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『閑人亭日録』Diary2013年

2月15日(金) 寄り道は楽しい

 雨の中、お昼前にドイツ文学者池内紀(おさむ)氏の源兵衛川の取材で案内を務める。池内紀氏と編集の女性そしてカメラマンの御三人をご案内。池内氏は源兵衛川は数回来ているとのこと、それでは、とちょっと寄り道をして、給水塔や井戸そして飲み屋街の昭和レトロな裏道、五叉路を案内。これは知らなかったと、えらく喜ばれる。

 著書『海山のあいだ』中公文庫2011年初版、「海山のあいだ」から。

《 しかし、雨のおかげで、だれとも会わずにいられた。 》

 と記す氏にとっては、雨でよかったかも。収録の「夢前川」というエッセイの冒頭。

《 夢前と書いて「ゆめさき」と訓(よ)む。夢前町を流れる夢前川。 》

 池内氏はその川の流れる姫路市に生まれた。ひとつの短歌が浮かぶ。

    夢前川知らずもとほる夢の岸うつつにつかぬ音聴けとこそ   照屋眞理子

 池内氏の著作では『眼玉のひっこし』冥草舎1979年初版を出た当時に読んで感心した。上手いなあ、と感服するのは題のつけかた。NHKライブラリーで出た二冊の本で較べると。山口昌男『知の自由人』1998年に対して、池内紀は『自由人は楽しい』2005年。

 旅〜温泉では河出書房新社の二冊で。池内紀『温泉旅日記』1988年に対して、同じドイツ文学者種村季弘(すえひろ)『晴浴雨浴日記』1989年。これはどっちかな。どちらにも熱海駅前温泉が取り上げられている。

 「私立伝奇学園高等学校民俗学研究会」シリーズ第二作、田中啓文『邪馬台洞の研究』講談社ノベルス2003年初版を、凝った肩をほぐすために読み始める。第一作が昨日の『蓬莱洞の研究』。

 ネットの拾いもの。

《 チョコは来なかった。だが男は諦めてはいなかった。男は〈好評につき受付期間延長〉の貼紙を出した。(田口トモロヲの声で) 》


2月14日(木) 蓬莱洞の研究

 田中啓文『蓬莱洞の研究』講談社ノベルス2002年初版を読んだ。自室で読んで正解。不意に襲う爆笑また爆笑。美味しいチョコレートを口にしてなくてよかった。吹いてたわ。「1」の冒頭。

《まず、大盛りカレーライス(味が薄くて超まずい)。これでもかとばかりにカレールーのかけられたてんこもりの飯がスプーンで突き崩され、雪崩のように口に吸い込まれていく。 》

 みごとなつかみだ。このページのおしまい。

《 しかも、彼女は、二時間目と三時間目の間の休憩時間に、早弁で、家から持参した弁当を食べている。それも、いわゆるドカベンという、縦横高さがほぼ同じの立方体みたいな馬鹿でかいやつにご飯をぎっしり詰めたものだ。 》

 ギャル曽根も真っ青だね。この一ページで本書の期待はいやがうえにも高まる。めくったページに彼女の紹介。

《 諸星比夏留(もろぼし・ひかる)はここ私立田中喜八(でんなか・きはち)学園高等学校の新入生だ。背は百五十五センチと低く、胸も薄く、華奢な体躯である。 》

 期待通りに駄洒落の乱れ打ち、怒涛流コーヒー。冗談に大法螺、ホラー上等の伝奇小説。いやあ、じつに愉快、いい一日だった。

 東京の@btfというギャラリーで起こった根本敬作品の撤収。経過を読むと、いやだなあ、という気分。行ったことはないけど、行くこともないな。

 ネットの見聞。

《 「首尾一貫した自己、統合された自己」なるものは近代の発明であり、もともと人間は複数の声が内部に輻輳する「分心」の状態にある。 》

《 意識は分裂しているのが常態なのである。それを無理やり統合し、足元のおぼつかない「一貫した自己」なるものを立て、その擬制に基づいて社会制度を設計したせいで、さまざまな対立や暴力や収奪が起きた。 》 内田樹

