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『閑人亭日録』Diary2013年

5月31日(金) 食卓のない家/海市/化石……

 円地文子『食卓のない家』は、紀伊の那智の滝で五十歳の管理職の男と女子大学院生の出会いから始る。福永武彦の長編小説『海市』は、伊豆半島の海岸で四十歳の大学助教授と二十代の人妻の出会いから始る。井上靖の長編小説『化石』は、フランスで五十五歳の中堅建設会社の社長と三十歳ほどの人妻の出会いから本編が始る。社会的地位のある中年〜初老の男が旅先で若い女性に出会い、恋情を募らせる。黄金のパターンだ。中里恒子の長編『時雨の記』も、妻ある初老の社長が、離婚して一人で暮す中年女性に身を焦がす。

 川端康成の長編『山の音』では、立派な会社の顧問だかをしている老人(私と同じ六十二歳だ)が、浮気をしている息子の誠実な嫁に惹かれる。何も起こらないが。

 男は女本体に惚れ、女は男の属性(社会的地位、財産)に惹かれる、という説がある。こういう小説を読むと、妙に納得させられた気になる。

《 たしかにそれはロマネスクであった。しかし、小説を地で行ったからと言って、ロマネスクだという逆説は成立たない。どういう世界の女であれ、女は小説的であると同時に常に、利己的であり、現実的であり、そのストーリーの土壇場では、いつでも非ロマネスクとなるものである。 》 船橋聖一『好きな女の胸飾り』

 船橋聖一の長編『好きな女の胸飾り』は、社長夫人と年下の若い男の不倫を描いたもの。その結末近く。

《 「わからない。教えて下さい。」
  「本当に私のして欲しいようにしてくれるの」
  「はい」
  「では、教えてあげるわ」
   そう言って、蒔子は喪服のような黒いスーツの胸の釦をゆっくりゆっくりはずし出した。真っ白な胸に、今日もまた、かそけき胸飾りの揺れるのを見た。 》 船橋聖一『好きな女の胸飾り』

《 「田口君、映画の寅さんじゃないが、男は辛いってとこだ」 》 円地文子『食卓のない家』

 それにしても、『食卓のない家』の主人公は鬼童子(きどうじ)信之、『化石』は一鬼太治平。すごい姓だ。ついでに発表(執筆)時の年齢を調べてみた。『食卓のない家』1979年74歳、『海市』1968年50歳、『化石』1965年58歳、『時雨の記』1977年68歳、『山の音』1954年55歳、『好きな女の胸飾り』1967年63歳。老年の性が当時話題になった伊藤整『変容』1968年は63歳。

 ネットの拾いもの。

《  芭蕉は俳諧老人なのか。 》

 依頼され、午後NHKテレビの源兵衛川の取材に立ち会う。


5月30日(木) 食卓のない家

 円地文子『食卓のない家』新潮文庫1985年6刷を再読。以前読んだのは、1979年に出た単行本(上・下)を新刊で購入して間もなくだった。印象深い読後感だったが、本は手放してしまい、筋はあらかた忘れていた。生々しい展開にぐいぐい引き込まれ、小さな字の五百頁余を一気読み。

 1972年の浅間山荘事件を題材にした小説。逮捕拘留されている長男を巡る、父を中心にした、母、次男、長女らの家庭と世間との激しい軋轢の四年間。息子と父は別と個人主義を貫き通す父に対して、息子の犯罪を親の責任として批難する一般大衆とマスコミに翻弄される家族。愛に恋に煩悶するそれぞれの人物造形が映画的、リアリスティックに見事に描破されている。円地文子の描写力と構成力と構想力に感銘を覚えた。傑作といえるだろう。人との関わり方のいい指針になった。三十年前に読んだ時もそうだったかな。多分そうだったろう。

《 「僕もそうあって欲しいと思います。現在の日本の法律では、家族も夫婦単位で、未成年以外は親とは別のものになっている筈でしょう。」
  「いや、核家族になったのは戦後だけれども、犯罪が生れた場合には、親子が法律上で無縁なのは明治憲法以来の契約だよ。これは明治時代に憲法を作る時にヨーロッパの法律を持ち込んで来て封建時代と違う新しい国家にしようとしたわけだ。……しかし、実際にはヨーロッパと日本では所謂人情風俗が違うからね。(以下略)」 》

 家族から犯罪人を出した場合の対処の仕方を学ぶ危機管理小説としても、読まれていい小説だ。

《 鹿島茂 「女坂」しかないんじゃないですか。他にあげるとしたらなんだろう? 》

《 丸谷才一 「なまみこ物語」。それと、役者のことを書いた話があったね。〔女形一代〕か。それも入れていいと思います。 》

 上記引用は『文学全集を立ちあげる』文春文庫2010年初版での発言。他にもあるんじゃない? と違和感を感じていた。円地文子『虹と修羅』が講談社文芸文庫で出版されたのを機に『食卓のない家』を再読した。『朱を奪うもの』『傷ある翼』『虹と修羅』の三部作は、新潮文庫で持っている。未読。

 ネットのうなずき。

《 ゲームの世界ではチャレンジしない。チャレンジは現実世界でやる。 》

《 人間、カネがなくても生きられるが、生き甲斐を喪失したら生きられない。 》

 ネットの見聞。

《 日本が外国と戦争したら、その敵国は日本の原発を攻撃する。それも福島原発の共用プールである。これは軍事専門家の常識である。もしここを攻撃されたら、日本国の終焉になるばかりか、北半球が人の住めない場所になる。それでまさか攻撃しないだろう、と思うのは、平和ボケした日本人だけの理屈だ。 》 兵頭正俊


