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『私の戦前戦後を顧みて』
富士宮市上条五三八−二 遠藤きのさんの戦争体験記
全文紹介

 私の戦前戦後というより戦前の想い出は、昭和十七年七月二十日ささやかながらも結婚式を挙げた その日に始まったのでした。

 主人は式の翌早朝には村の青年団の人が交替で勤務する監視所、飛行機の行動を連絡のため二泊三 日で出かけ、何もわからない私は、家の中でただとまどうばかり。でも、お母さんと二人でしたから 主人の帰るのを、まだか?まだか?と待っていた様な具合でした。そして翌年八月十八日には長女欣 子が生まれ戦中とは言え、お母さん(養母)と親子四人仕合せに暮しておりました。とは言うものゝ、 頭の中には何時、召集令状が来るか知れないと思う不安は、 一時として忘れられないのでした。そし て遂に、昭和十九年五月九日家の前を警察の車、サイドカーが役場へ向うのが目に入った瞬問、アッ もしかして?もしかしたら?の不安は、現実となって我が家を襲ったのでした。

 職場から帰った主人の手にはまぎれもなく、召集令状がにぎられていたのです。主人の職場が役場 のすぐ前だったので令状は直ぐ渡されたのでしょう。不安とおののきに、外に立って居た私に、主人 は唯一言、とうとう来たよ。私は答えるすべもなく家の中に飛び込んでしまいました。この召集令状 が来た以上は、家族が今病に倒れようが、子供が死にそうになっていても一時の時間の猶予もないの です。七月九日に召集令状が来て、七月十二日、定められた時間に静岡連隊に入らなければなりませ ん。その間の事は何をどうしていたか良く覚えていませんが、唯々元気で帰って来て、いや手が一本、 足が一本なくてもいい、いいえ、手も足もなくてもいい、なんにもなくてもいい、ただ命だけは、命 だけは大事にして帰って来てと泣いてすがった事だけが頭に浮んできます。

 そして出征の当日となり、役場で式が終り、バス停留所(家の前)で村の方々、校長先生や生徒の 皆さん親族知人等大勢の方が日の丸の旗を力一杯振って送ってくださるのですが、私は、どうしても バスヘ乗り込む主人に手を振る事は出来ず家の前に有った電柱の陰で、生後十力月足らずの長女を強 く強くだきしめながら欣子お父さんの顔をヨーク見て覚えてネ。と心で叫ぶのが精一杯でした。

 そして主人の付添として長兄が行って下さり、夕方帰宅した時、篤は満洲へ行くらしいとの情報に、 すぐその足で兄さんの知人を訪ねて面会をさせて頂く事になり、色々手続を取りに夜おそくまで走り 回って下さり、翌朝私・欣子・お兄さんと二人で静岡連隊まで行き、知人の方に面会させて頂く事が 出来ました。

 それは三〇分間でしたが私達にとりましては当時面会は一切禁止されていただけに今日面会させて 頂けた事は本当に有難くもうこれ以上は仕方がないとの思いで一杯でした。そして、お兄さんの弟ヘ の精一杯の愛情が私達はどんなに嬉しく感謝したかわかりません。その時、子供は私の背中で始めか ら最後までいくら起こしても眠り通していました。子供なりに疲れたのだと思いました。その夜は兄 さんの知合の家に泊めて頂くため玄関に入ろうとした時、そこに鉢植えのえんどうの白い花が夜目に も、くっきりと咲いていたのを放心した様に眺めていた自分が思い出されます。当時は日本国中、食 糧事情も悪くどんな都会でも少しの場所があれば鉢に土を入れて作る様な状態でした。そして、その 夜兄さんの知人の皆様に色々お世話になりましたが、召集令状を手にした時からの心の動揺はかくす 事は出来ず身も心も力蓋きた様な感がして帰途の事は一切覚えておりません。それから三日目の深夜、 主人は許岡駅から=博多=釜山そして満洲へと向ったのでした。この順路は、主人が復員してから 満洲へ渡った道順を教えてくれました。」応召当時内地では丁度入梅頃でしたが主人の残して出征し た寝巻を私は、どうしても洗濯する事が出来ず、人日をしのんでは寝巻に顔をうずめて、お父さん命 は必ず大切にしてね。欣子も大分大きくなりましたよ。約束した事は決して破らないでね。と繰返し 繰返し話しておりましたが、それも気温には勝てず所々に黒い斑点が出て来ましたので、後髪を引か れる想いで洗濯してしまいました。