 ネットの拾いもの。

《 ヘルメットは事故防止の帽子。 》

《 某公園で膀胱炎になった。 》 田中啓文


2月13日(水) 自然な建築

 昼食にカップ麺のきつねうどんとたぬきそばを初試食。二度と買わないな。

 ブックオフ長泉店で二冊。川本三郎『スタンド・アローン』筑摩書房1989年初版帯付、エルヴェ・ギベール『楽園』集英社1994年初版帯付、計210円。

 ブックオフ函南店で五冊。この前は知人と一緒だったので、ゆっくりと探せず手ぶらだった。今回はじっくり心ゆくまで。北村薫『元気でいてよ、R2-D2。』集英社2009年初版帯付、田中啓文『天岩屋戸(あめのいわやど)の研究』講談社ノベルス2005年初版、北森鴻『香菜里屋(カナリヤ)を知っていますか』講談社文庫2011年初版、正岡容(いるる)『圓太郎馬車』河出文庫2007年初版、姫野カオルコ『リアル・シンデレラ』光文社文庫2012年初版、計525円。満足。

 隈研吾『自然な建築』岩波新書2008年初版を再読。やはりいい本だ。

《 そこに出現した「関係性」は、カメラでは決してとらえることができない。 》 29頁

《 自然の本質もまた、何かを待ち続けることである。 》 35頁

《 対比は、結局環境を壊す。グラデーションは古いものも、新しいものもすべて認め、すべてを許す。 》 68頁

《 制約は母である。制約からすべてが生まれる。そして自然とは、制約の別名である。 》 70頁

 ネットの見聞。

《 発明は簡単ではない。テレビもクルマも西洋の工業文明の所産。テレビやクルマをちょっと工夫して作れるようになったからといって、追いついたり乗り越えたりしているわけではない。 》 原研哉

 原研哉と隈研吾。間違えそう。HOUSE VISION に中心的に関わっているのが原研哉。隈研吾は会場構成に関わっている。期待がふくらむ。

 ネットの拾いもの。

《 中国新年お祝いの爆竹のあるかもしれない商品名。

  「勝手にしやがれ」 「禁じられた遊び」 「恐怖の報酬」 「お熱いのがお好き」 「突然炎のごとく」 「タワーリングインフェルノ」 「チャイナシンドローム」 》

《 突然大学キャンパスが、無人島にワープしたら...。

  工学部「生活必需品は任せろ」 理学部「現在地を地質から割り出す」 法学部「もめ事はわれわれが解決する」 経済学部「地域通貨を作ろう」 文学部「無人島で生きる意味を探求するぞ」 》


2月12日(火) 現代版画の視点

 米寿を迎えた銅版画家深沢幸雄氏から『深沢幸雄の版画対談 現代版画の視点』阿部出版2013年初版を恵まれる。ありがたい。が、出版社の不注意か、対談相手の版画家にふり仮名が記されていない。品川工を「しながわ・たくみ」と読めても、清宮質文を「せいみや・なおぶみ」と読める人が、版画愛好家以外にどれだけいるだろう。惜しい。

 昼、インスタントラーメンの醤油味と北海道味噌味を食べてみた。麺は出来がよく、麺とからんでいるときはいいけれど、スープだけ飲むと、味は合成が見えてしまう。肉筆画とそれのジグソーパズルみたいな。記憶が確かなら今世紀初めての賞味。カップ麺はまだ食べたことがない。友だちがあきれた。

 ネットの見聞。

《 結局、生命倫理の哲学を考察するときにじっくり参照すべきは、哲学者としてはハンス・ヨーナス(ヨナス)、ピーター・シンガー、運動家としては田中美津、青い芝の会、あとは生命倫理言説はないがエマニュエル・レヴィナス、ということで良いように思う。 》 森岡正博

