかえる(価値観を転換する)と、生じ滅していたものが、生ぜず滅せずになります。これが、不生不滅ということだと思います。
不垢不浄
(垢つくということもなければ、浄らかということもないのだ)[不垢不浄]
つまり、ものごとの本当の姿は、汚いとかきれいということもないのだ、ということです
そのもの自体には、本質的に汚いとか、きれいということはないわけです。それを汚い、きれいと判断するのは、私たちの「ご都合」――つまりエゴ そのエゴさえも、確固たる信念であるように思っているが、そのエゴの実体は空であって、いつも変化しているんだ」
不増不減
(増えることもなければ、減ることもないではないか)[不増不減]と、お釈迦さまは弟子の舎利子にいいます
般若心経の、私たちの日常で起こる具体的なことがらを例に取った考え方――「(ものごとはその本質において)生ぜず、滅せず、垢つかず、浄らかならず、増えず、減らず」――は、ここでひとまず一区切りになります。
是故空中無色無受想行識
(これゆえに)[是故]と般若心経は続きます
(この宇宙をあまねく網羅している「空」という法則の中では、物体もそれ固有の実体はないのだ)
これが、[空中無色]
「色も無く」の句の後に、「受も想も行も識も無い」と続きます。
[無受想行識]
「(だから)ものごとは条件によって常に変化していて、そのもの固有の実体はないというこの空という法則の中では、あなたが、あると思い込んでいる物から、どんなことを知覚しても、思っても、判断しても、それが絶対だなんていうことはないのです。それが世の中の本当のありようなのです」
無眼耳鼻舌身意無色聲香味触法無眼界乃至無意識界
① 眼・耳・鼻・舌・身・意が無い。
② 色・聲・香・味・触・法が無い。
③ 眼界~意識界も無い。
眼で見るものは形です。この形のことを仏教語では色という言葉で表す
色を眼で見て感じることを眼(識)界といいます
耳が声をとらえてあなたが思うことを耳(識)界といいます
香を鼻で嗅いで思うことが鼻(識)界です
舌が認識した味であなたが思うことを舌(識)界といいます
触って得られる感触や思いのことを身(識)界といいます
第六感といわれるもの。仏教ではこれを意(心) その意が担当するものは、世の中のありようという意味で「法」という字を使います。心が法を感じ取るということは、意(識)界という中で起こっていることだ、と仏教では考える
一覧表にしてみると、つぎのようになります。
受・想(六根) | 眼 | 耳 | 鼻 | 舌 | 身 | 意 |
---|---|---|---|---|---|---|
色(六根の対象) | 色 | 声 | 香 | 味 | 触 | 法 |
行・識(思い) | 眼識界 | 耳識界 | 鼻識界 | 舌識界 | 身識界 | 意識界 |
般若心経では、仏教ではとても大事な考え方であるはずの、こうした認識の仕組みさえ無いと言うのです。
「無眼耳鼻舌身意」
(眼も耳も鼻も舌も身体も意識だって、固有の実体はないのだ)
「無色声香味触法」
(ものの形[色]だって、音[声]だって、匂い[香]だって、味[味]も、触覚[触]も、世の中のすべてのこと[法]だって、不変の実体があるわけではない)
「無眼界乃至無意識界」
眼が見て感じることも絶対なものではないし、意識の世界だって絶対的なものではないのだ)乃至は「A乃至B」で「AからBまで」の意味
無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽
苦の原因
「苦」を無くすことを、仏教では「尽くす」といいます
「老死」の原因 なぜ、なぜとさかのぼっていくこと十二段階、最後に到達した原因は、無明ということでした。これを十二因縁といいます 無明というのは、はるか昔から続いている無知という意味です
すべてのものに実体などはない、と徹底して観察、分析していく仏の智慧をもってすれば、「(そもそも)『無明』なんてものは無いし、それを無くすという『無明尽』なんてこともないではないか」
「『老死』なんてことも無いのだから、その苦を無くす『老死尽』なんてこともないのだ」
無苦集滅道
四諦
"苦"に関する真理、人生とは本質的に"苦"であると説く。
「この苦を苦と思うのは、多くの迷いの集合した結果である」という「集」。
「この苦の原因である迷いを滅すれば、心はこよなく安らぐ」という「滅」。
最後は「その理想の状態に到るために、八つの正しい道がある」という「道」。
般若心経では、この「(お釈迦さまが覚った)苦、集、滅、道も無い」といい切ってしまいます
お釈迦さまが覚った内容は、何もお釈迦さまが発明したことではありません。それは私たちの身のまわりにあることと、自分自身の心の内面を、心静かにありのままに観察し続けた結果として、分かったことなのです。いいかえれば、お釈迦さまが覚ったことは、はるか昔からこの先永遠の未来にわたって、私たちの中や外にある自然の摂理であり、法則(全てのものに共通しているあるがままの姿と働き)です。この法則は過去現在未来を通じて変わることはありません。だとすれば、過去にも、お釈迦さまと同じように覚った人はきっといるはずだということになります。仏教ではその数七人。過去七仏といいます。そして、未来にもお釈迦さまと同じように覚る人が現れるだろうと考えられたのが、未来の仏である弥勒菩薩です
お釈迦さまが覚った内容は永遠に変わることのない真理です。自然の摂理、あるいは永遠不変の法則といってもいいでしょう。
ところでお釈迦さまが覚った内容も真理ですが、ふつうの人であったお釈迦さまが、覚りを開いて仏さまになることができたのも、その真理の力が働いたゆえではないか 人を仏にする真理のことを「法」とよびます。やがて、この法を人格的にとらえて「法身」あるいは「法身仏」と呼ぶようになったのです。
ですから、お釈迦さまが覚った法(真理)というのも、「法身仏」という仏さまを覚ったということになるわけです。
七世紀頃の仏教では、どこの世界(東西南北と東北、南東、南西、北東の八方に上下を加えた十方世界)、いつの時代(過去、現在、未来の三世)にも共通の真理を、人格的にとらえた仏さま、大日如来が考えられるようになりました。
そして、大日如来こそが三世十方(これで時間空間の全てを表します)の仏を、仏たらしめている究極の仏と考えられるようになりました。無数の仏も大日如来によって現れているのだというのです。このありさまを表したのが曼荼羅です
、般若心経の語りである仏さまは、どうも歴史上のお釈迦さまではないようです。法身である仏が話していると解するといいでしょう。そうすれば、お釈迦さまの覚った「苦集滅道」という四諦も、それは縁起の法則からいえば、そのものとしての実体はないのだ、といって良いことになります
無智亦無得以無所得故
般若心経の「般若」は「智慧」という意味です。その「智慧を得る」ためのお経が般若心経のはずです。ところが、[無智亦無得]――「智慧なんて無いし、(智慧を)得るなんてこともないのです」というのです。
こういう時は、よくいわれる「般若心経はこだわるなということが説かれている」ということを思い出すといいかもしれません。「無」を「こだわってダメだ」に置きかえてみます。
すると[無智]は「智慧にこだわってはダメ」。
[無得]は「得ることにこだわってもダメなのだ」ということになります。
「私は智慧を得た」と思うことが、智慧を得ていないという証拠だ。本当の智慧を得たのならば、智慧を得たということは思わないはずだというのです。悟っていない人に限って「私は悟りを得た」というのと同じです
「得る所無きを以ての故に(以無所得故)」
得ようとすべき物も、仮に得たとしてもそれを受ける自分も、本来は無いのですから、なるほど「智慧も無いし、得るということもない」ということになります
菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙
[以無所得故]は後の句[菩提薩埵依般若波羅密多故心無罣礙]につながるという考え方があります。この句はいらない?
つまり、「得る所が無いから、 菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙が無いのだ」
菩提薩埵が正式な名称です。梵語の「ボーディサットヴァ」の音写で「覚りを求める人」という意味で、菩提の菩と、薩埵の薩をくっつけて菩薩と略します。
罣礙とは、もともと「覆うもの」という意味です。私たちの心を覆っている雲が晴れることを、般若心経では「心に罣礙無し[心無罣礙]」といっています。心が束縛から開放されて、自由自在になるということです。
無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究境涅槃
心に覆うものが無くなり、自由自在になると、恐怖心も無くなります
他との比較をしないと気が済まない状態が、[顛倒]ということの一例
いま起こっていることを「そんなはずはない」と否定したり、「こうであったらいいのに」と考えるのは夢に似ています。これを[夢想]といいます。
「(心に)罣礙無きが故に、恐怖あること無く、一切の顛倒夢想を遠く離れ、涅槃を究境す」
三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提
仏教では過去、現在、未来の三世にわたって、多くの仏さまがいると考えます
(覚りに至るための智慧を身につけることによって)[依般若波羅蜜多故]
(覚りを開くことができたのです)[得阿耨多羅三藐三菩提]
覚りには智慧が必要だということをここで、繰り返し述べています
「この上もない、正しく平等な目覚め」といわれる場合があります。梵語にもどると「アヌッタラー・サムヤックサンボーディ」という言葉になります。この梵語を音写したのが「阿耨多羅三藐三菩提」です。
「阿耨多羅三藐三菩提」についてふれておきます。ちょっとビックリされるかもしれませんが、仏教でいう「覚り」について、仏教では何ら定義づけをしていません。「覚りとは、こういうものである」と決めていないのです
仏教でいう智慧とは「死んでしまったのだから、仕方がないではないか」という事実を見抜くことではありません。それは遺族がそなえるべき智慧でしょう。周囲の人の智慧とは、その遺族がどんな思いでいるのかを見抜いて、いまその人に何をいってあげることが良いのかを考える力のことです
故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故
真言というもの、合言葉なんです。この場合、私たちが確認したい仲間は仏さまです。そして、仏さまを仏さまたらしめている力(これを法といいます)も人格化して、仏さまといいます。その両方の仏さまとの合言葉が真言です。
真言という言葉は、もともとの梵語では「マントラ」といいます(マンダラとは違います)。「真言」のほかに「呪」とも訳されます。このマントラの長いものをダーラニー(陀羅尼)といいます。
般若心経では「だからわかったでしょう――故に知りぬ[故知]」といいます。何を知れといっているのでしょうか。それは、次のようなことです。
「覚りに至る智慧という意味の)般若波羅蜜多は、真言つまり呪文で表せるのだ。それは大きな覚りの呪だし[是大神呪]、ものごとを明らかにする呪でもあり[是大明呪]、この上ない呪であるし[是無上呪]、同じようなものはない比類なき呪[是無等等呪]なのだ」
、「その真言は、全ての苦しみを除いてくれる。なぜならその真言は真実そのもので、どこにも偽りがないからだ」と続きます。
「能く一切の苦を除き、真実にして虚しからざるが故に」
[能除一切苦、真実不虚故]
「南無大師遍照金剛」も「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も、自分の本当の気持ちを込めて、真実で偽りがなければ、その意味では真言といえるでしょう。
説般若波羅蜜多呪即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経
般若心経は最後にきて、仏さまとの合言葉(呪)の偉大さを説いています。
「(それでは)般若波羅蜜多の呪を説かん。即ち、呪に説いて曰く」
[説般若波羅蜜多呪、即説呪曰]
[羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶]
真言の部分は、あえて訳すべからずとされています。訳してしまうと、意味が限定されてしまうし、言葉としての力も無くなってしまうと考えられています。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸にまったく往ける者よ、幸あれ」
「(これぞ)般若のエッセンスである」
[般若心経]
般若心経についてお大師さまの言葉
『般若心経秘鍵』
お大師さまは『般若心経秘鍵』という密教独自の般若心経の解説書を書いています。その冒頭二段目(大綱序)のはじめに有名な言葉
――それ仏法遙かにあらず、心中にして即ち近し。真如ほかにあらず、身をすてて何くんか求めん。迷悟我れに在れば、(則ち)発心すれば即ち到る。明暗ほかにあらざれば、信修すればたちまちに証す。哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子。苦しいかな、痛ましいかな、狂酔の人。痛酔は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る――
「そもそも仏の教え(さとりの世界)は、遙か彼方にあるのではない。私たちの心の中にあって、まことに近いところにある。仏の悟りである真如は、私たちの外部にあるのでもない。
だから、我が身を捨ててどこにそれを求めることができるだろうか。本来迷いとか悟りとかは、自分自身の内部にあるのだから、悟りを求めようとする心をおこせば、ただちに悟りに到達できるのである。
従って、明るい悟りの世界、暗い迷いの世界も、自分をおいて他にないのであって、仏の教えを信じ実行すれば、悟りの世界は、たちまちに私たちの眼前に開けてくるのである。
ああ、哀れなるかな、哀れなるかな、真実の世界を知らずに眠れる者よ。ああ、苦しいかな、痛ましいかな、無明、煩悩に狂い、酔いしれている者よ。はなはだしく酔える者は、かえって酔わない者を笑い、はなはだしく迷いの眠りにあるものは、かえって目覚めた者を嘲っている」
般若心経の功徳
―― 一一の声字は、歴劫の談にも尽きず。一一の名実は、塵滴の仏も極めたもうこと無し。この故に誦持、講供すれば、即ち抜苦与楽し、修習、思惟すれば、すなわち得道起通す。甚深の称、誠に宜しく然るべし――
「(このように般若心経の)一つ一つの音声と文字には、無量の義と理がふくまれており、無限に近い長い時間、論談しても尽きることがない。また、その一つ一つの名称と実体の意味することは、広大、甚深であり、無量の仏といえどもこれを究めつくし、説き尽くすことができない。このようなことから、この『般若心経』を読誦し、講義し、供養すれば、仏の慈悲により、生きとし生けるものの苦しみを除き、精神的な安らぎを与えることができる。さらに、この経を習いおさめて、思惟すれば、悟りを得て、神通力を起こすことができる。この経が、意味がはなはだ深いとたたえられるのは、まことに当を得ているのである」
真言不思議 観誦無明除 一字含千理 即身證法如
[真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く 一字に千理を含み 即身に法如を證す]
――仏の内なる悟りの世界を示す真言は、修行中の人にとっては、不思議なものである。しかし、本尊を観想しながら唱えれば、根源的な無知の闇を除くことができる。この真言の一字一字には、無量百千の道理が含蔵されており、この真言の妙力により、この身、このまま、如来の智慧(真如)をさとることができる――
補足、不明点など
実体 仏教においては、とりわけ「空」を主張した学派によって、、主語・実体・実在が否定され、状態・様態・生成変化・関係性のみがあるとされた。般若心経では「色即是空」と説かれる。これは、かたちづくられたものには実体はないこと、他によって存在しているものであり、縁起していることを意味している。
縁起 開祖である釈迦は、「此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す」という、「煩悩」と「苦」の認知的・心理的な因果関係としての「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)を説いたが、部派仏教・大乗仏教へと変遷して行くに伴い、その解釈が拡大・多様化・複雑化して行き、様々な縁起説が唱えられるようになった。
形而上学 感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える。対立する用語は唯物論である。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場や、ヘーゲル・マルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと。
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以前より空海の存在が気になっていました。沼津の近辺でも空海に関係する寺が多く、 「弘法の筆の誤り」といった言葉もあり、神がかりのようにも受け取ることができます。ここで空海の人物につき、できるだけ正確な知識を得て整理してみたい気持ちになりました。参考文献はもろもろのホームページとか、静岡新聞掲載の高村薫の「21世紀の空海」をもとにまとめてみようと思います。
||空海について(概要)||21世紀の空海(高村薫)||高野山開創1200年記念空海展||
韮山史跡の願成就院の国宝の仏像
修禅寺 (修善寺にある寺、独鈷の湯で有名)黄葉、梅園に出かけている
発端丈山の増山寺 標高300mの益山の上にある真言宗で、高野山の末寺。空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられています
もののふの里(裾野) 景ヶ島渓谷中央の依京寺は、空海の作
天城湯ヶ島 熊野山33観音めぐり
宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)、幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である
延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。
(阿刀大足 あとの-おおたり)
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという
24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した
この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多い。しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで求聞持法を修したことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている.。(虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという)
延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。入唐(にっとう)直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している
第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。
同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。
空海の乗った船は、途中で嵐にあい、大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している
8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。
同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。
そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。
「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった
真言密教の確立
大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。この空海の入京には、最澄の尽力や支援があったといわれている。その後、2人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至る
大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った
弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を務めた。
弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。
弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在した。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆した。
弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる。東寺は教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称は鎌倉時代以降に用いられる。
天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。ただし、これは実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した。現在は種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいる。
天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。
天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している。その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている。
承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている
承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われている。1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。2月30日、金剛峯寺が定額寺となった。3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。享年62(満60歳没)。
書家として
在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ、殊に王羲之や顔真卿の書風の影響を受け、また篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての体をよくした。中国では五筆和尚といわれ、日本では入木道の祖と仰がれ、書流は大師流と称された不世出の能書家である
弘法大師の伝説
弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに越えている。柳田國男は大子(オオゴ、神の長男を意味)伝説が大師伝説に転化したという説を提出している。また中世、日本全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖が弘法大師と解釈されたことも有力な根拠である。ただ、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、その伝説形成の底辺には、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇があると考えられる。弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたるが、特に弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといわれている。弘法水は、場所やそのいわれによって、「独鈷水」「御加持水」などと呼ばれている
以上ウィキペディアより
静岡新聞 21世紀の空海(高村薫 著)の記事があり、「第二章 無名の時代」より記事を抜粋して、当時の背景などの参考にしようと思い載せました。
||無名の時代||異国の地||即身成仏移動||二つの顔||巨星の最期||天下の高野浄土||祈りのかたち||再び高野へ||終着点||
高野山の状況は深い藪を分け、枝を払いながら草鞋の足で踏み込む先は今日の深い樹林の姿から想像のできない、草ぼうぼうの沼地であったらしい。
歴史的には唐の長安には白居易がおり、その半世紀前には李白や杜甫楊貴妃がいた。
日本は奈良時代から平安初期にあたる。天皇は桓武、平成、嵯峨、淳和、都は平城京から長岡京、平安京へと移る。律令国家とは言え政は依然大和王朝以来の神祇信仰と祭祀に支えられていた。この時代より200年前に伝来した仏教も、南都六宗が東大寺や唐招提寺などの大寺院を構え、災禍を鎮め日照りに雨を降らせ皇族の病気を平癒し五穀豊穣をもたらす呪力を、朝廷からは求められていた。これは仏教が共同体レベルでは日本古来の神々と同じ効能を期待されていたことを意味する。私的所有の概念を持たない古代の共同体意識から所有と支配の意識のめざめた朝廷や貴族、豪族も喜捨や供養に励めば救われると言う仏の教えに飛びつく。さらに、私的所有が農村にも広がるにつけ土着の神々も仏への帰依を求め、雑密の僧たちが諸国で灌頂し、菩薩にしていった。いわゆる神仏習合である。衆生済度の意思を固くした修行時代の空海の民衆の暮らしは土と埃と垢と汚物にまみれ、生活の喧噪に満ちたものだったらしい。
一生を決めた「明星来影」 若き帆の空海が虚空蔵求聞持法を修した場所とされる高知県室戸岬の御厨人窟(みくろど)で、台風一過の満天の星が真黒な海に降り注ぎ、聞こえるのは荒波が岩礁に砕ける轟音のなかで「三教指帰」の一文「谷響を惜しまず、明星来影す」
空海が山林や岩窟に身を置いて修した虚空蔵求聞持法は718年に大安寺の道慈が唐から日本にもたらした経典に記されている修法で「一度読んだ経典は二度と忘れない記憶力が身に着くとされる。神秘体験・・・につき荒行により心と体は明確には音になり分離されておらず、苦行により神仏と一体となり特別な霊力を得ると考えられていた。断食や木食によって追い詰められた業者の肉体は、より神秘体験を得やすくなる。こうした個々の神秘体験は禅定のなかで魔境として最終的に退けられるが、空海もそうした体験の中で「谷響を惜しまず、明星来影す」といっているがこれがそういう意味を持つか。超人的なカリスマを身に着けて霊験をあらわすのが目的という人もいる。自らが全身で見,聞き、感じ取った世界の全体像、あるいは身体と世界の区別が消えて自ら、全天の星になった。この体験が空海を本格的な仏教に向かわせたのか、この直後に出家宣言をしている。仏教的直観を得たのだろう。空海が唐に渡って仏教を極める目的だったという人もいる。
607年に聖徳太子が大陸に派遣した遣隋使に始まり、838年の最後の遣唐使まで、日本は国を挙げて統一国家の基盤づくりのために中国の統治機構や知識、技術、文物の導入に取り組んだ。空海が留学僧に選抜されたいきさつは不明、804年4隻のうち2隻が行方不明に。8世紀前半の長安の人口は約70万人、世界最大の国際都市で北方遊民族や西アジアから、シルクロードを伝ってあらゆるものが流れ込む。この点では空海はなにも書き残していない。福州より、長安までの2400キロを旅する。8世紀以降、唐では善無畏による「大日経」の漢訳に続いて金剛智が「金剛頂経」を漢訳し、その弟子不空三蔵は国師と称えられた。インドから伝えられた仏教の新しい潮流、密教は唐において宮廷宗教になり、大いに隆盛を誇っていたのだが、空海が長安で出会うのは、不空の弟子恵果阿闍梨である。初対面の空海にたいし恵果入った言葉「我、先より汝が来ること知りて、相待つこと久し。今日相見ること大いに好し、大いに好し」、法を伝承すべき弟子が居なかった恵果は、かくして胎蔵・金剛界両部の大法を授けるべく、6月には胎蔵の灌頂を、7月には金剛界の灌頂を、8月には阿闍梨位の伝法灌頂を初対面の日本人空海に受けさせるに至った。千人以上の門下の中で両部の大法を相承したのが空海一人であったという事実は、まさに運命と呼ぶ以外にないだろう。運命の出会いからか半年、恵果は12月15日入滅する。空海の入唐求法の旅は、突然の帰国に向けて走り出す。
早期帰国の決意
805年12月末日本からの予定外の遣唐使一向が長安に入るや「十年の功、これを四運に兼ね、三密の教えを体得したので、これを携えて天皇の命令に答えたい」の帰国申請をだす。806年3月長安を発つ。入唐の当初の目的につき当時唯識思想の法相宗と中感思想の三論宗の間で続いていた「空有論争」の解決に資する経論を求めてのものという説あり。法相宗、三論宗などの顕教では、最高位の心理の境地では心も言葉も絶するとする。それゆえ法相宗では空とも非空ともいえないとする。一方三論宗は、心言絶ゆえに空に非ず、有に非ずとする。先に恵果より胎蔵・金剛界両部の大法を授け、理法身大日如来の絶対の慈悲を説く大日経と、智法身大日如来の完成された知恵を説く金剛頂経の二つが一つに止揚されることを意味する。このように密教において二つが一つに止揚されえることに、空海はひとまづ衝撃を受けたのではないか。空海の長安で受けた衝撃の二つ目は曼荼羅という。恵果の言葉として「真如は色を絶すれども、色をもってすなわち悟る」「密教深玄にして文筆に載せ難し。さらに図画を仮りて悟らざるに開示す」と記している。仏の智慧なるものが「心言絶」の先に開かれ得ることを実感し、直観した空海はやがて大日如来の法身説法という主張や真言陀羅尼(翻訳せずに読経するこ)は大日如来であり真如であるとする真言密教を産みだしてゆく。こうして空海は実に大きな宗教的果実と確信を得て806年秋、九州博多へ帰着する。
熱気と興奮
空海の一途で純粋な空海の性格を思うと、生涯で51回も鎮護国家の修法も全身全霊を尽くした者だと考えられるが、それにしても手に印契をむすび、真言を唱えて大日如来の悟りを瞑想する三密加持のなかで、空海を捉えていたのはどんな感覚でだったのだろうか。1200年前空海は自らその護摩を焚き,真言の響きと一になり、大日如来の悟りの瞑想(三摩地)に住して、入我我入の境地を楽しんでいたのだ。その姿に特別な霊験や不可思議さを認めて空海を信奉した天皇や貴族、高僧たちのほうは依然としてアニミズムの心象に支配されていただろうが、空海がそんな神秘体験に留まっていたとは思えない。たとえば雨乞いの修法を行いながらおのが身・口・意の三密を通して世界の根本原理である大日如来をさまざまに感得し、そしてその都度刻々と新たな直観を得、言葉でそれを文節して、体系としての密教の経論の完成を目指した。空海が記した「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「十住心論」「秘蔵宝鑰」などの著作はみな、空海自身の身体体験を経て言語化されたものと言えるだろう。そうだとすれば、その言明が自信に満ち溢れていることにも納得する。現に法身・・・(法身・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の三身(さんじん)の一つで、真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのものの体をいう。真理(法)の身体、真理(法)を身体としているものの意味で、「法仏(ほうぶつ)」「法身仏(ほっしんぶつ)」「自性身(じしょうしん)」「法性身(ほっしょうしん)」などともいう)・・・が説法をすることは、顕教・・・(仏教の中で、秘密にせず明らかに説かれた教えの
こと。密教の反対語。真言宗の開祖である空海が、密教が勝れているという優位性の 観点から分類した教相判釈の一つである)・・・の法身では論理的に有り得ないが、空海はともかく全身でそれを直接体験した。そこから、その有り得ないことをあり得ることに転換する渾身の言葉の魔術が繰り出されるのである。
(参考)以下は顕教、密教の違いを簡単に述べています
密教の経典は釈迦ではなく大日如来の説いたものとされます。空海は、経典を顕教の経典と密教の経典に分類しました。
顕教の経典 - 華厳経・法華経・般若経・涅槃経など。
密教の経典 -(真言三部経・大日三部経)大日経・金剛頂経・蘇悉地経(そしつじきょう)、理趣経など。蘇悉地経は蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)ともいいます。天台宗の主要経典のひとつでもあります。五鈷杵、三鈷杵、独鈷杵や羯磨などの金剛杵の使用法や秘密の祈祷儀礼の解説が記されています。
大日経には印と真言が説かれているから、密教は事相のうえで顕教よりもすぐれているのだといいます。事相というのは実践する方法で、理論だけでは役にたたないという訳です。