5月29日(水) 絶頂美術館・つづき

 午後になってやっと雨。梅雨空に。

《 これは、水墨画に代表される「余白の美」になじんだ東洋人には、なかなか理解できない感覚なのだが、ともかく画面を埋め尽くすことで成立していたヨーロッパ絵画の伝統にとっては、余白は未完の証でしかなかった。白は、絵画芸術にとっては一種のタブーとさえ考えられていたのである。 》 「第十章 挑発のカメラ目線」

《 「デザインとは余白を作ることだ。」 》 装丁作家・天野誠

 ネットでは上記の言葉に出合う。彼我の深い溝。そして私の視点「余白・空白・虚空」あるいは「余白・空白・飛白」。

 昨日買った中野京子『怖い絵 死と乙女篇』角川文庫に「カバネル『ヴーナスの誕生』」の章。

《 オールドマスター(古典絵画)のヌードには、古色蒼然たる時代のワンクッションが置かれたから、さほどにも感じられなかったはずだが、カバネルに追随する現代自国作家たちの描くヌードは、まさに「我らが裸体」、正確には「我らが夢の裸体」であった。 》

 自国画家とはイギリスの画家のこと。

《 現代は、常時つるぴかヌードに侵されているといっていい。しかもなぜか腋毛はだめなのに、ヘアは存在を許されるという奇妙な形で。》

《 カバネルのヴィーナス同様、もはやどこにもリアルはないのだ。にもかかわらず、夢の裸体は存在を主張してやまず、我々は呪縛され続けている。 》

 西岡文彦『絶頂美術館  名画に隠されたエロス』新潮文庫のカバネルのヴィーナスの章と読み比べると面白い。中野京子はてきぱきした文章、西岡文彦はしなやかな文章。この深い溝。

 ついでに。『怖い絵 死と乙女篇』、アーティスト・村上隆の解説が目を惹いた。

《 我々も愛憎と嫉妬心をどのようにチューニングして作品を生み出せば、お客様に喜んでもらえ、作品を購入していただけるか──。そういうことを常に考えて、チャレンジしながら創作活動を続けているので。 》

 26日の毎日新聞「今週の本棚」を流していて目に留まった、大崎滋生(しげみ)『20世紀のシンフォニー』平凡社の記事。

《 そもそも今日に名が残るのは、「優れていた」というよりも「後世に関心をもたれた」作曲家たちなのだ。 》

 昨日の以下の引用につながる。

《 真の芸術は時代を経れば必ず認められる、という話では、これは決してない。 》 「第十章 挑発のカメラ目線」

 ネットの拾いもの。

《 東京メトロのCMを見て「ミスしたあとに築地で海鮮丼奢ってくれる上司なんていない」とお嘆きの女性と「堀北真希みたいな部下がいたら海鮮丼なんて毎日おごる」という、男性との間の溝。 》

《 やっと口座開いたんで、アベノミクスとかいう銘柄検索してるのになんで出てこないん? 》


5月28日(火) 絶頂美術館

 梅雨入りの曇天のもと、体慣らしに自転車でブックオフ沼津リコー通り店へ。中上健次『鳳仙花』作品社1980年初版函帯付、石垣りん『夜の太鼓』ちくま文庫2001年初版、中野京子『怖い絵 死と乙女篇』角川文庫2012年初版、計315円。それにしても、文庫本の整理をしないといかんあ。中野京子『怖い絵 泣く女篇』角川文庫を探し出すのに手間取った。記憶にはあっても探し出せない……これには参る。作家別にすればいいのだけれど、床に積んである本はそれには不向き。文庫別がいまのところ最善か。しかし、面倒だなあ。明日があるさ。

 そうもいってられない。そばの屹立する本の四塔を文庫と分野でざっくり整理。や、四塔が六塔になっちゃった。ピサの斜塔のごとく、微妙な安定を示していた塔が、六塔になって、あらまあ、雑本の林じゃ。まあ、雑木林は中学生の頃から好きだったからねえ。文庫本の雑木林、いいねえ。風に揺れるようにゆらゆら。これで整理になったのかなあ。

 ネット注文した蘭郁二郎『少年科学小説 奇巌城』盛林堂ミステリアス文庫2013年初版が届く。送料込み1150円。

 西岡文彦『絶頂美術館  名画に隠されたエロス』新潮文庫2011年初版を読んだ。十九世紀のフランス絵画・彫刻を中心に、美しくも生々しい、勇ましい(!)ヌードが、時代背景とのダイナミックな関わりで平明に語られている。

《 基本的に公衆の目に触れる作品に、神話にも聖書にも登場しない世俗の女性の裸を描く習慣は、近代以前には存在していなかったのである。 》 「第一章 足指のひそやかな物語」

《 反対に、発表当時はサロン画家たちから「気が狂った」と罵倒されたセザンヌの、人物や静物を細かい色面に分解して描く手法は、いまや芸大に代表される美大入試の定番手法となっている。 》 「第二章 絶頂のボディ・ライン」

《 百年かそこらで、当初は狂気とみなされた新手法が、アカデミックな美術教育の本流をゆく手法と入れ替わってしまっているのだから、芸術の基準というのもあてにならない。 》 「第二章 絶頂のボディ・ライン」