《 いちおう、日本の同時代のアクティブな哲学者・思想家・学者・知り合いは除外しておりますので、無視されたとか思わないように。 》 森岡正博

《 「新たな発想へのポジティブなつまずき」 》

 ネットの拾いもの。

《 しばしば、1+1=0.8になるのが日本の組織の特徴とも言われます。 》

《 法事なう。こいつ、いい読経してるぜ。 》


2月11日(月) ぶたぶたと秘密のアップルパイ

 矢崎存美『ぶたぶたと秘密のアップルパイ』光文社文庫2007年初版を読んだ。久しぶりに読む『ぶたぶた』、やっぱり楽しい。晴れやかな気分になる。

《 「ぶたぶたさんは、ぬいぐるみみたいに口が固いんだから」

  「……ぬいぐるみじゃないですか」

  「まあ、そのまんまだけどさ」 》 183頁

 どうってことのない会話が微苦笑を誘い、心が温くほぐれてゆく。

 ブックオフ長泉店で二冊。浅井慎平『風の中の島々』山と渓谷社2004年初版、アポロドーロス『ギリシア神話』岩波文庫2002年69刷、計210円。、『風の中の島々』は北の果て、礼文島から沖縄の竹富島まで、港の風景と島の生活の佇まいが主。私の知りたかった、撮りたかった風景だ。行ったことのある島は四十年前に訪れた礼文島だけ。旅にあこがれるけど離島は行くことはないだろう。いい写真集だ。

 足を伸ばしてブックオフ沼津南店で三冊。『ラ・フォンテーヌ寓話』社会思想社1969年初版函付、クリストファー・プリースト『伝授者』サンリオSF文庫1980年初版、イアン・ワトスン『マーシャン・インカ』サンリオSF文庫1983年初版、計315円。

 ネットの拾いもの。

《 四人がゴニン逮捕だって。 》

《 呑めば都 》

《 酒器酒器大好き 》


2月10日(日) パソコンの引越し

 昨日ブックオフ長泉店で二冊。エルヴェ・ギベール『赤い帽子の男』集英社1993年初版帯付、ジェフリー・ディーヴァー『ソウル・コレクター』文藝春秋2009年初版帯付、計210円。

 昨夜パソコンを自宅へ移した。モニター画面を液晶に替えて、雰囲気ががらっと変わり、戸惑う。しかし、男の城が完成。この広くない部屋には天井までの手作りの本棚、ステレオ装置、そしてパソコン。さあ、引きこもり生活じゃ。と意気込んではみたけれど。外出の雑用がさみだれ式に押し寄せる。

 美術品を貸し倉庫へ収納。運送トラックで二度運んだ。昼過ぎに無事終了。やれやれ。

 午後四時、沼津市のアーケード名店街にあるギャラリーで東京の某美術館の学芸部長に偶然を装って再会。街の活性化の話を聞く。それから道路向かいにあるオーディオ店電気堂へ冷やかしに入った彼、ズラリと並んだ往年の名機、レコードプレーヤー、真空管アンプからアルテック、JBL、タンノイなどの豪華なスピーカーに釘付け。それまでの口調とは打って変わって、オーデイオマニアに変身。「ここで出合うとは、いいなあ」と連発、姿が見えないと思ったら、銀行でお金を下してきた。スピーカー、お買い上げ〜。それからLPレコード三枚、お買い上げ〜。「あり地獄だなあ。また来ます」と彼。幸せな表情で東京へ向かった。

 ネットのうなずき。

《 「障がい者」と表記するメディアの方々、またそれに違和感を持たない方へ質問です。なぜ、「害」はNGで、「障」はOKなのですか? 「障」だって、「差し障り」というマイナス要素を含む漢字だと思うのですが…。 》 乙武 洋匡

