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『父島海軍航空隊の思い出』
富士宮市原953−1 斉木義久さんの戦争体験記
全文紹介

戦後五十年の節目として記念誌の発行を富士宮市で企画されるとの事で、私も一市民として拙い文章 ですが協力させて頂きます。

 今年八月中旬に市教育委員会より平成七年度第一回富士宮市富士山少年の船、感想文集を送って頂 き、市内各地の中学一・二年生の作文を懐かしく読ませて頂きました。

 純真な少年達の心の様に、空も海もコバルトブルーのきれいな調和と、特に海底が五メートルから 十メートル位まで透明に見えて数多くの魚類が泳ぐ様子など、皆がもう一度機会があったら行きたい と書いてありました。何よりもみんなが出発した時、東京湾は汚れていて、もっと自然を大切にしな ければいけないと、殆どの生徒が書いておりました。

 東経百四十二度、北緯二十七度、この北緯は沖縄と同じ緯度になります。亜熱帯地特有の常春の島 は、春夏秋冬の季節感は少なく、至る所花と緑の楽園として、訪れて来る人々を慰めてくれるでしょ う。

 昭和十七年五月、私は少年志願兵として横須賀第二海兵団に入団。三カ月間の新兵教育を終了、同 年九月、九里浜の海軍通信学校に第六十二期普通科電信術練習生として入校。送信術・受信術に加え 英語・数学・電波に関する理論等、文字通り叩き込まれて、無事卒業。昭和十八年三月、実施部隊配 属は、父島海軍航空隊と決定されました。

 当時は、まだ戦局はどちらともわからない状態でした。横須賀港から速度の遅い輸送船で三日三晩、 船酔いに苦しみながら漸く父島の二見港に入港しました。

 内地ではまだ肌寒い三月初旬なのにこの島は暖かい日光が輝いておりました。

 赴任当時は良くこの島の軍の状況はわからなかったけれども、陸軍の特別根據地隊・海軍航空隊・ 海軍通信隊等、それぞれの地域に分散して与えられた任務を遂行していました。

 私達は航空隊の通信科に属し、主に父鳥上空を通過する輸送機・陸上機等が内地からサイパン・テ ニアン他、南方基地へ、あるいは南方から内地へと向う各機の発進から上空通過、目的地到着まで、 無線機を操作して連絡を取るのが日課でした。

 航空隊といっても父鳥には滑走路はありません。主力戦闘機は零式水上戦闘機でした。当時、花形 の零戦に、フロートを装備して海上で離水・着水して基地にはコンクリートでスロープをつけた発着 所が一カ所設けられておりました。その戦闘機の訓練飛行の搭乗員との交信も私達の任務でした。

 通信科の兵員は通信長を始め十数名でしたが、各部所に交替で当り、日直・夜直も定められ、毎日、 送受信機に精魂を傾注してその日その日を送っておりました。その間、週一回ぐらいの休日もあり、 外出も許されました。
 民間の下宿先等でバナナやパパイヤ等の果実も食べられましたが、それも最初のうちは珍しかった けれども、日を経てくると、内地の四季折々の果物が懐かしく思い出されました。

 平和であった島の勤務は、約一年弱で終りました。昭和十九年に入ると間もなく米軍の反撃は始ま り南に北に日本軍の転進、又は玉砕等の情報が入って来ました。

 私達の兵舎も敵機の数度にわたる機銃掃射により穴だらけとなって、任務の遂行は不可能になり、 予め用意されていた兵舎の裏山を切り抜いた防空壕に移転しました。防空壕の一番奥に司令室があり、 その隣の部屋に受信機を設置して受信用アンテナは裏山に緊急仮設をしました。然し島の中央の夜明 山に設置された送信機はやはり使用不能になり遂に防空壕内の通信は受信のみの一方通行になりまし た。

 私がこの父島で一生忘れる事の出来ない二つの出来事がこの時期に起こりました。その一つは夜間 の空中戦でした。

 敵の戦闘機数十機が基地及び港湾内に停泊中の艦船に対して、急襲を夜間に照明弾を使用しながら 仕掛けて来たのです。これを迎えて、我が方の戦闘機は全部発進、山間部各地に設置された機銃砲台 は一斉に火を吹き、停泊中の艦船からも銃火機の弾丸が打ち上げられました。

 敵味方の弾丸には夜間に使用する曳光弾といって赤・青・黄等、色彩をつけてあって、それが何千 発か上下左右に走り、それにつれる機銃の音響・照明弾により真昼の様な二見港、その間を行交う彼 らの戦闘機、時々「キーン」といった金属音を響かせて急上昇する飛行機、豪華と言うか、華麗と言 うか、どんな花火でもこの様な事はできないであろう。その時間は正確には覚えていないが多分一時 間前後ではなかったかと思う。

 そしてその二は、防空壕入口の爆撃です。当時父島基地には戦闘に使える飛行機もなく、島の周囲 を遠巻にした敵の軍艦からの艦砲射撃と空襲が連日繰り返されていた。

 忘れもしない昭和十九年八月三十一日、南側防空壕入口で敵機の港湾に対する機銃攻撃を見ていた 数十人の兵士がいた。そしてその遥か上空を通過する爆撃機の姿は見えなかったのです。突然上空よ り二百五十kgの爆弾が、丁度その防空壕の入口を狙ったかの様に直撃して大音響を発して爆発した。