密教には、ヒンドゥー教などの呪術的な要素が取り入れられており、真言や陀羅尼(だらに)を唱え護摩法を行うことによって様々な願いを成就させます。三密(身・口・意)加持(心で仏を想い、口に真言を唱え、手で印を結ぶ)を行じることで、仏と法界より加護の力(加持力)を頂戴し、煩悩から解脱してあらゆる苦しみから解放され「即身成仏」出来るといいます。
密教の秘密の教えには二つあります。
「衆生秘密」。人間は仏陀(覚者)になることが出来るのに気づかない。
「如来秘密」。大日如来の教えは仏の世界の言葉であり、普通の人間では理解できない。
これらは秘密の教えですから、師資相承(ししそうしょう)によって伝持(でんじ)されます。書物やインターネットで独学で学ぶべきものではないということになっています。
独創の真骨頂
宗教的確信は論理を超越する。空海の、言葉への並外れた執着と独創的な言語感覚は、同時代のほかの仏教者には見られないものである。いわば言葉で世界を言い表すというより、言葉で強引に創造してしまうと言うか。誰も経験したことのない密教の世界が文字通り空海の言葉で開かれるのである。
「即身成仏義」を例に顕教との違いを高村薫は述べているがあまりに細かく専門的なので吾が意図するものではなく割愛するが断片だけは書いておこう。密教ではこの吾が身が現世で悟ることを仏教史上初めて明確に宣言した。経典を絶対の権威として扱う。大日如来を表す梵字の種子真言を引いてその一字ごとにその意味するところを説くと同時に、それぞれが六大の一つ一つに該当すると説く。五大(地、水、火、風、空)に識を加えて六大にした。「是の如く、能く一切の仏、及び一切修生・器界等の四種法身・三種世間を造す。」 生み出すものである六大と生み出される一切が無礙にして自在に相応しているしていることから、「この身このまま」の即身成仏を言い表すと、一気に結論に持っていく。
空前絶後の独創の世界
文字の原理
日本初の悉曇(しったん)梵字の字母の解説書「梵字悉曇字母並釈義」を書いた。嵯峨天皇に献上する際の上表分に
「字は生の終りを絡ひ、用群迷を断ず(文字は生の始まりや終わりに関係なく永遠におよび、その働きはあらゆる迷いを断つ)とある。釈義では「梵字梵語は一字の声(しょう)に於いて無量の義(限りない意味)を含む」とし、これを漢訳すると多くの意味が欠けてしまうので梵字そのものを学ぶべしと説く。不空三蔵以来の密教の言語観を、空海は積極的に拡張し、深秘の言語世界を展開してゆく。文字をたんなる情報伝達の道具でなく、存在そのものととらえたのが空海である。文字とそれを口にするときに生まれる声(音)が世界の発生原理であり、また世界そのものだという驚異的な発想もまた、身体体験が根本にあるのは間違いない。「声字実相義」では「内外の風気わずかに発すれば、必ず響くを名付けて声という唸り。響きは、必ず声による。「声発して空しからず、必ず物の名を表するを号して字というなり。名は体を招く、之を実相となづく。」「如来の説法は、必ず文字による。文字の所在は六塵(色・声・香・味・触・法の六種の認識対象)その体なり。六塵の根源は法仏の三密、即ち是なり。」と説かれる。つまり、人間の呼吸や物が触れ合うことにより、声(響き)が生じると、声は必ず意味と文字を伴う。その文字は六塵から生じ、六塵は同時に大日如来の身体・言葉・心の三密であるから、故に声字は実相だという。これはf現代の言語学の論理ではない。修行者の身体から発する声が全宇宙に満ち、あるいは修行者が全宇宙から受け取る響きがその身体に満ちる究極の身体体験を、あくまでも密教の立場で大日如来=声=文字=全宇宙と言った図式にして見せたものだろう。・・・・・「吽字義」ではさらに究めて吽字(うんじ)を賀、阿、汗、磨の4字に分解し各々字相と字義分けて解釈していくらしいが詳しいことは省略、(よくわからない)・・・言葉への空海の執念を支えているのは、仏の智慧は真言や曼荼羅を通して語られ得るものだという密教の基本であるが、若き日の「谷響きを惜しまず」の全身体験があり、さらには書を通じて感得した文字への造形的・身体的直観があり、そこから吽字についての密教的直観も生まれたと言う。
真言密教の体系化
「秘密曼荼羅十住心論」「秘蔵宝論」がそれ。「十住心論」序での如来の仏智につき「菩提心」(悟りを求める心)を因となし、大悲を根となし、方便(手段)を究竟(究極)となす。その菩提に向かわんとする心に十の住心があるという。
第一住心・・・倫理以前 第二住心・・・儒教・仏教の倫理道徳 第三住心・・・道教、バラモン、インド哲学
第四住心・・・小乗仏教の声聞乗 第五住心・・・小乗仏教の縁覚乗 第六住心・・・法相宗
第七住心・・・三論宗 第八住心・・・天台宗 第九住心・・・華厳宗
第十住心・・・真言密教
第一から第九までの顕経を修行中の菩薩の教え 第十の密教を悟りを開いた如来の教えとする。
空海が構築した密教は、顕教の各宗派をはじめ諸思想をすべて包含すると同時に、それらをすべて超越する。多元にして一、非連続しして連続、普遍にして絶対の、神秘的直観と宗教的確信と独創性にあふれた世界は日々の修法を通した身体体験だとすれば、修行への専念はその宗教的確信の維持に不可欠だったろう。空海が高野山へ懸けた思いは宗教者として切実なものだったと想像できる。
平成26年9月
曼荼羅とは何か
図を仮て悟らずに開示す。種類の威儀(振る舞い)、種類の印契(手の指を組み合わせること)、大悲(慈悲の心)より出でて一目見て成仏す。 言葉で説きつくせない神秘の教えを、人々に解るように図示したもの。
「曼荼羅十住心論」には 究竟(くきょう)じて(突き詰めれば)自心の源低を覚知し、実の如く自身の数量を証悟す。いはゆる胎蔵海会の曼荼羅と、金剛界会の曼荼羅とある。
密教における曼荼羅とは、両部曼荼羅の図画や立体曼荼羅の仏像といったものでもなければ、密教世界に特有のものでもない。密教の考える世界そのものであり、大日如来が具現する森羅万象であり、人間を含む無量無辺の宇宙と一つのものであるらしい。
空海は四種の曼荼羅を説いている。
大曼荼羅
・・・・・・・仏の姿を描いて、仏の世界を表した曼荼羅。一般的に曼荼羅と呼ばれることが多い。
三昧耶曼荼羅
・・・・・・・仏の姿でなく、それぞれの特徴を示す持ち物を描いた曼荼羅。(金剛杵こんごうしょ)、金剛鈴、種々の器や香炉など。
金剛杵=煩悩を砕き、悟りの心を導く力があるとされる。
金剛鈴=金剛杵を柄にした鈴で、人々の仏性を呼び起こす力をもっている。
法曼荼羅(種子曼荼羅)
・・・・・・・仏をイニシャルのように一文字の梵字(種子)で表した曼荼羅
羯磨(かつま)曼荼羅
・・・・・・・仏の振る舞いを表す曼荼羅。具体的には仏像彫刻などを並べ、立体化したもの。立体曼荼羅と呼ぶこともある。
直観的な傾倒
密教はなにより儀礼の宗教である。金色に輝く法具を駆使し、不可思議な真言を唱えながら、種々の観想を通して得た験力で雨を降らせ、病気を平癒させる密教の秘儀は1200年前の人々にとって目も眩む最先端科学であったと同時に、これぞ仏国土とも言うべき荘厳の極みであったと想像できる。「秘密荘厳住心第十」には、各々五智の光明峰杵(金剛杵)に於いて、五億と千万の微細金剛を出現し、虚空法界に遍満す。
五智とは四智に法界体性智(智慧の総体)を言う。
大円鏡智=大日如来の絶対の智慧が鏡で映しでるようにあまねく顕われている状態(真実を見つめ、清い心を持つ)
平等性智=その智慧があらゆるものを平等に照らしている状態(我見差別を捨てて慈悲の心を持つ)
妙観察智=その智慧があらゆるものを微細に観察していること(物事を正しく判断し、不安を取り除く努力をする)
成所作智=じょうそさち。その智慧が実践的な行為として顕れている状態。(道徳行を無心でする)
密教の境地である秘密荘厳住心がどこまでも身体体験によって顕現するものである以上、それをより効果的、持続的に実現する装置は多ければ多いほど良い。四種曼荼羅はまず、そうした入我我入の装置として働くのだが、密教者の身体的実践はそこからさらに進む。
(入我我入=三密と呼ばれる大日如来の身(身体)、口(言葉)、意(心)の尊き働きと、人間の身、口、意の働きが互いに感応し、一体となること)
大日如来の不可思議の力に加持されて三摩地(如来と同じ悟りの神秘的な瞑想)の境地に入ったとき、密教者の身体において曼荼羅の色や形と法具の光りが一つの空間を織りなして動き出したり、梵字と真言が一つになって鳴り出すかもしれない。そのとき曼荼羅たちはもはや装置ではなく、まさに密教者の身体の一部になり、世界になり、如来になり、渾然と重なり合って感応道交するかもしれない。
空海の曼荼羅とは、密教者の身体体験の装置であるという保証書であり、さらにはその体験がすなわち即身成仏であることの周到な証明なのである。
平成26年10月
土木工事や教育・・・高僧を務めつつ社会事業
鎮護国家の修法に優れ、朝廷に重用されていた高僧空海であり、満濃池修築工事(香川)や綜藝種智院(京都)などの社会事業に勤しんだ空海。満濃池は現在、再三の修築や嵩上げ工事を経て日本最大の灌漑用溜池の威容を誇っており、空海が護摩を焚いた小島の岩もそのまま残っている。空海がわずか三か月で難工事を完成させたのは唐で学んだ土木工事があったことのほかに、その人望が人夫たちを結束させたことが要因として挙げられている。ある者は空海の護摩の験力を目の前にし、ある者はその霊験の噂を聞きつけてはせ参じることで、修築工事を完遂させるための民衆の結束という奇跡が成し遂げられたということかもしれない。「綜藝種智院 式ならび序」(性霊集)には仏教のほかに世俗の学問を幅広く学ぶ大切さが説かれる。さらに志ある者には誰でも学べるほか、学問に専念できるように師にも弟子にも食料が給付されることが宣言されている。
空前絶後の社会事業空海は一方で、国家鎮護の種々の祈祷のために度々朝廷に召集される高僧の一人であった。817年には高野山開創に着手し、823年には国家鎮護の要とすべく東寺を下賜されている。淳和天皇を百億人の中で第一の人と持ち上げ、その徳や慈悲や人民救済の労を讃えるといった面もある。当時の仏教が、どこまでも国家鎮護と無病息災と五穀豊穣を願うものであったことや、当時の天皇や皇族・貴族たちも依然として古代のアニムズムの心象を持ち続けていたことを思えば、空海のこうした講説も不思議ではない。それにしても「即身仏義」や「十住心論」などの深遠な経論との落差は大きい。結局はここに二人の空海が居たと言う事だと思う。空海が達した真言密教の神髄が朝廷や貴族たちにどこまで理解されていたかは、多少の疑問が残る。こうした空海の姿は世間と世間間(世俗を離れた悟りの世界)、律令と反律令的の二重構造を認め、密教の理想とする上求菩薩・下化衆生の結節点に空海はたっていたと考えられる。衆生教化のためにはお伽噺も辞さず、悟りのためには深山への参籠も辞さない。それにしても空海を眺めれば眺めるほど、僧としての活動の幅とその思索の壮大さの間の距離が際立ち、空海とは何者なのかという根源的な問いに拍車がかかってゆく。
追記 高野山開創1200年を前に (竹内 信夫)
某新聞に簡単な記事があり、忘れないうちにここにメモしておく(平成26年10月某日)
空海が高野山寺(高野山金剛峯寺)開創を決意したのは弘仁7年(西暦816年)。間もなく1200年の大きな節目を迎える。ユネスコの世界遺産に登録されたこともあって、高野山は国際的知名度を獲得している。しかし私の目には高野山開創に託した空海の思いが、表面的な賑わいの背後で風化しているようにおもわれてならない。
空海思想の根幹にあるのは、生きとし生けるものすべてを包み込む優しさ、命ある者への大いなる慈しみの眼差しである。密教の教義や修法の中に、空海が感得したのは卓越ではなく、平等であった。すべての命の平等である。命に支配と従属はない。生命界は一つであり、命は平等である。
空海の著作の多くは仏教理論であれば仏教経典や論書の、文学理論であれば「詩経」から始まる中国の古典文学の、焼き直しであり、すでにある物の反復だ。これらの良く知られた著作とは別に、普通の生活者のために空海が草した一群の文章がある。「願文」と空海はそれを名付けている。内容的には亡くなった近親者を追悼し、死後の平安を祈願する文章だ。これらは友人知人に草された短文で個人的な性格が顕著である。しかし、それらの願文には、公的な場では語られることのない空海の深い生命思想が言葉となって記録されている。空海最後の願文は高野山寺で営まれた「万燈万花会」のために書かれた。そのなかで「空を飛ぶもの、地中に潜るもの、水に浮くもの、林に遊ぶもの」要するに生命界の全体を、「これ我が四恩」と宣言する。「四恩」とは「父母・国王・衆生・三宝」であるという説が中世日本に流布されるが、空海とは何の関係もない。余りにも利己的なその四恩説は空海思想を辱しめる。翻って思えば、地球の生態系を破壊し続ける現代社会のエゴイズムは、その偽りの四恩説になんと似ていることか。「真言宗」という枠を外せば、1200年のかなたから聞こえてくる空海の言葉に私たちがまなぶことがおおいい。それに耳を傾かるか否かは、私たちを導く私たちの内なる自由意志にゆだねられている。
817年 開創事業 弟子の泰範、実慧らと地元の豪族の援助で始まる
818年 秋、空海も高野山に入り、越年
819年 五月、伽藍建設を始めるにあたって七里(約27.5平方メートル)四方を結界
823年 嵯峨天皇から東寺を給預(密教以外の宗派を排除)密教を内とし、顕教を外として必ず兼学すべき
真言密教の根本道場はあくまで東寺
唐から請来したすべての経巻や法具や仏画は金剛峰寺ではなく東寺に修めた。
国家鎮護の修法こそ真言密教の神髄との認識
832年 8月、高野山に完成した金堂で初めて万燈万華を営む「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きん」
暮れ、東寺の別当として長く暮らした西院御影堂を去り、高野山に隠棲
834年 正月に宮中にて国家護持・息災増益の法(のちの後七日御修法)を修す
834年 三月二十一日入滅 荼毘に付されたらしいが、埋葬の場所は不明
876年 高野山 大塔の完成
887年 高野山 西塔の完成
後七日御修法 毎年1月8日から7日間、宮中の真言院で開かれた国家の繁栄や天皇の身体安穏を祈願する儀式。明治時代に一時廃止されたが、東寺の灌頂院で再開された。
結界 教団の秩序の維持を目的に一定区画を設けること。密教では、修行を妨げる魔障が就業道場に入ってこくのを防ぐため特別の修法によって領域を限る。
壇上伽藍 空海が高野山を開く際に、修行の場として真っ先に建設に着手した場所。
万燈万華会 万の灯明と万の華を曼荼羅に供養する法要で、生きとし生けるものが悟りに入ることを願う法会。空海以後も引き継がれ、高野山奥之院では、さまざまな願いを込めて奉納された灯篭の元、万燈会が行われる。
空海没後の高野山
835年 空海没す
887年 高野山金剛峰寺の壇上伽藍完成
916年 金剛峰寺座主の無空が東寺から借用した「三十帖冊子」の返還を拒否し、門戸を率いて高野山を離れる
921年 空海に弘法大師の諡号(しごう)
952年 奥之院の御廟が落雷で焼失
994年 落雷で壇上伽藍のほとんどが焼失
1016年 祈親上人定誉が高野山の復興に着手
1023年 藤原道長が高野山参詣。荘園を寄進
生前幅広く各界と交流し、多くの貴族や豪族たちの追善供養を手掛け、さまざまな願文や追悼文を書いたのは空海個人であって弟子たちではない。弟子らは空海ほどの才覚も名声ももちえなかったようだ。空海を超人的な存在にしたのは、誰にもできない身体体験の深さと、そこからくる絶対的な宗教的確信、そして修法での圧倒的な加持祈祷の力であり、人々が尊崇したのもそうした特別の験力を持つ密教者空海であった。
東寺と高野山の関係が微妙になり、空海亡き後高野山は御廟を守ることが座主の第一の勤めになった一方、東寺は910年館長の観賢が灌頂院の空海の肖像を本尊にする。空海が唐で書写した経文などを集めた「三十帖冊子」を高野山が東寺から拝借したまま返還せず、観賢朝廷に返還の院宣したため、返還を拒否し、門戸を率いて高野山を離れる。空海没後わずか半世紀で無人となり荒廃し、919年観賢が第六代座主を兼ねるに至って東寺の末寺に成り下がる。
空海を失って80年余東寺も盤石ではなかった。教団の維持と経営のため空海の神格化を急ぎ、弘法大師の諡号はようやく実現、この時勅書をもって高野山に登った観賢が御廟の石室を開けたところ、生前の姿をした空海を発見したという説話は入定信仰の先駆けである。空海ははじめから宗祖だったわけではない。
高野聖の活躍
弘法大師の入定信仰は一気に広がったわけではない。浄土信仰がなければ、高野山詣での流行もなかった。仏教民俗学で知られる五来重は・・・空海の甥真然が883年、陽成天皇の勅問に、「金剛峰寺は前仏(釈迦以前の仏)の浄土、後仏(釈迦以降の仏)の法場なり、一たびも歩みを運ぶものは、無始(限りない遠い過去)の罪を滅すと答えている。
歴代の高野山座主は浄土信仰をもっており、山岳霊場としての高野浄土は次第に「阿弥陀仏の極楽浄土」あるいは「弥勒の浄土」になっていった。時代は激しい権力闘争のもと敗れたものは御霊として畏れられ祀られた。祟るものとしての怨霊を御霊として祀るのも、その怨霊をときに調伏するのも密教や修験の験力であった。平将門や藤原純友の乱が鎮圧されたことで、武士も寺社も朝廷になびき、王朝体制は盤石になっていった。その安定の中で体制の更なる強化を目指して「穢」の忌避を図った。対症療法だった従来の祓え(はらえ)に代わり、日常の隅々に、穢れを避ける「物忌み」が定められた。天皇は仏教に帰依する一方、仏教が退けてきたはずの「穢」「浄」の絶対化によって律令時代からの神祇信仰の強化を図った。こうして日本古来の浄穢観念は、インド伝来の浄土信仰を「穢れた黄泉(魂がゆくところ)の国でない極楽浄土への往生」と読み替えた。それが天台僧源信の「往生要集」へと結実する。・・・厭離穢土(この世を穢れた世界として捨て去る)」と「正修念仏(念仏を正しく修す)」で極楽浄土へ往生できる。
これが朝廷から貴族、武士にまで広く受け入れられ、人々は来世の極楽浄土往生を願って阿弥陀仏を拝み、南無阿弥陀仏の念仏を唱えた。この、死者の供養と滅罪による来世の安泰が、中世の祈りである。
高野山は994年落雷で伽藍のほとんどを焼失し、この時代、寺社の建立や再興には高野聖の勧進が欠かせなかった。東寺長者の仁海が勧進の願文を書いて摂政藤原の道長の後援を得たものの、それだけでは事が進まず1016年に高野山に登った祈親上人常誉が聖たちを率いることで、ようやく勧進が成功した。聖たちが念仏を持ち込んだことで、高野山に浄土信仰が根を下ろし、その浄土を、弘法大師の入定瑠身がさらにありがたいものにしてゆく。
高野聖 ・・・高野山を拠点に全国各地を回り、弘法大師空海への信仰を進め、高野山は浄土であることを説き、浄財を募った僧侶。平安時代末期から登場し、布教しながら行商をするものもいた。
東寺館長 仁海は、空海の甥の真然が陽成天皇に高野霊境説いたのに倣い
「高野山は十方賢聖(世界の智徳を持った人)常住の地、三世(過去、現在、未来)諸仏遊居の砌(水際)なり。善神番々して之を守り、星宿夜々にこれに次る」と摂関政治の藤原道長に高野浄土思想を説いた。
1023年道長の高野山登拝が実現、高野山開創以来の最高権力者の参詣、この時の法要の式次第はのちの貴紳たちの参詣法要の先例となる。
道長が『金泥法要経』1部8巻『理趣経』30巻を納経した後、天台僧が御廟の前で法華経の読経と講演の法華会、その後高野山の僧により『理趣経』の題目だけ奉唱されたらしい。ここに密教経典の影が薄くなって浄土信仰の霊場と化した高野山の姿が映し出している。
空海入滅以降の天台宗と真言宗の格の違いがここに垣間見ることができる。高野山は真言密教の道場というより、人々に死後の安寧を約束する霊場として日本中に認知され、宗門としての格式は天台宗に譲る結果となっている。高野山に登った王朝貴紳は空海の入定留身を固く信じ、弥勒菩薩と結びついた弘法大師空海に崇敬の念を抱いていたらしい。法華経の効力と弘法大師の御景にひれ伏し祈る場になった奥之院、あるいは御景を彩るのは神々しい燈明であった。そこでは大日如来や曼荼羅も荘厳な法界の背景に過ぎない。1118年拝殿に初めて「消えずの火」(常燈明)2燈が掲げられ、これがやがて白河燈、祈親燈と呼ばれるようになった。
藤原道長に始まった権力者の高野詣では藤原頼道白河上皇、鳥羽上皇、藤原頼長、後宇多法王と続き、室町時代の将軍足利義教まで26例もある。平安時代の貴族の女房たちも、現世に何かの空虚感を抱きながら高野浄土を目指した。時代が下るに従い『往生要集』に深く感化された武士たちや、殺生を生業とした漁労民は己が罪の滅罪と成仏を願い高野山に登った。こうして高野山詣では庶民レベルまで広がり、これは全国に弘法大師の入定留身と高野浄土を説いて回った高野聖の存在がある。
高野山を参拝した主な人物
1023年 | 藤原道長 |
48年 | 藤原頼通 |
88年 | 白河上皇 |
1124年 | 鳥羽上皇 |
48年 | 藤原頼長 |
67年 | 平清盛 |
69年 | 後白河上皇 |
1207年 | 後鳥羽上皇 |
57年 | 後嵯峨上皇 |
1313年 | 後宇多法皇 |
理趣経・・・密教の根本経典。真言宗では日常的に読経される。人間は本来清浄な存在で、』真実の智慧の目で見れば欲望さえも清浄であるなどと説く
入定留身・・・空海が高野山奥の院で生きたままの体を留めて、瞑想(禅定)に入り、人々の救済に努めていること。
追記 即身仏をたどって(朝日新聞)より
海向寺(酒田市)忠海と円明海という江戸時代の即身仏2体が並ぶ。
生前、木の実や草の根を食べる木食の苦行で腐らない肉体を作り、最後は土中に埋まって餓死し、1千日後に掘り出られたミイラ仏。
飢饉や疫病の災厄を退け、衆生済度を願う究極の祈祷である仏教の「捨身」の一つの形とも言う。
参拝者の女性は「やさしそうね」、男性は「俺にはできない」人様々の感想、意見があるが、かって人格を持ち、それが今も感じられるとも言う。
注連寺(月山の山懐、山形県鶴岡市)の鉄門海
武士を殺し、遊女との艶話と男根切除、片目摘出など派手な伝説に彩どられ、小説や漫画になった。
江戸時代後期の社会、経済の変化に応じた布教や救済事業で、信仰の最盛期を築いたともいわれる。
小説「月山」の森敦では、村人が密造とミイラを作り人寄せに使ったともいわれる。即身仏という異形の「死」は都会の「生」が発する旺盛な好奇心を吸収し観光客が詰めかける。故森敦の文学碑に「すべての吹きの寄せるところこれ月山なり」ブームが去り鉄門海は全てを超越するかのように座り続ける。
観音寺(新潟県村上市)の仏海
木食行を貫き、祈祷で得た金は貧しい家に配り、県知事が7回も表彰した。一方警察はいつ自殺するか(即身仏になるか)と監視していた。1903年本堂で病死、信者らが段取り通り、座った姿で即身仏用の木箱に納めて埋葬、三年後に掘り出すよう遺言したが警察の目が厳しく、1961年学術調査で発掘された。
写真家の内藤正敏は即身仏にのめり込み、さまざまな説を打ち出す。
木食行と山村の飢饉食との関連、民衆の飢饉の心理など。即身仏信仰が沸騰した江戸時代後期は思いのほか、現代に近いと思える。
高齢化で政府の債務の拡大は止まらない。今生命を持たない未来の子孫の権利を奪う「生の権力」の構造的な欠陥はいつまで放置できるのか。神仏に祈るほかない時代が残した即身仏に「死を思え」と言われた気がするだけでも、人生に幾ばくかの含みが加わるように思える。
お不動さん(不動明王) 目に見える曼荼羅の尊像や彫像として請来したのが空海。具体的には『秘蔵記』に「五忿怒(ふんぬ)をもって五智に相宛(かつ) (五大明王を五仏・五菩薩にあてて説く)
如来-菩薩-明王各々の三輪身
大日如来-般若菩薩-不動明王
あしゅく仏-金剛サッタ-降三世明王
宝生仏-金剛蔵王菩薩-軍荼利明王
無量寿仏-文殊菩薩-代威徳明王
不空成就仏-金剛牙菩薩-金剛夜叉明王
東寺の立体曼荼羅で見ることのできる五大明王は以上のもの。忿怒の形相した明王たちは如来の使者として、教化を受けない者に恐ろしい形相と剣や業火で降伏させ、悟りへと導くために働く。
物の怪や怨霊が跋扈(ばっこ)していた平安時代には、明王の恐ろしき形相が必要であったか。
平安時代から室町時代まで不動尊を信仰した歴史上の人物
平清盛、文覚上人、武蔵坊弁慶、護良親王、北畠親房、足利尊氏など
村町時代には庶民も神仏に親しみ観音霊場、四国霊場を巡るようになる
鎌倉時代には禅や専修念仏といった新たな新興仏教が起こる一方、庶民信仰は不動尊になり、戦国から江戸の庶民へと浸透する。
現代では初詣でにぎわう「成田山新勝寺」「川崎大師」がある。いずれも新義真言宗のため、古義真言宗では禁じられている太鼓などの鳴り物を法会で盛んに使う。
不動尊はある時は宮中の奥深くで営まれる国家鎮護の秘儀の本尊となり、あるときは武将たちが敵の調伏のため拝む血生臭い本尊となり、あるときは庶民が歌舞伎役者の演じる不動明王にやんやの喝采を送り、21世紀のいまも家内安全、合格成就などと書かれた護摩札を買っては不動尊のまえで頭を垂れ手を合わせる。
四国巡礼
(平成27年1月13日加筆)
2014年は四国霊場開場1200年の観光キャンペーンが四国各県で行われ、遍路が改めて脚光を浴びた年だった。
奈良時代の昔から修行者の巡礼の地となり、この巡礼が一般庶民の間で四国巡礼として広まるのは『四国遍路道しるべ』なるガイドが出た江戸時代であるが、全長1400キロという遍路道の長さは世界に類を見ない。古くは修行者たちが悟りや験力を求めて独居し、時代が下がって僧侶たちが修行のために巡礼をし、さらに庶民が主に祖霊供養のために自ら決意し1400キロを歩き続け今日に至っている。それにしても四国霊場は圧倒的に死のイメージが濃い。江戸時代の初めから無名の庶民が山道を遍路姿で行き交い、途中で行き倒れた者は集落の人々が穴を掘って埋め、死者の所持金に見合った墓石を立てて供養してきた。文字通り死者とともに歩く道だと言える。故郷を追われた障害者や犯罪者が生きるための遍路道でもあった。そうした人間社会の澱みを引き寄せ、時に厳しい差別も含みながらかろうじて土地全体でそれを受け入れてきたのは、まさに信仰というものだろう。半ば観光地化した今日の四国霊場が、それでもなおほかの巡礼地では見られない仄暗さを湛えているのは、巡礼者がこうして死や病や社会からの疎外を抱えて歩き、祈る道だからである。
「非日常を通過し再生」
今日の巡礼は「自分の所在を納得するための手続きだという方もいる。個人が自分という存在を確認する自己覚醒の儀式らしい。仕事に疲れた働き盛りのもの、伴侶を失た高齢者たち、孤独な自分探しを続ける若者たちなど、今日のお遍路の肖像の多くがこれに当てはまりそうである。巡礼者は日常の生活の時間と空間を一時的に脱却し聖地という非日常に滞在した後、日常に復帰する。その非日常では、日常に存在する社会構造から自由になる。白装束に象徴される擬似的な死と、そこからの再生というドラマもある。歩くうちに人生観が変わってゆくというお遍路たちの述懐は、非日常を通して再生することを言っているのだろう。
「四国遍路を包む高揚感」
先祖供養や病気平癒を祈願し、はたまた自分探しの旅をする善良なお遍路たちの気分を一言でいえば高揚と多幸感であろう。そしてその高揚こそがお大師さんを出現させるのではないか。四国霊場の随所におわす弘法大師は、真言密教を確立した空海ではない。千年にわたって聖たちが伝え歩いた「今も奥之院で生きている大師」である。生きているので、遍路のさまざまな時と場所で姿を現す。文字通り「同行二人」である。お大師さんに遇ったという話は枚挙にいとまがないが、現に遇った以上、大師は生きているというほかない。こうして弘法大師への厚い信仰が空気のように遍路道に充満してゆく。
この空気は地元の人々にも伝染し、祭囃子が聞こえたら自然に心が浮き立つように遍路の姿を見ると自然にありがたい気持ちが湧き、お接待に走る。他県からのお遍路を驚かせる無償や、それに近い金額で行きずりのお遍路に宿を提供する善根宿は、全く素人っぽい善意の高揚が見られるだけで、個人的に大師信仰はないと話す人すらいる。若い女性や高齢者が野宿をしながら40,50日を続けること自体、常軌を逸しているいるのだが、それが自然に受け入れられ、歓待されるのが四国遍路なのである。
空気の様な弘法大師
弘法大師御生誕所として有名な善通寺は、四国霊場を代表する寺だろう。総高43メートルの五重塔は市街地を見下ろすようにそびえたち、東西に分かれた広大な敷地には、大小さまざまなお堂が立ち並ぶ。中心は東院の金堂と、西院の御影堂であるが境内にひしめき合うのは真言密教の寺でだけではない。天神社、龍王社、五社明神と言った神社があり、後嵯峨、亀山、後宇多の三帝御廟があり、なぜか法然上人の供養塔や親鸞堂があり、足利尊氏の供養塔があり、五百羅漢像、お砂踏みの道場もある。観光バスの連なる観光名所であるとともに地元に密着した側面もある。金堂や五重塔、樹齢千年を超える楠の巨木が作る東院は「近所のお寺」そのものである。西院の御影堂も四国霊場のほかの寺と同様に善通寺も弘法大師の気配そのものは決して濃くない。
このように四国霊場の寺は規模や賑わいの大小にかかわらず、近所のお寺の顔と、観光名所の顔と、巡礼という非日常の精神性の三つの顔を持っているのだが、訪れる人もお遍路がおり、旅行者がおり、散歩の途中の近所の住人がいる。特に意識しなけらば空気の様に実感のないのが四国におけるお大師さんの現在と言えるだろう。さらに言えば、八十八か所の寺を回って結願するという巡礼の形が定着したことで、聖たちにより伝承された弘法大師像に新たな命が吹き込まれた。ご本尊も様々なうえに真言宗でない寺さえある八十八か所寺を巡礼という仕組みが繋がっており、そこにシンボルとしての大師がおわすのである。
希薄な信仰
日本各地の真言宗の寺には必ず大師像や大師堂があるがどちらかというと四国がそうであるように弘法大師その人への信仰は希薄な場合が多い様に思う。たとえば京都の東寺をみてみよう。空海の住まいであった御影堂は空海入定後、その供養の場として使われるが、僧侶のものから次第に近隣の民衆のものへと発展していった様に見える。御影堂には信者の集まりである光明真言講が成立し、室町時代に近所の民衆たちに広まった。民衆の浄財を経済基盤にして、民衆寺院になってゆく。それは毎朝六時から行われる「生人供養」と呼ぶ現在の勤行の様子から窺い知ることができる。弘法大師への帰依というよりは、おそらくは信仰深い人々の熱心な先祖供養の延長線上にあり、彼らが生活圏の中で確保している大事な祈りの場所ではないか。日本人にこれほど浸透している弘法大師が、空気の様であるのはどういうことなのだろうか。高野山では大師信仰そのものに出会えるのだろうか。真言密教の総本山で、大師はどのような位置づけになっているのだろうか。
高野山は、僧侶や修行僧の姿が日常的に見られる日本で唯一の宗教都市である。山麓とそこに開けた町のほとんどが宗教施設で占められ、町の人人はまさに壇上伽藍と金剛峰寺と20万基の墓や供養塔、そして百か寺を超える塔頭(たつちゅう)とともに暮らしている。そこに立てば、一般の観光客でも独特の尊厳な空気を感じるが、四国霊場の結願のお礼参りや、春と秋の結縁灌頂を目当てに訪れる人々にとって、荒野の霊験はひとかたならぬものであるのだろう。
不思議な興奮
結願灌頂三昧耶会(さんまやかい)は金剛峰寺をはじめ山内の塔頭(たつちゆう)の僧侶たちが正装し、声明を唱えながら大会堂から金堂お練りをする光景は、絵葉書になるほど有名な高野山の風物詩の一つである。
結縁灌頂は3日間で千人前後が入壇する大イベントである。一回の灌頂に一時間以上かかり、一度に百人ほどが南無大師遍照金を唱えながら入壇する。燈明だけの暗い外陣で待つ間、各自手に印を結び真言を唱える。順番が来ると目隠しされ、一列になって奥へ進み樒の葉を手にもって腕を伸ばしそれを曼荼羅の上に落とす投華得仏の儀式を行う。そのご、目隠しを外され、樒(しきみ)が大日如来の尊像の上に落ちたこと、仏縁が結ばれたことが告げられ、続いて隣のブースで阿闍梨の金剛杵を手に載せてもらい、頭頂に如来の智慧の水を灌ぐ所作によって灌頂を授かる。これらのことがよくシステム化されている。
インド仏教史の後期に速やかな解脱や神通力を得るために実践体系として登場した密教儀式は、阿闍梨と弟子、阿闍梨と信者の間で初めて成立する世界である。それを憑依(ひょうい)と呼ぶ。1200年前の高野山の灌頂でも、空海と最澄の間で憑依があったとすれば、常人には窺い知れない神秘の空間がそこに出現していたことだろう。
一心不乱の行
現代の高野山で出会える憑依の一例は、毎年厳冬のさなかに行われる水上がある。水行場は奥之院の弘法大師御廟の手前を流れる玉川の御廟の橋の傍らにある。この水行は大寒断食行の一環として60年続くらしいが修験僧を除けば現代では珍しいそうだ。三昧耶会(さんまやかい)の読経も憑依の一種であろう。形こそ違え、なにがしかの憑依なくして密教僧の実存が保てないのは、地方の僧侶も高野山の僧侶も同じではないか。
一方海外からの観光客も増えてカラフルで明るい高野山であるが、空海はどこにおわすのか、参拝客がたえない御廟におわすのは、生きて今も修行を続ける弘法大師である。四国霊場巡りの結願のお礼参りに来た善男禅女がで会うのももちろん大師である。とはいえ高野山には四国霊場ほどの濃厚な大師の気配がない。では、代わりに日本人が語り継いできた「超人空海」がおわすかと言えばそれも違う。結局、私たちが今日の高野山で出会うのは大師信仰でも空海の尊崇でもなく、高野山自体が漠然とした祈りの対象となって存在しているという事実である。高野山と言う信仰の山があると言う事である。そこでは空海も大師も、日本の信心の一隅を占めるばかりの存在となって、仏たちの脇に慎ましく座しているのである。
追記 高野山開創1200年を超え輝く著作 (竹内 信夫)
某新聞に簡単な記事があり、忘れないうちにここにメモしておく(平成27年2月7日)
空海と弘法大師は別人だった?