 九章のクールベが圧巻。

《 レアリスム、英語でいうリアリズムは、その名の通り徹底してリアルな描写によって、革命後の社会にふさわしい「民主主義の美術」を目指すもので、旧来の画壇好みの神話や聖書の場面ではなく、同時代の人々を主人公に生々しい現実を描くことをモットーとしていた。いわば「人民による人民のための絵画」である。 》 「第九章 闘うレズビアン絵画」

《 クールベの『画家のアトリエ』は、ナポレオン三世体制と、その御用美術がよしとする古色蒼然とした美意識への断固たる攻撃だったのである。 》 「第九章 闘うレズビアン絵画」

《 この絵を筆頭に四十点のクールベ作品を展示した美術史上最初の「個展」は、入場料一フランで大盛況。目と鼻の先で開催されている万博美術展と、それが象徴するナポレオン三世の威光への挑戦は大成功に終わる。クールベのしたたかなところは、こうした挑発的な個展を企画しながら、当の万博の美術展示にもちゃっかりと自作を出品している点にある。 》 「第九章 闘うレズビアン絵画」

《 レアリスム、つまりはリアリズムが美術様式として知られるようになのは、この時からのことである。 》 「第九章 闘うレズビアン絵画」

《 かくして真の芸術は時代を経れば必ず認められる、という話では、これは決してない。時代によって美の基準は全然違う、というだけの話で、マネの『草上の昼食』とカバネルの『ヴィーナスの誕生』の扱いも、いつまた逆転しないとも限らない。 》 「第十章 挑発のカメラ目線」

 これはいい本だ。

 ネットの拾いもの。「週刊現代」の広告大見出し。

《 6月1日号  アベバブル この夏、株価2万円の攻防 》

《 6月8日号  アベノミクスピンチに! 早く逃げよ 米国発すごい大暴落がやってくる 》


5月27日(月) 牧村慶子展最終日

 伊豆高原の牧村慶子展最終日。好評裡に無事終了。撤収のお手伝い。やれやれ。

 ブックオフ長泉店で二冊。諏訪哲史『アサッテの人』講談社2007年7刷帯付、深水黎一郎『エコール・ド・パリ殺人事件』講談社文庫2011年初版、計210円。前者はネットのこの書き込みを読んで。

《 諏訪哲史『アサッテの人』読了。一読、度肝を抜かれた。これは傑作である。日本では稀な哲学小説であるが、これに笑いが結びついているのだ。 》

 後者は題名および法月綸太郎の解説を読んで。105円の本といえども、おいそれと買うわけにはゆかない。『アサッテの人』なんかずっと見送っていた。また、新刊で(古本では出そうにない哲学の本)買おうとメモしていた文庫本は、ネットの感想を読んで今回は見送り。

《 なお、本書の訳文は相当に読みにくい。原文はどうなのか知らないが。 》


5月26日(日) 殺意は必ず三度ある

 昨日買った東川篤哉『殺意は必ず三度ある』実業之日本社ジョイノベルスを読んだ。東京国分寺市にある高校の弱小野球部のベースが盗まれ、そして新任の監督が殺される。

《 探偵部お気軽三人組の前に立ちふさがる〔野球見立て殺人〕の謎とは? 》

《 「親しき仲にも礼儀ありっていうだろ!」
  「親しくないから礼儀なんていらないと思ったんだ!」 》

《 「いい加減なこというな! 人聞きの悪い」
  「犯人はみんなそういう」
  「犯人じゃねーっての! 」 》

 祖師ヶ谷大蔵(たいぞう)警部と烏山千歳刑事。小ネタとギャグが連続ノックのように続き、いかにも高校生の語りで軽快に進む。笑える本格ミステリだ。こういうの、好き。

 ネットの見聞。

《 いま、通り道に新刊書店がひとつもないために、買わなければと思いながらすっかり買い逃してしまう本が増えて、本当に困ってしまう。 》

 同感。自転車で行く新刊書店にも探している本は入荷していない。といってアマゾンに注文する気にならない。かくして……。

《 「宣戦布告ネット」という公式サイトを持っている日本の政治家は誰なのか、知らなかった方は、検索する前に予想してみてください。 》

 なんともねえ。

 ネットの拾いもの。

《 千手観音が円月殺法をマスターしたら。

  長所 :敵に動きを見切られることは無い 。
  短所 :自分の腕が絡まりやすい。 》


5月25日(土) われらにとって美は存在するか・つづき

 服部達『われらにとって美は存在するか』審美社から。

《 芸術における進歩とは、要するに一人一人の芸術家において、各自に特有の観念が作品から作品へどのように深められていくか、ということ以外には考えられないが、その、芸術における観念の深まり方とは、一本ずつの線の引き方、一語一語の積み重ね方に表れる以外には、存在しようがないのだ。 》 「職業上の秘密」

《 本当の批評は、そうではなく、何が書いてあるかと同時に、いかに書いてあるかを、つまり作品を内部から支えている芸術的構造、作者の想像力によってつくられ、読者の想像力によって再生するところの内的構造を、読みとるものでなくてはならない。 》 「想像力による批評」

《 青春期の愛情は、しばしば幻影にもとづいており、それだけ押しつけがましいものである。 》 「ロバ−ト・シューマン論」

《 ピアノ曲におけるごとく、歌曲においても、彼の資質および可能性は短期間に急激な発展を遂げ、そして超人的な転換をもってしなければ打開できない一つの極限にまで達してしまったのである。 》 「ロバ−ト・シューマン論」