 それから月夜には必ず外に出て確かな方角は分からないまでも、こちらを向いたら満洲かな?等と 一人できめ、月に向って、お父さん今晩は、お元気ですか?こちらもお母さん始め欣子も私も元気で 仲よく働いております。お父さんも今頃満洲の広野で月を見上げながら、家族に語りかけ想いを巡ら して下さっている事を信じております。では明晩もネ。そして小さい小さい声で、月が鏡であったな ら、と口ずさみながら家の中に入るのでした。

 そして欣子もだんだん大きくなり片言で話す様になり「お父さんワ?」「お父さんワ?」と聞く様 になりましたので、暦に月夜には○印。月のない夜は×をつけてやりましたら、そのうちに、お母さ ん、お母さん、お父さんが待っているから早く外へ行こう。と私をせきたてるのです。私が今夜はま ん丸のお月さんだから、ゆっくりお話を一ぱいしてね、そしたらお父さんが、う―んと喜ぶからね。 と言うと、「お父さん。」「お父さん。」と呼ぶ言葉に加えて、「欣子はネ」「欣子はネ」と片言とは言え 嬉しそうに話す顔は、今でも忘れません。

 それからしばらくたち昭和二十年七月初旬軍事郵便の第一信が届きました。そして私の「お母さん」 「お母さん」と叫ぶ声に何事かと走って来たお母さんと欣子の親子三人で軍事郵便の赤印を横目に繰 返しゝ読みつづけました。やはり満洲国の牡丹江からでした。葉書には日付は書いてはないが、来 月は欣子のお誕生日だね。とか、しゃんしゃんは出来る様になっただろうね、等そしておばあちやん も体に気を付けてお働き下さい。そして欣子の事くれゞもよろしくお願いします等、主人の日頃の 心やさしさに加えて子供の事が書かれています。そしてこちらから出す手紙は封書でも良い等と細い 心配りは嬉しく、それから毎日お母さんと二人で時には欣子にも鉛筆を持たせて、ただ○とか、△、 又は棒線等も入れて一諸に封書にするのがとても楽しみでした。時には日増しに成長する欣子の「身 長」「体重」「手形・足形」等、三人で封書に入れるのはとてもにぎやかでした。

 そうした楽しい我が家の生活を考える時、気丈なお母さんが、 一緒に居てくれた事が私にとってど んなに心の支えになったか分りません。お母さんは子供を一度もお産した事はないのだけれど、欣子 が小さい頃風邪を引いたりすると鼻水を口ですすり出してくれる程、欣子を可愛がって下さいました。

 やさしいお母さんと幸せに過ごしておりましたが、戦況は日毎にきびしくなり田舎でもこのあたり は、敵機の通り道になり、うっかり外は歩けない様になった頃、主人から第四便の軍事郵便が、二通 一度に来たのを最後に消息は一切跡絶えてしまいました。それは昭和十九年八月十五日着で二通共、 満洲の牡丹江からでした。葉書には、元気ですから心配しないで下さい。と書いては有るものゝ何と なく不安な感も有りました。戦争は日増しにきびしく道を歩いていても油断は出来ず林の中に子供を 抱いてかくれた所を、五十年後の今、時々通ると体から血の気が引くようです。

 そして翌昭和二十年八月十五日。終戦の日となりました。主人は今何処に?生死さえもわからず、 その胸さわぎは募るばかりの昭和二十一年の暮に子供がお腹をこわして入院し、今までの元気さは消 えてしまい、もしもの事があったら?と主人の安否と子供の容態とが重なり、必死に題目を唱える毎 日でした。そして子供に、お父さんがもうじき帰って来るから元気を出してね。と、はげましながら、 お父さんはいくつ寝たら帰るだろうネ、欣子はお父さんが帰ったら一番先に何を買ってもらいたいか 今から考えていてね。とだましながら、お正月には退院寸前になってハシカになってしまいましたが、漸く二月には退院する事が、出来ました。