空海と言う歴史上、実在した人物がいて没後86年たって弘法大師と言う諡号(しごう)、いわゆる名誉称号が贈られる。弘法大師となってからは、その時代、時代の人々の様々な思いが託され、伝説などの物語が肉付けされ、別の物語の主人公になった。これは天台宗の最澄が伝教大師になっても、この様なことは起こっていない。現在語られる空海も、この弘法大師がもとになっている。弘法大師と空海は分けて捉えた方が良い。お遍路さんが、いつもお大師様と一緒という『同行二人』と言う言葉はお遍路さんがそれぞれの心の中に持つ弘法大師像も、真実ではないか。実在としての空海そのもののが知りたい。信仰と学問の違いと言ってもよい。
空海の思想の中核には『いのち』がある。生物すべての、あるいは宇宙全体と言う一つの大きな命があって、それぞれの人や動物、植物がそれを分かち合い、分有しているという考え方。一つひとつの命は授かりものだから、大事にしなければいけない、他の人や生き物の命も当然大切にしなくてはいけない。殺伐とした現代にも通じる考え方である。
空海は人類の宝
空海は『言葉』を疑っていた。言葉は何かを伝える記号であって、言葉そのものにこだわったり、固定化してはいけない。『大事なのは心と心、人と人をつなぐこと。言葉はその運搬手段。今の社会にこそ求められることかもしれない。空海は唐の時代の文化を持ち帰り、日本古来のものと融合し、価値あるものとして定着させた。空海がいなければ、日本の文化は違った姿になっていたかもしれない。空海は人類の宝と思う。
オウム言語化なき堕落
近年、ダライ・ラマ14世をはじめチベット密教僧を招聘しての宗教イベントは日本各地の真言宗寺院で行われている。日本の密教とは経典も儀礼や図像の規則もかなり違うチベット密教を、当たり障りのない部分だけを選んで摂取するのに抵抗がないのは、実に日本らしい信仰の姿である。
29年前、東京の地下鉄に猛毒のサリンをまく無差別テロを起こしたオウム真理教も、ヨーガとヒンヅー教のシバ教とチベット密教と大乗仏教、さらにはキリスト教までを場当たり的につぎはぎしていたのだが、心の救いを求めてオウムに入信した若者たちが、この継ぎはぎ自体に違和感をもたなかったのは確かである。当時伝統仏教はオウム真理教と表だって対峙することはしなかった。おそらく教義の面でも論評に値しない稚拙さだったことが無視の理由だったかもしれないが、それでもオウムが行っていたヨーガや瞑想の身体技法は、修験道や空海以来の日本密教のそれに通じるものである。彼らオウムが身体の神秘体験を即ち解脱と捉えたり、教団に敵対するものを度脱する論理を堂々と展開し始めたときに、伝統仏教とは似て非なるものになったが、そうだとしても密教が教義の根本に身体による実践をを置く以上、密教僧は自身とオウム信者を分けるものがそれほど明確にあるわけでないことに思いをはせる必要があるだろう。
密教の身体体験とオウムのそれにどの程度の共通点とか違いとかを知るために三人の信者に取材した。経歴はいずれも学校や社会に馴染めず、事前に阿含宗やヨーガを体験しており超常現象にも興味を持っていた。三人の共通点は非日常的な意識になりやすい生来の体質とヨーガの特殊な呼吸法が合わさることにより比較的簡単に神秘体験を得たことだが、オウムに入信した若者たちの一つの特徴である。神秘体験を重ねることにより実際に三昧(心を一つの対象に集中する状態)に入って心が静まる所まで達する者もいたが残念ながらオウムにはその三昧を正しく言語化する意思も能力もなかた。そう考えると「明星来影す」の圧倒的体験をした若き空海とオウム信者たちの違いは、自身の体験を言語化せんとする宗教者としての強固な意思の有無だけだともいえる。
この世の宗教はほぼすべて、夢のお告げ、数々の秘跡(キリストによって定められた恩恵をあずかる方法)、憑依(霊などが乗り移ること)、心霊現象預言など豊富な身体体験を下敷きにして誕生した。言葉の体系が作られるのはその後である。空海も。『秘密曼荼羅十住心論』を記して自身の変性意識を言葉の体系に昇華したが、一方で高野山を開創して修行の場を確保し、自らを非言語の三昧へと誘わんとした。こうして言語と三昧の間を行き来するのが宗教者というものだろう。オウムの脱落は、身体体験の宗教的純化も言語化も捨てて総選挙への立候補だの様々な夾雑物(混じりこんだ余計なもの)jを宗教に持ち込んだことにあったとおもう。
ハンセン病 宗教と密接
日本人の宗教は葬式を抜きに考えることはできない。祖先代々の墓があり、その宗派を知らない人であっても、最後はどこかの寺、もしくは葬儀社の用意した僧侶の読経で送られるのが、21世紀の今も日本では一般的。死者に引導を渡すのは職業僧侶だけに許された宗教行為であり、これが日本人のDNAに刷り込まれた死に方、送られ方であり、仮に成仏できなかったリ、供養してもらえなかったりした祖霊は祟ることになる。
この宗教と葬式の関係がむき出しの姿で存在したのが、全国13か所にあるハンセン療養施設である。1931年制定のライ予防法の下に強制隔離が行われた日本では1996年の廃止まで患者たちは施設に送られると真っ先に宗教を尋ねられた。入居者は家族と縁を切られ、入居者同士が所帯を持っても子供を作ることが許されず、一生を偏見に耐えて塀の中で生き、死んで骨になっても故郷に帰れる人はまれで施設の納骨堂で眠る。そんな残酷な生活を強いられた人が宗教にすがり、心の安寧を見出すのは道理にかなっていても、国家が強制的に入居者に宗教を強制した異常さが相殺されるはずもない。
熊本県の国立療養所菊池恵楓園を訪ねる。田園地帯に18万坪の広大な敷地でかっては脱走者を防ぐ2メートルほどの塀があって、各地から患者を移送してきた鉄道の駅が敷地に隣接している。1958年に1734人いた入居者は2015年1月1日295人の平均年齢82歳の人が暮らす。
その一角にやすらぎ総合会館と言う施設がある。縦横一メートルほどのブースが横一列に9個並んで、各々真言宗、日蓮宗、その他の宗派の祭壇が設けられている。人がなくなると宗派の僧侶が来園し、読経し、死者にともかく成仏してもらう。国による強制隔離のうしろめたさが透けて見える祭壇の姿は、宗教もまた隔離に加担してきた証である。
『法華経譬喩品』にライが登場 「この経典を謗ったためにこのようになる、はたけ、らい、腫物と言った病が衣服となり、身は常に臭く不浄である。」 この法華経により、日本人は長らくハンセン病を業病として受け止めてきたとされる。入居者が多かった時代、各宗派の僧侶が主張説教をしていたが今はそれも絶え、園内の掲示板には葬儀と命日の法要の予定だけが寂しく並んでいる。外出制限が緩くなり入居者のなかには病気治癒祈願に四国八十八か所霊場を巡る人もいる。そんな中に、人はここまで柔和に老いることができるものかと感嘆し、また大師信仰はハンセン病患者たちがいてこそ営々と息づいてきたのかもと感じる。療養所ができる前、故郷を追われた患者たちが、全国から四国をめざし死者の旅に出たとき口ずさんでいたのは弘法大師和讃の「業病難病受けしみは、八十八の遺跡に よせて利益をなし給う」。孤独と悲惨の中でこれほど強い信仰が保たれてきたのは、大師信仰がまさに信仰であった証である。
入所者の中には信仰のない方もいて、人間であることの尊厳を保ち、生きることに前向きな人もいる。
ともあれ、どこの診療所も高齢化の中あと20年もすればハンセン病は過去の歴史になり、ハンセン病の苦しみの傍らにあった深い信仰も消滅する。元患者たちの終焉とともに各地の療養施設や巡礼の地に息づいてきた弘法大師も退場してゆくことになる。一方で東寺の御影堂のように地元に根を下ろした大師大もおわすのであり、仏より身近な尊格として、この先もしばらくは時々の日本人の祈りの対象であり続けるだろう。
弘法大師和讃
帰命頂礼遍照尊
きみょうちょうらいへんじょそん
宝亀五年の六月(みなつき)に
ほうきごねんのみなづきに
玉藻よるちょう讃岐潟(さぬきがた)
たまもよるちょうさぬきがた
屏風(びょうぶ)が浦に誕生し
びょうぶがうらにたんじょうし
御歳(おんとし)七つの其時に
おんとしななつのそのときに
衆生の為に身を捨てて
しゅじょうのためにみをすてて
五(いつつ)の岳(たけ)に立雲(たつくも)の
いつつのたけのたつくもの
立つる誓ぞ頼もしき
たつるちかいぞたのもしき
遂に乃(すなわ)ち延暦の
ついにすなわちえんりゃくの
末の年なる五月(さつき)より
すえのとしなるさつきより
藤原姓(うじ)の賀能等(がのうら)と
ふじわらうじのがのうらと
遣唐船(もろこしふね)にのりを得て
もろこしぶねにのりをえて
しるしを残す一本(ひともと)の
しるしをのこすひともとの
松の光を世に広く
まつのひかりをよにひろく
弘(ひろ)め給える宗旨をば
ひろめたまえるしゅうしをば
真言宗とぞ名づけたる
しんごんしゅうとぞなづけたる
真言宗旨の安心は
しんごんしゅうしのあんしんは
人みなすべて隔てなく
ひとみなすべてへだてなく
凡聖(ぼんじょう)不二(ふに)と定まれど
ぼんしょうふにとさだまれど
煩悩(なやみ)も深き身のゆえに
なやみもふかきみのゆえに
ひたすら大師の宝号を
ひたすらだいしのほうごうを
行住坐臥に唱うれば
ぎょうじゅうざがにとなうれば
加持の功力(くりき)も顕(あき)らかに
かじのくりきもあきらかに
仏の徳を現ずべし
ほとけのとくをげんずべし
不転肉身(ふてんにくしん)成仏の
ふてんにくしんじょうぶつの
身は有明の苔(こけ)の下
みはありあけのこけのした
誓は竜華(りゅうげ)の開くまで
ちかいはりゅうげのひらくまで
忍土(にんど)を照らす遍照尊
にんどをてらすへんじょそん
仰げばいよいよ高野山(たかのさん)
あおげばいよいよたかのさん
流れも清き玉川や
ながれもきよきたまがわや
むすぶ縁(えにし)の蔦(つた)かずら
むすぶえにしのつたかずら
縋(すが)りて登る嬉しさよ
すがりてのぼるうれしさよ
昔し国中(こくちゅう)大旱魃(おおひでり)
むかしこくちゅうおおひでり
野山の草木皆枯れぬ
のやまのくさきみなかれぬ
其時大師勅(ちょく)を受け
そのときだいしちょくをうけ
神泉(しんぜん)苑(えん)に雨請(あまごい)し
しんぜんえんにあまごいし
甘露の雨を降らしては
かんろのあめをてらしては
五穀の種を結びしめ
ごこくのたねをむすびしめ
国の患(うれい)を除きたる
くにのうれいをのぞきたる
功(いさお)は今にかくれなし
いさおはいまにかくれなし
吾(わが)日本(ひのもと)の人民(ひとぐさ)に
わがひのもとのひとぐさに
文化の花を咲せんと
ぶんかのはなをさかせんと
金口(こんく)の真説(しんせつ)四句(しく)の偈(げ)を
こんくのしんせつしくのげを
国字(こくじ)に作る短歌(みじかうた)
こくじにつくるみじかうた
いろはにほへど ちりぬるを
色は香へど散りぬるを
わがよ たれぞ つねならむ
我が世 誰ぞ 常ならむ
うゐのおくやま けふこえて
有為の奥山 今日越えて
あさきゆめみし ゑひもせず
浅き夢見し 酔ひもせず
まなび初(そ)めにし稚子(おさなご)も
まなびそめにしおさなごも
習(なら)うに易き筆の跡
ならうにやすきふでのあと
されども総持(そうじ)の文字なれば
されどもそうじのもじなれば
知れば知るほど意味深し
しればしるほどいみふかし
僅(わず)かに四十八字にて
わずかにしじゅうはちじにて
百事を通ずる便利をも
ひゃくじにつうずるべんりをも
思えば万国天(あめ)の下
おもえばばんこくあめのした
御恩を受けざる人もなし
ごおんをうけざるひともなし
猶(なお)も誓の其中に
なおもちかいのそのなかに
五穀豊熟富み貴(たと)き
ごこくほうじょうとみたとき
家運長久智慧愛敬
かうんちょうきゅうちえあいぎょう
息災延命且(か)つ易産(いさん)
そくさいえんめいかついさん
あゆむに遠き山河(やまかわ)も
あゆむにとおきやまかわも
同行(どうぎょう)二人の御誓願
どうぎょうににんのごせいがん
八十八の遺跡(ゆいせき)に
はちじゅうはちのゆいせきに
よせて利益(りやく)を成し給う
よせてりやくをなしたまう
罪障(ざいしょう)深きわれわれは
ざいしょうふかきわれわれは
繋(つな)がぬ沖の捨小船(すておぶね)
つながぬおきのすておぶね
生死(しょうじ)の苦海(くがい)果てもなく
しょうじのくがいはてもなく
誰(たれ)を便(たより)の綱手縄(つなでなわ)
たれをたよりのつなでなわ
ここに三地(さんじ)の菩薩あり
ここにさんじのぼさつあり
弘誓(ぐぜい)の船に櫓櫂(ろかい)取り
ぐせいのふねにろかいとり
たすけ給える御慈悲(おんじひ)の
たすけたまえるおんじひの
不思議は世世(よよ)に新たなり
ふしぎはよよにあらたなり
南無大師遍照尊 なむだいしへんじょうこんごう
南無大師遍照尊 なむだいしへんじょうこんごう
南無大師遍照尊 なむだいしへんじょうこんごう
密教時代に追い越され すべて包含ゆえの孤絶
空海入定後、百年を経ずして東寺が空海其の人の肖像を祀り始めたとき、あるいは弘法大師の諡号の下賜とともに空海は御廟でなおも生きているとする入定留身説が作られたとき、僧空海の残像は自然消滅したと言えるだろう。そして入れ替わりに弘法大師という霊験あらたかな超人の伝説が現れ、民衆の中に広がってゆくのだが、その過程は空海の築いた真言密教の体系が一握りの学僧の占有となり、現世利益と儀礼の影に隠れて行く過程と軌を一つにする。
比叡山から新仏教
空海を失った真言宗は弘法大師を尊格とする庶民宗教と、国家鎮護と朝廷や皇族の息災を祈る国家宗教と、日本総菩提所としての高野山浄土の三つの顔で1200年を生き抜いた。空海の築いてきた壮大な真言密教もやがて時代に追い越されてゆく。
12世紀から13世紀にかけて、世は武士と農民の社会になり国家鎮護や皇族の息災を祈願するだけの旧仏教に代わって民衆のための新仏教が登場した。鎌倉六宗(浄土宗、浄土真宗、時衆、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗)は全て天台宗で法華経を学んだ人々によって開かれ、真言宗からは輩出されなかった。その原因は「空海はすでに古くなっていた」という人もいる。源平の争乱、承久の乱、蒙古の襲来などを経て武家社会が確立してゆく一方、動乱の世は人心を重ぐるしさで包み、巷は末法(修業しても悟りを得られず、教えだけが残る時代)到来の空気だけが広がった。そこでは密教の教義は役に立たず武士と農民が求めたのは衆生(人々)の願いを聞き届ける阿弥陀如来や、念仏すれば成仏できるとの教えであった。こうした衆生救済を掲げる新仏教が上求菩提・下化衆生(自ら悟りを求めて努力し、人々を仏道に導き救済すること)の法華経から出てきたのは自然の流れであろう。
世界観の差
中世の武家社会で真言密教が時代に合わなくなったのは密教のすべてが敬遠されたわけだはない。現に、不動尊信仰や現世利益を求めて加持祈祷はその後も廃れることはなかった。中世の人々が古いと感じたのは、おそらく密教が唱える即身仏のかたちだろう。民衆が具体的な救いを求めていた時に大日如来と入我我入と言った世界理解は抽象的すぎたし、額に汗して生きる武家や農民の身体は、曼荼羅に包み込まれて全面的に肯定されるよりむしろ種々の苦しみの源泉として捉えていたのだろう。ひるがえって新仏教の専修念仏や坐禅は、己の苦しい身体をしばし忘れさせる。阿弥陀如来の誓願を信じることに難しい理屈もいらない。南無妙法蓮華経の題目を唱えるのもしかり。仏や如来の力で確実に救済されるとする発想は、凡夫の作善(善行をなすこと)や修行の当否、一乗や二乗と言った悟りへの道を超越して、実に合理的だというほかない。平安末期から鎌倉時代に排出した法然ら傑物たちは、空海が第十心秘蜜荘厳心なるものによって顕経から密教へ跳躍して見せたのと同じ位い画期的なアイデアを生み出したのである。
新仏教が結果的に天台宗をゆりかごにしている一方、真言宗は空海が完成させた体系をほとんど更新することがなかった。両者の差を遡ると、最澄と空海との世界観の差に行き着くように思う。最澄は生前、唐から請来した密教を消化する時間がなく、法華経と密教を教義的に融合させたのは後代の円仁や安然らだった。しかも最澄の晩年は東国の法相宗学僧徳一との法華経の解釈をめぐる論争に明け暮れていた。煩雑な教相判釈(教えの特徴や優劣の判定)へのこだわりは、すべての顕教を呑み込んで障りなしとした空海とおおきな対照を為す。すべてを包含して見せた真言密教はそれゆえに進化を停止し、ぐずぐずと論争の続いた天台の法華経は、それゆえに進化があったと考えられる。密教の教義は、論理からの跳躍を求めるために論理の脆弱性を免れえない。論理を超越したものは批判されることもないが変化や革新から孤絶する。
空海と最澄が同時代に居合わせた歴史の偶然には立ちいらない。1200年前の両者の交流の実像はもはや歴史の彼方である。仏教史に比類のない密教の体系を一人で築き上げ、一人でそれを体現した上に、入定後は弘法大師に姿を変えて1200年生き続けているのは、間違いなく人間離れした存在だと断言したい。弘法大師空海がやがて本当に神格になる日が来ると想像している。
注 一乗・二乗
乗・・・仏の悟りに導いてゆく乗り物
一乗は 一つの乗り物と言う意味で、二乗は仏の教えを聞き悟ろうとする「声聞乗」、仏の教えに頼らず一人で独自に悟る「縁覚乗」の二つを指す。
完
平成27年9月3日 静岡県立美術館にて 「高野山開創1200年記念空海展」~ふれる空海と至宝の数々~を見学
館内写真撮影禁止のためここに紹介できず。内容には過去調べた知識以外に目新しいものはないが、実際に曼荼羅を目にし、法具類や阿弥陀如来、不動明王などの仏像を見て近親間が湧きました。
「萬日大師」複製(最新3D技術と伝統の技)、曼荼羅の再生(エックス線、赤外線、その他の技術を駆使し)は目にしてよかった。
お砂踏み(金500円)で四国巡礼を味わい、残るは高野山の表参道(開創から続く信仰の道)、蘇る弘法大師の道(吉野山から高野山への道)はスライド、写真で紹介されており、此方は実際に歩かなくてはと思う。旅行業者のツアーでもいろいろ目にしており利用するのも手っ取り早いかも。
雑誌「KUKAI]金1000円で購入、今回の展示物が大方載っていた。
静岡県民美術館 | |
八十八か所霊場巡拝 開創千二百年記念 お砂踏み 結願成就 | |
時至り 人叶うときは 道 無窮に被(こうじ)らしむ=性霊集
【訳】時が熟し、人がそれに応じる時、真理の教えは限りなく世の中に広まってゆく
虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 吾が願いも尽きなん=性霊集
【訳】この宇宙が尽きて、人々が尽き果て、さとりの境地が尽き果てることがあるならば、私の願いも尽き果てよう。
ああ 自宝を知らず 狂迷を覚と謂(おも)えり 愚に非ずして何ん=秘蔵宝鑰
【訳】ああ、迷っている者は自分自身の中にある宝に気づくことはない。狂い迷っているにもかかわらず、その状態を「さとり」だとおもっている。これを愚かかと言わずしてなんと言おうか。
物の興廃は 必ず人による 人の消沈は定んで道にあり=性霊集
【訳】物事が盛んになったり、廃れたりするのは、必ずそれにかかわる人による。そして人がその才能を開花させるか萎縮させるかは、決まってその人が学んできたことや生き方と関わっている。
それ禿(かむろ)なる樹定んで 禿なるに非ず 春に遇うときは すなわち栄え華さく=秘蔵宝鑰
【訳】木の葉がすべて落ちて枯れてしまった樹木も、いつまでも枯れたままではない。春になれば木の葉が生い茂り、花が咲くのである。
☆||建長寺||円覚寺||明月院||☆||壽福寺||海蔵寺||髙徳院||長谷寺||成就院||
平成27年1月7日鎌倉を少々歩く。三島大社の頼朝と政子の座した石、蛭が小島や守山周りの政子の産湯、旗揚げの地、北条時政の墓、八重姫入水 などその都度このホームページでも取り上げてあります。また臨済宗中興の祖 白隠禅師は白隠の園でも紹介しています。吾が寺は当初 臨済宗建長寺派で、その後妙心寺派として現在に至るようですが、白隠16歳の時は吾が寺の天瑞山 大聖寺の息道晋益で雲水をしていたそうです。以前より鎌倉を歩こうとは思っていました。
ボチボチ寺社などをここでとりあげてみようと思います。その前に北条氏や源氏の流れを少々把握しておく必要がありそう。如何に某HPより、コピー
[北条政子] (1156~1225)鎌倉御台所・「尼将軍」。北条時政の娘。源ノ頼朝の室。兄弟に宗時、義時、時房、阿波局(阿野全成の室)。婚約者に山木兼隆。1160年伊豆蛭が小島に源ノ頼朝が配流される。息に頼家、実朝、大姫、三幡姫。
源ノ頼家 <第二代将軍:1202~1203>(1182~1204)万寿。鎌倉幕府二代目将軍。頼朝の嫡男。母は北条政子。1199年家督継承。北条氏により老臣13人合議制を導入され権限を失墜。1202年征夷大将軍に就任。1203年舅の比企能員と北条氏討伐を計画するが失敗し能員は戦死。伊豆修禅寺に幽閉され、翌年殺害される。22歳。嫡男に一幡。<母・政子の密告により息子ともども討たれる。>
源ノ実朝 <第三代将軍:1203~1219>(1192~1219)千幡・右大臣。鎌倉幕府三代目将軍。頼朝の三男。母は北条政子。北条時政を政所別当(初代・執権)に任命。畠山重忠事件勃発。江間義時台頭。和田義盛事件にて政所別当兼、侍所別当に義時。右大臣任官に鶴岡八幡宮にて拝賀の儀を執り行った際、甥の公暁に刺殺される。28歳。
初代執権 北条時政 <執権1203~1205>(1138~1215*)平ノ・四郎・遠江守・従五位下。「鎌倉北条氏初代」。伊豆田方郡北条の豪族。時家の息。娘婿に源ノ頼朝。1156年「保元の乱」に伊豆目代・藤原経房に捕縛される。1160年「平治の乱」に捕縛された源ノ頼朝の監視を伊東祐親とともに命じられる。1170年伊豆大島にて源ノ為朝の反乱を鎮圧。1177年京都大番役に上洛。山木兼隆との縁組に失敗。1180年頼朝の挙兵に応じる。1185~1186年京都守護。1193年曽我兄弟事件を利用し工藤氏を追い伊豆支配を確立。1200年「遠江守護」甲斐源氏を圧倒する。1203年将軍・頼家の急病に遺言を捏造「関西38カ国を千幡、関東28カ国を一幡の管轄とする。」とし、一幡を擁する比企能員との対立が表面化。1204年「遠江守護」就任。北条政子の命で比企氏追討の御家人が招集される。千幡(実朝)を後見し政所別当。後妻・牧ノ方の娘婿に平賀朝雅。1205年畠山重忠を謀殺。義時に地位を譲り隠居。78歳で死去。<後妻の牧ノ方との縁で平家の生き残りを保護。><伊豆北条家の領地の南方に南條・天野。北方に長崎・仁田。西方に江間。江浦湊を支配。><母は伊豆掾・伴ノ為房の娘。伴氏が三河伴氏と同族ならば、戦国の後北条氏の時代に江戸城主となる富永氏と三河の富永(設楽)氏は、鎌倉時代に分立していたことになります。大伴(富永)氏と源氏、平氏の不思議な縁。>
2代執権 北条義時 <執権1205‐1224>(1163~1224)江間・小四郎・陸奥守・前陸奥守・右京権大夫・従四位下。時政流。法名「得宗」。以降の嫡流を得宗家と呼ぶ時政を初代とし、義時を「得宗2代」。1205年父・時政と平賀朝雅の実朝暗殺計画を阻止。父を追い惣領職。1221年「承久の乱」に鎌倉留守居。<室に毒殺されるという。><翌年、北条政子と大江広元も死去。幕府創成の世代が去る。>
3代執権 北条泰時 <執権1224‐1242>(1183~1242)江間・太郎・頼時・左京権大夫・正四位下。義時流。「得宗3代」。六波羅探題職<北・1221~1224>。幕府を鎌倉の中心、若宮大路に面した宇都宮辻子に移動。叔父・時房(佐介・大仏の祖)を執権補佐(連署)に据える。有力御家人を評定衆に迎え合議制を確立。三浦氏と協調路線。1232年最初の武家の法律「御成敗式目」を制定。弟に(名越)朝時、(赤橋・極楽寺)重時、政村、(金沢)実泰、(伊具)有時。
4代執権 北条経時 <執権1242‐1246>(1224~1246)弥四郎・正五位下・武蔵守。「得宗5代」。時氏の嫡男。母は安達景盛の娘(松下禅尼)。泰時の孫。3歳で宇都宮泰綱の娘と婚約。将軍・藤原頼経の加冠で元服。1242年祖父・泰時の死により執権。頼嗣を将軍職に擁立。1246年一門の名越光時が元将軍・九条頼経を擁立する計画を未然に防ぐ。妹(檜皮姫)の婿に頼嗣。1246年病気により引退、弟・時頼に執権職を譲る。
5代執権 北条時頼 <執権1246‐1256>(1227~1263))正五位下・「得宗」・相模守・戒寿。「得宗6代」兄・経時が発病し急遽執権職を継ぐ。「寛元の政変」・「宝治の合戦」で三浦氏を滅し北条勢力の拡大に努める。得宗専制政権を確立。執権職を北条重時(泰時弟)の息・長時に譲るが実権は得宗家がもつ。評定衆、引付衆の北条家独占。弟に時定。息に時宗、時輔、宗政、宗頼。
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縁起(パンフレットより)
建長寺は巨福山(こふくさん)建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派の大本山です。今から約760年前建長5年(1253)に鎌倉幕府五大執権北条時頼(1227~1263)が建立した我が国最初の禅寺です。建長寺の開山(創始者)蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、中国の高僧無明慧性(むみょうえしょう)に学び、寛元4年(1946)33歳で来日し、九州、京都を経た後、鎌倉に入り北条時頼に請われて建長寺に向かえられました。蘭渓道隆は、中国宋時代の純粋で厳しい禅をそのまま導入し、建長寺を天下の禅林として多くの僧を集め、中国文化の受容、勉学の場として一時は千人を超える修行僧を指導しました。その教えは現在国法として寺に残る「法語規則」に見ることができます。
「鞭影を見て後に行くは即ち良馬にあらず、訓示をもって志を発するは実に好僧に非ず~」 「法語規則」
蘭渓道隆はその後、京都の建仁寺、甲斐のの東光寺等にも移り、弘安元年(1278)に再び建長寺へ帰り、66歳で亡くなり、後宇多天皇より大覚禅師という禅師号を賜りました。これは日本で最初の禅師号です。尚、建長(けんちん)汁は建長寺発祥の料理です。
北条時頼は、建長寺を建立し、大覚禅師や、第二住職ごつあんふねい(兀菴普寧)に師事し、禅の教えに深く帰依しました。また、時の権力者として経済的にも建長寺を支え、全国的に禅宗を広め、自らも出家して法名を覚了房道崇と名乗りました。
平成27年1月7日 妻と鎌倉を歩く 主だった所を紹介 スケールの大きさに驚く また当初の建立からいろいろ進化しているのが少し寂しい気がする 半僧坊は別次元の様相で面白かった 栢槇の太さに目を見張る。御瀬崎のそれは千年とも二千年とも言われているが海の荒波荒風にもまれてそんなに大きくないが木肌のつるつる感が樹齢を語っているのかな |
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総門 巨福門(こふくもん)とも言い、天命三年(1783)年に建立された京都の槃舟三昧院の、門を昭和15年に移築しました。額の『巨福山』は建長寺第十世住職一山一寧の筆によるもので、巨の字に筆勢による1点を加え、百貫の価を備えたものと言い、世に百貫点といいます。方丈もその時に、移設されました。 |
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山門 三解脱門の略で、楼上に五百羅漢などを安置しその下を通ると心が清浄になることを祈念しています。 |
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栢槇(びゃくしん) 仏殿の前栽として山道の両側に7本の栢槇がある。この庭は中国宋代の前庭様式を踏襲したもので、古木のなかには幹回りが7メートルのものもあり創健当時から760年もの歳月と幾度かの火災を生き抜いた貴重なもの |
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仏殿 当寺の本尊地蔵菩薩を安置し、法要を行うお堂。正保4年(1647)に東京・芝の増上寺より、徳川二代将軍秀忠の夫人でおごう(小督)の方の霊屋を移設したもの。 |
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法堂(はっとう) 法堂とは住職が仏に代わり須弥壇上で説法するためのお堂。本来、仏像は祀りませんが千手観音菩薩を祀っている。 1814年に再建され、木造建築では関東最大 |
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手前が釈迦苦行像(パキスタンイスラム共和国より奉納)愛知万博2005の後寄贈 |
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天井画 雲龍図 平成15年横河電機の寄進 |
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唐門、方丈、庭園 |
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唐門 |
方丈 |
大覚禅師の作庭 |
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半僧坊 境内奥の山の中腹に、建長寺の鎮守・半僧坊大権現が祀られている 1890年第二百三十五世住職が静岡県奥山方広寺より勧請したもの 冨士山や大島が眺望出来る |
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その他 | |
白隠の禅画 |
文殊菩薩 |
開山大覚禅師 法語規則
ノチ メ
鞭影ヲ見テ後ニ行クハ即チ良馬ニ非ラズ訓辞ヲ待テ
ヒンテイオナジ
志ヲ発スルハ実ニ好僧ニ非ラズ、諸兄弟同ク清浄ノ
スデ キカン マサ ジ
伽藍ニ住シテ己ニ飢寒ノ苦シミ無シ當ニ此ノ事ヲ以
コ オモ コヽ モ ガンコウマサ シャ
テ茲レヲ念フコト茲ニ在ルベシ、若シ眼光将ニ謝セ
トキ ハナハダ コノユエ イワ タ ト
ントスルノ時、其ノ害甚重シ、所以ニ古人道ク直
ナンジ カ ブンジョウ
ヒ汝諸子百家三乗十二分教ニ通ズルモ汝ガ分上ニ於
スク ム ロ ドウ キワ
テ並ニ済フコトヲ得ズ、若シ無漏ノ道ヲ体メバ現在
コウヤク ナ カ ム ロ ソ モ サン
當来、誠ニ廣益ヲ為サン、且ツ無漏ノ道、作モ生カ
キワ シ ガイ ヒ ショウショウケケ キショウ トメ
体メン、毎日一箇ノ屍骸ヲ施イテ上々下々喜笑怒罵
サラ コ タ コヽ コウベ メグ
更ニ是レ阿誰ソ百人ノ中、真実此ニ於テ頭ヲ回ラシ
ヘンショウ スクナ ワズカ スナワ シンク
返照スル者鮮シ、纔ニ不如意ノ事有レバ便チ瞋詬シ
カク タヾ
テ行ク、此ノ如キノ者何ゾ止一二ノミナラン、参禅
ベンドウ タダコ ジ ア モクヨク
辨道ハ只此ノ生死大事ヲ了センガ為ナリ、豈ニ沐浴
ホウカ ホシイママ ランマン ベケ シュ
放暇ノ日モ便チ情ヲ恣ニシテ懶慢ス可ンヤ、長老首
ソ ク ク ツト オコナッ タ
座区々トシテ力メ行テ誰ガ家ノ事ヲ為スト云フコト
ブッケ サ カ シンセ ジキ イヤシ ケンショ
ヲ知ラズ、佛袈裟ヲ挂ケ信施ノ食ヲ受ク苟モ見処無
タ ジ タイカクヒ モウセンショウ マンゴウタ ツグナ
クンバ佗時戴角披毛千生、万劫佗ニ償ヒ去ルコト在
ノチ モクヨク コ シメイ ニ コウ
ラン、今ヨリ後、沐浴ノ日モ昏鐘鳴ヨリ二更ノ三点
シ コウ テン ギョウショウ
ニ至リ四更ニ転シ暁鐘ノ時ニ至ルマデ並ニ座禅ヲ要
キ オモム バッ
ス、堂ニ皈セズ寮ニ趣ク者ハ罰シテ院ヲ出サン、堂
ジ ホヾ テイ オノオノヨロシ ミズカ
中行フ所ノ事略一二ヲ呈ス、各々宜ク自ラ守ルベシ、
キ オカ ナカ コヽ ブ モン テイブン
此ノ規ヲ犯スコト勿レ、謹シンデ屯ニ奉聞スル的文
グ アラ
具ニ非ズ、
住山 蘭渓道隆 白ス
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臨済宗 円覚寺派本山
鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました。
円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことからといわれます。また山号である「瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます。無学祖元禅師の法灯は高峰顕日禅師、夢窓疎石禅師と受け継がれ、その法脈は室町時代に日本の禅の中心的存在となり、 五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。
以上、円覚寺HPより
keidai_guide_map.pdf へのリンク | |
平成27年1月7日 鎌倉を歩く。 |
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山門 三門は三解脱(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払って涅槃・解脱の世界である仏殿に至る門とされています |
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仏殿 仏殿は、円覚寺のご本尊が祀られている建物です。大正12年(1923)の関東大震災で倒壊しましたが、昭和39年(1964)に再建されました。禅宗様式の七堂伽藍の中心に位置する建物です。開山毎歳忌、達磨忌、臨済忌、祝聖などの行事や毎朝の暁天坐禅が、ここで行われています |
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本尊 宝冠釈迦如来坐像 |
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選仏場(坐禅道場) |
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元禄12年(1699)に伊勢長島城主松平忠充が、江戸の月桂寺・徳雲寺住職一睡碩秀の薦めにより、大蔵経を寄進するとともに、それを所蔵する場所と禅堂を兼ねた建物として建立されました。
南北朝時代のお像で、もとは円覚寺近郊にある八雲神社の境内に あった薬師堂に祀られていました。大正時代に神社で火事がありお堂は焼けましたがお像は救出されて円覚寺に遷されたとのことです。 |
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薬師如来像 |
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舎利殿 | |
には、源実朝公が宋の能仁寺から請来した「佛牙舎利」というお釈迦様の歯が祀られています。鎌倉時代に中国から伝えられた様式を代表する、最も美しい建物として国宝に指定されています。 | |
白鹿洞(びゃくろくどう) | |
山号である「瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます | |
聖観世音 | |
方丈 | |
本来は住職が居住する建物を方丈とよびますが、現在は各種法要の他、坐禅会や説教会、夏期講座等の講演会や秋の宝物風入など、多目的に使われています | |
弁天堂 | |
江ノ島弁財天の加護によって洪鐘の鋳造が完成したと伝えられ、その弁財天を祀るお堂です。北条貞時が洪鐘とあわせて弁天堂を建立し、当山の鎮守としました ここで甘酒を飲んで一息 向に見える山は何だろう。箱根か? |
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国宝 大鐘 | |
関東で最も大きい洪鐘(高さ259.5cm)で、国宝に指定されています。円覚寺の開基である北条時宗の子である貞時が正安3年(1301)、国家安泰を祈願して寄進したものです |
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山内上杉家の祖、関東管領・上杉憲方は密室守厳を開山として、明月院を開創した。憲方の没年は応永元年(1394年)で、それ以前の開創である。
明月院は、禅興寺という寺の塔頭であったが、本体の禅興寺は明治初年頃に廃絶し、明月院のみが残っている。
禅興寺の起源は鎌倉幕府5代執権・北条時頼にまで遡る。時頼は別邸に持仏堂を造営し、最明寺と名付けたが、時頼の死後は廃絶していた。時頼の息子の北条時宗は蘭渓道隆を開山としてこれを再興し、禅興寺と改名した。
現在は、「あじさい寺」として有名で、花のシーズンにはたいへんな混雑をみせる。この寺でアジサイを植えたのはさほど古い事ではなく、「手入れが比較的楽だから」という理由で第二次世界大戦後に植えたものが次第に有名になったという。アジサイの他にも1年中花が絶えず、紅葉でも知られる。他に冬は蝋梅、春は梅と桜が咲き誇る。 ・・・以上ウキィペデア
今回、1月7日に訪れたため、本来の寺の良さは堪能できず、とりあえず簡単な紹介にします。
兎の小屋があり、鳥の巣箱があり、庭園の美しさが印象に残りました。
北条時頼公募所 | |
本堂 | |
枯山水庭園(本堂の手前) | |
開山堂 | |
このお堂は禅興寺隆盛時代(1380年ごろ)明月院の境内の中に建立されていた宗猷堂(そうゆうどう)を後に開山堂としたもの。 堂内中央には建長寺開山(創始者)蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の五代目の法孫で当院開山密室手厳禅師の木像、向かって左に最明寺・禅興寺 当院の歴代住持の位牌が祀られている |
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兎の置物があちらこちらに目立つ 兎小屋には4匹のウサギがおり (月に兎の関係らしい) このウサギの 名前は 「サラ」 一瞬 我が家のウサギのケチャが何故ここに? よく似ている |
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此方は我が家の兎 名はケチャ |
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平成27年5月1日
風薫る五月晴れに、早々と鎌倉に。今回は東鎌倉をメインに歩きました。
寿福寺から海蔵寺、源頼朝の像のある公園から銭洗い弁天、鎌倉アルプスを歩いて大仏殿
長谷寺から由比ヶ浜をみて成願寺、極楽寺を参拝
天気が良く、ゴールデンウイークが始まりかなり混んでいたがあわただしく寺や新緑の中ツツジや牡丹、シャクナゲなどいろいろな花を眺めて歩きました。
臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山第3位の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。鎌倉三十三観音第24番。鎌倉二十四地蔵第18番。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)3月22日、国の史跡に指定された。
、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。
政子の墓 |
実朝の墓 |
高浜虚子の墓 |
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神奈川県鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は扇谷山(せんこくざん)。本尊は薬師如来。