 「ロバ−ト・シューマン論」は、彼の最後のエッセイの一つ。引用文は自画像のように思える。目を惹くのは年譜のここ。

《 昭和二十一年 三島市日大予科講師(約一ヶ年)。 》

 ブックオフ長泉店で二冊。長田弘『本という不思議』みすず書房1999年初版帯付、東川篤哉『殺意は必ず三度ある』実業之日本社ジョイノベルス2011年3刷、計210円。後者はカバー(ジャケット)が二重。上乗せカバーは若い人向けのアニメ絵。下部が帯のように印刷され、「大ブレイク! 緊急重版!」が飛び出す。すごい意気込みだ。

 ネットの見聞。

《 NHKあさイチで送りつけ商法の事を「勝手に商品を送りつけて代金を請求する」と表現してたけど、あんた達も同じ事やってるんやで。 》

 ネットの拾いもの。

《 バックジョイという商品が欲しくなった。……バック女医と変換するのはやめて。 》


5月24日(金) われらにとって美は存在するか

 朝から伊豆高原での牧村慶子展のお手伝い。夕方帰宅。

 半世紀近く本棚に鎮座していた服部達 (1922-1956)『われらにとって美は存在するか』審美社1968年再版、表題作ほかを読んだ。表題作は1955(昭和30)年、雑誌『群像』に四回にわたって連載された。「作品評価の混乱について」「『実在の文学』の潮流」「私小説の美学」そして「未来への脱出路」から成る。その多くが私小説への批判に費やされている。

《 かれこれの原因からして、決定論者であり、運命論者であり、自分が現実に生きる小世界からの脱出を知らず、意図せず、しかもそのような生活態度をみずから肯定しようとする、日本的凡人が出来上がる。 》 「私小説の美学」

《 日本芸術の美的理念と称するものが、しばしば論じられることがある。たとえば、久松潜一は、日本文学の精神として、まこと・、もののあわれ・やさしみ・幽玄・さび・なぐさみ・をかしみ・粋・通・いき、などを挙げている。しかし、これらのものは、それ自体美的理念であるというよりはむしろ、美なるものに触れて生じた感情の形態的な分析の結果であり、あるいは、美なるものを創り出すための、実際的な注意事項というべきであろう。要するに、過程的なものしか、そこでは捉えられていないのである。 》 「私小説の美学」

《 しかし、新しい美はどこにあるのか。本当の、開かれた想像力に支えられた文学は、どこにあるのか。 》 「未来への脱出路」

《 私小説の伝統に断乎として背を向け、われわれの風土に決定的な反逆を試みる作家たちはいないのか。/ 大岡昇平と三島由紀夫が残るだろう。とりわけ「俘虜記」と愛の渇き」において。 》 「未来への脱出路」

 その評論の結び。

《 誰か、賭けの論理という、もっとも現代的な、セックな神秘にもとづいて、想像力を十全に発揮する作家はいないか。 》

 悲痛な叫びだ。セックとはSEC(英語)、「(葡萄酒が)辛口の」という意味のようだ。その後に発表された「『近代文学』的公式の崩壊」で彼は「われらにとって美は存在するか」について書いている。

《 このエッセイのなかで、私は、文学作品を純粋に美学的な立場から評価すべきこと、私小説とヨーロッパ流の小説とでは美の基準が異なるようだが、想像力という視点から見れば、美学はつねに単一であることを証明しようとした。しかし、私小説という相手は、一筋縄では行かない。そこに引っかかって苦労しているうちに多くの紙数を費してしまい、わがライヴァル奥野健男に「竜頭蛇尾」と評される(読売新聞)始末に立ち到った。しかし、未知なるものへの想像力の発揮を今後の小説に欠くべからざる要素と説くことで、私は私なりに、一応のしめくくりはつけたつもりである。 》

《 大衆小説・中間小説の問題も、結局手つかずにひとしかった。 》

 と結ばれているが、優れた大衆小説を読んでいれば、視野が広がり、この発表から一月後(1956年正月)自殺をしなかったのでは? という気もする。

 ネットの拾いもの。

《 英語圏のひとに雲取山ってなにかと聞かれたので、cloud get mountain の意味で日本のクラウドコンピューティングの聖地で、UBSメモリが祀られていて東京都にあると教えたら、来月行きたいとか言い出した。 》


5月23日(木) お疲れ勉強

 昨日ふれた月刊『現代』1991年2、3月号の「徹底討議 近代日本の100冊を選ぶ」は、伊東光晴、大岡信、丸谷才一、森毅そして山崎正和の五人が、《 この120年間のあらゆるジャンルの本を俎上にのせ「いま読んでおもしろい」ものを厳選した初の試み 》。

 ネット検索したら五年前の拙文が出てきた。

《 百二十年間でたった百冊を選ぶのだから、石川啄木、芥川龍之介、川端康成、小林秀雄、三島由紀夫が落選。キビシ〜イ。単行本は講談社から1994年に出ているので、詳しくはそちらを。

  まだ読んでないの〜? と突っ込まれる選出本は、江戸川乱歩「パノラマ島奇談」、谷崎潤一郎「痴人の愛」、手塚治虫「鉄腕アトム」、村上春樹「羊をめぐる冒険」などなど。

  まだ読んでない本は、岡本綺堂「半七捕物帳」、吉川英治「鳴門秘帖」、九鬼周造「『いき』の研究」、武田泰淳「司馬遷の世界」、大岡昇平「野火」、大江健三郎「芽むしり仔撃ち」、開高健「日本三文オペラ」、井伏鱒二「珍品堂主人」、吉行淳之介「砂の上の植物群」、石牟礼道子「苦海浄土」などなど。以上の本は本棚にはある。