 ネットの拾いもの。

《 くら寿司のチラシはチラシ寿司だ! 》


2月 9日(土) 絵で見るフランス革命

 河上徹太郎『有愁日記』新潮社1970年初版、冒頭。

《 最近私は吉田健一君に勧められて、エドモンド・テイラーといふ人の " The Fall of the Dynasties " といふ本を読んだ。 》

 次の章では吉田健一訳のヴァレリーを引用して書いている。

《 自由と厳正がこれほど寸分隙がなく絡み合った文章、すなわち状態はない。 》

 これぞ吉田健一『ヨオロツパの世紀末』の文章にも言える。

 『ヨオロツパの世紀末』からフランスの十八世紀が気になり、多木浩二『絵で見るフランス革命』岩波新書1989年初版を読んだ。

《 一八世紀の中頃から、風景を見る人間の視点が斜め下方にさがりはじめた。建築物を正面から堂々と描き出すのではなく、斜め下から見るような視線に変わってきていた。これはすでにロココの画家フラゴナールの場合にもあったが、世紀の終わりごろのユベール・ロベールの場合にはもっと極端になっていった。ロベールの絵画では、たとえば橋は、人々がとおる橋の上面が描かれるのではなく、視点がずっと下がっているから、橋を支えるアーチの下の空間が画面を占めることになる。そこは美しいものばかりがあるとはいえない世界である。ごみ、棄てられたもの、普段は顧みられない闇世界が視界に入ってくる。 》 232-233頁

 このくだりに眼を啓かれた。去年静岡県立美術館で観たユベール・ロベールの絵が感銘をともなってまざまざと眼に浮かぶ。私の勧めで行った知人も感動、絵の作風がガラリと変わった。

 ネットの拾いもの。

《 ロスタイムはロサンゼルス時間のことですね。 》

《 IT産業=手抜き脳業 》


2月 8日(金) ヨオロツパの世紀末

 吉田健一『ヨオロツパの世紀末』新潮社1970年について語るのは難しい。この数日逡巡していた。画期的な著作であるのは間違いない。

《 この場合、我々は近代とか前近代とかいふ凡て自分が現に生きてゐる時代を最上のものと決める田舎ものの偏見に制約される必要はない。 》21頁

《 ヨオロツパの十八世紀といふものが優雅であるのはこの時代に至ってヨオロツパ人が自分をヨオロツパ人と見做し、ヨオロツパを自分の生活の場所と考へるのに馴れてこの意識に即して文明の域に達したからで、これがヨオロツパが確実にヨオロツパになつたことである。 》 25頁

《 よく考へるならば、外国へ行くのに旅券が必要であるなどといふのも一種の屈辱であって、それはヨオロツパの発明かも知れないが、近代になるまでヨオロツパでもそのやうなものは用ゐられてゐなかつた。 》 29頁

《 少くともヨオロツパでは十八世紀のやうに言論が自由だつた時代はなかつた。 》 36頁

 恐るべき卓見が目白押し。そして十九世紀末。

《 併し世紀末とともに展開したヨオロツパの近代が直ぐに世界一般に、或はヨオロツパでさへも近代として認められた訳ではないことは言ふまでもない。 》 238頁

《 ヨオロツパは十八世紀に至って文明の域に達した。この時にその型が決り、その個性が確立したのであるが、文明とは別個に人間にはその運命がある。 》 243頁

 引用はこれくらいにしよう。内容が豊富過ぎる。なによりも吉田健一の文体が一筋縄でゆかない。平明簡潔とはいい難い。が、よく読みこむと納得せざるを得ない。なんと独特な。

 ネットの拾いもの。

《 英国の学生から「日本のヘヴィメタルを代表するミュージシャンのことを調べているが、この生年月日は誤植ではないか?」と問い合わせ。全文読むまでもなく誰のことかピンときて「BC98038年生、現在100050歳で間違いない」と返信。「閣下は特別だ」と書き添えた。 》


2月 7日(木) 図書館除籍本

 朝、三島市立図書館の除籍本、無料配布に行く。一人十冊まで。天沢退二郎『光車よ、まわれ!』ブッキング2004年初版、海野弘『パリ 都市の詩学』河出書房1996年初版、新庄節美『名探偵チビー 一角ナマズの謎』講談社1996年初版、同『黄金カボチャの謎』同、辻真先『TVアニメ青春記』実業之日本社1996年初版、鶴見俊輔『国境とは何だろうか』晶文社1996年初版、吉岡実『土方巽頌』筑摩書房1987年初版、G.マクドナルド『かげの国』太平出版社1978年初版、『ユリイカ』2010年1月号特集「白川静」青土社、同2010年6月号「橋本治」同。100円でも買った。『黄金カボチャの謎』はダブリだった。