建長5年(1253年)に宗尊親王の命により藤原仲能が創建し、鎌倉幕府滅亡時に焼失、応永元年(1394年)に上杉氏定の開基、心昭空外を開山として再興されたと伝えられる。
薬師如来 |
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「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121tを測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏(盧舎那仏)に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有しています。北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252(建長四)年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていません。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334(建武元)年および1369(応安二)年の大風と1498(明応七)年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができます。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐)の喜捨を得た祐天※・養国の手で復興をみました。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めています。
高徳院(詳名: 大異山高徳院清浄泉寺)は、法然上人(1133~1212年)を開祖とする浄土宗の仏教寺院です。法然上人は、善悪、男女、年齢、身分などの別なく、万人の救済を本願とされる西方極楽浄土の教主、阿弥陀如来に帰依されました。人は誰しも「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)」と称えれば、その御加護に与ることができ、臨終に際しては極楽浄土に迎え入れていただける。これが法然上人の説かれた浄土宗の教えです。
与謝野晶子の歌碑 |
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神奈川県鎌倉市にある浄土宗系統の単立寺院。山号を海光山、院号を慈照院と称し、長谷観音と通称される。本尊は十一面観音、開山は僧侶の徳道とされる。坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所である。
寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。
観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれており、入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっております。また、その周辺にとどまらず、境内全域は四季折々の花木に彩られ、通年花の絶えることのないその様相は、「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ぶに相応しい風情を呈しております。
輪蔵 |
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本堂 十一面観世音菩薩は日本最大級の木像の仏像 その大きさに圧倒される |
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眺望散策路から |
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左は阿弥陀堂 下は阿弥陀如来坐像 |
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牡丹が咲いていた その他いろいろな花が咲き、花も楽しめる |
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神奈川県鎌倉市にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は普明山。寺号は法立寺。本尊は不動明王。アジサイの寺として知られる
空海(弘法大師)が諸国巡礼の折、百日間にわたり虚空蔵求聞持法(虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える修行)を行ったところと伝えられる。 承久元年(1219年、承久3年説もある)、三代執権の北条泰時がこの寺を創建し、北条一族繁栄を祈ったという。元弘3年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に再建された。
寺の東方、鎌倉十井の一つ「星ノ井」(星月夜ノ井)のそばにある虚空蔵堂(星井寺)は成就院が管理する境外仏堂である。
弘法大師立像 | |
聖徳太子1300年 記念に作られる | |
子安地蔵菩薩 | |
本尊簿分身 縁結び不動明王 (韮山にある願成就院の運慶の作にそっくり) 虚空蔵堂のあることに特徴を見出す |
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頼朝、政子などに関しての【守山周り】や【函南仏の美術館】で紹介している以外にも近場の仏教美術館を知り、ここで紹介してゆきます。
||河津の平安の仏像展示館||上原仏教美術館||蓮台寺の大日如来坐像|函南仏の美術館||守山周り||小山の観音菩薩||
平成27年6月30日訪問
以下,HPより抜粋
〒413-0515静岡県賀茂郡河津町谷津138番地
河津桜と温泉で知られる河津町は、平安時代、華やかな仏教文化が花開いた土地でもありました。多くの仏像を伝える河津町にあって、最も古く、学術的、美術的に重要な仏像を多数伝えるのが、谷津の南禅寺です。2013年2月20日に、南禅寺横に「伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館」がオープンしました。 南禅寺の本尊・薬師如来坐像は、平安時代前期(9世紀)に遡る仏像で、静岡県内最古の仏像です。この時代の木彫仏像は、神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県など周辺都県でもほとんど知られておらず、この地域の歴史を考える上で極めて重要な文化財です。他にも南禅寺には、東海最古の地蔵菩薩立像(10世紀)や、1978年にドイツ・スイス・スウェーデンのヨーロッパ各地での展示会を巡り、現地新聞で絶賛された二天立像(10世紀)を始め、24体の平安仏が伝えられており、まさに仏教美術の宝庫です。「9世紀の木彫仏像は静岡県内に1体もなく、鎌倉にも1体あるだけ。それほど貴重な仏像」 かんなみ仏の美術館の薬師如来坐像も平安物では?『箱根山縁起并序』には、桑原・小筥根山新光寺という七堂伽藍をもつ大寺が建立された(弘仁8年・817年)という記載があり、桑原では薬師如来像はこの新光寺の本尊であったと伝えられています。 |
展示館内は写真撮影できず。概要は入って正面に薬師如来像があり左右に天部立像、左に僧形坐像「おびんずるさま」といい、体の悪いところを自分と仏像を触ることにより治るそうだ。そのうちこういったことはできなくあるという話でした。 奥の正面左に地蔵菩薩立像、その右に十一面観音菩薩像がほぼ原形で残されているのか。他はぼろぼろの仏像で原形をとどめず。 薬師如来坐像(本尊) 一木造・彫眼 座高117.7㎝平安時代 とうたい幹部頭体幹部(頭部と体の主要部分)を カヤの一木で作り、両腕から肘、両脚部を別材で作り剥ぎ合わせてある。 寺伝では奈良時代の行基の作とされるが実際の制作年代は平安と考えられている |
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平成27年6月30日見学
〒413-0715静岡県下田市字土金351 ℡0558-28-1216
概要 (パンフレットより) 仏教美術の素晴らしさと奥深さを広く一般の方々に知って頂き後世に伝える目的として、1983年5月、曹洞宗管長、永平寺76世、故秦慧玉禅師のご厚意と、大正製薬株式会社名誉会長、故上原正吉・小枝ご夫妻の寄附により、夫人の郷里、下田市宇土金に上原仏教美術館が開館されました。
一木造の仏像百二十余体を常設展示するほか、古写経等の所蔵美術品は特別展や企画展の期間に展示公開しております。わが国でもめずらしい仏教美術専門の美術館であり、仏像彫刻、写経の講習会や講演会の実施、文化財等、仏教美術に関する調査活動など、幅広い文化活動を通して、教育文化の発展に寄与するよう努めております。
上原仏教美術館は、展示室改修工事のため、2015年(平成27年)10月1日より2017年度までの期間、長期休館いたします。
休館期間:平成27年(2015)10月1日~平成29年度(2017) ※予定
オープン予定:平成29年度
感想 大方の写真は撮れる。仏蔵の基礎知識はここで可能の気がした。
竹内勝山の作品が多く、この人の展示場かと思われる。作品を通し、如来、菩薩、明王、天部などの知識、印の種類の概要が解りやすい。
竹内勝山・・・
1865年(慶応元年)山形県生れ 1937年(昭和12年)九州国東半島行脚先で没 没年73歳
幼少時代に僧籍に入り、雲水となって諸国を行脚するうち仏像の魅力が勝山を捉え、一念発起仏像彫刻の道に入った。その後、明治末期から約30年間信州善光寺に仏所を構える当時仏師の第一人者 山崎五左衛門の薫陶を受けて技を磨き、百数十体に及ぶすくれた作品を遺している。
入口正面に日枝神社、その右に達磨大使、右奥に上原美術館 地蔵菩薩が多数並び歴代の総理大臣の名前があり、政界とのつながりが解る 仏像美術館の入り口には夫婦の立像がある。 |
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館内の様子 130点ほどの作品が展示されている 一部を載せました |
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仏像の見方(チラシをもらう 参考になるのでここに掲載)
お不動さん(不動明王) 目に見える曼荼羅の尊像や彫像として請来したのが空海。具体的には『秘蔵記』に「五忿怒(ふんぬ)をもって五智に相宛(かつ) (五大明王を五仏・五菩薩にあてて説く)
如来-菩薩-明王各々の三輪身
大日如来-般若菩薩-不動明王
あしゅく仏-金剛サッタ-降三世明王
宝生仏-金剛蔵王菩薩-軍荼利明王
無量寿仏-文殊菩薩-代威徳明王
不空成就仏-金剛牙菩薩-金剛夜叉明王
東寺の立体曼荼羅で見ることのできる五大明王は以上のもの
1.如来(一番偉い仏様)
如来の姿
肉髻(にっけい)・・・頭の上にお椀を伏せたようなもりあがりがある。普通の人より賢いことを表しているとも言う。
螺髪(らほつ) ・・・天然パーマ。頭にタニシが張り付いたように見える。
白毫(びゃくごう)・・おでこに推奨などで作られた丸いものがついている。白い長い毛が天然パーマなので丸まっている。
粗末な着物・・・・・・飾りも、模様もない粗末な着物を着ている。
全身金色に輝いている
その他・・・・・・・・・・手足の指と指の間は河童の様な水かきがある。舌は長く、顔全体を覆うことができる。
如来の種類
阿弥陀如来・・・・・・指で輪を作っている。極楽浄土に住み亡くなる人を迎えに来る
薬師如来・・・・・・・・薬ツボを持っている
釈迦如来・・・・・・・・仏教を開いた方。親指、人差し指が伸びている。
2.菩薩(如来を目指して修行中)
菩薩の姿
菩薩はインドの王子だったころのお釈迦様の姿をモデル、長い髪を結いあげた当時流行のヘアースタイルで、全身にたくさんのアクセサリーを身に着けている。普通は蓮の花に乗っているが、獅子や象などの動物に乗ることもある。手に持物を持つがそれは菩薩を知るときの大切なヒントになる。
体の特徴は、如来と同じ白毫がある。手が長くて膝の下まで届く。
菩薩の種類(持物や手や頭の数、乗り物で区別)
観音菩薩・・・・・蕾の蓮と、水差しををもっている。頭の宝冠の正面に小さな仏像がついている。人々の苦しみから救い、どんな願い事も聞き届けさまざまな姿に変身。
千手観音、十一面観音、馬頭観音(頭の上に馬を乗せ、怒った顔をしている。動物lを守る。)
文殊菩薩・・・・・獅子の上に乗っている。釈迦如来のお供で智慧の菩薩。手にした剣や巻物は智慧の力を表す。
普賢菩薩・・・・・象の上に乗っている。法華経と言うお経を信じる人を守る。美男子で、女性を守る菩薩でもある。
弥勒菩薩・・・・・やさしい顔で塔をどこかに持っている。救世主で56億7千万年後にこの地上に現れる。
地蔵菩薩・・・・・坊主頭は菩薩の例外。手に願い事をかなえる宝珠という玉と、歩くための杖(錫杖)を持っている。世界のあちこち、地獄まで歩いて苦しむ人を救う。子供の守り神でもある。
3.明王(悪を導く如来の化身)
姿 激しい怒りの姿が特徴。炎を表す火焔光背を背にしている場合が多く、たくさんの手や顔を持つ者もおおく、手に様々な武器を持っている。
明王の種類
不動明王・・・・・右手に剣、左手にロープを持ち、迦楼羅(かるら)という火の鳥で出来た炎を背にする。明王の中で最も強い力をもち人々を邪悪なものからまもる。
大威徳明王・・・水牛にまたがり、足が6本ある。(だいいとくみょうおう)
降三世明王・・・足の下に二人の男女を踏みつけている。踏まれているのは古代インドの最高シヴァ神と妃)(ぐんだりみょうおう)
軍荼利明王・・・8本の手にヘビが巻きついている。軍荼利とは古いインドの言葉で「クンダリニー=生命のもと」
金剛夜叉明王・8本の腕に3つの顔、さらに5つの目を持っている。(こんごうやしゃみょうおう)
愛染明王・・・・・花瓶の上に蓮の台を乗せ、その上に乗る。さらに頭の上に獅子が乗っている姿。この愛染明王は、仏教の愛の仏。もともとは全身真っ赤でキューピットと同じく弓矢を持っている。
孔雀明王・・・・・孔雀に乗り、やさしい顔をしていて、明王の例外。やさしい姿ですが、猛毒のコブラの毒さえも消し去り、蛇を寄せ付けない不思議な力と、あらゆる敵を降伏させる強い力を持っている。
4.天部(もともと仏教の仏ではなく、仏教が生まれたインドや、中国、日本などの各地の神が仏教に取り入れられたもの。)
仁王(金剛力士)・・・・・寺に侵入する魔物や悪を追い払い仏や心が正しいものを守る
吉祥天立像・・・・・・・・・仏教の美と幸運の女神で絶世の美女。毘沙門天の奥様でもある
毘沙門天・・・・・・・・・・・東西南北をまもる「四天王」のリーダーで、北を守る。邪悪なものから仏や人々を守り、人々に豊かな実りや財宝を与える福の神でもある。七福神のメンバー
阿修羅・・・・・・・・・・・・・元々は争いや殺し、戦争を好む神でしたが、仏の教えを聞き改心し、仏や人々を守る。。奈良の興福寺が有名。
韋駄天(いだてん)・・・神々の中で一番足が速く、泥棒を捕まえると言う。お寺の入り口に祀られている場合がある。
弁財天・・・・・・・・・・・・弁論や音楽、芸術の神、財宝を与える神でもある。
七福神
恵比寿は日本の神、大黒・毘沙門天・弁財天はインドの神、布袋・寿老人・福禄寿は中国の神
十二神将
十二体の将軍たちは薬師如来を守る。それぞれに五千人の部下がいるらしい。それぞれ干支を頭に載せてそれぞれの守り神でもある
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リニューアル1周年記念 特別展 「伊豆の平安仏」(半島に花開いた仏教文化)のパンフレットを沼津市立図書館にて目にし、また昨日の静岡新聞にその近場の蓮台寺温泉の天神神社の祭りの紹介と「大日如来坐像と四天王像」の記事があり出かける。
仏教館 仏像ギャラリー前回訪問した時よりまとまって展示されているのかな、あまり変わり映えがしないがリニューアルしているらしい。今回の目玉平安仏を以下に載せました。
特別展は平安時代の仏像を中心に、35年にわたる伊豆半島の仏教美術の調査結果を紹介。古刹(こさつ)や地域の協力で貴重な仏像19点、21体を展示した。松崎町松尾区の不動明王立像と、法雲寺(下田市)の如意輪観音像はともに60年に1度開帳する秘仏。金龍院(伊豆市)の千手観音像は伊豆半島最古と考えられている。
下田市の古刹、曹洞院に客仏として安置(失われた廃寺・光明寺の旧本尊) 一木造り 薬師如来とニ天立像 平安後期の像らしい |
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如意輪観音座像 東日本最古 法雲寺 一木造り 60年に一度開帳される秘仏 |
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不動三尊像 松尾不動堂 60年に一度開帳される秘仏 平安時代か鎌倉か |
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不動明王座像 大平の旭岳の籠源寺が廃寺になり金龍院に移された 滝に打たれる修験者の守護仏 10世紀後半の作品 |
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千手観音立像 大平の旭岳の籠源寺が廃寺になり金龍院に移された 伊豆最古の千手観音 11世紀の像 |
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観音菩薩立像 観音寺 下田市最古の仏像 以前は60年に一度開帳される秘仏 |
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観音菩薩立像 林際寺 謎に満ちた千年のみほとけ 10世紀 |
近代館のラウンジより
上原美術館の後訪れる。蓮台寺温泉の細い道路を登って行くと天神神社がありその107の階段を上ると神社の左側にある。蓮台寺と言う寺は1219頃廃寺になりその本尊と伝えられているらしい。当日は其の地区の祭りで駐車場を探すのが大変である。静かな温泉場も老若男女内揃、素朴な山車や神輿が繰り出し趣がある。擦れていない様子がうかがわれた。残してほしい、残ってほしい村祭りと思う。以下にその仏像を載せました。
大日如来座像 国指定重要文化財 丸顔でおだやかな顔。平安後期の古風を遺す鎌倉前期彫刻の特徴を宿す伊豆の名宝 四天王像 増長天 南方の守護神 戟(げき)を持つ 増長・増大させる力を持つ 像高131㎝ 広目天 西方の守護神 筆と巻物を持つ あらゆるものを見通す知恵を持つ 多聞天 北方の守護神 戟と宝塔をもつ 仏の説法を多く聞いたもの 持国天 東方の守護神 「国を支える者」の名を持ち国家安泰を司る |
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帰りに 竜宮窟による そのスナップを載せました。
20181010静岡新聞に子安観世音菩薩(小山の興雲寺)が明日まで開帳されている記事を目にして早々に出かける。60年に一度の開帳らしいが一説には100年ぶりの開帳とも。記録が無く定かでないらしい。足柄駅の近くの竹之下と言う地名で新田義貞と足利尊氏とが合戦したところ。最初は光雲寺と言い、弘法大師が建立しその後寺は1536年真言宗から曹洞宗に光雲寺から興雲寺に改宗改名し今日に至っているとのこと。御本尊は鎌倉仏師運慶が難産の為非命の死を遂げた妻の霊夢に感じ一念発起作り上げたと言われている。
子安観世音菩薩 『わがすがた水にうつしてのむならば産苦にかえて親子たすけん』 |
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竹之下合古戦塚 |
竹之下合戦戦没者供養塔 |
十六阿羅漢像(半分) |
四十八観世音菩薩(半分) |
興雲寺に行く途中に円通寺の馬蹄観音の標識を目にして帰りに立ち寄る。金時山を見上げる静かな高台にある。以前から馬頭観音の存在を知るにつけ馬が観音様になるなんて如何なものかと漠然と思っている。馬頭観音の碑は富士の須走五合目や沼津アルプスの山中にも見かけた。昔は馬が如何に貴重なものだったと思われる。2014年60年に一度の御開帳があったらしい。
予備知識が無く訪問、とりあえず境内のスナップを載せました。
平成27年6月18日記
最近の国会の話題は集団的自衛権につき国会で証言した憲法学者三名の見解が違憲とのことで、政府の立場が苦しくなっている。諸々の案件につきよく理解できないところが多々あり、自分なりに憲法九条の意図するところ、過去の判断、解釈の最高裁の判決は如何様だったか、(自衛隊の存続自体が違憲かも、)現行法の限界と、改憲の必要性の有無などを整理してみようと思う。
以前新聞の記事で高村薫の記事が有り、その中で以下の様なことを言っていた。
・・・集団的自衛権の必要性は全く理解できない。そもそも憲法って解釈するものでしょうか。今の時代、世界の軍事大国・米国を攻撃する国があるのか。その米国を日本が守る。すべて妄想としか思えない。憲法は時代を超えて私たちの思考の基礎になるもの。その時々の人が解釈するものを憲法とは呼ばない。改憲解釈こそ妄想の最たるもの。改憲解釈を急ぐのは尖閣問題で緊張する中国の存在が有るらしいが、もとは尖閣の日本国有化が端を発している。靖国参拝が火をつけた。本来日本の外交努力で解決する問題。集団的自衛権行使が認められれば米国の戦争に巻き込まれ自衛隊員に死者が出る。あるいは自衛隊員が他国の兵士を殺害する。これに対し始めて拒否反応が出て、妄想から覚める。
||9条とその解釈その動向||集団的自衛権||安保法案の経過||70年談話||
憲法九条とは
日本国憲法第9条は、第1項で「戦争の放棄」、第2項で「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を定めている。[
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第二次世界大戦の戦禍は日本を含め世界の人々に大きな悲しみをもたらした。その悲惨な体験と深い反省に基づき、日本は平和主義を基本原理として採用した。それまで世界でも戦争廃絶の動きはあり、第二次世界大戦後、侵略戦争を制限・放棄する憲法は他国でも見られた。しかし、日本国憲法は、侵略戦争を含めた一切の戦争と武力の行使及び威嚇を放棄し、戦力の不所持を宣言し、国の交戦権を否認している。これら3点の比類なき徹底された戦争否定は、世界的に珍しい。
現在の解釈について某HPより以下を抜粋、疑問点の本質を探した
戦争の放棄
2つの説で争われてる原因の1つとして「国際紛争を解決する手段としては」と言う文面の解釈である。限定放棄説では「武力による威嚇又は武力の行使は」のみにかかると解釈しているのに対し、全面放棄説では「国権の発動たる戦争と」にもかかっていると解釈している。
戦力の不所持
第9条第2項は、陸海空軍その他の戦力の不所持を規定している。この戦力とは何なのか、自衛隊の合憲性と関係して最も争われてきた。
戦力の解釈について、通説では、軍隊と有事の際にそれに転化しうる実力部隊を戦力としている。軍隊とは、外敵からの攻撃に対し実力を以てこれに対抗し、国土を防衛するための組織である。この解釈を一貫させると、現在の自衛隊は戦力に該当すると言わざるを得なくなる。
しかし、現在の政府見解において、「自衛隊」はこの戦力にはあたらない組織だと解釈されている。それは自衛権の概念があるためであり、自衛隊の合憲性の解釈は以下の通り。
自衛権は、国家固有の権利として日本国憲法第9条の下でも否定されていない。
自衛のための必要最低限度の実力を保持することは、憲法上許されている。
自衛隊は、必要最低限度の実力であり戦力ではないため、合憲である。
自衛権:外国からの急迫または現実の違法な手段に対して、自国を防衛するために必要な一定の実力を行使する権利。個別的自衛権と集団的自衛権がある。
交戦権の否認
「国際紛争を解決する手段としては」と言う文面に穴があるとする解釈もある。簡単にいえば、「国際紛争を解決する手段」でなければ戦争してもいいし、戦力を保持してもいいとする解釈である。
まず第1項では「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と書かれているが、これは裏を返せば『「国際紛争を解決する手段」でなければ、「国権の発動たる戦争」「武力による威嚇又は武力の行使」は放棄していない』とも言えてしまう。また、第2項は「前項の目的を達するため」とあることから、「国際紛争を解決する手段」でなければ戦力を保持してもいいとも言える。
限定放棄説なら無理やり自衛戦争のことと解釈できなくもないが、全面放棄説の場合、この部分の解釈が不可解なことになる。これは全面放棄説が「全ての戦争は国際紛争を解決する手段である」と言う大原則がなければ成立しないためである。
この解釈自体が表に出ることが無いため、「国際紛争を解決する手段」以外の戦争が発生すること自体あり得ないと言うのが一般論となっている
憲法改正論議
日本国憲法の制定過程
1945年8月 軍国主義を取り除き民主的な国になるよう求めたポツダム宣言を受け入れ降伏、大日本帝国憲法は見直しを迫られ、政府は改正案作りに取り掛かる。
民主化に向けた取り組みが十分でないと判断した連合軍総司令官(GHQ)は独自の草案をしめし、これに基づいて憲法の成立。9条を考えたのはGHQ草案を作る際、最高司令官マッカーサーが示した戦争放棄、戦力不保持、交戦権がないことと言われているが、この三案は当時の首相幣原喜重郎から提案があった言われている。軍国主義を取り除くための武装解除の目的以外に天皇制の維持のもと占領政策を進めるためその廃止を求める国々に対して先手をうち平和主義にもとづく憲法を作ってソ連などの批判を抑える目的もあった。
1946年4月に発表された政府の草案に対しての世論調査によれば戦争放棄の条項を『必要』と答えた人は70パーセントを占めた。「押しつけ」と捉えられる憲法も多くの国民が9条の理念を積極的に評価し、支持していたとも言える。
9条をめぐる動き
1946.11 日本国憲法公布
1947.11 日本国憲法施行
1950.08 警察予備隊発足 米国とソ連の対立し日本に再軍備を求める
1951.09 サンフランシスコ講和条約、日本が独立を回復、同時に日米安保条約も締結、米軍基地が国内に駐留
1954.07 自衛隊が発足 9条が他国の侵略を防ぐ自衛権までは否定と主張
1960.06 新日米安保条約 日本が米軍に基地を提供する一方、米国が日本の防衛義務を負う
1967.04 佐藤栄作首相が武器輸出三原則を表明
1989.11 ベルリンの崩壊 冷戦の終結
1990.08 イラク軍がクエート進攻
1991.01 湾岸戦争 9条の制約より自衛隊派遣を見送る
2001.09 米中枢同時テロ テロ対策特別措置法が成立、翌月に海上自衛隊をインド洋に派遣
2003.03 イラク戦争開戦 6月武力攻撃事態法など有事関連3法案成立
2004.01 自衛隊イラク派遣
2007.01 防衛省発足
2007.05 憲法改正のための国民投票法成立
2012.04 石原慎太郎東京都知事が尖閣諸島購入の方針表明
2012.09 日本政府が尖閣国有化 中国で反日デモ激化
2012.12 自民大勝 第二次安倍政権発足
2014.01 安倍晋三首相が施政方針演説で集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更に意欲を示す
9条の解釈の遍歴の私感
終戦後の日本国憲法、特に9条の解釈などは常にアメリカの日本に対する要望により、変ってきている事が解る。戦後の日本国民にとり戦争放棄は悲惨な体験をした国民に撮り、玉虫色の憲法であったことは事実である。しかし、朝鮮戦争が始まればアメリカの要望、圧力により警察予備隊と言う自衛隊の卵が産まれ、安保条約により日本はアメリカの傘のもと沖縄の基地の提供の見返りにこれまで来たが、湾岸戦争、イラク戦争をへて9条のもと集団的自衛権の行使は出来ずに、金を提供することで国際社会の一員として貢献するしかない。テロ特別法、有事関連法など特別法で対応してきた面も見過ごすわけにはいかない。その裏にアメリカの日本に対する圧力があったことは当然である。近年はアメリカ国内は世界の番人として巨額な費用を伴う政策に批判が出ており、そんな中でおそらく日本にその肩代わりを求めてきてもおかしくはない。中国の台頭は、アメリカに次ぐ軍隊規模になり、最近の南沙諸島におけるふるまいを初めアメリカの世界の番人と言う顔は影が薄い。日本に対する肩代わりの要望はますます強くなり、日本も中国の尖閣諸島による揺さぶり、ロシアの北方領土、韓国との竹島、北朝鮮の脅威もあり、政府はアメリカの期待を得てこれらの問題に対処して、日米安保条約を盾にするしかないと判断しているのでは。憲法違反の有無は二の次でまず政策ありき、その後に解釈変更で逃げ切ろうと言う意向か。憲法改正には時間がかかる。集団的自衛権容認を含む安保体制法案が成立すれば間違いなく国際紛争に巻き込まれ、敷いては戦争につながるのが避けられない。戦争法案と言われる所以である。戦後の玉虫色の憲法からアメリカに振り回され憲法の前にまずアメリカの傘の安全のもと要望の圧力に振り回されてきたが戦後70年アメリカの意向ばかりでなく日本の国際社会におけるあるべき姿を模索する時が来たのかも。
ある国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するというところにある
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
— 国連憲章第51条
日本は従来9条をめぐる解釈で「専守防衛」の範囲を超え、行使は認められないとされてきた。1981年に『集団的自衛権の行使はわが国を防衛するための必要最低限度の範囲を超えているので、憲法上許されない。』との政府答弁書を差し、政府見解が確立された。これに対し個別的自衛権は他国が日本を攻撃してきたとき、この国に対して反撃する権利であり、正当防衛で、当然に認められるとしている。9条の規定から一定の制約があり自衛権を発動するには「①我が国に対する急迫不正の侵害がある②他に適当な手段がない③必要最低限度の実力行使にとどまる」の三条件にいずれも当てはまらないといけないと政府は説明。集団的自衛権は①が当てはまらないから許されないという解釈である。北朝鮮や中国の尖閣の問題、ロシアの北東領土の問題などから安倍政権は「一国のみでは自国の平和と安全を守れない」と行使の容認を目指す理由を説明。日米同盟強化が最大の目的。集団的自衛権が認められれば、自衛隊は海外での武力行使も可能になり9条は実質的に何も禁じないことになり削除と同じ。解釈変更でなく憲法改正によるべきと主張する人も多い。
★政府の護憲の根拠と言う砂川事件とは
砂川事件(すながわじけん)は、砂川闘争をめぐる一連の事件である。特に、1957年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件を指す。
当時の住民や一般の人々ではおもに「砂川紛争」と呼ばれている。全学連も参加し、その後の安保闘争、全共闘運動のさきがけとなった学生運動の原点となった事件である。
また、砂川事件の最高裁判決は、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の行使において統治行為論の要素を取り入れたものとして注目されている。
1959年(昭和34年)12月16日、最高裁判所大法廷判決(この判決が示されるに当たり、アメリカの圧力があった事が判明している)
憲法9条はわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定していない。
憲法9条はわが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら否定していない
憲法9条2項にいう「戦力」とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使する戦力をいう
外国の軍隊は憲法9条2項にいう「戦力」に該当しない
(旧)日米安全保障条約は憲法9条に一見極めて明白に違反するということはできない
最近の政府の動向
政府は平成26年7月1日、国家安全保障会議及び閣議において、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」を決定しました。
国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について(PDF)
政府は平成27年5月14日、国家安全保障会議及び閣議において、平和安全法制関連2法案を決定しました。
○ 平和安全法制整備法 我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律
★新たな安保法制とは
静岡新聞『新たな安保法制で拡大する自衛隊活動』の記事より
○国際社会の平和・安全にたいしての影響
①治安維持活動②駆け付け警護 が 「国連平和維持活動協力法」
「国連平和維持活動協力法」
国連が統括しない活動も参加可能に
国連の枠組み以外で治安維持や停戦監視、駆け付け警護が可能に
多国籍軍有志連合にたいして①給油②医療(戦場では出来ない) テロ特措法を廃止し、恒久法として「国際平和支援法」
「国際平和支援法」
多国籍軍を後方支援
国連決議や国連主要機関の指示がある活動に参加
例外なく国会の承認が必要
以上から国際紛争に対処する他国軍支援が随時可能に
○日本の平和・安全に対しての影響
個別的自衛権を「武力攻撃事態法」、集団的自衛権を「存立危機事態」として新たに定義 集団的自衛権の行使が可能
集団的自衛権「存立危機事態法」
武力行使の新三要件
㈠密接な関係にある他国への攻撃で、我が国の存続が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある事態「存立危機事態」
㈡国民をまもるために適当な手段がない
㈢必要最低限度の実力行使にとどまる
以上により集団的自衛権の行使が可能に
例 機雷掃海 臨検 艦船防護
後方支援「周辺事態法」の改正
「重要影響事態法」
「周辺事態法」
・地理的制約がある ・米軍支援のみ ・朝鮮半島有事想定
「重要影響事態法」
日本の平和と安全に重要な影響を与える事態
・日本の周辺に限らず、米軍や多国籍軍の後方支援が可能に
(グレーゾーン事態での武器等防護の対象を他国軍にも拡大)
例 給油 医療 弾薬の提供
平成27年7月12日 平和安保法制が国会で議論され、その後採決されるか 世論は否定、または説明不十分で延期の雰囲気
平成27年7月27日
衆議院で可決した安保法案は7月27日より、参議院で審議が始まる。ここで今の争点などを並べてみました。
一つは憲法の適合性の有無。二つ目は日本防衛の問題。如何なる結果になるか重要なところで見過ごすわけにはいかない。以下に表でまとめたものが有り、載せておきます。
テーマ | 法案の内容 | 論点 | |
日本防衛 | 集団的自衛権 行使 |
武力行使の新3要件を満たせば行使可能に | 野党は違憲、行使要件が曖昧と批判 |
政府は中東・ホルムズ海峡での機雷掃海も想定 | 維新は中東での機雷掃海除外を主張 | ||
重要影響事態 (旧周辺事態) |
地理的制約を撤廃。 支援対象を米軍以外に拡大。弾薬提供などの支援内容を拡充 |
日本周辺以外の地域での想定例は不透明 | |
グレーゾーン 事態対処 |
法整備せず、自衛隊の出動を迅速化させる運用改善 | 民主、維新は「領域警備法案」制定を要求 | |
国際協力 | 他国軍への 後方支援 |
恒久法で随時可能に。活動範囲を「非戦闘地域」から「現に戦闘行為が行われている現場」以外に拡大 | 野党は自衛隊員のリスク増大や「他国との武力行使との一体化」を指摘。「非戦闘地域」変更に反対 |
国連平和維持活動(PKO) | 武器使用基準を緩和し、駆け付け警護や治安維持業務を可能に | 野党は治安維持業務に反対。衆院で議論が深まらず、想定事例は示されず |
平成27年9月4日
集団的自衛権 広がる疑問
米艦防護
安倍首相・・・我が国への攻撃ではないが、それでも日本人の命を守るため、自衛隊が米国の船をまもる。それをできるようにするのが今回の閣議決定。
中谷防衛相・・・邦人が乗ってるかは判断の要素の一つであるが絶対的なものではない。
機雷除去
中東・ホルムズ海峡での機雷除去の必要性について
政府・・・輸入原油の約8割が通る海峡に機雷がまかれ、タンカーが通れなくなれば「我が国の存立が脅かされる」
イラン駐日大使・・・全く根拠のないこと
安倍首相・・・そもそも特定の国がホルムズ海峡に機雷を施設することを想定しているわけではない。中東の安全保障環境が不透明性を増す中で、あらゆる事態に万全の備えを整備してゆくことが重要。
政府の理屈に無理がある
首相の答弁を、安保法案を担当する防衛相がひっくりかえす、迷走が目立つ。それは「自国を守るための集団的自衛権に無理がある。国連憲章で認められた集団的自衛権の本質は、攻撃を受けた他国を守ることにある。
平成27年9月17日
安保法案採決に
集団的自衛権を行使する要件は曖昧
憲法との適合性にも疑問が残る
・・・憲法学者が「違憲」と指摘、内閣法制局長官OB、元最高裁長官からも批判が続出、安保環境の変化を理由とした政府の憲法解釈変更に支持は広がらない。
国際紛争対処
・・・国際平和支援法案 有志国連合も支援できるため、中東の「イスラム国に対する米軍などの軍事行動が将来的に支援対象になる可能性もある。
自民党の高村副総裁・・・国民に十分理解を得られなくとも決めないといけない
安倍首相・・・国民の理解が広がっていないことを認めながら、「法案がせいりつし、時を経ていく中で理解が広まってゆく」との見解
全国で法案反対のデモが激しくなる中、野党はもろもろの手を使い法案成立を防止するべく時間稼ぎを始めた。
17日の参院平和安全法制特別委員会で、民主が提出した鴻池祥肇委員長(自民)の不信任動議の賛成討論に、30分以上の演説。。 民主党は議事進行を遅らせるフィリバスター(議事進行妨害)作戦を徹底する構えだ。
集団的自衛権の限定的な行使容認を含む安全保障関連法案は17日午後、参院平和安全法制特別委員会で与党などの賛成多数で可決された。与党は18日までの本会議可決・成立を目指すが、民主党など野党は内閣不信任決議案や閣僚の問責決議案などを提出し、徹底抗戦する構えだ。
平成27年9月19日
歴代政権が禁じてきた集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法が19日未明の参院本会議で、自民、公明両党などの賛成により可決、成立した。自衛隊の海外活動が地球規模に拡大し、戦後の安保政策は大きく転換することになった。
全国各地で反対の声が広がり、多くの憲法学者らが「違憲」との訴えにも全く耳を貸さず、安倍晋三首相は自らの公言を最優先させ、今国会での安保関連法成立に突っ走った。
関連法は自衛隊法や武力攻撃事態法など10本の法改正を一括した「平和安全法制整備法」
、他国軍の後方支援を随時可能にする新法「国際平和支援法」 anbun-kokusaiheiwasienhou.pdf へのリンクの2本。