  まず読まない本は、大槻文彦「言海」、小林一三「日本歌劇概論」、山田盛太郎「日本資本主義分析」、牧野富太郎「牧野日本植物図鑑」、経済安定本部「経済実相報告書」、篠原三代平・編「産業構造」などなど。手にしたこともない本ばかりだ。

  もう読んでいる!本は、樋口一葉「たけくらべ」、夏目漱石「それから」、泉鏡花「歌行燈」、斎藤茂吉「赤光」、永井荷風「腕くらべ」、萩原朔太郎「月に吠える」、小川未明「赤い蝋燭と人魚」、きだみのる「氣違ひ部落周游紀行 」そして古井由吉「杳子」などなど。……二十冊もない……。読む本がたくさんあって楽しみだなあ〜、ああ。 》

 恥ずかしい文だ。この五年で九鬼周造「『いき』の研究」、大岡昇平「野火」、岡本綺堂「半七捕物帳」は読んだ。

 閑話休題。昨日買った西岡文彦『絶頂美術館 名画に隠されたエロス』新潮文庫2011年初版、絶頂といえば高柳重信の俳句。

《   身をそらす虹の
    絶巓
         処刑台   》

 あとがき「絶頂にいたるまで」から。

《 「お疲れビール」という言葉があるが、私は、一日の仕事に疲れ果てた心身が本当に求めているのは、むしろ「お疲れ勉強」ではないかと思っている。他人に命じられるままコマネズミのように働いて心身共に疲れ果てた一日の終わりに、せめて数十分でも自分の向上のために使える時間というものがなくては、人は生きていけないように思うからであり、自分が労働の奴隷である以上に自身の人生の担い手であることを確認しなくては、人は明日に備える眠りに入っていけないように思えるからである。 》

 深くうなずく。生まれてこのかた晩酌をしたことがない。「お疲れ勉強」が待っているから。

《 ごく簡単にいうならば、テレビとは、ちょっと知りたい人と、もっと知りたい人のためのものである。ちゃんと知りたい人は、自分で本を読むからである。 》

 テレビをインターネットに置き換えてもいい気がする。

 ネットの見聞。

《 「PC遠隔操作事件弁護人の検察、報道への怒り炸裂」 江川 紹子。 》

《 検察側が提出した証明予定記載事実に事件と被告人のつながりについてまったく記載されていないという「異常なもの」(佐藤弁護士)だった。唯一の警察官調書が開示されたものの、肝心の部分は黒塗り。 》

《 さすがに、裁判官も「異例、または異常だが、こうなった事情を説明してもらえますか」と尋ねた、という。 》

 ネットの拾いもの。

《 オクラホマの竜巻のニュースを妻と見ていて「地下シェルターとかあるんやねえ」と妻が感心するので「オクラホマミキサーってダンスあるやろ?あれは竜巻に備えて地下シェルター掘る動作からきた踊りやねん」とホラ吹いたら妻が「そうなん?!」と一瞬信じた。夫への信頼感を久しぶりに感じた瞬間。 》


5月22日(水) 近代芸術・続き

 暑くなりそうなので、昼前にブックオフ三島徳倉店まで自転車でひとっ走り。西岡文彦『絶頂美術館 名画に隠されたエロス』新潮文庫2011年初版、平山蘆江『蘆江怪談集』ウェッジ文庫2009年初版,計210円。

 1938年(昭和13年)初刊の瀧口修造『近代芸術』では「美」という言葉がほとんど使われていない。以下の文章で使われたくらい。

《 ことに近代絵画に現れた汎自然主義は、絵画をかえって狭隘なモチーフの世界に閉じこめてしまった。「純粋絵画」という方向は、実は絵画を先鋭化せずに、かえって摩滅に導くような結果を招いている。対象がきわめて微細な部分的世界に局限されて、その表現のなかでの美的な要素の追求が作家によって行われるのである。対象の特質はしだいに失われて、マチエールとか色彩の趣味とかが尊ばれる。 》 「絵画についての感想」

 そして瀧口は結ぶ。

《 新しい絵画は、まず主題と技術の解放から出発しなければならないであろう。同時にその発表機能に無関心であってはならないのである。 》

《 「オブジェ」という言葉が新しい芸術の視野で用いられ出したのはきわめて最近のことある。ことにシュルレアリスムで、特殊な意味にとりあげられてから以後のことである。 》 「物体の位置」

《 超現実性を人間の欲望の原理に深く結合し、聞こえない内部の叫びに耳を傾けること、自我の象徴の中に超自然の鍵を発見することが、来たるべき文化のもっとも大きな課題となるであろう。 》 「現代芸術と象徴」

《 私はここで芸術における想像性の問題に直面する。わが国の美術の流れの間で、想像性を失ってから幾十年になるであろう。少なくとも、われわれが日本画と西洋画という奇妙な対立を認めざるをえなくなってから幾十年になるであろう。 》 「超現実主義の現代的意義」