 吉田健一『ヨオロツパの世紀末』新潮社1970年、感想は明日に延期。数日前に読了しているのだけれど、うーん、難しい。画期的な著作だと思う。


2月 6日(水) 新聞紙面

 ブックオフ長泉店で二冊。南條竹則『ドリトル先生の英国』文春新書2000年初版、『王朝の香り 現代の源氏物語 絵とエッセイ』青幻舎2008年3刷、計210円。南條竹則もまた、『ドリトル先生』全集岩波書店を求めていたか。私は中学生の時、図書室から一冊借りて読んで、お小遣いをはたいて12巻全巻を購入。50年後の今も本棚にある。いつかじっくり読もうと思っている。

 ネットは見るウェブサイトがいつしか変わっているけど、新聞はとりあえず全紙面を眺める。興味の外れた記事に面白い情報がよくある。毎日新聞朝刊のコラムから。「経済観測」は酒井吉廣「米国化する中国」。

《 このため、今は国家資本主義と呼ばれる中国経済が、徐々にかつ自然な形で米国型資本主義にシフトしていく可能性が出てきた。 》

《 経済的利益優先を是とする共通点を持つ米中は、いよいよ世界をG2でけん引する時代に向けた移行期間に入りつつあるのかもしれない。 》

 別紙面のコラム「水説」は塩田道夫「中国台頭の終焉」。津上俊哉の新刊『中国台頭の終焉』日本経済新聞社の紹介。

《 世間では経済規模で早晩中国は米国を追い抜くということになっているが、「それはない」と論じたものだ。 》

《 中国の合計特殊出生率は最近の調査で1.18であることが明かになった。日本でさえ1.39(11年)だから、これは異常に低い。 》

《 中国の少子高齢化は想定以上に早く到来し、生産年齢人口(15〜64歳)は13年をピークに減少に転じる。》

 「発信箱」、滝野隆浩「不幸ではない」。

《 「病気になったことは不運ではある。/でも不幸でない」と端正な文字。 》

 そして注目の連載「虚構の環(サイクル) 第1部 再処理撤退拒む壁」。きょうの題は「自民商工族がエネ庁に圧力」。読ませる。

 吉田健一『ヨオロツパの世紀末』新潮社1970年初版を読んだ。感想は明日。


2月 5日(火) 失われた時を求めて

 長田弘『すべてきみに宛てた手紙』晶文社2001年の続き。

《 読書するるとは、偉そうな物言いを求めることでも、大それた定理をさがすことでもなく、わたしをして一人の「私」たらしめるものを再認識して、小さい理想をじぶんで更新するということです。 》 「手紙 7」

《 わたしたちの自分というのは、むしろ自分でないものによってしか語ることができないものです。わたしたちの中にいる自分は、言葉をもたない自分です。あるいは、言葉に表すことのできない自分です。 》 「手紙 10」

《 記憶は、心に結ばれる像、イメージです。言い換えれば、記憶が果たすということというは、「覚えている」ということではなく、みずから「見つけだす」ということです。 》 「手紙 15 ──「記憶のつくり方」」

《 言葉を忘却からすくいだすのは、言葉のちからをきざむユーモアです。 》 「手紙 16 ──別れの言葉」

《 何が書かれているか、何が語られているかでなく、一冊の本にとってむしろずっと決定的なのは、どのような読み方が求められているか、です。 》 「手紙 19 ──ゆっくりと、静かな時間」

 「ゆっくりと、静かな時間」、この言葉に共感。

《 読めばいつでも中断に誘われたプルーストの『失われた時を求めて』が、突如としてスリリングな書物に変貌したのは、ある日、鈴木道彦訳の「スワンの家の方へ」(『失われた時を求めて』I )を手にしたとき。 》 同