米国など「密接な関係にある他国」に対する武力攻撃が発生した場合に政府が「存立危機事態」と認定すれば、集団的自衛権の行使が可能になる。後方支援や国連平和維持活動(PKO)での任務や活動範囲も格段に広がる。
国会審議では集団的自衛権行使の合憲性や活動拡大に伴う自衛隊員のリスクなどが主な論点だったが、政府の答弁には最後まで曖昧さが残ったままとなった。
国際平和支援法の全文は次の通り。
第一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、国際社会の平和及び安全を脅かす事態であって、その脅威を除去するために国際社会が国際連合憲章の目的に従い共同して対処する活動を行い、かつ、我が国が国際社会の一員としてこれに主体的かつ積極的に寄与する必要があるもの(以下「国際平和共同対処事態」という。)に際し、当該活動を行う諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等を行うことにより、国際社会の平和及び安全の確保に資することを目的とする。
(基本原則)
第二条 政府は、国際平和共同対処事態に際し、この法律に基づく協力支援活動若しくは捜索救助活動又は重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律(平成十二年法律第百四十五号)第二条に規定する船舶検査活動(国際平和共同対処事態に際して実施するものに限る。第四条第二項第五号において単に「船舶検査活動」という。)(以下「対応措置」という。)を適切かつ迅速に実施することにより、国際社会の平和及び安全の確保に資するものとする。
2 対応措置の実施は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない。
3 協力支援活動及び捜索救助活動は、現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われている現場では実施しないものとする。ただし、第八条第六項の規定により行われる捜索救助活動については、この限りでない。
4 外国の領域における対応措置については、当該対応措置が行われることについて当該外国(国際連合の総会又は安全保障理事会の決議に従って当該外国において施政を行う機関がある場合にあっては、当該機関)の同意がある場合に限り実施するものとする。
5 内閣総理大臣は、対応措置の実施に当たり、第四条第一項に規定する基本計画に基づいて、内閣を代表して行政各部を指揮監督する。
6 関係行政機関の長は、前条の目的を達成するため、対応措置の実施に関し、防衛大臣に協力するものとする。
(定義等)
第三条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
一 諸外国の軍隊等 国際社会の平和及び安全を脅かす事態に関し、次のいずれかの国際連合の総会又は安全保障理事会の決議が存在する場合において、当該事態に対処するための活動を行う外国の軍隊その他これに類する組織(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平成四年法律第七十九号)第三条第一号に規定する国際連合平和維持活動、同条第二号に規定する国際連携平和安全活動又は同条第三号に規定する人道的な国際救援活動を行うもの及び重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(平成十一年法律第六十号)第三条第一項第一号に規定する合衆国軍隊等を除く。)をいう。
イ 当該外国が当該活動を行うことを決定し、要請し、勧告し、又は認める決議
ロ イに掲げるもののほか、当該事態が平和に対する脅威又は平和の破壊であるとの認識を示すとともに、当該事態に関連して国際連合加盟国の取組を求める決議
二 協力支援活動 諸外国の軍隊等に対する物品及び役務の提供であって、我が国が実施するものをいう。
三 捜索救助活動 諸外国の軍隊等の活動に際して行われた戦闘行為によって遭難した戦闘参加者について、その捜索又は救助を行う活動(救助した者の輸送を含む。)であって、我が国が実施するものをいう。
2 協力支援活動として行う自衛隊に属する物品の提供及び自衛隊による役務の提供(次項後段に規定するものを除く。)は、別表第一に掲げるものとする。
3 捜索救助活動は、自衛隊の部隊等(自衛隊法(昭和二十九年法律第百六十五号)第八条に規定する部隊等をいう。以下同じ。)が実施するものとする。この場合において、捜索救助活動を行う自衛隊の部隊等において、その実施に伴い、当該活動に相当する活動を行う諸外国の軍隊等の部隊に対して協力支援活動として行う自衛隊に属する物品の提供及び自衛隊による役務の提供は、別表第二に掲げるものとする。
第二章 対応措置等
(基本計画)
第四条 内閣総理大臣は、国際平和共同対処事態に際し、対応措置のいずれかを実施することが必要であると認めるときは、当該対応措置を実施すること及び当該対応措置に関する基本計画(以下「基本計画」という。)の案につき閣議の決定を求めなければならない。
2 基本計画に定める事項は、次のとおりとする。
一 国際平和共同対処事態に関する次に掲げる事項
イ 事態の経緯並びに国際社会の平和及び安全に与える影響
ロ 国際社会の取組の状況
ハ 我が国が対応措置を実施することが必要であると認められる理由
二 前号に掲げるもののほか、対応措置の実施に関する基本的な方針
三 前条第二項の協力支援活動を実施する場合における次に掲げる事項
イ 当該協力支援活動に係る基本的事項
ロ 当該協力支援活動の種類及び内容
ハ 当該協力支援活動を実施する区域の範囲及び当該区域の指定に関する事項
ニ 当該協力支援活動を自衛隊が外国の領域で実施する場合には、当該協力支援活動を外国の領域で実施する自衛隊の部隊等の規模及び構成並びに装備並びに派遣期間
ホ 自衛隊がその事務又は事業の用に供し又は供していた物品以外の物品を調達して諸外国の軍隊等に無償又は時価よりも低い対価で譲渡する場合には、その実施に係る重要事項
へ その他当該協力支援活動の実施に関する重要事項
四 捜索救助活動を実施する場合における次に掲げる事項
イ 当該捜索救助活動に係る基本的事項
ロ 当該捜索救助活動を実施する区域の範囲及び当該区域の指定に関する事項
ハ 当該捜索救助活動の実施に伴う前条第三項後段の協力支援活動の実施に関する重要事項(当該協力支援活動を実施する区域の範囲及び当該区域の指定に関する事項を含む。)
ニ 当該捜索救助活動又はその実施に伴う前条第三項後段の協力支援活動を自衛隊が外国の領域で実施する場合には、これらの活動を外国の領域で実施する自衛隊の部隊等の規模及び構成並びに装備並びに派遣期間
ホ その他当該捜索救助活動の実施に関する重要事項
五 船舶検査活動を実施する場合における重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律第四条第二項に規定する事項
六 対応措置の実施のための関係行政機関の連絡調整に関する事項
3 協力支援活動又は捜索救助活動を外国の領域で実施する場合には、当該外国(第二条第四項に規定する機関がある場合にあっては、当該機関)と協議して、実施する区域の範囲を定めるものとする。
4 第一項及び前項の規定は、基本計画の変更について準用する。
(国会への報告)
第五条 内閣総理大臣は、次に掲げる事項を、遅滞なく、国会に報告しなければならない。
一 基本計画の決定又は変更があったときは、その内容
二 基本計画に定める対応措置が終了したときは、その結果
(国会の承認)
第六条 内閣総理大臣は、対応措置の実施前に、当該対応措置を実施することにつき、基本計画を添えて国会の承認を得なければならない。
2 前項の規定により内閣総理大臣から国会の承認を求められた場合には、先議の議院にあっては内閣総理大臣が国会の承認を求めた後国会の休会中の期間を除いて七日以内に、後議の議院にあっては先議の議院から議案の送付があった後国会の休会中の期間を除いて七日以内に、それぞれ議決するよう努めなければならない。
3 内閣総理大臣は、対応措置について、第一項の規定による国会の承認を得た日から二年を経過する日を超えて引き続き当該対応措置を行おうとするときは、当該日の三十日前の日から当該日までの間に、当該対応措置を引き続き行うことにつき、基本計画及びその時までに行った対応措置の内容を記載した報告書を添えて国会に付議して、その承認を求めなければならない。ただし、国会が閉会中の場合又は衆議院が解散されている場合には、その後最初に召集される国会においてその承認を求めなければならない。
4 政府は、前項の場合において不承認の議決があったときは、遅滞なく、当該対応措置を終了させなければならない。
5 前二項の規定は、国会の承認を得て対応措置を継続した後、更に二年を超えて当該対応措置を引き続き行おうとする場合について準用する。
(協力支援活動の実施)
第七条 防衛大臣又はその委任を受けた者は、基本計画に従い、第三条第二項の協力支援活動としての自衛隊に属する物品の提供を実施するものとする。
2 防衛大臣は、基本計画に従い、第三条第二項の協力支援活動としての自衛隊による役務の提供について、実施要項を定め、これについて内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊等にその実施を命ずるものとする。
3 防衛大臣は、前項の実施要項において、実施される必要のある役務の提供の具体的内容を考慮し、自衛隊の部隊等がこれを円滑かつ安全に実施することができるように当該協力支援活動を実施する区域(以下この条において「実施区域」という。)を指定するものとする。
4 防衛大臣は、実施区域の全部又は一部において、自衛隊の部隊等が第三条第二項の協力支援活動を円滑かつ安全に実施することが困難であると認める場合又は外国の領域で実施する当該協力支援活動についての第二条第四項の同意が存在しなくなったと認める場合には、速やかに、その指定を変更し、又はそこで実施されている活動の中断を命じなければならない。
5 第三条第二項の協力支援活動のうち我が国の領域外におけるものの実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の長又はその指定する者は、当該協力支援活動を実施している場所若しくはその近傍において戦闘行為が行われるに至った場合若しくは付近の状況等に照らして戦闘行為が行われることが予測される場合又は当該部隊等の安全を確保するため必要と認める場合には、当該協力支援活動の実施を一時休止し又は避難するなどして危険を回避しつつ、前項の規定による措置を待つものとする。
6 第二項の規定は、同項の実施要項の変更(第四項の規定により実施区域を縮小する変更を除く。)について準用する。
(捜索救助活動の実施等)
第八条 防衛大臣は、基本計画に従い、捜索救助活動について、実施要項を定め、これについて内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊等にその実施を命ずるものとする。
2 防衛大臣は、前項の実施要項において、実施される必要のある捜索救助活動の具体的内容を考慮し、自衛隊の部隊等がこれを円滑かつ安全に実施することができるように当該捜索救助活動を実施する区域(以下この条において「実施区域」という。)を指定するものとする。
3 捜索救助活動を実施する場合において、戦闘参加者以外の遭難者が在るときは、これを救助するものとする。
4 前条第四項の規定は、実施区域の指定の変更及び活動の中断について準用する。
5 前条第五項の規定は、我が国の領域外における捜索救助活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の長又はその指定する者について準用する。この場合において、同項中「前項」とあるのは、「次条第四項において準用する前項」と読み替えるものとする。
6 前項において準用する前条第五項の規定にかかわらず、既に遭難者が発見され、自衛隊の部隊等がその救助を開始しているときは、当該部隊等の安全が確保される限り、当該遭難者に係る捜索救助活動を継続することができる。
7 第一項の規定は、同項の実施要項の変更(第四項において準用する前条第四項の規定により実施区域を縮小する変更を除く。)について準用する。
8 前条の規定は、捜索救助活動の実施に伴う第三条第三項後段の協力支援活動について準用する。
(自衛隊の部隊等の安全の確保等)
第九条 防衛大臣は、対応措置の実施に当たっては、その円滑かつ効果的な推進に努めるとともに、自衛隊の部隊等の安全の確保に配慮しなければならない。
(関係行政機関の協力)
第十条 防衛大臣は、対応措置を実施するため必要があると認めるときは、関係行政機関の長に対し、その所管に属する物品の管理換えその他の協力を要請することができる。
2 関係行政機関の長は、前項の規定による要請があったときは、その所掌事務に支障を生じない限度において、同項の協力を行うものとする。
(武器の使用)
第十一条 第七条第二項(第八条第八項において準用する場合を含む。第五項及び第六項において同じ。)の規定により協力支援活動としての自衛隊の役務の提供の実施を命ぜられ、又は第八条第一項の規定により捜索救助活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官は、自己又は自己と共に現場に所在する他の自衛隊員(自衛隊法第二条第五項に規定する隊員をいう。第六項において同じ。)若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者の生命又は身体の防護のためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器(自衛隊が外国の領域で当該協力支援活動又は当該捜索救助活動を実施している場合については、第四条第二項第三号ニ又は第四号ニの規定により基本計画に定める装備に該当するものに限る。以下この条において同じ。)を使用することができる。
2 前項の規定による武器の使用は、当該現場に上官が在るときは、その命令によらなければならない。ただし、生命又は身体に対する侵害又は危難が切迫し、その命令を受けるいとまがないときは、この限りでない。
3 第一項の場合において、当該現場に在る上官は、統制を欠いた武器の使用によりかえって生命若しくは身体に対する危険又は事態の混乱を招くこととなることを未然に防止し、当該武器の使用が同項及び次項の規定に従いその目的の範囲内において適正に行われることを確保する見地から必要な命令をするものとする。
4 第一項の規定による武器の使用に際しては、刑法(明治四十年法律第四十五号)第三十六条又は第三十七条の規定に該当する場合を除いては、人に危害を与えてはならない。
5 第七条第二項の規定により協力支援活動としての自衛隊の役務の提供の実施を命ぜられ、又は第八条第一項の規定により捜索救助活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官は、外国の領域に設けられた当該部隊等の宿営する宿営地(宿営のために使用する区域であって、囲障が設置されることにより他と区別されるものをいう。以下この項において同じ。)であって諸外国の軍隊等の要員が共に宿営するものに対する攻撃があった場合において、当該宿営地以外にその近傍に自衛隊の部隊等の安全を確保することができる場所がないときは、当該宿営地に所在する者の生命又は身体を防護するための措置をとる当該要員と共同して、第一項の規定による武器の使用をすることができる。この場合において、同項から第三項まで及び次項の規定の適用については、第一項中「現場に所在する他の自衛隊員(自衛隊法第二条第五項に規定する隊員をいう。第六項において同じ。)若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者」とあるのは「その宿営する宿営地(第五項に規定する宿営地をいう。次項及び第三項において同じ。)に所在する者」と、「その事態」とあるのは「第五項に規定する諸外国の軍隊等の要員による措置の状況をも踏まえ、その事態」と、第二項及び第三項中「現場」とあるのは「宿営地」と、次項中「自衛隊員」とあるのは「自衛隊員(同法第二条第五項に規定する隊員をいう。)」とする。
6 自衛隊法第九十六条第三項の規定は、第七条第二項の規定により協力支援活動としての自衛隊の役務の提供(我が国の領域外におけるものに限る。)の実施を命ぜられ、又は第八条第一項の規定により捜索救助活動(我が国の領域外におけるものに限る。)の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官については、自衛隊員以外の者の犯した犯罪に関しては適用しない。
第三章 雑則
(物品の譲渡及び無償貸付け)
第十二条 防衛大臣又はその委任を受けた者は、協力支援活動の実施に当たって、自衛隊に属する物品(武器を除く。)につき、協力支援活動の対象となる諸外国の軍隊等から第三条第一項第一号に規定する活動(以下「事態対処活動」という。)の用に供するため当該物品の譲渡又は無償貸付けを求める旨の申出があった場合において、当該事態対処活動の円滑な実施に必要であると認めるときは、その所掌事務に支障を生じない限度において、当該申出に係る物品を当該諸外国の軍隊等に対し無償若しくは時価よりも低い対価で譲渡し、又は無償で貸し付けることができる。
(国以外の者による協力等)
第十三条 防衛大臣は、前章の規定による措置のみによっては対応措置を十分に実施することができないと認めるときは、関係行政機関の長の協力を得て、物品の譲渡若しくは貸付け又は役務の提供について国以外の者に協力を依頼することができる。
2 政府は、前項の規定により協力を依頼された国以外の者に対し適正な対価を支払うとともに、その者が当該協力により損失を受けた場合には、その損失に関し、必要な財政上の措置を講ずるものとする。
(請求権の放棄)
第十四条 政府は、自衛隊が協力支援活動又は捜索救助活動(以下この条において「協力支援活動等」という。)を実施するに際して、諸外国の軍隊等の属する外国から、当該諸外国の軍隊等の行う事態対処活動又は協力支援活動等に起因する損害についての請求権を相互に放棄することを約することを求められた場合において、これに応じることが相互の連携を確保しながらそれぞれの活動を円滑に実施する上で必要と認めるときは、事態対処活動に起因する損害についての当該外国及びその要員に対する我が国の請求権を放棄することを約することができる。
(政令への委任)
第十五条 この法律に定めるもののほか、この法律の実施のための手続その他この法律の施行に関し必要な事項は、政令で定める。
附則
この法律は、我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律の施行の日から施行する。
別表第一(第三条関係)
補給 給水、給油、食事の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
輸送 人員及び物品の輸送、輸送用資材の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
修理及び整備 修理及び整備、修理及び整備用機器並びに部品及び構成品の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
医療 傷病者に対する医療、衛生機具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
通信 通信設備の利用、通信機器の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
空港及び港湾業務 航空機の離発着及び船舶の出入港に対する支援、積卸作業並びにこれらに類する物品及び役務の提供
基地業務 廃棄物の収集及び処理、給電並びにこれらに類する物品及び役務の提供
宿泊 宿泊設備の利用、寝具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
保管 倉庫における一時保管、保管容器の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
施設の利用 土地又は建物の一時的な利用並びにこれらに類する物品及び役務の提供
訓練業務 訓練に必要な指導員の派遣、訓練用器材の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
建設 建築物の建設、建設機械及び建設資材の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
備考 物品の提供には、武器の提供を含まないものとする。
別表第二(第三条関係)
補給 給水、給油、食事の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
輸送 人員及び物品の輸送、輸送用資材の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
修理及び整備 修理及び整備、修理及び整備用機器並びに部品及び構成品の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
医療 傷病者に対する医療、衛生機具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
通信 通信設備の利用、通信機器の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
宿泊 宿泊設備の利用、寝具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
消毒 消毒、消毒機具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供
備考 物品の提供には、武器の提供を含まないものとする。
終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。
戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
平成二十七年八月十四日 内閣総理大臣 安倍 晋三
平成28年7月 記
終活ではないけれど、本の片づけをしていると、いまだに残っていた西田幾太郎の日本の名著第47巻 「禅の研究」の本の購入日が昭和46年11月26日と書かれてある。若き頃の青春の心意気であろうか,読んだ形跡ははあるが途中であきらめたものらしい。あらためて少し読んでは見たが全然わからず、解らないのもしゃくなので、ここに少しづづ整理をしてみようと思います。歌人とは詩人であり、思想家であり、哲学者(どういう人か漠然と)でもある、ありたいと心の隅に記憶しているものがある。どうでもよいと思いつつも知的好奇心を捨てる気持ちになれぬ自分の性がいじらしい。
平成28年8月末 記
少しづつ読んでいくうちに、益々解らない状況で、寝る前に読めば小さい活字が読みにくく、内容が理解できずにすぐ眠くなり、寝つきが良いのがベター。何故に理解できないか検討してみた。
① 作者の文章力に疑問を持つ。言いたいこと、例を挙げて具体的に、根拠を示すとか、もっとわかりやすい書き方ができないか。
②哲学用語を理解してないと内容の理解は無理 読んでゆくうちに解ってくるのではと理解できずに読み進むことは無駄のあがきか。
③哲学の歴史や出てくる哲学者の知識はその都度確認する必要がある。
以上を踏まえて『善の研究』、『哲学用語』、『哲学者の概要』と適時確認することにしました。仕事をしつつ山も歩かなければ、歌も詠まねば、庭の管理もしなければ、そのうえこの課題を抱えて実行できるのか、果たして意味のある事なのか疑問を持ちつつ時間を作って気長に実行しよう。
個物 | 〘哲〙 個々のもの。「個体」に同じだが,このもの,あのものと示しうる特定の「物」の意で広く用い,特に,普遍ないし一般者に対するものとしていう。 |
イデア | 「見る」という意味の動詞「idein」に由来していて、もともとは「見られるもの」のこと、つまりものの「姿」や「形」を意味している。 プラトンは、イデアという言葉で、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。プラトンのいうイデアは幾何学的な図形の完全な姿がモデルともとれる。 |
三段論法 |
古代ギリシアに由来する西洋の三段論法は、
という3つの項(概念)の内、2つの組み合わせ(関係性)をそれぞれ表現する、
という3つの命題によって構成される、演繹的な推論規則である。 |
ノエシス・ノエマ | ドイツの哲学者フッサールの現象学用語。フッサールによれば、意識の本質は「指向性」、つまり「――の意識」であることにあるが、その指向の仕組みは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考されたもの(対象)をさす「ノエマ」の両概念によって説明される。指向とは、意識が実的(レーエル)な作用としての自己自身を越え、対象的なものにかかわる超越の働きであるが、その際の対象が、思考されたものそれ自体としてのノエマ的―意味的な対象である。
ノエシス・・・フッサール現象学の用語。ギリシア語のnousおよびnoeinに由来し,対象を志向し,これに意味を付与する意識体験をいう。具体的には知覚,想起,判断,願望など。意識されている意味内容そのものがノエマNoemaで,ノエシスは必ずノエマをともなう。 意識の作用(判断すること、知覚すること、思い出すこと、等々) |
志向(作用 |
①
意識をある目的へ向けること。実現しようとして心がそのほうへ向かうこと。意向。指向。 「民主国家の建設を-する」 「本物-」 「上昇-」
②
〘哲〙 意識がいつもある対象に向かっていること。
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エポケー | 原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。 懐疑主義においては、エポケーは“suspension of judgment“「判断を留保すること」を意味する。もし真理が到達不可能なものだったり、到達しにくいものだったりするなら、判断を急ぎすぎるとかならず誤ることになるであろうからである。 フッサールおよび現象学においては、エポケーは世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。 精神分析学において、エポケーは現実に対するあらゆる判断を留保することを意味する。これによって治療者の幻想と無意識の世界をうまく航行できるようにするのである |
弁証法 | 哲学の用語であり、現代において使用される場合、ヘーゲルによって定式化された弁証法や、それを継承しているマルクスの弁証法を意味することがほとんどである。世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則とされる(ヘーゲルなどにおいては、弁証法は現実の内容そのものの発展のありかたである)。しかし、弁証法という用語が指すものは、哲学史においてヘーゲルの登場よりも古く、ギリシア哲学以来議論されているものであり、この言葉を使う哲学者によって、その内容は多岐にわたっており、「弁証法=ヘーゲルの弁証法的論理学」としてすべてを理解しようとするのは誤りである。
ヘーゲルのディアレクティック(弁証法) ソクラテスにおいては、弁証法的な方法とは、相手の言説をまず否定することであった。相手の主張を一旦否定することで、それを相対化させ、そのうえで最初の肯定でもなく、その単純な否定でもない、第三の言説、つまり肯定と否定の統一ともいえる言説を導き出す、そういうやり方であった。ヘーゲルがソクラテスから受け継いだのも、基本的には同じものである。ヘーゲルの弁証法も、否定、分裂、統一といったものを中心にして動いていくのである。
このように、人間の認識活動と、その対象と、両者にわたってディアレクティックが貫いて作用している。何故そうなのか。それは人間の認識活動も、その対象としての世界も、ともに絶対精神が自己疎外をし、外化した形で現れたものだからだ、とヘーゲルは応える。絶対精神そのものがディアレクティックな存在であるからこそ、個別の人間の認識作用も、それが対象とする世界も、ともにディアレクティックであることは当たり前のことなのだ。 べんしょうほう【弁証法】《dialectic》 自己の内にある矛盾をみずからの発展によってなくして、あたらしく統合された統一に到達する理論。 考察:弁証法について 一つの「命題」にたいし存在する「反対命題」との対立葛藤の中で、より高度な「統合命題」を導き出すこと 一般的なザックリとした考え方では「正・反・合」=「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」 (例)弁証法の具体例 「日本人について」弁証法でサラッと考えると |
行為 | 1 ある意思をもってするおこない。「親切な行為」「慈善行為」 2 哲学で、目的観念を伴う動機があり、思慮・選択によって意識的に行われる行動。 3 権利の得失・移転など法律上の効果を生じさせる原因となる意思活動。 |
即且対自 | ヘーゲル弁証法は「定立→反定立→総合」という風に事物は発展するという定石をたてた.。 これを「即自→対自→即且対自」というのが一般である。 この即自・対自・即且対自は、人間を例に了解しておくとよい。人間の即自は赤ん坊である、そのままとして姿形や素質としては人間だが、まだ自分がどういう存在かが分かっておらず、人間として能力も発揮できない。人間の対自は子供である。教育や躾で人間とは何で何が出来なければならないか、何をしてはいけないかを教え込まれて、覚えさせられていく。そして人間の即且対自は大人である。大人は人間とは何かは、自分自身の身についたものとして、自分自身の能力や習性として人間を生きることができており、常に対自的にもそうあるべく意識しているので、即且対自的に人間である。 この要領で即自・対自・即且対自とは何かを展開すれば哲学体系になるのである ヘーゲルは『小論理学』のなかで論理的なものの三側面または三契機について語っています。それについてかんたんに説明すれば次のようになります。 ヘーゲルは三つの契機がいずれも大事であり、しかもバラバラに出なく、統一体として理解しなければならないといっています。 |
独我論 | 独我論(英: solipsism)とは哲学における認識論の立場の一つ。自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆる存在は疑いうると考える。デカルトが「方法的懐疑」で到達した「今私が考えているということ以外全て疑いうる」という極限の懐疑主義を出発点とし、ジョージ・バークリーの「存在するとは知覚されることである」という現象主義を経て発展した。哲学の歴史上、独我論は認識論における一つの方法論として機能してきた。独在論、唯我論とも。 ジョン・R・サールは独我論を以下の三タイプに分けている。
1、心的状態を持つのは自分だけであり、他者とは私の心に現れる現象に過ぎないとする立場。 2、他人も心的状態を持っているかもしれないが、それを確かめる事はできなとする立場。 3、他人も心的状態を持っているとしても、その内容は私と違っているかもしれないという立場。例えば私が赤いりんごを見ていたとしても、同じりんごを見ている他人にはそれが青く見えているかもしれないということで、これは逆転クオリアの思考実験として知られている。 フッサールの独我論は、客観的な実在に対する判断を停止して、自分に現れる現象の構造を探究し、それによって自分がどのようなプロセスで「主観と客観」と呼ばれる世界理解を成しうるかを記述しようとするものである。 |
汎神論 | 汎神論(はんしんろん)とは、神と宇宙、または神と自然とは同一であるとみなす哲学的・宗教的立場である。 存在するものの総体(世界・宇宙・自然)は一に帰着し、かつこの一者は神であるとする思想をいう。万有神論、汎神教とも。
古代インドのヴェーダとウパニシャッド哲学、ソクラテス以前のギリシア思想、近代においては、スピノザ、ゲーテ、シェリング等の思想がこれに属する。 世界そのものが神であるとするから、有神論のように世界の外にある神と被造的世界との絶対的対立を認めず、すべてのものは神の現象であり、あるいは神を内に含むとする点で、創造以後は神は被造物に干渉しないとする理神論と異なる。神を世界を統一する普遍的原理、法則性として考える点で合理的側面をもつが、その反面で自我の神への帰入、主観と客観との絶対的合一を説いて神秘主義に至りやすい。 補足・・・ 有神論【ゆうしんろん】一般に,神の存在を認める哲学上・宗教上の立場。無神論に対する。限定された意味では,理神論に対して,創造主にして永遠の支配者たる人格神の存在を主張する立場をいう。 無神論【むしんろん】 神の存在を否定する思想上の立場。 理神論【りしんろん】世界の創造者,合理的な支配者としての神は認めるが,賞罰を与えたり,啓示・奇跡をなす神には反対するキリスト教宗教思想。人間の功過に対して賞罰を課し広く万物の摂理をつかさどるとされる人格神への信仰に対して,天地創造の主体ではあるが創造行為の後は人間世界への恣意的な介入を中止し,自然に内在する合理的な法にもとづいてのみ宇宙を統治するものとしての神への信仰を意味する用語 |
主知説 | 主知主義(しゅちしゅぎ、英: intellectualism)とは、人間の精神(魂)を「知性・理性(理知)」「意志・気概」「感情・欲望」に三分割する見方の中で、知性・理性の働きを(意志や感情よりも)重視する哲学・神学・心理学・文学上の立場のこと。知性主義とも言う。 「合理主義・理性主義」(英: rationalism)と類似した概念だが、理性そのものよりも、獲得が目指される「知識」「知性」の方に、より重きをおいた表現となっている。意志の働きを重視する主意主義(英: voluntarism)や、感情の働きを重視する主情主義(英: emotionalism)と対置される。 ただし、これはあくまでも相対的な立ち位置を表現するものであって、そこに絶対的な基準は無く、「何(どのような思想的立ち位置の人・集団)と対比されるか」に、その位置付けが依存していることに注意が必要 |
理(ことわり) |
1 物事の筋道。ことわり。道理。
㋐不変の法則。原理。理法。「自然の―」
㋑論理的な筋道。理屈。ものの道理。「―の通らぬ話」「―を尽くす」「盗人にも三分の―」
2 中国宋代の哲学で、宇宙の根本原理
中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。もと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。 |
永劫回帰 (永遠回帰) |
宇宙は永遠に循環運動を繰り返すものであるから、人間は今の一瞬一瞬を大切に生きるべきであるとする思想。生の絶対的肯定を説くニーチェ哲学の根本思想。▽ 宗教的な意味合いにおいては、永劫回帰はキリスト教的な来世や東洋的な前世の否定であり、哲学史的な意味合いにおいては、弁証法の否定と解釈できる。ニーチェは永劫回帰を説き、弁証法を否定することによって、近代化そのもの、社会はよりよくなってゆくものだという西洋的な進歩史観そのものを覆そうとしたのである。弁証法は、近代哲学の完成者といわれるヘーゲルの基本概念であり、これを否定することは文字通り、近代哲学を覆そうとする試みであった。ニーチェの永劫回帰の思想は、ポスト・モダンの近代批判に大きな影響を与えることになる。 すべての善悪、優劣は人間の主観的な思い込みに過ぎず、絶対的な善悪だけでなく、相対的な善悪も否定する、価値相対主義の極限という点では、ブッダの諸行無常・諸法無我、荘子の万物斉同論に近い。絶対正義を語るキリスト教の強い西洋思想というよりも、東洋思想によく見られる発想である。が、仏教については諦観だとしてニーチェは否認しているので、永劫回帰はもっと能動的である。すべてのものは平等に無価値であり、終わりも始まりもない永劫回帰という究極のニヒリズムから、運命愛にいたり、無から新価値を創造、確立する強い意志を持った者をニーチェは超人と呼んでいる。しがらみも伝統も秩序もまったくの無であるということは、そこからあらゆる新価値、新秩序が構成可能だということである。 |
パラダイム | 本来は限定された専門分野において用いられることを想定していたにもかかわらず、時としてビジネス書にすら登場するほど一般的な言葉となった。そうした場合、最大公約数的に言うと、パラダイムは“時代の思考を決める大きな枠組み”などと解されていることが多いが、これは誤った(拡大解釈しすぎた)理解であり、そのような“大風呂敷を広げて”いる概念ではないことにまず注意しなければならない。 クーンは自然科学に対してパラダイムの概念を考えたのであり、社会科学にはパラダイムの概念は適応できないと発言している 現在の意味のパラダイムを最初に用いたのは、科学史家のクーン(Thomas S. Kuhn)でした。クーンは著書『科学革命の構造』(1962年)の中でこの語を登場させ、「科学とは累積的に一定方向に成長するのではなく、時代によってパラダイムを変化させるもの」という新しい史観を提示したのです。この考え方が、科学のみならず思想・哲学の分野においても大きな影響を与え、最終的にはその他のあらゆる分野でも用いられる言葉になりました。 第 1 にパラダイムは、ある時代や分野において「多くの人に共有されて、支配的な規範として機能」します。 例 天動説と地動説 光の波動説と粒子説 |
エピステーメー | ミシェル=フーコーが提唱した哲学的概念。ある時代の社会や人々の生産する知識のあり方を特定付け、影響を与える、知の「枠組」といったように捉えられる。
1 知識。ドクサ(臆見(おっけん)。根拠のない主観的信念)に対して、学問的に得られる知識。 フーコーによれば、エピステーメーとは、宗教意識のさらに根底にあるものなのだ |
アプリオリ | 「自明」ないしは「所与のもの」などの語義と同視して用いられることがあり、特に論証や立証なくして明らかな事項(明らかであるとして扱ってよい事項)、などの意として使われる。 ①
アリストテレス的伝統では、原因・根拠であるという意味で、より先なる事象に基づいて、結果にあたる事象を導出する論証の性格をいう。
②
近代では、「先天的」の意。生物学・心理学などで、ある機能が生得的に与えられていること。また哲学、特にカントの認識論では、認識・概念などが後天的な経験に依存せず、それに論理的に先立つものとして与えられていること。
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意識 |
「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」を指す。
ただし、歴史的、文化的に、この言葉は様々な形で用いられており、その意味は多様である。哲学、心理学、生物学、医学、宗教、日常会話などの中で、様々な意味で用いられる。