 防空壕の入口は勿論塞がれ、そこに集まっていた兵士は全員が爆風に飛ばされ、あるいは爆弾の破 片で致命傷を負いあるいは土砂の下敷きとなり圧死した。人間の運命はわからない、私はその時百メー トル位離れた北側の入口にいた。

 耳も裂ける様な爆音に暫くは動けなかった。敵機が去り元の静寂に戻った時、元気な隊員達は総員 で戦死者の死体を収容して飛行場に並べた。土砂に埋もれた死体を収容するのに手間取り徹夜の作業 が続き、漸く全員収容出来たのは翌日昼頃であった。

 飛行場に並べられた戦死者の遺体は、血と泥にまみれて、兵科・氏名等の調査には困難を極めた。 然し戦死者は五十二名と確認された。この年の夏の日差しは連日三十度以上の日が続き、飛行場に並 べられた遺体にはもう真黒になる程の蝿が群がっていた。臭いも顔をそむける程の臭気が立ち込めて いた。

 何時又空襲を受けるかも知れないので兵舎の裏山へ適当な穴を掘り火葬する暇もなく、そのまま埋 め込む事に決定し、四人一組で戸板に乗せて穴へ運んだ。穴が深いので上から落としただけでは遺体 が揃わないので、私は自分から穴に入り遺体を並べた。 一通りでは入り切れないので二通り目をその 上に並べる事にした。驚いた事は、下に並べた遺体の腹の上に登った時だった。肉に弾力はなく自分 の足は背骨まで達し、周りの肉は「ぼこっ」と上に盛り上がってきました。歩きにくいのを我慢して やっと全部の遺体を並べ誰のものとも知れない切断された手も足も一諸に埋葬し、全員整列して挙手 の礼を捧げて形ばかりですが、葬儀は終りました。遺体の上を歩いた経験を持った人は戦時とは言い ながら私だけではないかと思っています。

 それからニカ月後、私に転勤命令が下り、迎えに入港した輸送艦に乗り、他の科の数人と共に艦底 に身を横たえて果たして内地まで到着できるか否か語り合いました。当時は本土近海にも敵の潜水艦 がいたる所で、獲物を狙っていたのです。

 館山沖で遥かに母国の山々を見た時は何故か胸中に熱いものがこみ上げて来た事は忘れません。

 転勤先は神奈川県の藤沢海軍航空隊で、第五十一期高等科電波兵器整備術練習生と呼ばれましたが、 簡単に言えば、当時米軍より遅れていると言われた電波探知機の勉強をする学校です。

 ここで原子理論・真空管理論・他の学科と実地技術を習得して昭和二十年三月、今度は整備兵とし て宮城県の松島海軍航空隊に配属され、航空機用電探の整備・修繕に没頭する事になりましたが、時 すでに遅きに失し、優秀な敵のレーダーには何時も先を越されていた様な気がしました。

 松島航空隊には当時の花形爆撃機で銀河と命名された飛行機が数十機、偉容を誇っていましたが、 特攻機として使用される様になり、この基地も何時しか敵の目標となり、空襲も度々受ける様になり ました。

 特攻機銀河は、毎日二機三機と飛び立って行きました。私達地上戦闘員は整列して「帽振れ」の号 令に一斉に略帽を取り、機影の見えなくなるまで振り続けたのです。しかし一旦発進した機は、再び この基地には一尿って来ませんでした。

 広い飛行場に故障機が数機、片隅に淋しく残された頃、私達は少し離れた松林の中の仮小屋で八月 十五日玉音放送を聞きました。雑音が入り良くわからなかったけれども戦争が終った事だけは分かり ました。その翌日から敵襲はピタリと止みました。

 私の戦争体験はまだまだ書きたい事もたくさんありますが、この辺で筆を休めて再び父鳥に戻ります。昭和六十年四月頃、私は定年退職を機に日本旅行社の案内で父島に渡りました。東京の竹芝桟橋から小笠原丸に乗り二十九時間で現地に着いて一番先に五十二名が爆死した防空壕跡を尋ねました。

 今は陸軍の駐屯地になっている兵舎の裏側に確かにありました。私は途中の店から買ってきたロウソクに火をつけ線香を供え、缶ビールも供えて合掌をして冥福を祈りました。誰かお参りに来たのか花束もありましたが、穴の回りの赤いハイビスカスの花はとても印象的でした。

 二晩船に泊まって島のあちらこちらを散歩したり、貸しバイクに乗って夜明山の山頂の送信所も見てきました。コンクリートの建物は外部だけを残して黒くなっていました。島を一回りして昔二見港から扇浦ま で遠泳をした事など思い出しました。 現在、隣りにある兄島に飛行場を造る計画もある様ですが、私はなるべく小笠原村はこのまゝ保存しておいて貰いたいと思います。沖縄の様な観光地にはしたくないのです。

 貴重な資源と豊富な動植物、東京都小笠原村は日本に残された唯一の自然の宝庫である事を明記し て私の結びと致します。

平成7年発行「富士宮市民がつづる戦後50年」(地方公共団体発行分NO.9)より転載しております。
転載は、静岡県富士宮市役所社会福祉課のご協力により戦争体験記をつづられた方の許可を頂いております。
無断で転載・引用は厳禁です。  



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