 鈴木道彦抄訳版の文庫三冊本を持っている。まずはここから。

《 鈴木道彦個人全訳の『失われた時を求めて』を選んだ。理由はいくつかあるが、鈴木道彦による編訳2巻本『失われた時を求めて』(集英社)に感嘆したからである。 》 松岡正剛

 長田弘に親近感を抱いたのは、こんな一節。

《 遠い日の友人の記憶は、わたしのなかで、『わが青春のマリアンヌ』という古い映画の記憶に重なっています。 》 「手紙 16 ──別れの言葉」

 中学生の時テレビで観た。心に深く刻まれた。後年、アルフィーの歌う『メリーアン』では、映画の一場面が、そのシングルレコード盤に使われていた。……失われた時を求めて、そこに三冊あるが。いつ読むんだろう。

 一昨日ブックオフ三島徳倉店へ今年初めて行った。工藤直子『新編 あいたくて』新潮文庫2011年初版、橋本治『リア家の人々』新潮文庫2013年初版、大岡信・編『古美術読本 六 仏像』知恵の森文庫2007年初版、マンシェット『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』光文社新訳文庫2009年初版、計420円。

 ネットの見聞。

《 ほんと、残りの人生、昔の話だけして、もういいんじゃないか。 》


2月 4日(月) すべてきみに宛てた手紙

 長田弘『すべてきみに宛てた手紙』晶文社2001年を読んだ。39編からなる「手紙エッセー」。本文130頁足らずの短いエッセー集だが、易しい文章に深い含蓄がある。一編読んでは間を置き、というふうにゆっくり読んだ。そうやって味わうべき本だ。

《 というのも、日本語の漢字はわたしたちのなかに連想する力をふんだんに育ててきたけれども、カタカナのことばはことばの地下茎がもともと断ち切られてしまうため、なかなかそうはゆかず、ことばによる連想の力、イメージをゆたかにつらねてゆく力を、どうしても殺(そ)いでしまいやすいのです。 》 「手紙 4」

《 大切にしたいのは、世界をじっと見つめることができるような、そのようなことばです。 》 「手紙 5」

 明日へ続く。

 ネットの見聞。

《 芸術が崇高なんかであるはずない。 》椹木 野衣


2月 3日(日) 珍名印鑑10万種

 きのうに続き、なにやら温い陽気。気分も緩むなあ。広島市の熊平製作所から恵まれた『抜粋のつづり その七十二』、最後の文章は森下恒博「珍名印鑑10万種」。森下氏は印章店モリシタ主人。珍名収集家。紹介されているのは、まず読めない簡単な漢字の名前。

《  「一」 「九」 「十」 》

 読み方は?

《  「にのまえ、よこいち」 「いちじく」  「つなし」  》

 一は二の前にあるから。九は「1文字のく」だから「いちじく」。十はひとつ、ふたつ……ここのつ、十で「つ」がなくなるから「つなし」。判じ物というかなぞなぞというか。姓名が「一一」という人が実際にいるとか。「にのまえはじめ」さん。

 ネットのインタビュー記事から。

《 ところで、今まで1本も売れたことがないハンコはある?

  半分以上です(笑)。  》

 ネットの見聞。

《 社会が思想的に煮詰まっているときに、目をランランと輝かしながら「こっちへ行こうよ」と臆面もなく提言する人々がいる。第1はDQNであり自分の言葉の意味が分かっていない。第2は無教養な人であり、自分の言葉が誰かのコピーであることを知らない。第3は恥知らずでありこれは哲学者と呼ばれる。 》 森岡正博