哲学
中世では、conscious「意識がある」とconscience「良心」の語源が同じ(scire「知る」)ことからも推測されるように、意識はほとんど良心と同義であり[要出典]、現在我々が知る心的現象一般としての意識という概念はなかった 近世前期の哲学において、意識はもっぱら思惟を典型とする認識と表象の能力として扱われたといってよく、ただしこの認識能力は感情や感覚を含むものであった。
認知科学・人工知能における意識
知科学、人工知能の分野では、人間が人工知能に質問などをして、その人工知能があたかも人のように反応し、人から見て人と何ら区別がつかなければ、それをもってしてその存在は知能あるいは意識を持っていると見なしていいのではないか、とアラン・チューリングが提案した |
心の哲学 | こころのてつがく、英語: philosophy of mind)は、哲学の一分科で、心、心的出来事、心の働き、心の性質、意識、およびそれらと物理的なものとの関係を研究する学問である。心の哲学では様々なテーマが話し合われるが、最も基本的なテーマは心身問題、すなわち心と体の関係についての問題である。
心身問題とは、心と体の状態との間の関系 、つまり一般的に非物質的であると考えられている心というものが、どうして物質的な肉体に影響を与えることができるのか、そしてまたその逆もいかに可能なのか、を説明しようとする問題である。 われわれの知覚経験は外界からどんな刺激が様々な感覚器にやって来るかに応じて決まる。つまりこれらの刺激が原因になって、われわれの心の状態に変化がもたらされ、最終的にはわれわれが快不快の感覚を感じることになる。あるいはまた、あるひとの命題表明(propositional attitude)すなわち信念や願望は、どのようにしてその人のニューロンを刺激し、筋肉をただしい仕方で収縮させる原因になるのだろうか。こうした問いは、遅くともデカルトの時代から認識論者や心の哲学者たちが延々と検討してきた難問なのである 「心身問題に対するアプローチは二元論と一元論に分けられる」と考える人もいる。 二元論は何らかの意味で体と心を別のものとして考える立場で、プラトン、アリストテレス、 サーンキヤ学派やヨーガ学派などのヒンドゥー教の考えにも見られる。二元論を最も明確に形式化したのはルネ・デカルトである。デカルトは実体二元論(Substance dualism)の立場から、心は物質とは独立して存在する実体だと主張した。こうした実体二元論と対比させられるのが性質二元論(Property dualism)である。性質二元論では、心的世界は脳から創発する現象であると考える。つまり心的世界自体は物理法則に還元することはできないが、かといって脳と独立して存在する別の実体であるとは考えない。 一元論は、心と体が存在論的に異なるものだという主張を認めない考え方である。西洋哲学の歴史においてこの考えを最初に提唱したのは紀元前5世紀の哲学者パルメニデスであり、この考えは17世紀の合理主義哲学者スピノザによっても支持された。一元論には大きく分けて三つの種類がある。
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クオリア | 心の哲学では意識に含まれる個々の質感のことをクオリアと言うケースが多い。つまりクオリアは意識の一部であるが、意識そのものではないという考え方が一般的である
客観的には観察できない意識の主観的な性質のこと。日本語では感覚質と訳されることもある。もとはラテン語で「質感」を表す単語であるが、1990年代の半ばから意識の不思議さを象徴する言葉として科学者や哲学者の間で広く使われるようになった。「現象」「表象」「感覚与件」は類似の概念である。 クオリアという用語は厳密に定義されておらず、論者によって用いられ方が異なる。ブレンターノやフッサールは志向性が意識の本質だとし、心的状態は全て志向的だと考えた。この"ブレンターノ・テーゼ"に従ってクオリアも志向的であるとする論者がいる。しかしクオリアは非志向的であるとし、意識の「高階の性質」としてクオリアを定義する者もいる。たとえばティム・クレインは、「歯痛」とは歯に対する有向性(志向性)と、歯痛特有の性質(クオリア)を持っているとする。またジョン・サールは、全ての意識状態はクオリアを持つとしながら、「痛み」を感じている場合、「痛み」はそれ自身を超えるものを何も表していないので、志向的ではないとしている。 |
ソクラテス | 紀元前469年 父は彫刻家ないし石工のソプロニスコス、母は助産婦のパイナレテとされる。アテナイに生まれ、生涯のほとんどをアテナイに暮らした。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦いで重装歩兵として従軍した(アルキビアデスは騎兵として参加、当時の回想が『饗宴』に書かれている)。青年期には自然科学に興味を持ったとの説もあるが、晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念した。 ソクラテスの思想は、内容的にはミレトス学派(イオニア学派)の自然哲学者たちに見られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える。「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」という当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある。 それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての、「無知の知」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度
にある。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」、そういった彼の姿勢が、その数多くの内容的な欠陥・不備・素朴さにもかかわらず、半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く、卓越した人物であると看做される要因となり、哲学者の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。 賢者たちの無知を指摘することをライフワークにする。ソクラテスの評判が広まる一方、無知を指摘された人々たちからは憎まれ、多くの敵を作ることになる。そして、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状でソクラテスは公開裁判にかけられる。 ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、また逃亡・亡命も拒否し、死を恐れずに殉ずる道を選び、死刑を言い渡される。 産婆術(2109/7/1記)
ソクラテスにおける知の探究とその哲学思想の展開は、通常、知を持っているとされる相手と対話し、その主張を論駁していくという問答法を用いることによって進められていくのですが、ソクラテスは、相手の主張を論駁する際に、その議論の説得力を高めるために、例えや類比を用いた表現を多く用いていくことになります。
実際に出産し、子供を現実の世界へと産み落とすのは、子供を身ごもっている母親自身の仕事であると考えられることになります。
人間として善く生きるために必要な知の探究は、教科書に書かれている知識を丸暗記するような与えられた知識をそのまま受け入れる受動的な学習によって得られるものではなく、それは、むしろ、母親が自らの力によって自分の子供を産むような探究者自身の能動的で主体的な行為によって生み出されるものであると考えられることになる。
善なる知の源は、人々の心、人々の魂の内にもともと生得的に備わっていて、人間は自分自身の魂に備わっている知性の働きのみによって、自らの善なる知を吟味し、真理へと至る道を歩んでいくだけの十分な力を持っている。
その知の吟味をより深く、真理へと至る道をよりスムーズなものとするためには、そうした知の探究のあり方を間接的かつ補助的に助ける対話相手がいた方がより心強いと考えられる。
ソクラテスは、ちょうど、助産師の存在が出産の時の心強い助けとなるように、自分はそうした人々自身の手による知の探究の活動を間接的に補助的にサポートしてまわっているに過ぎないという意味で、
ソクラテスは、自らが行っている人々の知の探究を助ける問答法のあり方を産婆術という言葉で表現していると考えられることになる
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プラトン | 紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。 師ソクラテスから問答法(弁証法)と、(「無知の知」や「行き詰まり」(アポリア)を経ながら)正義・徳・善を理知的かつ執拗に追求していく哲学者(愛知者)としての主知主義的な姿勢を学び、国家公共に携わる政治家を目指していたが、三十人政権やその後の民主派政権の惨状を目の当たりにして、現実政治に関わるのを避け、ソクラテス死後の30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していくようになる 40歳頃の第一回シケリア旅行にて、ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と、輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を重視するようになり、それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく。 生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、数学・幾何学や問答を通して、その記憶を「想起」(anamnêsis、アナムネーシス)することによって近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。 |
アリストテレス | 前384年 - 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。 プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人とされ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。 アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている。 アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく問答法を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として三段論法などの形で体系化された。 |
ルネ・デカルト | 1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。 幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
二元論 我々は「神の誠実」によって、物体が「延長するもの」として存在することを、「明晰かつ判明」に認識します。「延長するもの」とは三次元的な拡がりをもった位置・形状・運動のことを指します。このように、精神と物体は「思惟するもの」と「延長するもの」とに峻別されるのです。ここにデカルトの二元論が成立します。そして延長は思惟することの一切を排除されているため、スコラの自然学にみられる「実体形相」、つまり自然を構成する超自然的な何か、というような存在は否定されます。したがって自然は、延長でしかないのだから、これは数学的規定よってのみ考察可能となるのです。デカルトにとっては動物ですらこの延長を逸脱していない機械であり、機械論に立脚した自然観が必要とされるのです。しかし、人間は動物とは違い、精神と肉体との合一体です。「思惟するもの」と「延長するもの」は互いに影響を及ぼすことはないのにもかかわらず、人間においてはその統一が果たされているようにみえます。これが心身問題といわれるものであり、デカルト自身も明確な答えを提示することはできませんでした デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の合理主義哲学者(スピノザ、ライプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。 |
バールーフ・デ・スピノザ | 1632年11月24日 - 1677年2月21日)は、オランダの哲学者である。 デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、ドイツ観念論や現代思想へ強大な影響を与えた。 スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。 スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。 その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザは無神論者として攻撃された。 一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザに思い入れており(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している。 『エチカ』
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ライプニッツ | ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、1646年7月1日) - 1716年11月14日)は、ドイツの哲学者、数学者。ライプツィヒ出身。 「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱した。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学、心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ジョン・ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。 モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなった(1704年)ため公刊しなかった。これが公刊されるのはライプニッツの死後49年がたった1765年のことであった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。また、フッサールやハイデガーなどを初めとする現象学の研究者から注目を集め様々に言及されている。 微積分法をアイザック・ニュートンとは独立に発見・発明し、それに対する優れた記号法すなわちライプニッツの記法を与えた。現在使われている微分や積分の記号は彼によるところが多い。2進法を研究したのもライプニッツの業績。 |
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カント | 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。彼が定めた超越論哲学の枠組みは、以後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしている。 一般にカントの思想はその3つの批判の書にちなんで批判哲学と呼ばれる。しかし、カント自身はみずからの批判書を哲学と呼ばれるのを好まなかった。カントによれば、批判は哲学のための準備・予備学であり、批判の上に真の形而上学としての哲学が築かれるべきなのである。ドイツ観念論はカントのこの要求にこたえようとした試みであるが、カントはこれをあまり好意的には評価しなかった。また、ドイツ観念論の側でもカントを高く評価しながら、物自体と経験を分離したことについてカントを不徹底とも評価し、いわば、カントを克服しようとしたのである。 批判哲学 従来、人間外部の事象、物体について分析を加えるものであった哲学を人間それ自身の探求のために再定義した「コペルニクス的転回」は有名。彼は、人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力とくに反省的判断力の性質とその限界を考察し、『純粋理性批判』以下の三冊の批判書にまとめた。「我々は何を知りうるか」、「我々は何をなしうるか」、「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いがそれぞれ『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に対応している。カントの批判とは否定ではなく吟味をさす。 『純粋理性批判』(1781年) 問題は真理(物自体)を言い当てることにはない。大事なのは私たちの認識の仕方には共通の構造があり、私たちはこれを自分の意識のうちから見て取ることができるということだ カントは、理性 (Vernunft) がそれ独自の原理 (Prinzip) に従って事物 (Sache, Ding) を認識すると考える。しかし、この原理は、経験に先立って理性に与えられる内在的なものである。そのため、理性自身は、その起源を示すことができないだけでなく、この原則を逸脱して、自らの能力を行使することもできない。換言すれば、経験は経験以上のことを知りえず、原理は原理に含まれること以上を知りえない。カントは、理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリ(経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念)な認識として、経験に基づかずに成立し、かつ経験のアプリオリな制約である、超越論的 (transzendental) な認識形式に求め、それによって認識理性 (theoretische Vernunft) の原理を明らかにすることに努める。
『実践理性批判』(1788年) 実践理性批判の全体の問いは善。「私たちにとって道徳とは何か?」がテーマです。 カントの時代、道徳の判断基準はキリスト教に置かれていました。しかしカントはそれに満足しません。なぜならカントは、理性で追い詰めて考えれば誰でも道徳は何かを了解できるし、もしそうでなければ道徳の本質を見て取ったことにはならないと確信していたからです。 道徳の本質は何か?この問いに対してカントは定言命法kategorischer Imperativによって答えます。 定言命法は、いわゆる「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というものです。これが言わんとすることは、欲求から離れて自律的に、しかも普遍的な仕方で自分に課したルールのみが道徳的である、ということです。誰からも命令されることなく、自分の意志で普遍的な「よさ」を目がけようとする態度、これが定言命法のポイントです。 『判断力批判』(1790年) 上級理性能力のひとつである判断力の統制的使用の批判を主題とする。しばしば第三批判とも呼ばれる。第一部、美的判断力の批判と第二部、目的論的判断力の批判からなり、判断力に理性と感性を調和的に媒介する能力を認め、これが実践理性の象徴としての道徳的理想、神へ人間を向かわせる機縁となることを説く。 純粋な趣味判断は、感覚様式における純粋な形式を把握する。善とは異なり、美は概念および関心をもたない愉悦の対象である。美の判断においては想像力と悟性とは一致する。これに対し崇高においては想像力と理性との間には矛盾がある。崇高美は、それとの比較において一切が小さいところのものであり、感性の一切の基準を超える純粋理性そのものにおける愉悦である |
フィヒテ | 1762年5月19日 - 1814年1月27日)は、ドイツの哲学者である。先行のイマヌエル・カントの哲学に大きく影響を受け、フリードリヒ・シェリングや後のゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに影響を与えたドイツ観念論の哲学者である。 フィヒテはカントの直接の後継者と言われるように、カントの問題意識の延長上に自分の思想の体系を築き上げた。カントの問題意識の基本にあったのは、主観と客観とがどのように関わり合うかと言うことだったが、カントはこの両者をあえて融合させようとはせずに、別々の原理で説明していた。それに対してフィヒテは、この両者を同じ原理によって統一的に説明しようとしたのである。その結果、フィヒテの思想は極端な観念論に陥った、と批判されることになる。 理論理性と実践理性、感性的世界と叡智的世界とを、同一の原理によって統一的に説明しようとした。 |
ヘーゲル | 1770年8月27日 - 1831年11月14日)は、ドイツの哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。優れた論理性から現代の哲学研究も含め、後世にも多大な影響を与えた。観念論哲学及び弁証法的論理学における業績のほか、近代国家の理論的基礎付けなど政治哲学における業績も有名である。認識論、自然哲学、歴史哲学、美学、宗教哲学、哲学史研究に至るまで、哲学のあらゆる分野を網羅的に論じた。 彼の影響を受け、ヘーゲル哲学を批判的に継承・発展させた人物としては、セーレン・キェルケゴール、カール・マルクスなどがいる。マルクス主義とその実践において根深い全体主義的傾向はヘーゲルに由来しているという主張があるが、その一方で、マルクス主義的な視点からのヘーゲルの哲学解釈には曲解との批判もある。 ヘーゲルの弁証法について ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。 全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。 最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される。このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。しかし、アウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。 ヘーゲルの弁証法は、ソクラテスの対話と同じように、暗黙的な矛盾を明確にすることで発展させていく。 |
フッサール | 1859年4月8日 - 1938年4月27日)は、オーストリアの哲学者、数学者である。 初めは数学基礎論の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。 現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、マルティン・ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティらの後継者を生み出して現象学運動となり、学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。 前期(記述的心理学としての現象学) 真の学は、普遍的な本質認識を求めるものであるため、単なる事実研究からは、偶然的な認識しか得られない。したがって、論理学の諸概念や諸法則のイデア的な意味をすべて取り出すためには、前提となりうるすべての理論を取り払った「直感」によって把握するしか方法がなく、その直感も完全に展開された明証的なものでなければならない。そのような方法によって記述される論理学は、「純粋論理学」である。純粋論理学が成立するためには、それが認識論によって基礎付けられていなければならない。そして、そのためには、現象学的な分析が必要であり、事あるごとに常に「事象そのものへ」へ立ち返り、繰り返し再生可能な直感との照合を繰り返すことによって、イデア的意味の不動の同一性を確保するために、不断に努力しなければならないとし、そのために記述的心理学には「現象学」が必要であるとしたのである。 中期(超越論的現象学) フッサールの中期を代表する著書は、『イデーン』である。フッサールは、『論理学』において現象学を記述心理学と位置づけて、あらゆる前提を取り払った純粋記述として、自我の心理作用を記述しようとした。しかし、それでもなお、意識を自我の心理作用として解釈する心理学的な「一つの解釈」を前提にしており、心理学主義との批判を受ける余地があった。そこで、フッサールは、そのような解釈も含めて、すべての解釈を遮断する方法として「現象学的還元」が、また現象学的還元を方法として得られる個々の純粋現象の本質構造を明らかにする方法として「本質直感」が必要となるとするに至った。 現象学的還元(超越論的還元及び形相的還元) 日常的に、私たちは、自分の存在や世界の存在を疑ったりはしない。なぜなら、私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っているからである。フッサールは、この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。
このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。 ノエシス/ノエマ このように現象学的還元によって得られた、自然的態度を一般定立されている世界内の心ではない意識を「純粋意識」という。 既に述べた通り、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であり、志向性を持つ。したがって、純粋意識の純粋体験によって得られる純粋現象も、志向的なものである。そして、このような志向的体験においては、意識の自我は、常に○○についての意識として、意識に与えられる感覚与件を何とかしてとらえようとする。フッサールは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考された対象をさす「ノエマ」という用語を用いて、意識の自我が感覚与件をとらえようとする動きを「ノエシス」、意識によって捉えられた限りの対象を「ノエマ」と呼んだ。 後期(発生的現象学) 後期思想の集大成とよぶべき著作が『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』であり、『デカルト的省察』にその思想的転換が認められるとされる。そこでは、超越論的現象学によって明らかにされた個々の純粋意識の志向的体験を超えて、それに先立って存在する「先所与性」が存在し、それが発生する起源まで遡らなければ、世界構成を徹底的に明らかにすることはできないとされ、超越論的現象学の「生態的現象学」から「発生的現象学」への段階移行が説かれた。 形而上学 フッサールは、近代科学と古い形而上学を厳しく批判して、生活世界を取り戻すことを主張した。そして、そのことによって近代科学を支える物理学的経験の基盤となる、感覚と理性を含む「生活世界の経験」が可能になると見た。これは、客観的存在に先立つだけでなく、これを可能にするものである。そのため、「超越論的経験」とも呼ばれる。これは、近代科学の客観性に先立つ限りで、主観的なものであるが、同時に基盤的なものである。そして、その最下層には、最も基礎的な「原事実」がある。この原事実は、世界・私・他者の存在であり、これらは絡み合って大きな歴史的存在を形作っている。これを研究・解明するのが、新しい形而上学であるとした。 |
ベルクソン | 1859年10月18日 - 1941年1月4日)は、フランスの哲学者。出身はパリ。日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。 リセで古典学と数学を深く修めた後、グランゼコールの一つである国立高等師範学校に入学。 『時間と自由』 これまで「時間」と呼ばれてきたものは、空間的な認識を用いることで、本来分割できないはずのものを分節化することによって生じたものであると批判した。そして、ベルクソンは、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」("durée")と呼び、この考えに基づいて、人間の自由意志の問題について論じた。この「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。 『物質と記憶』 1896年には、ベルクソンは、哲学上の大問題である心身問題を扱った『物質と記憶』を発表した。この本は、ベルクソンにとって第二の主著であり、失語症についての研究を手がかりとして、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心身問題に取り組んでいる。 すなわち、ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。 『創造的進化』 1907年に第三の主著『創造的進化』を発表する。この本の中で、ベルクソンは、スペンサーの社会進化論から出発し、『試論』で意識の流れとしての「持続」を提唱した。そして、『物質と記憶』で論じた意識と身体についての考察を生命論の方向へとさらに押し進めた。これは、ベルクソンにおける意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで押し進めたものといえる。そこで生命の進化を押し進める根源的な力として想定されたのが、"élan vital"「エラン・ヴィタール 生命の飛躍(生の飛躍)」である。 『二源泉』 1932年に最後の主著として発表されたのが『道徳と宗教の二源泉』である。この著作では、社会進化論・意識論・自由意志論・生命論といったこれまでのベルクソンの議論を踏まえたうえで、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教について「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍("élan d'amour")」といった言葉を用いつつ、独自の考察を加えている。 すなわち、創造的進化の展開のうち、エラン・ビタール、そして天才・聖人らの特権的個人によって直観される持続としての神的実在が緊張の極に置かれ、かかる特権的個人の行為を通じて発出するエラン・ダムールによる地上的持続の志向と参与を真の倫理的・宗教的行為であるとした。 |
ニーチェ | 1844年10月15日火曜日にプロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセン(Provinz Sachsen - 現在はザクセン=アンハルト州など)、ライプツィヒ近郊の小村レッツェン・バイ・リュッケンに、父カール・ルートヴィヒと母フランツィスカの間に生まれた。父カールは、ルター派の裕福な牧師で元教師であった。 ニーチェはボン大学へ進んで、神学部と哲学部に籍を置く。神学部に籍を置いたのは、母がニーチェに父の後をついで牧師になる事を願っていたための配慮だったと指摘される。しかし、ニーチェは徐々に哲学部での古典文献学の研究に強い興味を持っていく。そして、最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている ニーチェの読者がまず最初に感じるのは、その逆説的なものの言い方をどう受け取ったらよいかというとまどいだろう。ニーチェは善いとか悪いとか、美しいとか醜いとかいった言葉を通常の意味で使った上で、自分は「悪い」とか「醜い」もののほうを評価するというような言い方をする。そこで読者はそれを一種の逆説だろうと推測したくなるのだが、これは逆説などではない、とニーチェは言う。つまり彼は本気でそう思っていると言うのだ。 既存の価値体系をトータルに否定するニーチェの態度はあまりにも激烈かつ徹底的なので、批判にとっての最強のモデルを提供している。世の中には批判を超越した価値などはない。あらゆる価値は批判の対象になる。それがニーチェの基本的な態度である。それ故、前の世代の思想を批判しようとする者にとっては、ニーチェは導きの星となるような存在なのだ。 このようにニーチェは、既存のあらゆる価値に対して根本的な疑問を提起し、それらを徹底的に相対化したわけだが、それに対置する形で自ら提起したものは、既成の価値に対する反価値として、あまりにもグロテスクな様相を呈した、というのが素直な受け取り方ではないか。ニーチェの方法に学ぶことはあっても、彼の提起した価値観については、眉に唾をして向き合う必要がある、ということだろう。 『悲劇の誕生』 厭世的と見られていた当時の古典ギリシア時代の常識を覆し、アポロン的―ディオニュソス的という斬新な概念を導入して、当時の世界観を説いた野心作であった。しかし、このような独断的な内容は、厳密に古典文献を精読するという当時の古典文献学の手法からすれば、暴挙に近いものだった。そのため、周囲からは学問的厳密さを欠く著作として受け取られ、ヴァーグナーや友人のローデを除いて、学界からは完全に黙殺された。 『反時代的考察』[編集] これは、ヨーロッパ、特にドイツの文化の現状に関して、1873年から1876年にかけて執筆された4編(当初は13編のものとして構想された)からなる評論集である。
『悦ばしき知識』 『悦ばしき知識』(1882年)は、ニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続きアフォリズム形式をとりながら、他の諸作よりも多くの思索を含んでいる。中心となるテーマは、「悦ばしい生の肯定」と「生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タイトルは思索法を表すプロヴァンス語からつけられたもの)。 たとえば、ニーチェは、有名な永劫回帰説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観と真っ向から対立するものである。 永劫回帰説もさることながら、『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張であろう。 |
ミシェル・フーコー | 1926年10月15日 - 1984年6月25日)は、フランスの哲学者。『言葉と物』(1966)は当初「構造主義の考古学」の副題がついていたことから、当時流行していた構造主義の書として読まれ、構造主義の旗手とされた。フーコー自身は自分が構造主義者であると思っていたことはなく、むしろ構造主義を厳しく批判したため、のちにポスト構造主義者に分類されるようになる。代表作はその他、『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』など。
フーコーは、大学教員資格試験に合格し、1951年にリール大学の助手として採用される。スウェーデンのウプサラ大学でフランス語を教えるかたわら、ウプサラ大学図書館(「ヴァレール文庫」と呼ばれる近代医学史関係の重要書を網羅したコレクションがある)に通いつめ、博士論文である『狂気の歴史』を著した。帰国後『臨床医学の誕生』で医学的言説の転換を指摘した。1966年『言葉と物』で近代人文諸科学の知の編成を批判的に検討した。チュニス大学へ行ったのち、パリ・ヴァンセンヌ実験大学の哲学教授に就任する。 1970年コレージュ・ド・フランス教授となる。「主権権力」と対比される「規律訓練型権力」の徹底的な分析である『監獄の誕生』を著した。その後、『知への意志』(『性の歴史』第1巻)において精神分析を批判する。その後、コレージュ・ド・フランス講義で「統治性」「生政治」などの試行的な概念を次々と扱う。やがて、(『性の歴史』第2巻、第3巻)『自己への配慮』、『快楽の活用』でギリシャ・ローマ時代の「自己への配慮」の研究を行う。1984年、道半ばにしてエイズで死去。57歳没。コレージュ・ド・フランスにおける1984年の講義タイトルは、「真理への勇気」であった。 人間の知の枠組としてのエピステーメーの仮設を展開するとともに、権力が人間を絡め取る過程を明らかにした。また、人間社会のあらゆる道徳には歴史的起源があると主張したことで、ニーチェの思想に現代的な位置づけを与えた。 人口の増大は、資本の蓄積に比例していることが必要である。資本の蓄積の度合いよりも多すぎてもよくないし、少なすぎてもいけない。「人間の蓄積を資本の蓄積に合わせる、人間集団の増大を生産力の拡大と組み合わせる、利潤を差別的に配分する、この三つの操作は、多様な形態と手法に基づく<生―権力>の行使によって、ある部分では可能になったことだ。生きた身体の取り込み、その価値付与、その力の配分的経営、これらはこの時点で不可欠なものだった」 フーコーが「生」と言っているものは「生=性」としての生である。それ故、生の経営・管理とは、性を経営・管理することとなる。性をめぐっても、身体の規律と人口の調整が中心的な事柄となるのだ。「一方では性は、身体の規律に属する。身体的な力の訓練と強化と配分であり、エネルギーの調整とその生産・管理である。他方では、性は、それが誘導するすべての総体的作用を通じて、住民人口の調整・制御に属する」(同上)というわけである。「『身体』と『人口問題』の接点にある性は、死の脅威よりは生の経営のまわりに組織される権力にとって中心的な標的となるのである イデオロギー性(フーコー自身はこの言葉を使っていないが)とは、現代を成り立たせているさまざまな制度や観念体系の背後に、それについて強力な利害関係を有する集団の意思が働いているということである。どんな制度にもその背後にはそれによって利益をこうむる集団がいる、という見方はマルクスの見方を想起させるが、マルクスとは違った立場からそれを主張した思想家としてニーチェがいる。マルクスは、ある時代の支配的なイデオロギーはその時代の支配階級の考え方を反映したものだとしたわけだが、ニーチェの場合には、ヨーロッパのキリスト教道徳の背後に、それによって利益を受ける「賎民」の利害を見、その賎民たちがいかにしてキリスト教道徳を作り上げてきたか、それを過去に遡って明らかにした。ニーチェは自分のそういった歴史記述を「系譜学」と名づけたわけだが、その方法をフーコーも意識的に取り入れている。そのことをフーコーは、「ニーチェ流のあの偉大な探求の陽光をあびつつ」、歴史を研究すると表現している 「ピネルにとって狂人の治療を構成するところのものは、道徳的に再認され承認された社会的な型のなかへ狂人を安定させることである」(「狂気の歴史」 |
2017年 気になる見解 (“魂”は天国に行かない ) |
世界中の科学者・哲学者が今も頭を悩ませ続けている“人間の意識”。人類が数千年にわたり挑み続けてきたこの難問に、この度、一石を投じる理論が提唱されたとのニュースが舞い込んできた。なんと、意識はあなたが生まれる以前から存在し、死後も永遠に存在し続けるというのだ!