 上記のように嘆いた瀧口はこう結ぶ。

《 超現実主義はあくまで、外面的な内容に対して内面的な内容を提示する。こうした劇的な美学はことに現代の力動的意欲にとって欠くことのできないものであろう。 》

 「超現実主義の現代的意義」は、集中の白眉だ。超現実主義からの現代的異議。それにしてもダイナミックな記述だ。軽やかでしなやかなリズムを刻む冴えた文体が羨ましい。

 『近代芸術』は、月刊『現代』1991年2、3月号の「徹底討議 近代日本の100冊を選ぶ」で58番に選ばれている。

 座談会での選者の一人、大岡信の発言から。

《 特に瀧口の場合は、西欧のアバンギャルド(前衛芸術運動)を一番まともに受け止めたんです。詩人は、美術と音楽とか、そういうものをすべて知っていなくてはならないというのが、アバンギャルド芸術の基本だと思いますが、『近代芸術』という本はまさにそういう広い視野で書かれています。 》

 ネットの拾いもの。

《 「セーラー服と機関銃」ってその組み合わせのミスマッチ感が面白いタイトルなんだと思ってたけどよく考えたら普通の海軍だよね。 》


5月21日(火) 近代芸術

 ブックオフ長泉店で二冊。『現代詩文庫50 多田智満子詩集』思潮社2001年10刷帯付、ジョルジュ・シムノン『メグレと殺人者たち』河出書房新社1983年初版、計210円。ブックオフ沼津南店で二冊。芦辺拓『探偵と怪人のいるホテル』実業之日本社2006年初版、鮎川哲也ほか『マイ・ベスト・ミステリー V』文春文庫2007年初版、計210円。

 瀧口修造『近代芸術』美術出版社1962年初版を読んだ。これは四回目の出版本。最初の本は1938年に出版、次に1949年、三回目は1951年そして1962年のこれ。そんなに古い出版なのに、内容は全く古びていない。この新鮮さは何だろう。印象派以降の二十世紀美術史の本をいくつも読んだけれど、この本が最も切り込み深く分析しており、説得力のある明晰な文章が、ぼやけたオツムを覚醒させる。ワクワクして読んだ。

 ミロの項。

《 彼の画面の「空白」の意味は東洋画のそれとの興味ある対比を示すものであろう。つまり西洋絵画の伝統には、純装飾的なあるいは原始的なものを除いて、こうした伝統はなかったのである。また純粋抽象画の場合においても空白や塗りつぶしはあるが、それに対比される他のフォルムは同質のものであるのが普通である。ミロは空白あるいはそれと同価値の色面に有機的な対象の線や形を描いていく。そのことが彼の線や形の本質に東洋の書画のそれと相通ずるものを与えるのだろう。 》 「シュルレアリスム論」

 私の考えている「余白・空白・空虚」とは視点が少し違うが、先達だ、と感心していたら、 原研哉はきょうのツイッターにこんなことを書いてた。

《 コミュニケーションは、誤解を避けるよりも、むしろ解釈の多様性を追い風にするくらいでいい。肝心な部分は常に( )の中にあり、ここに何が埋められるかは永遠に規定できない。 》

《 ミニマルとかプレーンとかシンプルとかエンプティとか、いずれも( )が空いたままになっていて、そこにどんなイメージを入れるかは読み手や受け手に委ねれている。 》

《 花も、庭も、詩も、空間も、舞踊も、茶も、料理も、もてなしも、日本の場合そうなっている。 》

《 自分もいつの間にかそういう状態を明快に意識するようになった。( )をあけておく。そして余分を始末する。 》

 ネットの見聞。

《 安倍晋三は、橋下徹のソフトバージョン。橋下は安倍を維新の会の党首にしようとしたのは記憶に新しい。共通点は、本音を漏らして、風当りが強くなると、微妙に前言の論点をずらしていくポピュリスト的手法の体現者だということだ。論旨が一貫している石原よりもある意味でたちが悪い。 》 平川克美

 ニューズウィーク日本版オフィシャルサイト「中国人社員旅行で眺めた日本 」から。

《 ――でも、日本に行ったからってAVそのものの光景が見れるわけじゃないでしょ?
  ビン:見れなくてもいいんだよ、その文化の近くに自分がいるってことが感じられれば。そして気兼ねせずにそれを買うことが出来る。
  チャン:ホテルのテレビのチャンネルをひねったら、1日1000円で見れるしね(笑)。
  ビン:あとコンビニに行ったらどこにでもそんな雑誌があるし。
  モン:アダルト雑誌があるもんね!
  シュウ:北京に帰ってきてからコンビニ入ったとき、思わず雑誌の棚のところまで歩いて行ったよ、オレ。で、がっかりした(笑)。 》

 ネットの拾いもの。昨日は午前雨、午後曇天、夜雨。

《 明日は天気も脳味噌も晴れますように。 》

 晴れたよ。


5月20日(月) あたりまえのこと・続き(あたりまえじゃない)

 雨。雨降りもいいものだ。気持ちが落ち着く。午後は曇り。泣き出しそうで落ち着かない。

 昨日の毎日新聞読書欄、コラム「MAGAZINE」は『建築と日常 別冊 多木浩二と建築』。

《 理論を先に置かず、過程のなかで思考を研ぎ澄ませる批評家 》

 と紹介される故・多木浩二。上記引用と昨日の「批評とはある基準に照らして判断し、」が交錯する。

 倉橋由美子『あたりまえのこと』朝日文庫2005年初版、前半が昨日の「小説論ノート」で、1970年代後半に書かれ、後半の「小説を楽しむための小説読本」は二十世紀末に書かれた。後半の「小説を楽しむための小説読本」から。