 ネットの拾いもの。

《 そういえば、恵方巻き、って一気に食べるものなんだよね、たしか。

  あれ、お年寄りには危ないよね。正月の餅とおんなじで、さ。

  恵方巻きが口から飛び出したまま死んでると何だかマヌケだ。 》


2月 2日(土) ポール・デルヴォー

 風も強い雨雲が割れて青空がのぞいたお昼前、雲がにわかに千切れ、東へ東へぐんぐん流れていく。わ、速い。晴天そして春のような暖風。

 活字の読書を一休み、本棚からベルギーの画家ポール・デルヴォーの画集を取り出す。『骰子(さい)の7の目 5 ポール・デルヴォー』河出書房新社1974年初版、それから展覧会の図録を三冊、「東京国立近代美術館」毎日新聞社1975年、「伊勢丹美術館」(株)伊勢丹1978年、「伊勢丹美術館」1984年朝日新聞社。

 デルヴォーの絵に出合って四十年か。そのころ味戸ケイコさんの絵(『終末から』表紙)にも出合っている。日本と西欧、ずっと好きで惹かれる絵の双璧。味戸さんの絵には初恋の一目惚れ、デルヴォーの絵には官能の炎(ほむら)を。近いけれども届かぬ切ない心(味戸)、遠くて叶わぬ絶対の距離(デルボー)。まあ、1975年の近代美術館での本物との出合いでは、脳天から足元まで震撼した。絶世の美女がいる……。肌の美しい質感に仰天。これが油絵か。絶対距離の官能美に無条件でひれ伏した。

 吉田健一『ヨオロツパの世紀末』新潮社1970年初版を読んでいて、そこで紹介されていたボオドレエルの詩の一節からポール・デルヴォーを連想。

《  その蒼い頬に熱があり、この茶色の魔女は

   頸を曲げるにも高貴な風情がある。

   その女は狩りをする女のやうに背が高くてしなやかで

   その笑顔には静寂が、眼には自信が籠つてゐた。  》

 吉田は題名を書いていないが、詩は『悪の華』に収録されている「植民地の夫人に」(阿部良雄・訳)、「あるクレオールの貴婦人に」(安藤元雄・訳)。阿部、安藤の訳と読み較べて、いやはや、翻訳の難しさを実感。

《  その顔色は淡くて暖か。栗髪(くりげ)の魅惑の女(ひと)は

   その頸(うなじ)に、高貴にも気取った様子を見せる。  》 阿部良雄

《  その肌は白じろとあたたかく、栗いろの髪の魅惑のひとの

   うなじのあたり 上品に気取った様子が見える。  》 安藤元雄

 ブックオフ長泉店で二冊。ポール・デイヴィス『タイムマシンのつくりかた』草思社文庫2011年初版、ピーター・アントニイ『衣装戸棚の女』創元推理文庫1998年2刷、計210円。


2月 1日(金) ダボス会議〜トルコの舟歌

 先月下旬にスイスのダボスで開かれた世界経済フォーラム(ダボス会議)のテーマは「Resilient Dynamism (しなやかなダイナミズム)」だった。去年は「The Great Transformation : Shaping New Models (大転換=あらたな型式の創造)、一昨年は「Shared Norms for the New Reality (新たな現実に対する共有された規範)」。

 書類を整理していたら、函底から昭和と思しき詠み人知らずの戯れ歌集のコピーが出てきた。題名は「土耳古(トルコ)の舟歌」。一部紹介。

《  暮れなずむ愛撫の街を流れゆく水や水草泡沫(うたかた)の恋

   ふるさとは土耳古にありて思ふものかなしくうたうわが子煩悩

   けぶりたつ靄の中にて吹かしあう法螺と尺八針小棒大

   ゴムボートを女船頭漕ぎゆけば夢路ゆらゆら帆柱立てり

   魅せられて孤独の指に写生する湯舟のほとを霞たなびく

   よし原や薄の栄える堀の内泣かすお琴の弦のからまる  》

 ネットのうなずき。

《 ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、それが生物の本態である。私たちのうちには、気高さと卑しさ、寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、入り交じっている。 》 内田樹

 ネットの拾いもの。

《 キリスト「どうしたのですか、石なんか投げて」 ファン「この人がアイドルなのに恋愛したのです」 キリスト「ならば、一度も恋愛したことのない者のみ、石を投げなさい」  ファンは皆、石を投げ続けた。 》


過ぎし日録

1月 

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