■英化学者「意識は宇宙に偏在する」
驚きの理論を提唱しているのは、英グラスゴー大学などで教鞭を取り、現在は著述家として活躍している化学者のデイヴィッド・ハミルトン博士。博士によると、全ての意識は肉体の誕生以前から宇宙に存在し、死後も存在し続けるという。一体、どういうことだろうか? 英紙「Express」(7月13日付)の記事から博士の発言を引用しよう。
「我々一人一人は人間として地球上に誕生する前から存在しました。我々は純粋な意識ですが、現在は身体的・物理的レベルで存在しているということです」(ハミルトン博士)「科学のメインストリームでは、意識は脳の化学的な副作用だとされていますが、私の考えは違います。確かに、テレビの配線の質が電気信号処理と映像の質に影響を与えるのと全く同様に、脳が意識に影響を与えることはあるとは思います。しかし、テレビは番組を作ることはできません。同様に脳は意識を生み出してはいないのです」(同)
要するに、痛覚を伝達するC繊維が刺激されれば、痛みが意識されるように、脳と意識には相関関係があることは間違いないが、脳が意識そのものを生み出したわけではない、ということである。
ハミルトン博士は、意識は量子レベルで時空を超えて存在するとも語っている。キリスト教などにおいては、死後、人間の「魂」は天国や地獄に行くとされているが、博士の考えによれば、天国も地獄も存在せず、魂はこの世界に留まり続けるということだろう。これは、「エネルギーは創造されもしないし、破壊されもしない。ある形から別の形へ変わるだけである」と語ったアインシュタインの物理学とも通底するように思われる。
■意識の存在は宇宙の神秘
、再生医療の専門家ロバート・ランザ博士も、ハミルトン博士と似た立場から意識の謎に取り組み、物質ではなく生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であるとする「生命中心主義」を標榜している。ランザ博士によると、意識は物質よりも根源的な存在であり、肉体は意識を受信するためのアンテナに過ぎないという。
意識の問題を主題的に扱う哲学の一分野「心の哲学」でも、脳や神経細胞といったレベルの構成においてはじめて生まれるのでなく、宇宙の根本的レベル、つまりクォークやプランク長といったレベルにおいて原意識という形で存在するとされているという「汎経験説」が提唱されている。
意識には脳に還元することのできない、全宇宙の神秘が宿っているのだ。これから徐々に、「意識=脳の作用」という構図は解体され、宇宙や量子力学を巻き込んだ壮大な探求になっていくことだろう。
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上山春平 解説 抜粋
『善の研究』 は「純粋経験」「実在」「善」『宗教」で構成されるが「実在編」「善」が最初にできてその後に「純粋経験」『宗教」が追加された。
骨子
実在編
「真実性は常に同一の形式をもっている」
独立自全たる真実在の成立する方式を考えてみると、みな同一の形式によって成立するのである。まず全体が含蓄的に現れる、それよりその内容が分化発展する。しかしてその分化発展が終わった時に実在の全体が実現せられ完成される。
『論理の世界と数理の世界」
動的一般者の発展の過程には、まず全体が含蓄的に現れ(赤ん坊)、これより分裂対峙の状態に移り(子供)、また元の全体に還り来たりてここにその具体的真相を明らかにするのである(大人)。ヘーゲルの言うように「即自」より「対自」に移り、それからまた「即旦対自」となる。
論理の世界も数理の世界もその基本構造は同一であり、「動的一般者が己自信を発展する過程としての思惟作用にほならない。」
論理的推論とはいつでも一般より特殊に行くこと、すなわち一般的なるものが内より必然的に己自信を発展すること。つまり特殊を一般の中に包み込むという推論が「一般より特殊に行くこと」これを動的一般者の発展過程としてとらえている。「一般的なるものが己を限定する」という「一般者の自己限定」は、動的一般者の発展過程を意味するとともに「一般より特殊に行くこと」もしくは「特殊なるものを一般なるものに包摂すること」を意味する。
純粋経験(子供)においては未だ知情意の分離はなく、主客の対立もない。この対立は我々の思惟の要求より出てくるので、直接経験の事実ではない。実在の完全なる説明においては知識的要求を満足するとともに情意の要求を度外においてはならぬ。
経験の能動的な見方
「個人があって経験あるにあらず、経験があって個人がある」と言う着眼点が独我論からの脱却を可能ならしめた。「経験」と言う言葉が主客未分、知情意未分の真実在としての「純粋経験」を指している。経験の背後には常に一般的なものがり、すべての経験は自分を分化発展して出てくる。詳しく言えば自分を限定してゆくプロセスであると考える。
一即多、多即一
実在を純粋経験の分化発展もしくは一般的なるものの自己限定としてとらえる観点から、未分化の一つの実在としての一般と、それの分化によって成立する多くの特殊は実在の異なった側面として捉えられ、したがって「実在の根本的方式は一なるとともに多、多なるとともに一」である。一なる一般が統一の働きを為すのに反して、多なる特殊は相互に矛盾するので「一なるとともに多、多なるとともに一」ということは「統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある」ということと同じことになる。これが、後期西田哲学における「絶対矛盾的自己同一」の原型
外より内への転換
年譜概要
1886年(17歳)北条時敬より数学を学ぶ
1887年(18歳)初等中学中学第二級を卒業。石川県専門学校が第四高等中学校と改称、同校予備科に編入
1888年(19歳)第四高等中学校第一部一年。哲学者になろうと決意。
1889年(20歳)落第、21歳退学。
1891年(22歳)帝国大学文化大学哲学科選科に入学。哲学をブッセ、ケーベルらに学ぶ
1892年(23歳)鎌倉の建長寺、円覚寺に参禅。
1895年(26歳)石川県能登尋常中学校七尾分校の教諭になる。寿美と結婚。翌年長女弥生生まれる。
1897年(28歳)参禅の関心が強まり禅師を訪問。四校講師を辞任。寿美と復縁。
1898年(29歳)妙心寺に参禅。長男謙生まれる。
1899年(30歳)山口高等学校教授に任命。第四高等学校教授に転任。
1901年(32歳)次男外彦生まれる。雪門老師より寸心居士の号を受ける。
1902年(33歳)奈良、吉野地方に遊ぶ。次女幽子生まれる。
1905年(36歳)三女静子生まれる。
1907年(38歳)次女幽子死亡。「実在について」を『哲学雑誌』に発表。四女友子、五女愛子生まれ、死亡。
1908年(39歳)「純粋経験と思惟、意思、及び知的直観」を哲学雑誌に発表。
1909年(40歳)六女梅子生まれる。学習院教授の任命。
1910年(41歳)京都帝国大学(倫理学)助教授に任命。ベルクソンの哲学的方法論を『芸文』に発表。
1911年(42歳)『善の研究』を弘道館より発表。
29歳 「哲学者は宇宙を見ること最も浅くまた不完全なり。詩人の想像力は哲学者の知力より深く全体に入りたるものにして、宗教家の信仰においてはじめて宇宙全体の深底に到達したるものなり。哲学者にして真に己が目的を達成せんと欲せば、畢竟宗教に入らざれば能わざるべし。実在全体を統一融合するは知識上にあらずして事実上にあらん。宗教は事実なり。知識の説明ありて事実あるにあらず、説明の有無は因って事実の価値に関係なし」
33歳 「参禅は以って大道を明らかにすべく、学問は以って真知を開くべし。道をもって体となし、学問を以って四肢となす。」学問道徳の本には宗教がなければならぬ。学問道徳はこれによって成立する。『善の研究』の基本的な見地を形成し、最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』においても「宗教的意識と言うのは、我々の生命の根本的事実として、学問、道徳の本でもなければならない」と言う形で表現されている。この見地は西田哲学を一貫する基本的な観点であった。
『善の研究』以後
「人心は無限なる欲求の体系と見るべきもので、その中心が自己であり、これによりて統一してゆくのが生命である。官能的欲求が中心となり、ここにすべてを統一するから、生活意思が唯一の生命のように見える。しかし理性的人心の中心はここにあるのではない。人心は真の中心を求めねばならぬようになり、ここにおいて生命そのものを反省しさらに大なる統一を求める。純知識的欲求はこれより出てくるので生活意思と異なるものではない。これの発展であり、一層大なる生活意思であると言はねばならぬ。哲学は純知識的にすべてを統一しようとする。統一の推移である。自己の変化であり、生活意思の独立を許さない。純知識的なるがゆえに知は意であり、意は知でなければならぬ。哲学は純知識的要求より起こると言うよりも、むしろ新生命の要求に基づいている。何事も意のごとくで人生の苦を知らぬ人、または失意の境にあっても、さらに深き生命を求めぬ人は哲学を要せない。」
「宇宙および人生の根底を極め、知識的欲求の最深なる満足を得んとする哲学の出立点は最新なる疑いより生まれねばならぬ。我々の真に疑うに疑いようのない知識の出立点はただ一つ。それは直接経験、即ち自己の意識の直覚である。」
純粋経験という直覚的事実を中心にその根底にある一般的なるものの分化発展を通して特殊化され、限定されたものが周辺を為すものとみなされたのである。自然現象とか精神現象とかは、唯一の実在としての純粋経験の特殊化もしくは限定された側面としてとらえられ、それらを唯一の実在とみなすような学問や思想は、当然、純粋経験そのものを実在と見る観点の周辺に位置づけられることになる。
直観の立場から自覚の立場へ
「一般者の自己限定」の思想は『善の研究』においては「純粋経験」を基盤として展開されるが『自覚における直観と反省』においては「自覚」を基盤に展開される。直観を基礎とする立場から、直観と反省の統一としての自覚を基礎とする立場への移行があった。リッケルトなどの新カント学派を研究するに及んで、何処までも自己の立場を維持しようとした。価値と存在、意味と事実との峻別にたいして、直観と反省との内的結合たる自覚の立場から両者の総合統一を企てた。
「自覚」の立場と、「絶対自由意志」の立場に関する理解が必要なため「自覚」の立場を示す「論理の理解と数理の理解」と「絶対自由の意志」の立場を要約した「種々の世界」という短編を収録し載せてある。
フィヒテの「事行」
「自己は自己自身で自己を定立する。自己自身を定立するだけで、自己は存在する。そして自己が存在するだけで、自己は自己の存在を定立する。つまり自己は働くものであるとともに働きの所産である。働きと働きの成果とが全く同じものなのである。従って≪私が存在する≫ということは、一つの事行の表現である。
事行…自覚とは自分を知ることである。自分が自分を知ることは、知るものと知られるものが同一である。我が我を考えるところに我があるのである。我があると言う事は我が在ると言う事である。
西田哲学の時期区分
全ての時期をとおして ”一般者の自己限定”
1907 善の研究
1912 自覚 論理の世界と数理の世界(思索と体験)
1926 場所 働くものから見るものへ
1934 弁証法的一般者 哲学の根本問題
1949 場所の論理と宗教的世界観
「叡知的世界」・・・場所の論理の成熟した形を示す
「行為的直観」・・・弁証法的一般者の立場を比較的簡潔にまとめたもの
自覚の構造
自覚とは直観と反省いう「二つの内面的関係を明らかにすることである。」「自覚に置いては自己が自己の作用の対象としてこれを反省するとともに、かく反省することがただちに自己発展の作用である。自己が自己を反省することを「自己が自己を写す」こととして捉えることによって自覚を無限なる自己発展をはらむ自己代表的体系として、この動的な自己発展の過程を直観的なものとしてみるのである。こらはロイスに負っている。
ロイス・・・「一と多と無限」神と人と関係。絶対の個体としての神と有限な個体としての人との関係を一と多との論理的関係に置き換え、無限の概念を手掛かりとしてこの関係についての考察を試みている。
西田はフィヒテの事行の概念にならい、自覚を自己が自己をに対して働くこと、自己が自己を反省することとして捉えたのであるが、働きかける自己、反省する自己と反省される自己との関係を、写す自己と写される自己との関係として、つまり一種の写像の関係としてとらえる視点をロイスから学んだ。
デデキントの無限・・・集合論の基礎を確立した数学者。デデキント、西田は無限に関する定義に関心を持つ。写像の概念を用いてある体系(集合)とその体系の一部分(部分集合)との間に写すものと写されるものと関係が成立し、両者が集合的に相似であるならばその体系は無限である。無限集合は存在する。この定理の証明として「私の思考の世界」に言及している。
デデキントの「私の思考の世界」・・・「私の思考の対象となりうる事物の全体」を指し、これと「私の思考の対象となりうる事物が私の思考の対象となりうるという思考の全体」とが集合論てきに相似であり、しかも後者は前者の部分であるから、「私の思考の世界」は無限である。
西田は自己が自己の中に自己を写す自己代表的体系として捉え「思惟の統一の真相は自己の統一においてのように、自己の中に自己を写す自己代表的体系の統一であって、即ち自己の自己の中に変化の動機を蔵し己自信にて無限に進みゆく動的統一である」という考えに到達。
場所の論理の構造
一.我々の判断的知識の根底には具体的一般者がなければならぬ。判断は具体的一般者の自己限定として成立する。我々の知識の層体系はかかる一般者の無限の層である。主語的方面において無限に深い直覚的なものが見られるとともに、述語的方面においてこれを包む無限大の一般的なるものが認められねばならぬ。
二.主語的基体としての一般者と超越的述語面としての一般者とをどこまでも区別すべきと思う。一方に主語となって述語とならないもの(主語的基体)が考えられるとともに、一方に述語となって主語にならない(超越的述語面)が考えられねばならぬ。
三.具体的一般者の根底となる一般的なるものが積極的に限定できない時、すなわち述語となって主語とならない述語面(超越的述語面)となったとき、いわゆる思惟の立場では主語と述語がもはや結びつかないものとなる。主語的方面において無限に深い主語となって述語にならぬ直覚てきな主語的基体をを見るのみである。これに対してその述語面となるものは、何処までも限定すべからざる者でなければならない、単に無の場所というべきものである。その限定としてこれにおいてあるものはいわゆる抽象的概念にすぎない。
以上の三つの引用文より。アリストテレスの主語の特殊化の極限にけるて個物(第一実体)の規定に負うていて、超越的述語面はプラトンの『ティマイオス』にける『場所』の思想に負うている。ただ、違いは『場所』は様々なイデアの型を受け入れる物質的な素材であるが、西田の「場所」は「無の場所」とことわっており、 まったく物質的な意味を持たない純粋に論理的概念である。
もともと宗教を中心に据えて、学問を周辺に配すると言う体系的構図の「一般者の自己限定」、「場所の論理」の考察は体系の中心を締める具体的一般者を「判断的一般者」と捉えるに過ぎなかったが、「一般者の自覚的体系」では「叡知的世界」で示される如く「判断的一般者」の背後に「自覚的一般者」その背後に「叡知的一般者」を考え、第一の一般者による自己限定として自然界を、第二の一般者の自己限定として意識界を、第三の一般者による自己限定として超越的な叡知的世界を考えるようになる。
西田哲学の思想史的意義
修禅の体験を通して「幾千年来、我々の祖先のはぐくんできた東洋文化」の思想遺産に接し、そこに西洋の思想を貫く論理とは別の論理を見出し、それを論理的に再構築して、今日の人類の共有財産として提供することを自らの学問的任務とした。
アリストテレスでもなくプラトンでもなくヘーゲルの弁証法的論理の考え方に近いが、弁証法は本来、一即多、多即一であるがヘーゲルの思想は一の方に傾いている点が不徹底と指摘、これの反論として西田の絶対的無の論理に到達。
『善の研究』本文概略
経験とは事実そのままに知るの意である。直接経験と同じ。
精神現象の原因である純粋経験とはいかなるものか
複雑か単純か
複雑と見える場合もその瞬間においては単純である。
綜合は何処まで及ぶか
意識の焦点がいつでも現在である。範囲は自らの注意の範囲と一致せてくる。意識の本来は体系的発展であり、この統一が厳密で、意識が自ら発展する間は、純粋経験の立脚点を失わない。この点は知覚的経験においても表象的経験においても同一である。現在の統一を離れて他の意識関係する時、もはや現在の経験でなく,意味となる。
意志の本質は未来に対する欲求にあるのではなく、現在の活動にある。
表象 心に思いうかぶもののかたちを言う。知覚、記憶、想像によるものなどすべてを含む(観念、心象といった言葉とほぼ同じ意味に使われる)
思惟 心理学では表象間の関係を定めこれを統一
判断(分析により純粋経験の事実を結合)により、思惟は純粋経験の一種とみなされることができる。
知覚と無意識→所動的(受動的)
思惟と意識 →能動的 この関係はそうとも言えず
思惟の本領は真理を表すこと。思想は何らかの実践的意味があり実行に現れなければならない。
真と偽の判断は意識体系の客観的実在により決まるか?
超個人的には→意思統一への小さな要求
理性→意思統一への深遠なる要求
大いなる意識統一
純粋経験と思惟は本来同一事実の見方を異にしたもので、経験は時間、空間、個人を知るが上に時間、空間、個人以上である。個人があって経験があるのではなく経験があって個人があるのである。
純粋経験の立場より意志の性質及び、知と意との関係を明らかにする
意志
意志は多くの場合のおいて動作目的とし、またこれを伴うものであるが精神現象、外界の動作とは別物。
一の心像より、他の心像に移る推移の経験。同一の表象であてもその属する体系により知識的体系となったり、意志の目的ともなる。自己の運動と連想するとき意志の目的となる。
純粋経験の立場からは、主観を離れた客観はなく、真理はわれわれの経験的事実を統一したものである。最も有力にして統括的な表象の体系が客観的なる真実である。真理を知るとかこれに従うということは自己の経験を統一し、より大きな統一に向かうことで、大いなる自己に従う事である。非自己であったものが自己の体系に入ってくることである。知は力である。
意志と知識との間には絶対的区別はない。共に一般的あるものが体系的に自己を実現する過程であり、その統一の極致が真理でありかつ実行せある。未だ知と意と別れておらぬ知覚の連続のような場合、未だ知と意とわかれておらぬ、知即行である。それが意識の発展により一方より見れば種々なる体系の衝突のため、一法より見れば更なる大なる統一に進むため、理想と事実との区別ができ、主観界と客観界とが分かれてくる。そこで主より客に行くのが意で、客より主に来るのが知である。知と意の区別は主観と客観とが離れて、純粋経験の統一が失った場合に生ずる。
理想的なる、普通の経験以上の直覚である。たとえば美術家や宗教家の直覚の如きものをいう。直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においては遥かにこれより豊富深遠なるものである。
純粋経験のたちばにより、経験は時間、空間、個人等の形式に拘束されるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越する直覚によって成立する。純粋経験における統一作用そのものであり、受動的なものではない。主客合一、知識融合の状態であり、主観的作用のでもなく主客を超越した状態である。主客の対立はむしろこの成立により成立する。
知的直観は事実を離れた抽象的一般性の直覚ではない。真の一般個性とは相反するものではない。個性的限定によってかえって真の一般を表すことができる。芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現す。
思惟の根底には知的直観がある。思惟は一種の体系であり、その根底には統一の直観がある。思想の背後には大いなる直観が働いており、思想における天才の直覚といえども量において異なり質において異なるものではない。それは新たにして深遠なる統一の直覚にすぎない。
意志の根底にも知的直観がある。我々があることを意志することとは主客合一の状態を直覚し、これによって成立する。意志の進行は直覚的統一の発展統一であり、根底に始終この直覚が存在し、完成したところが意志の実現となる。
哲学的世界観(人生はこのようなもの)と道徳的宗教(人間はかくせねばならぬ)の実践とは密接な関係がある。人は相容れない知識的確信と実践的要求をもって満足することは出来ない。元来真理は一つであり、深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求めるようになる。
思惟と直覚とは全く別の作用であるかのように考えられているが、単にこれを意識上の事実としてみたときは同一の作用である。直覚とか経験とかいうものは個々の事物を他と関係なくそのままに知覚する純粋の受動的作用であって、思惟とはこれに反し事物を比較し判断しその関係を定める能動的作用と考えられているが、実地における意識作用としては全く受動的作用なるものがあるのではない。直覚は直ちに直接の判断である。
思惟の根底にも常に統一的あるものがある。これは直覚すべきものである。判断はこの分析により起こるのである。
実在とはただ我々日の意識現象すなわち直接経験の事実のみである。このほかに実在というのは思惟の要求より出た仮定にすぎない。意識現象の範囲を脱せぬ思惟の作用に経験以上の実在を直覚する神秘的能力無きは言うまでもなくこれらの仮定は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起こった抽象的概念である。
我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実が有る様に考えているが、その実は意識現象あるのみである。物体現象というのはそのなかで各自に共通で普遍的関係を有するものを抽象したものにすぎない。
我々の身体も自己の意識現象の一部にすぎない。意識が身体の中にあるのではなく、身体はかえって意識の中にあるのである。
意識現象といえば、物体と分かれて精神のみが存在すると考えられるかもしれない。真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられないものである。直接の実在は受動的なものではない。独立自全の活動である。有即知ではなく有即活動と言えるかも。
各自の意識が互いに独立のものならばその間の説明は如何に。
意識の統一がなければならない。この統覚というのは類似した観念感情が中枢となって意識を統一するというまでで、その範囲は純粋経験の立場より見て彼我の間に絶対的分別を為すことは出来ぬ。
意識現象をもって唯一の実在について。
われわれの意識現象は固定するものではなく始終変化する出来事の連続であり、これらの現象はいずくより起こり、いずくに去るかの問題である。物には必ず原因結果がなければならない。因果律の正当なる意義はある現象の起こるには必ずこれに先立つ一定の現象があると言う事まででそれ以上の存在を要求するものではない。
我々がまだ思惟の細工を咥えない直接の実在とはいかなるものであるか。真に純粋経験の事実とはいかなるものか。
主知説の心理学者は、感覚及び観念を以って精神現象の要素となし、すべての精神現象はこれらの結合により成り立つ。元来我々の意識現象を知情意と分かつのは学問上の便宜の寄るものであり実地においては三種の現象があるのではなく意識現象は全てこの方面を具備している。
主意説の心理学者の言うように我々の意識は始終能動的であり、衝動を以って始まり意志をもって終わる。すなわち意志が純粋経験の事実であると言わねばならぬ。
純粋経験においてはいまだ知情意の分離が鳴く唯一の活動であるように未だ主観客観の対立はない。
精神と物体との両実在があるという考えは全て誤り。主客のいまだ分かれざる独立自全の真実在は知情意を一つにしたものである。
我々の情意は互いに相通じ相感ずる、超個人的要素を含んでいる。
主客を没した知情意合一の意識状態が真実在。かくのごとき実在の真景はただ我々が自得すべきものである。
真実在の成立する方式は、みな同一の形式によって成立する。まず全体が含蓄的に現れ、それよりその内容が分化発展する。子の分化発展が終わった時に実在の全体が実現し完成する。
意志についても、知識作用でも同じで目的観念から観念の体系化ののち完成する。
真実在の活動は自発自展である。能動受動とか外物内物の作用とかは他方を見て一方を忘れたものである。
我々の経験するところの事実はみな同一の実在であって同一の方式によって成り立つ。物体現象と言い精神現象と言い純粋経験の上においては同一であり、この二種の統一作用は元来同一種に属すべきものである。思惟意志の根底における統一力と宇宙現象の根底における統一力は直ちにどういつである。たとえば我々の論理、数学の法則は直ちに宇宙現象がこれに寄りて成立する原則である。
実在の成立には根底に統一というものと同時に、相互の反対むしろ矛盾と言う事が必要。実在は矛盾によって成立する。赤きものは赤からざる色に対し、働く者はこれを受けるものに対して成立する。この矛盾が消滅するとともに実在も消滅する。元来この矛盾と統一は同一のことを両面より見たものにすぎない。統一があるから矛盾がある。
実在の根本的方式は一なるとともに多、多なるとともに一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具す。しかしてこの二方面は離すことができず、つまり一つの自家発展と言う事ができる。独立自全の真実在はいつもこの方式を備えており、しかざる者は抽象的概念である。
実在とは意識活動である。それは時々によりあらわれまた消え去るもので同一の活動が永久に連結することはできない。小にして我々の一生の経験、大にして宇宙の発展これらの事実は畢竟夢幻の如く、支離滅裂なるものがありその間に何らかの統一的基礎がないのであろうか。
実在は相互の関係において成立するもので、宇宙は唯一実在の活動である。
昨日の意識と今日の意識は一つの意識活動としてみれば同一の連続した活動であり、ただ時間の長短において異なるものである。意識の結合には知覚のごとき同時の結合、連想思惟のごとき継続的結合、自覚のごとき一生に渡る結合もみな程度の差異であって、同一の性質により成立するものである。
意識の統一の根底には時間の外に超越せる不変的あるものがある。直接的経験より見れば同一内容の意識は同一の意識で、真理は何人が何時代に考えても同一である。個人の一生はかくのごとき一体系を為せる意識の発展である。
統一力はいかなる形において存在するか。意識内容の直接の結合という統一作用が根本的事実。
宇宙には一定不変の理なるものがあり、万物はこれによりて成立するものと考えている。この理とは万物の統一力であり、また意識内容の統一力である。理はモノや心によって所持されるものではなく、理が物心を成立させる。理は独立自在であって時間空間、人によって異なることなく謙滅用不用によりてかわらず。
われわれのいわゆる客観的世界と名付けているものも我々の主観を離れて成立するものではなく、客観的境の統一力と主観的意識の統一力とは同一である。両意識は同一の理なるものにより成立する。
意識現象が唯一の実在であるという考え方より見れば宇宙万象の根底には唯一の統一力があり、万物は同一の実在の発現したものといわねばならぬ。
実在は一に統一されているとともに対立をふくんでいる。一の実在があれば必ずこれに対する他の実在がある。そしてこの実在が相互いに対立するには、この二つの実在が独立の実在ではなく統一されたものでなければならない。すなわち一の実在の分化発展でなければならい。そして一の統一それがとして現れたときは、さらに両社の背後にあらたなた対立が生じる。かくして無限の統一にすすむ。これを逆に見れば無限なる唯一実在が小より大に、浅より深に自己を分化発展すると考えることができる。かくのごとき過程が実在発展の方式であり宇宙現象はこれによりて成立し進行する。
意志とはある理想を現実にしようとする現在と理想の対立であり、この意志により理想と一致したとき、この現在はさらに他の理想と対立して新たなる意志が出てくる。
以上よりいかにして種々なる実在の差別が生ずるか。
主観客観とは会い離れて存在するものではなく一実在の相対立する両方面である。主観とは統一的方面であり、客観とは統一せらるる方面である。後の意識より前の意識を見た場合、現在の自己は現在の観察者であり統一者である。
精神現象は統一的方面すなわち主観のほうからみたもので、物体現象は統一せらるるものすなわち客観の方から見たものであり、同一実在を相反する両方面より見たのに過ぎない。唯心論、唯物論の対立は両方面の一を固執することで起こる。
能動所動の差別も実在に二種の差別があるのではなく、やはり実在の両方面である。
無意識と意識の区別について。
主観的統一作用は常に無意識であって、統一の対象となるものが意識内容として現れる。思惟についても意志についても真の統一作用はいつも無意識である。ただこれを反省してみたとき、この統一作用は一の観念として意識上に現れる。しかしこの時はすでに統一作用ではなく、統一の対象となっている。統一作用はいつも主観であるからいつも無意識でなければならない。
現象と本体との関係もやはり実在の両方面の関係と見て説明することができる。真正の主観が実在の本体である。通常物体は客観にあると考えるがこれは真正の主観を考えないで抽象的主観を考えることによる。主観を離れた客観とは抽象的概念であり、無力である。
自然の本体は主客のわかざる直接経験の事実である。科学者の考える自然とは主観を極端に除去した最抽象的なまでに進めた最も実在の真景の遠ざかったものである。
自然現象は精神現象の内面的統一ではなく、単に時間空間上における偶然的連結である。科学の趨勢は出来るだけ客観的ならんことをつとめている。心理現象は生理的に、生理現象は化学的に、化学現象は物理的に、物理現象は機械的に説明せねばなるぬこととなる。
物質は空間を満たすものとして直覚できるかのように考えるが、物理学上の物質の多少はその力の大小によって定まり、これらの作用的関係より推理したもので直覚的事実ではない。
我々は意識現象より離れた実在を考えることは出来ぬ。真に具体的実在としての自然は、統一作用なくして成り立たない、自然も一首の自己を備えている。動物の手足口鼻などすべて動物生存の目的と密接な関係にあり、動植物の現象を説明するには自然の統一力を仮定しなければならぬ。すべての鉱物はみな特有の結晶形を備えている。自然の統一作用は無機の結晶より動植物の有機体にいたるまである。
「真の自己は精神に至ってはじめて現れる。」
普通には、我々が自己の理想または情意をもって自然の意義を推断することは単に類推であって、確固たる審理ではないと考えられている。しかしこれは主観客観を独立に考え、精神と自然とを二種の実在となすことにより起こることである。純粋経験の上からいえば直ちにこれを同一とみるのが至当である。
自然は一見我々の精神より独立した純客観的存在であるかのようにみえるが、その実は主観を離れた実在ではない。自然現象もその統一作用のほうより見ればすべて意識現象となる。
我々が精神とと言っているものは何か。
主観的意識現象とはいかなるものか。精神現象とはただ実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考えたもの。実在の真景においては主観、客観、精神、物体の区別はない。しかし実在の成立にはすべて統一作用が必要である。この統一作用は実在を離れて特別存在するものではないが、我々がこの統一作用を抽象して、統一せらるる客観的に対立せしめて考えたとき、いわゆる精神現象となる。例えばここに一つの感覚がある。この感覚は独立に存在するのではない。必ず他と対立の上において存在する。すなわち他と比較し区別せられて成立する。この比較区別の作用すなわち統一的作用が我々のいわゆる精神なるものである。
実在には種々の体系があリ、各々の統一がある。この統一が相衝突し相矛盾したとき、この統一が明らかに意識の上に現れる。衝突矛盾の有る所に精神があり、精神のあるところには矛盾衝突がある。
いずこよりこの体系の矛盾衝突が起こるか。
実在そのものの性質による。実在は一方において無限の衝突であるとともに、また一方において無限の統一である。衝突は統一に欠くべかざる半面である。衝突によってさらなる一層大なる統一にすすむ。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動しおる時ではなく、この衝突の際においてである。
今日の進化論において無機物、有機物、植物、人間というように、進化するというのは実在がその隠れたる本質を現実として現れてきた。精神の発達によってはじめて実在成立の根本的性質が現れてくる。すべのものを分析して考えれば統一作用は認めることができない。しかし統一作用を無視することはできない。物は統一作用によって成立する。観念感情もこれを具体的実在たらしむのは統一的自己の力による。この統一力は実在統一力の発現であり永久不変の力である。我々の自己は常に想像創造的で自由で無限の活動と感じる。
精神と自然との関係。
我々の精神は実在の統一作用として、自然に対して特別の実在であるかのように考えられているが、その実は統一せらるるものを離れて統一作用があるのではない。客観的自然を離れて主観的精神はない。理も決して我々の主観的空想ではなく、万人に共通なるもののみならず、客観的実在がこれにより成立する。動かすべからざる真理は常に我々の主観的自己を没し客観的となることによりえらるる。これを要するに我々の知識が深遠となるというすなわち客観的自然にごうするの意である。純主観的では何事もなすことは出来ず。意志はただ客観的自然に従う。水を動かすのは水の性に、人を支配するのは人の性に、自分を支配するのは自分の性に従う事である。我々の意思が客観的になるだけ有力になる。
人心の苦楽について。
我々の精神が完全の状態の時、すなわち統一的な時が快楽であり、不完全な分裂の状態の時が苦痛である。
精神は実在の統一作用であるが統一の裏には必ず矛盾衝突があり苦痛を伴う。無限なる統一活動は直ちにこの矛盾衝突を脱してさらに一層大なる統一に達せんとする。この時我々に種々の欲望を生じ理想を生じる。その欲望理想を満足しえた時に快楽となる。人心は絶対に快楽に達することはできないが、勤めて客観的となり自然と一致する時は無限の幸福を保つことができる。小なる自己を以って自己となすとき苦痛が多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従い幸福になる。