 その頃でした満洲の兵隊は皆、ソ運に抑留されたらしいとの声が耳に入り家の前がバス停だったの で、朝からバスが止まると家から飛び出してはガッカリし、又、復員の方でも内地からだったり、又、 満洲からの復員でも方面が違ったりで落たんしてしまうのでした。夜雨戸を閉めて休んでも雨とか風 で雨戸が鳴ると、もしや?と何度も起きたものです。それからしばらくして「昭和二十二年五月十九 日」夢にまでみた主人が帰って来たのです。夢ではないだろうか?いや夢ではないと自問自答しては、 また夢だったら、このまま夢が冷めないでと、自分で自分に言いきかせながらの一週間は早い様にも 短い様にも思えました。 一週間を過ぎた頃から漸く現実であると分った時の喜びは筆にも口にも言い 表せません。お母さんも主人の復員を待ちこがれていただけに毎日美味しい食事を支度して下さるの でした。又、子供もお父さんにおんぶしたりして、 一時もそばをはなれません。そして二十三年には 長男も生まれ漸く平和が訪れる様になりました。そして帰宅後荷物を整理した時、はからずも出征の 際、持って行った千人針の腹巻が出て来たので驚き、聞いたところ出征以来ずっと一日もかかさず使っ ていたとの事です。この千人針とは、サラシの布に千個の印がして有り、 一人一個ずつ赤い木綿糸を 二重にして印をすくって結びこぶを作るのですが、寅年の人は自分の年の数だけ縫う事が出来るので すが女性に限られていた様です。そして出征の日までの短い時間を、大勢の方々の心から武運長久の 願いをかけて作って下さったものです。私も一個のこぶでも鉄砲玉がはじき返される様にと針に糸を 何回も巻き付けて堅いこぶを作ったのも昨日の様な気が致します。

 今改めて多くの方々の御好意に心から感謝しております。それ以来、私の宝物として箱に入れ折に ふれては箱から出しては風にも当てたり、又、洗濯したりして大切にしております。箱はボロボロに なっておりますが、これは二人と共に苦楽を語り合った箱です。可愛いです!!

 そして時にはこの千人針、困った事が一つ、「糸と糸の間にシラミがわいたんだ。」と笑っています のでよく聞いたところシベリアに抑留されて居た時、捕虜の身では着替はないし、洗濯も出来ないし、 それに加えてソ連では零下四〇度〜五〇度に下がるので、 一枚の腹巻でも取れないんだ。そして、こ れが命を守ってくれたのだと思うと粗末に出来なかったよ。 一年半の捕虜生活の一部がのぞかれた様 で胸がつまる思いでした。

 そして、二十一年の冬半年で同じ捕虜の人が、四千五百人中、二千三百人が栄養失調と発疹チフス で死亡。二十二年の冬を越した人は、千八百人位その中の五百人中の一人としてソ連のナホトカ港か ら舞鶴へ着いたそうです。(ナホトカ港を出たのが二十二年五月十日頃)

 その頃よく歌われたのが岸壁の母でした。町に映画が来たのでいきたかったけれど、用事が有って 行けなくて残念に思っていたら子供がテープを買ってくれた事は本当に嬉しかったです。又、栃木に 住む欣子は時折電話で、月の話をなつかしんでおります。

 主人が復員して始めて大豆を見た時、アッこの大豆はすごく美味しいんだヨ、と言うのです。そし て、しばらくして手の平にのせてコロコロしているのでお母さんに美味しく煮て頂くネ。と言った時、 ソ連で抑留中食事が悪く空腹にガマン出来ず、捨ててあった生大豆又塩ザケの捨ててある物で口に入 る物はなんでも食べたヨ。今だったら直ぐお腹をこわすだろうに……と言いながら、あの大豆や塩ザ ケ等のお陰で、元気に復員出来たんだと感謝しなければ。と話しておりますが、その一言に抑留生活 のみじめさが伺われました。

 主人が出征した後、四カ月後には上のお兄さんに召集令状が来たのです。

 最初は甲種合格で入営
 次は日支事変応召
 三度目は昭和十九年
  何度も砲弾の下をくぐったのに‥…。

 そして、昭和十九年召集令状が来た時はいかに御国の為とはいえ、お兄様の胸中を思うと言葉もあ りません。戦争とは残酷です。本当に戦争は残酷です。昭和十九年十二月六日には戦死なさっていま した。戦死なさったのは南方でした。主人は復員後たまに直ぐ上の兄さんと一諸に晩しゃくをやりな がら、これで上の兄貴もいたらナァー。とポツリと話す主人の顔を見るのは一番辛い事です。以前若 い時に二人で写した写真は、平和そのものです。

 お兄様の御冥福を心からお祈りします。そして、残された皆さんも共に力を合せ頑張っています。 戦後五十年をふり返り、私達老夫婦も四人の子供と十一人の孫にめぐまれ今は仕合せに暮しています。

平成7年発行「富士宮市民がつづる戦後50年」(地方公共団体発行分NO.9)より転載しております。
転載は、静岡県富士宮市役所社会福祉課のご協力により戦争体験記をつづられた方の許可を頂いております。
無断で転載・引用は厳禁です。  


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