《 問題はこの『伊豆の踊り子』なら『伊豆の踊り子』が、世の中も人の好みも変わっていくこれからの百年、依然として読まれ続けるという「耐久性」をもっているかどうかです。もっていればこれは古典です。そうではないけれども文化的価値があるというので、重要文化財としてどこかに保存しておくことになれば、それはもはや古典ではなくて研究用の化石にすぎなくなります。 》 「小説の現在」

《 しかし日夜生産されている小説は古典とも化石とも関係はなさそうで、売れなければ産業廃棄物扱いになるだけ、という次元で勝負しています。 》 同

 周囲に斜塔を作っている本をふと処分したくなってしまう。よく見りゃそんな本ばかり……かな。けれども、と考え直す。刹那的に濫造された小説でも、水木しげるの貸本漫画のように、化石もしくは古典になるかもしれない。水木しげるはまだ早いかもしれんが、時代は早まっている。一応選んで買っているからなあ。

《 それよりも、思考が正確に働いて、文章がこれで「決まっている」かどうかが大事です。 》 「「決まっている」文章」

《 ともかく、こういう「文体修行」をやってみれば、小説を面白くするのは、「何を書くか」よりも「いかに書くか」であることがよくわかるというものです。 》 「文体の練習」

 川端康成「片腕」の冒頭を引用、そして。

《 それにこの後、話をどう展開させるかも文体次第です。右のような文体は、老人がこの腕を愛玩しながら妄想を繰り広げる、その妄想を書くのに最適でしょう。 》 「幻想を書く」

 仰天。え、語り手の「私」って老人なの!? 若い男性だと思っていた。それがあたりまえだと思っていた。ウッソ〜〜〜。新潮文庫がない。確かめようがない。ネットを管見するに「私」の年齢は問題にされていない。新潮文庫では『眠れる美女』の併録だからなあ。相手は「娘」だからオジサンまでは想像できるけど。

 ネットの拾いもの。

《 うん、俺、まだまだ若い! ←幼稚なだけだ! 》


5月19日(日) あたりまえのこと

 「じゃあね」と手を振ったら、目覚まし時計で起こされた。

 初夏の陽気。富士山の残雪を仰ぎながらブックオフ長泉店へ。森博嗣『有限と微小のパン』講談社文庫2001年初版、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫2011年65刷、計210円。前者は『すべてがFになる』に始る十作シリーズの十作目。十作全部を読む気はないが、六冊も持っている。うーん。後者は、月刊『現代』1991年1、2月号に発表された「近代日本の100冊を選ぶ」という討論企画で選出された。それではいつか読もう、と。

 倉橋由美子『あたりまえのこと』朝日文庫2005年初版を読んだ。小説を巡って辛辣な指摘がなされている。

《 批評とはある基準に照らして判断し、評価することである。これはよくてあれは駄目と分けることで、その意味のギリシア語の動詞krineinからkritikosもcritiqueも出てきた。 》 「24 批評」

《 文学の方ではことに少ない。それで多いのは、いかなる基準があるとも示さずに、褒めたようで褒めない、けなしたようでけなしていない、何やら評者の挨拶のような言い訳のような、我田引水風のおしゃべりも混じった感想が批評と称して行われ、これで世の中が丸くおさまっている。そして評論をいくらか圧縮したものに本の内容を加えてこれから買おうか買うまいかと迷う読者の便を図るものが書評と呼ばれる。ここでもわずかな例外を除いて駄目なものを駄目と指摘して酷評するような書評はまず見当たらない。 》 同

《 いくら売れていても駄目なものは駄目という批評家の声は聞こえてこない。 》 同

 これは1970年代末に発表された。二十一世紀の今、かような文筆家は、斎藤美奈子と福田和也くらいか。「ある基準」が難しい。福田和也は基準を明文化している(『作家の値うち』飛鳥新社2000年)が。感想対批評。批評は、反論駁論批判非難を受ける覚悟でするもの、とも思う。

《 デッサンが上手かった小磯良平が上手いだけの画家で終わったように、デッサンの上手下手は作品の質に直接は影響しないはずだ。 》

 このネットの書き込みのように堂々と書いてみたいが。

《 全体が大嘘の塊であることを承知の上でその嘘が楽しめるならばそれは立派な小説である。むしろその方が、本当らしく見せかけて読者を釣る小説よりも高級であると言える。ただしそれは読者の精神を宙に支えて飛行させるに足る強力な文章を必要とする。 》 「11 嘘」

《 この嘘を嘘のままで押し通してしまう力はあくまで理性に合った力として働くという意味で合理的な性質のものでなければならない。 》 同

《 『旧約聖書』でも『源氏物語』でも、確乎として存在している文学的構造物には、ある複雑な構造が見出されるはずである。 》 「12 秩序」

《 小説を「意識」、「言葉」、「物」という三点で定義される平面の上で考えるのは適切ではないように思われる。 》 「14 小説という行為」

《 つまり小説には他人あるいは社会が必要不可欠であるということで、先程の意識──言葉──物という平面にはその肝心のものが欠けている。 》 同

《 確かに第一級の作品にはそれ相応の努力の投入が不可欠であるが、逆に努力の分量がそれだけで第一級の作品を作るわけではない。努力は十分条件ではないのである。 》 「23 努力」