精神も自然も異にした二種の実在ではなく、自然を深く理解せばその根底において精神的統一を認めねばならず、又完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ。すなわち宇宙には多々一つの実在のみが存在する。一方においては無限の対立衝突があるとともに、他方では無限の統一があり、一言でいえば独立自全なる無限の活動がある。この無限なる活動を我々は神と名付けるのである。神とは実在の外に超越せるものではなく、実在の根底が直ちに神である。主観客観の区別をなくし、精神と自然を合一したものが神である。
我々の直接経験の事実上においていかに神の存在を求めることができるか。
時間空間の間に束縛されたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んでいる。すなわち無限の実在の統一力が潜んでいる。我々はこの力を有するがゆえに学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真理を現すことができ、自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる。すなわち神の面目を補足することができる。人心の無限に自在なる活動は直ちに神そのものを証明するのである。
神はいかなる形において存在するか。
神はニコラウス・クザヌスなどが言ったようにすべての否定である、これと言って肯定すべきもの、すなわち捕捉すべきものは神ではない。もし捕捉すべきものならば有限であって宇宙を統一する無限の作用を為すことは出来ぬ。この点より見て神は無である。しかし実在の根底には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いている。実在はこれによって成立するのである。
平凡にして浅薄なる人間は神の存在を空想の如く思われ、何の意味も持たぬように感じ、宗教などを無用視している。真正の神の存在を知らんと欲するものはぜひ自己をそれだけに修練して、これを知りうるの眼を備えねばならぬ。かくのごとき人には宇宙全体の上に神の力なるものが、名画の中における画家の精神の如く活躍し、直接経験の事実として感じられるのである。
いわゆる個人の自愛というのも畢竟統一的要求にすぎない。しかるに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一をもって満足するものではない。さらに進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情をし他人と自己との一致統一を求めるようになる。我々の他愛とはかくのごとくして起こってくる超個人的統一の要求である。故に我々は多愛において、自愛におけるよりも一層なる平安と喜悦とを感じるのである。しかして宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。
神は無限の喜悦、平安である。
我々は何を為すべきか、善とは如何なるものか、人間の行動は何処に帰着すべきか。
行為とは如何なるものか。
行為とはその目的が明瞭に意識せられている動作を意味する。行為と言えば外界の動作を含めていうが、意志と言えば主として内面的意識現象をさすので、即ち意志を論ずることになる。
意志は始めは自己の生命の保持発展を目的とする単純なる苦楽の情である。外界に対する観念が次第に明瞭に、連想作用活発になるに従い、まず結果観念を想起し、これによりその手段となるべき運動の観念を伴い、その後運動にうつる。これを動機とと名付ける。経験により、連想により惹起した結果の観念というものが動機に伴わなければならない。この時ようやく意志のかたちが形成されこれを欲求という。要求がいくつかあるときはそのうちの有力なものを動作に発する。これを決意という。何らの障碍のため動作が起こらなかったとしても、立派に意志があれば行為と言う事ができる。
意志はいかなる性質の意識現象で、意識の中に如何なる地位を占めるか。
意志は観念統一の作用であり、観念結合には二種あり、一つは観念結合の原因が明らかでなく結合の原因が外界の事情に起因し受動的なものを連想といい、結合が意識内になり結合の方向が意識されて能動的に結合することを統覚という。
想像、思惟の統覚作用の違い。
思惟の統一は単に抽象的概念の統一である。意志と想像は具体的観念の統一である。想像より意志の統括に向かう。しかし思惟、想像、意志の統覚は根本においては同一作用である。意志は現実的統一。
行為の本の意志の統一作用が何処より起こるか。如何なる意義を持っているか。
物質のほかに実在無の科学者の見地では、有機体の種々の目的は自己及び自己の主属における生活の維持発展に帰する。我々の種々の高尚なる精神上の営みは生活の目的より説明する。
物体というのは意識現象の不変の普遍的関係に名付けた名目にすぎず、物体が意識を生ずるのではなく、意識が物体を作るのである。意志は我々の意識の最も深き統一力であり、実在統一力の最も深遠な発現である。外面より見て単に機械的運動であり生活現象の過程であるものがその内面の真意義においては意志である。
意志と動作の関係は原因と結果との関係ではなく、むしろ同一の両面である。動作は意志の表現である。外より動作と見られるものが内よりみて意志である。
意志は心理的に言えば意識の一現象にすぎないが、その本体においては実在の根本である。この意志がいかなる意味において自由の活動であるか。
誰も自分の意志が自由であると考えぬ者はいない。ある範囲においては自由である。外界の事物に属するものは自由にならず、身体すらも病気になれば自由になれず。自由にできるのは自己の意識現象である。自己の意識現象でも新たに観念を作り出す自由も、一度経験したことをいつでも呼び出すことの自由さえない。
真に自由と思われるのはただ観念結合の作用あるのみである。しかし観念成立の先在的法則の範囲内において、しかも観念結合には二つ以上の途があり、これらの強度が強迫的ならざる場合においてのみぜんぜん選択の自由を有する。
自由意志論の主張
内界経験の事実を根拠として立論。外界の事情または内界の気質、習慣性格より独立した意志という一つの神秘力によると考えている。すなわち観念結合のほかに意志を支配する一の力があると考えている。
意志の必然論の主張
外界における事実の観察を元としてこれより推論。宇宙の現象は一として偶然に起こるものではなく些細なものでも精しく研究すれば必ず相当の原因を持っている。この考えは全て学問と称する物の根本思想である。意志もこの自然の大法則の外に脱することはできない。
自由意志論においたは誤謬。我々が動機の決するのは何かの相当の理由があり、明瞭に意識の上に現れなくとも意識下において何か原因がる。
必然論では意識現象は物体現象と同一に支配されるかは不明。
我々の精神には精神活動の法則がある。精神がおのれ自信の法則に従って働いた時が真に自由である。
一は自分がそとの束縛を受けず、おのれ自らにて働く自由。すなわち必然的自由である。意識には必ず一般的性質があり、理想的要素を持っている。現実にしてしかも理想を含み、理想的にして現実を離れずというのが意識の特性である。意識は決して他より支配されるものではなく常に他を支配しているのである。
意識の自由は自然の法則を破って偶然に働くから自由であるのではなく、かえって自己の自然に従うがゆえに自由である。理由なくして働くから自由ではなく、よく理由を知るがゆえに自由であるのである。我々は知識の進むとともにますます自由の人となるのである。
意識の根底たる理想的要素、換言すれば統一作用なるものは自然の産物ではなく、かえって自然はこの統一によりて成立するのである。これは実に実在の根本たる無限の力であってこれを数量的に限定することはできない。自然の法則以外に存するものである。我々の意志はこの力の発現なるがゆえに自由である。自然法則を受けない。
意識現象は初めより無意義なる要素の結合ではなく統一した活動である。思惟、想像、意志の作用よりその統一的活動を除去したならばこれらの現象は消滅する。これらの作用については如何に起こるというよりも如何に考え、いかに想像し、いかになすべきかを論ずるのが第一の問題である。ここにおいて論理、審美、倫理の研究が起こってくる。
善とは如何なるものであるか。
行為について価値的判断を下すが、この基準は那辺にあるか。いかなる行為が善で、いかなる行為が悪か。
倫理学には種々の学説があり、これらの大綱を上げ、批評を加え、倫理学の立脚点を明らかにする。
「他律的倫理学」善悪の標準を人性以外の権力におこうとするものと「自立的倫理学」標準を人性の中に求めようとするもの。、他に直覚説というものがある。
直覚説・・・我々の行為を律する道徳の法則は直覚的に明らかになるもので、他に理由がない。火は熱く水は冷たくの如く行為の善悪は行為そのものの性質であり説明すべきものではない。
善悪の判断は人により、また是としたものが悪にあるとか、判断に迷う。忠孝、仁義、なるものも変革がありその価値判断は各自の価値による。
あるものは直覚を理性と同一視している。すなわち道徳の根本的法則が理性によって自明しているという。あるものは直覚を直接の快不快、好悪を同一視している。これらの善は一種の快楽または満足を与えるのが善で、善悪の標準は快楽、満足の大小に移ってくる。他律的倫理学と同様、何故に善に従わなければならないかを説明することはできない。
直覚の不完全なる意義によって種々相容れぬ学説に変化する。
他律的倫理学・・・道徳的善と言っているものが、道徳は吾人に対して絶対的な威厳または勢力の命令により起こってくる。善と悪とは権力者の命令により定まる。君権的権力説、神権的権力説がる。
厳格なる権力説では道徳は盲目的服従であり、恐怖というのも尊敬というのも全く何の意味ももたず。
権威説においては善悪の判断の基準はなくなる。暴力的権威もあれば高尚なる精神的権威もあり何れも権威に従う。
他律的倫理学では善は全く意味をなさず、われわれは人性より説明することになる。これを自律的倫理学という。
自律的倫理学には三種あり、一つを理性をもとにする合理説(主知説)、苦楽の感情をもとにする快楽説、意志の活動をもとにする活動説がある。
合理説(主知説)・・・物の真相が善であり、物の真相を知ればおのずから何をなさねばならぬかが明らか。我々は理性を備えており知識において理に従わなければならない。
この説は道徳法の一般性を明らかにして義務を厳粛ならしめんとするは可なれど道徳の全豹をときたとは言えず。我々の行為を指導する道徳法なるものが形式的理解力によって先天的に知りうるものか。単に形式的理解の法則を与えることはできても何らの内容をあたうることは出来ず。理性的動物なるがゆえに善を為さなばならぬというが、理を解するものは知識上は理に従うは当然、しかし単なる論理的判断と意志の洗濯は別である。意志は感情または衝動により起ころもので抽象的論理より起こるものではない。
意志の目的は畢竟快楽の外になく快楽もをって人性唯一の目的となし、道徳的善悪の区別もこの説によるという快楽説がある。この説には二つあり利己的快楽説と公衆的快楽説がある。
(利己的快楽説)自己の快楽を以って人生唯一の目的となし、我々が他人に対してすることも実は自己の快楽を求めているという考え。
(公衆的快楽説)この説は根本的主義においては利己的快楽説と同じであるが、個人の快楽をもって最上の善とはなさず、社会公衆の快楽を以って最上の善とする。
快楽説は人生の目的としたところではたしてそれによって十分なる行為の規範をあたうることができるだろうか。快楽説はいかなる快楽であってもみな同種でありただ大小の数量的差異あるのみでなければならぬ。もし快楽にいろいろの性質的差別があり、これにより価値が異なるものであるならば快楽の外に別の価値を定める原則を許さなければならぬ。すなわち快楽が行為の価値を定める唯一の主義と衝突する。快楽の感情は一人の人においても時と場合において非常に変化しやすく、公衆的快楽説のように他人の快楽の尺度を計算するのはなおさら無理がある。
快楽説は合理説に従えば一層人性の自然に近づきたるものであるが、善悪の判断は単に苦楽の感情によりて定まることとなり正確なる客観的標準をあたうること出来ず。快楽を以って人生の唯一の目的となすのは真に人性自然の事実に合ったものと言われない。我々は決して快楽によって満足することは出来ず。
われわれの意志が目的としなければならない善、即ち我々の行為の価値を定めるべき規範は何処にこれを求めねばならないか。
意識の直接経験に求めなければならぬ。善とはただ意識の内面的要求より説明すべきものであって外より説明すべきものではない。真理の標準も意識の内面的必然にあって善の根本的標準もここに求めなければならぬ。
意志は抽象的理解の作用よりも根本的事実である。
善は何であるかの説明は意志そのものの性質に求めねばならぬ事明らか。意志は意識の根本的統一作用であり直ちに実在の根本的統一力の発現である。意志は他のための活動ではなく己みずからの活動である。意志の価値の根本は意志そのものの中に求むるよりほかにない。理想が実現したとき満足が、できぬ時不満足の感情が生ずる。行為の価値を定るのは意志の根本の先天的要求にあるので、すなわち吾人の理想を実現したときはその行為は善として認識され出来ぬ時は悪として非難される。そこで善とは我々の内面的要求すなわち理想の実現換言すれば意志の発展完成であということになる。かくのごとき根本的理想に基づく倫理学説を活動説という。
いわゆる道徳の義務とか法則とかいうものはそのものに価値があるのではなくかえって大なる要求に基づいて起こるものである。この点より見て善と幸福相衝突せねばならぬものではなく善は幸福と言う事ができる。
善の裏には幸福の感情が伴い、快楽と幸福は似て非なるものである。幸福は満足によりて得ることができ、満足は理想的要求の実現によりて起こるもの。
この要求は何から起こって如何なる性質があるか。意志は意識の最深なる統一作用であってすなわち自己そのものの活動であるから意志の原因となる本来の要求、あるいは理想は自己そのものの性質より起こる。
我々の意識は思惟、感情、衝動においてもみなその根底には内面的統一なるものが働き、意識現象はすべてこの発展完成である。善とは自己の発展完成であると言える。すなわち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である。
我々人間の善とは如何なるものであるかを考究し、この特徴を明らかにする。
我々の意識は単純なる活動の総合ではなく種々なる活動の総合であり、要求も単純でなく、種々なる要求がある。いずれの要求を満たすのが最上の善であるか、自己全体の善とは如何なるものか。
我々の要求は必ず他との関係上で起こる。活動説よりみて善とは種々なる活動の一般調和あるいは中庸と言う事にならねばならぬ。我々の良心とは調和統一の意識作用である。
調和とか中庸は体系的秩序の意味で、肉体的欲望を以って満足するのではなく観念的欲望が働く。如何なる人も理想を抱いている。観念の上において生命を維持している。これは精神の根本作用でありこれより起こる要求を満足するのが善である。観念活動の根本的法則は、理性の法則であり、それは観念と観念との間の最も根本的関係であり観念活動を支配する最上の法則である。
しかし抽象的に考えた理性というものは合理説の如く形式的関係を与えるにすぎず、意識の統一力は決して意識の内容を離れて存在することはない。分析理解するものでなく直覚自得するべきもので、かくのごとき統一力をここに各人の人格と名付けるならば善はかくのごとき人格すなわち統一力の維持発展になるのである。
人格とは希望を没し自己を忘れたる所に真の人格があらわれる。しかし経験的内容を離れ、各人に一般なる純理の作用ごときものでもなく、人格はその人その人により特殊の意味を持つたものでなければなるぬ。真の意識統一というのは我々を知らずして自然に現れきたる純一無雑の作用で、知情意の分別なく主客の隔離なく独立自全なる意識本来の状態である。
真人格は単に理性に非ず、欲望に非ず、無意識活動にあらず、荒鴨天才の新来の如神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である。
善行為とは自己の内面的要求を満足するものを言い、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力、即ち人格の要求であるから、これを満足することすなわち人格の実現ということが我々にとって絶対的な善である。
しかしてこの人格の要求は意識の統一力であるとともに実在の根底における無限なる統一力の発現である。我々の人格を実現すると言う事はこの力に合一するの意である。
善がかくのものであるとするならば、これより善行為とはいかなる行為であるかを定めることができる。
絶対的善行とは人格の実現そのものを目的としたすなわち意識統一そのもののために働いた行為でなければならぬ。(富、力、知識、芸術などの要求も人格要求を離れて何の価値もない。)真に人格そのものを目的とする善行為とはいかなる行為でなければならないかの問いに答えるには人格活動の客観的内容を論じ、行為の目的を明らかにしなければならない。まず主観的性質すなわち動機として、善行為とはすべて自己の内面的必然より起こる行為でなければならぬ。我々の全人格の要求は我々がいまだ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる。自己の内面的な必然すなわち至誠とは知情意合一の上の要求である。自己の知をつくし、情を尽くしたうえにおいてはじめて至誠が現れる。自己の全力をつくし、自己の意識がなくなり、自己が自己を意識せざるところに初めて真の人格の活動を見ることができる。艱難辛苦の事業である。
自己の主観的空想を消耗しつくしてぜんぜん物と一致したる所に自己の真要求をみること、一面よりみれば各自の客観的世界は各自の人格の反影であると言う事ができる。その人の最も真摯な要求はその人の客観的世界の理想として常に一致したものでなければならない。
自己の満足を得た上は他人に満足を与えたいと思うだろう。自己の客観的理想を実現する善行為は愛である。愛というのは自他一致の感情であり、主客合一の感情である。
善の内容、目的とは。
個人性はこの世に生まれるとともに活動を初め死に至るまで種々の経験と境遇に従って種々の発展をする。
まず個人性の実現を目的としなければならない。個人性の発揮はその人の天賦境遇の如何に関せず誰にもできる。個人の善とは最も大切なものですべて他の善の基礎となる。真に偉人とはその事業が偉大なるのではなく強大なる個人性を発揮したためである。個人的善に最も必要なる徳は強盛意志である。
人間が共同生活を営むところ必ず各人の意識を統一する社会的意識がある。個人意識はこの中で養成され、一細胞にすぎず。社会的意識も個人意識と同じように一つの体系である。我々の要求の大部分はすべて社会的である。自部の人格が偉大になるに従って自己の要求が社会的になってくる。
社会的善の階級の初めは家族である。たとえでも人間は肉体的も精神的にも男性的要素と女性的要素との結合でありこの二つの要素が合して完全ある人間になるとか、男女の両性が相補うて完全なる人格の発展があるとかいう。
我々の精神的ならびに物質的生活は全てそれぞれの社会的団体において発達する。家族に次いで我々の意識活動の全体を統一し一人格の発現ともみなすべきものは国家である。国家の本体は我々の精神の根底である共同的意識の発現である。国家において人格の大いなる発展を遂げることができる。
なお一層大なるものは人類を一団とした人類的社会の団結である。真正の世界主義とは各国家がますます強固となって各自の特徴を発揮し、世界の歴史に貢献することである。
善とは一言でいえば人格の実現である。これを内よりみれば真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するというところに至らねばならぬ。外に現れたる事実としてみれば、小は個人性の発展により、進んで人類一般の統一的発達に至ってその頂点に達する。
内に大なる満足を与えるものが必ずまた事実においても大いなる善と称すべきものであろうか。すなわち善に対する二様の解釈はいつでも一致するものであろうか。
この見解は実在論より決して相矛盾するものではない。我々が実在を知るとは自己の外の物を知るのではなく、自己自身を知ることである。実在の真善美は直ちに自己の真善美でなければならない。しからば何故にこの世に偽醜悪が存在するか、世の中に絶対真善美もなければ偽醜悪もない。一面よりみれば偽醜悪は実在成立に必要であり、いわゆる対立的原理により生ずる。
善の事実と善の要求との衝突する場合を考える。
ある行為が事実としては善であるが動機は善でない場合。内面的動機が私利私欲であって外面的事実として善に合っていたとしても決してそれが人格実現を目的とする善行とは言われまい。単に利益としてみた場合であり道徳の面よりみればかかる行為はたとい隅であってもおのが至誠を尽くしたものに劣る。
動機が善でも事実上は善と言われぬ場合。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではなく自然の事実である。我々の最深なる要求と最大の目的はとは自ら一致するものである。我々が内に自己を鍛錬し自己の真体に達するとともに自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる。これを完全なる善行という。
世人は往々善の本質とその外殻とを混んずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないと思っている。事業の種類はその人の能力と境遇により定まるもので誰にも同一の事業は出来ない。しかし如何に事業が異なっても同一の精神を持って働くことはできる。いかに小さい事業でも常に人類一味の愛情より働く人は偉大なる人類的人格を実現しつつある人と言わねばならぬ。
善を学問的に説明すればいろいろ説明できるが実地上の真の善とはただ一つ、真の自己を知ることに尽きる。我々の真の自己は宇宙の本体であり、真の自己を知れば直ちに人類一般の善と合するばかりでなく宇宙と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳もここに尽きている。真の自己を知り神と合する法はただ主客合一の力を自得するにあるのみである。
宗教的要求は自己に対する要求である。自己の生命に対する要求でる。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知するとともに絶対無限の力に合一して永遠の真生命を得んと欲するの要求である。真正の宗教は自己の変革、生命の革新をを求める。いたずらに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。自己の安心のために宗教を求めるのではなく、宗教的要求は我々の已まんとして已むあたわざる大なる生命の要求であり、厳粛なる意志の要求である。決して他の手段とすべきものではない。
我々の肉体的精神的要求は自己の一部の要求にすぎない。我々は知識においてまた意志において意識の統一を求め主客の合一を求めるが、これは反面の統一にすぎない。宗教はこれらの背後における最深の統一を求める。我々の要求は宗教より分化したもので、又その発展の結果これに帰着すると言って良い。
何故に宗教が必要であるか尋ねるのは何ゆえに生きる必要があるかと同一の問いである。真摯に考え真摯に生きんと欲するものは必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである。
宗教とは神と人との関係である。神とは種々の考え方であろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当だろう。ここに人とはわれわれの個人的意識をさす。この両者の関係の考え方によって種々の宗教が定まってくる。しからば如何なる関係が真の宗教的関係であろうか。
神人その性をおなじゅうし、ひとは神においてその本に帰すというのは全ての宗教の根本思想であってこの思想に基づくものに対して初めて真の宗教と称することができると思う。かくのごとき思想においても神人の関係を種々に考えることができる。神は宇宙の外に超越せるものであり外より世界を支配し人に対しても外から働くと様に考えることもでき、また神は内在的であり人は神の一部であり神は内より働くと考えることもできる。前者は有神論の考え方で、後者は汎神論の考え方。
最深の宗教は神人同体の上に成立し、宗教の真意はこの神人合一の威儀を獲得するにある。我々は意識の根底に自己の意識を破るって働く堂々たる宇宙的精神を実験するにある。信念とは伝説や理論によりて外から与えられるべきものではなく、内より磨き出されるものである。最深なる内生によりて神に至るのである。我々はこの内面的再生において直ちに神を見、これを信ずるとともに自己の生命を見出し無限の力を感じるのである。信念とは単なる知識ではなく直観であるとともに活力である。我々の精神活動の根底には一つの統一力が働いている。これを我々の自己と言いまた人格ともいう。知識も欲望もこの力によって成立する。信念とは格の如く知識を超越せる統一力である。知識や意志によって信念が支えられるというより、信念によって知識や意志が支えられているのである。われわれは知を尽くし意を尽くしたる上において、信ぜざらんと欲して信ぜざるあたわざる信念を内より得るのである。
神とはこの宇宙の根本を言う。余は神を宇宙のそとに超越せる像物者とはみずして直ちにこの実在の根底とかんがえる。神と宇宙の関係は芸術家とその作品とのごときものではなく本体と現象の関係である。宇宙は神の所作物ではなく神の表現である。外は日月星、内は人心の機微に至るまでことごとく神の表現でないものはない。これらのものの根底にいちいち神の霊光を拝することができる。
ニュートンやケプレルが天体運行をみて敬虔(けいけん)の念に打たれたように我々は自然現象を研究すればするほどその背後に一つの統一力が支配していることを知ることができる。学問の進歩とはかくのごとき知識の統一を言うに過ぎない。自然の根底において一つの統一力の支配を認める様に、内は人心の根底においても一つの統一力を認めねばならぬ。人心は千状万態ほとんど定法なきがごとくみゆるも、これを達観する時は古今に通じ東西にわたりて偉大なる統一力が支配しているようである。自然と精神は全然没交渉のものではなく彼此密度の関係がある。二者の根底に更なる大なる唯一の統一力がなければならぬ。しかしてこの統一力がすなわち神である。
元来精神と自然との二種の実在があるのではない。二者の区別は同一実在の味方の相違のより起こる。直接経験の事実においては主客の区別なく、精神の区別なく、物即心、心即物、他だ一個の現実があるのみである。
統一的あるものの自己発展というのがすべての実在の形式であり、神とはかくのごとき実在の統一者である。宇宙と神との関係は、我々の意識現象とその統一との関係である。思惟においても意志においても心象が一の観念により統一され、すべてがこの統一的観念の表現とみなされるごとくに神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。神は我々意識の最大級の統一者であり、我々の意識は神の意識の一部でありその統一は神の統一より来る。
宇宙の統一者であり実在の根底たる神とは如何なるものか。
精神を支配するものは精神の法則がある。精神現象は知情意の作用でありこれを支配するのは知情意の法則がある。しかし精神は単にこれらの作用の集合ではなく、その背後に一の統一力がありこれらの現象はその発現である。この統一力を人格と名付けるならば、自然現象より人類の発展に至るまで一々大なる思想、大なる意志のかたちを為さぬものはない。宇宙は神の人格的発現と言う事になる。
人格の要素として自覚、意志の自由、愛を取り上げてみる。
自覚は部分的意識体系が善意識の中心において統一せらるる場合に伴う現象である。自覚は反省によっておこり、自己の反省とはかくのごとく意識の中心をおもとむる作業である。真の自覚は意志活動の上にあり、知的反省の上にない。すべて我々の精神を支配する宇宙統一の念は神の自己同一の意識と言って良かろう。万物は神の統一によって成立し、神においてすべてが現実である。神は常に能動的である。神には過去も未来もない、時間空間は宇宙的意識統一によって生じる。神にはすべてが現実である。
真の意志の自由とは自己の内面的性質により働く、いわゆる必然的自由の意味でなければならぬ。神は万物の根本であり神の外に物あることなく万物のことごとく神の内面的性質により出でる故に神は自由である。
純粋経験の事実が唯一の実在であって神はその統一であるとすれば、神の性質及び世界との関係もすべて我々の純粋経験の統一すなわち意識統一の性質及びこれとその内容との関係より知ることができる。我々の意識統一は見ることができず、聞くこともできず全く知識の対象とすることは出来ぬ。一切はこれによりて成立するがゆえに一切を拒絶している。
一切は意識統一によりて生ずるがゆえに、神は全知全能であって知らぬところもなく能わぬところもない、神においては知と能と同一である。絶対無限なる神とこの世の世界との関係は如何なるものであろうか。有を離れたる無は真の無ではない、一切を離れたる一は心の一ではない」、差別を離れたる平等は真の平等ではない。神がなければ世界はないように、世界がなければ神もない。もとよりここに世界というのは我々のこのせかいのみを指すのではない。神はかって一度一度世界を創造したのではなく、その永久の創造者である。神と世界との関係は意識統一とその内容との関係である。意識内容は統一によって成立するが、また意識内容を離れて統一なるものではない。意識内容とその統一とは統一せらるものとの二つあるのではなく、同一実在の両方面にすぎないのである。すべて意識現象はその直接経験の状態においてはただ一つの活動であるが、これを知識の対象として反省することによりその内容が種々に分析され、差別される。
我々の個人性は如何に説明するか。万物は神の表現であって神のみ真実在であるとすれば、我々の個人性は虚偽の仮相であって、泡沫の如く無意義なものとかんがえねばならぬのか。余は決して無意義なものとは考えない。もとより神を離れて独立したる個人性というものはなかろう。神の発展の一部であろうとみる。すなわちその分化作用の一とみる。すべての人が各自神より与えられた使命を以って生まれてきたというように我々の個人性は神性の分化せるものである。この意味において我々の個人性は永久の生命を有し、永遠の発展を為すと言う事ができる。神と我々の個人的意識との関係は意識の全体とその部分との関係である。すべて精神現象においては各部分は全体統一の下に立つとともに、各自が独立した意識でなければならぬ。
万物は神の実現であるというごとき汎神論的思想に対する非難は、いかにして悪の根本を説明できるかと言う事。
元来絶対的悪というものはない、物は本来全てにおいて善である。実在は即ち善である。宗教家は口をそろえて肉の悪を説けども、肉欲とても絶対的に悪というのではない。ただその精神的向上を妨げることにおいて悪となるのである。罪を知らざるものは真の神の愛をしることができず、不満なく苦悩なき物は深き精神的趣味を解することができない。不満、苦悩、罪悪は我々人間が精神向上の要件である。去れば真の宗教家はこれらのものにおいて神の矛盾をみずしてかえって深き神の恩寵を感ずるのである。
知と愛とは普通にはぜんぜん相異なった精神作用であると考えている。しかし余は決して別種のものではなく、本来同一の精神作用であると考える。一言でいえば主客合一の作用である。何故に知は主客同一のあるか。我々が物の真相を知ると言う事は自己の妄想臆断すなわち主観的なものを消磨しつくして物の真相に一致したときはじめてこれをよく知るのである。(月に兎、地震はナマズ)われわれは客観的になればなるほど益々物の真相を知ることができる。数千年来の学問の進歩の歴史は我々人間が主観を捨てて客観的に従いたる道筋を示したものである。何故に愛は主客合一であるか。我々が物を愛するのは自己を捨てて他に一致することである。自他合一、その間一点の間隔なくして初めて真の愛情が起こるのである。花を愛することは自分が花と一致することである。我々が自己を捨てて純客観的すなわち無私となればなるほど愛は大きくなり人類の愛に進む。
かくのごとく知と愛は同一の精神作用であり、物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。しかし愛は知の結果、知は愛の結果といったのように両者を分けて考えては未だ愛と地の真相を得たものではない。知は知、愛は愛である。自己の好むことに熱中する時は無意識になり自己を忘れて自己以上の不可思議が働いている。この時が主もなく客もなく真の主客合一である。この時が主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。
世には純知識というもの純感情というものはない。両者の差は対象の種類にある。古来の学者哲人の言うように宇宙実在の本体は人格的のものであるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であり、実在そのものを捕捉することは出来ぬ。我々はただ愛によってのみこれに達することができる。愛は知の極点である。
知と愛の関係を宗教に当てはめて考えれば主観は自力、客観は他力である。我々が物を知りものを愛すると言う事は自力を捨てて他力の信念に入るの意味である。人間一生の仕事が知と愛の外にないものとすれば我々は日々他力信心の上に働いているのである。学問も道徳もみな仏陀の光明であり、宗教というものはこの作用の極致である。学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀そのものに接するのである。絶対無限の仏もしくは神を知るのはただこれを愛するによりてよくするのであり、これを愛するがすなわち知るのである。諸々の宗教の特色はないのではないがその本質において同一である。神は分析や推論によりて知りうるものではない。我々が神を知るのはただ愛または信の直覚によりて知るのである。ゆえに「我は神を知らず我はただ神を愛す」または「これを信ず」というものは、もっともよく髪を知りおるものである。