 絵画へ援用できるな。渾身の力を込めた野心的大作だけれどもつまらない、とか。明日へ続く(つもり)。


5月18日(土) 静謐の深い調べ

 きょうも伊豆高原の牧村慶子展のお手伝いへ行く。いろいろな方が見えて嬉しい。

 自宅そばの伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅から下り電車に乗ると、大場(だいば)駅手前の鉄道本社の引込み線に、凸型の焦げ茶色の電気機関車が停車している。貨物を運ぶ機関車で、真夜中に貨物を引いて走る。この凸型の機関車が好き〜。きょうも車窓から見えた。

 一昨日、沼津市の牛山精肉店さんから依頼された、坂部隆芳氏の静物画の鑑賞文を脱稿。店に展示する絵に寄せるものだから、短い文章にまとめる。こういう頼まれごとは愉しい。称賛だけでなく、鑑賞のポイントをも提示することが求められる。万年筆で書いては捨て捨て、反古紙の束ができた。標題、書き出しと結びは苦労なくできたけど、中間に手間取る。一昼夜経ったらがらっと変わった。最後の一語が決まる。やれやれ。ワープロで清書、印刷。パソコン〜プリンターではない。題は「静謐の深い調べ」。再び検討。よし。

 ネットの拾いもの。

《 ノルウェイの森光子 vs.  吉田羊をめぐる冒険  》

《 明けない夜はないというが、あけなくていいのにと思うことのほうが多い。》


5月17日(金) 木乃伊の口紅

 伊豆高原の牧村慶子展のお手伝いへ行く。

 「 田村俊子、旧満州の新聞にエッセー 戦時下 日中友好説く」という東京新聞の記事を読んで、『あきらめ・木乃伊の口紅』岩波文庫1986年3刷収録の代表作「木乃伊の口紅」を読んだ。木乃伊はミイラと読む。四十年余り前、文学全集に収録されていた「木乃伊の口紅」という題に怪奇小説的な興味を覚えたが、今日まで読む機会がなかった。今読んで正解。怪奇小説ではなくて情痴小説だった。小説家を志す貧しい夫婦の話。

《 不仕合せに藝術の世界に生れ合せてきた天分のない一人の男と女が、それにも見捨てられて、さうして窮迫した生活の底に疲れた心と心を背中合せに凭れあつてゐる様な自分たちを思ふと泣かずにはゐられなかつた。 》

《 男の生活を愛する事を知らない女と、女の藝術を愛する事を知らない男と、其れは到底一所のものではなかつた。 》

 妻は、亭主に強いられて応募した懸賞小説が当たって、小説家への道が拓ける。作家を諦めた夫は、いじける……。どこかで読んだ……といっても、田村俊子(1884年-1945年)がこれを発表されたのは1914年。ほぼ百年前。まだランプの生活。実生活を基にした小説のようだ。

《 女性の職業作家の草分けで、妻ある男性を追ってカナダへ渡るなど奔放に生きたことでも知られた。 》 東京新聞

 ネットの拾いもの。NHK連続テレビ小説「あまちゃん」主役能年玲奈。

《 「『お父さんが大好き』と公言し、色気はゼロ。99パーセント処女ですよ」

  残り1パーセントはお父さんか。 》


5月16日(木) 聖少女・続き

 昨日の倉橋由美子『聖少女』の余韻冷めやらず。

《 「乗るつもりかい?」
  「乗せてって」
  「どこまで?」
  「どこまでも」 》

 最初の一頁のこの決め科白で後は疾走。そして愛の迷宮への失踪?(三島由紀夫『愛の疾走』講談社1963年初版、東君平の切り絵の函装丁はいいなあ)

《 壁にはブリューゲル、ヒーロニムス・ボス、ポール・デルヴォー、パルテュス、チャペラ、サルヴァドール・ダリなどの複製画をかかげ、 》

 パルテュスはバルテュスの誤植だろう。チャペラがどんな画家か不明。チャベラだと、チャベラ・バルガスという女性がフリーダ・カーロと親交があった……。

《 未紀はどこを見ているとも測りがたい視線をぼくに向けたまま、皿のうえでピッツァをこまかく切っていた。》

 この本を知った四十数年前は、ピッツァがどんなものか知らなかった。

《 ひとは跳べないときに書くのだろう。 》

 大江健三郎の短編集『見る前に跳べ』1958年。

《 要するに彼女たちは結婚まえのつまみ喰いの常習者であり、平均二十五歳の正規分布にしたがう年齢の女たちで、まったくクールでなかった。 》

 クール!

 『聖少女』新潮文庫1981年初版折込の紙片「今月の新刊」には『聖少女』と森茉莉『甘い蜜の部屋』。

《 ──「パパ」を異性として恋した少女の、崇高なまでに妖しい、禁じられた愛の陶酔。 》 『聖少女』

《 無垢な魂と魔性の炎を秘めた美少女モイラが、父親と築いた二人だけの部屋── 》 『甘い蜜の部屋』

 ネットの見聞。

《 ニューヨークタイムズはこのところの自民党政治の動きを「foolhardy」と形容しました。これを「無思慮」と訳すのはちょっと穏やかすぎるかも知れません。「バカ」と「むちゃ」の合成語ですから。かつての総理に向けられた「loopy」(変人)という形容詞とどちらが悪い意味なんでしょう。 》 内田樹

 ブックオフ長泉店で二冊。平松洋子『買物71番勝負』中央公論社2004年初版帯付、淮陰生(わいいんせい)『完本 一月一話 ─読書こぼればなし─』岩波書店1995年4刷帯付、計210円。前者は探求依頼本。後者は昔、岩波新書版で読んでいた。これは増補。


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