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『忘れ得ぬ出来事』
富士宮市失立町八六一 佐野昌義さんの戦争体験記
全文紹介

   (悲劇の真岡での記録)
 「樺大」(現在 ロシア領サハリン)は、戦前は歴とした日本領上でした。

 本土より開拓の名のもとに多くの人々が渡り努力と犠牲で築き上げた島でした。そこは、ある人に とっては何時までも心の中から忘れ得ぬふるさとでもあり、ある人にとっては最愛の肉親を失った悲 しみの土地でした。

 私は、この地で生まれ育ち、昭和二十二年六月に十七オの時に引き揚げて参りました。樺太が日本 領土であった事が、戦後の世代には知るすべもなく、ましてこの地で終戦後の八月二十日に、ソ連軍 と日本軍の交戦により多くの一般人の犠牲者があった事などは、当時の本州の人々には知らされてい ない状態でもありました。

 今年の六月頃でした。NHKのテレビの放映を見て私は、何か、わり切れない思いでした。戦後の 戦闘は千島列島の占守島の八月十八日の全員の玉砕をもって終結した事を放映され、私は放送の厳正 さを欠いたものと思いました。この事は私一人でなく、樺太より引き揚げた人々の思いは同じかと思 います。正確には、樺太での日本軍とソ連軍の八月二十三日の停戦協定がなされた日であると思うの です。樺太の終戦史は今や日本の歴史上から抹殺されようとしています。

 私はこゝに、戦後五十年の記憶をたどり体験した事実を文に書きとめ次の世代に戦争の恐ろしさを 知っていただき、平和への警鐘とすべくベンを取りました。

 戦前の樺太は、本上では空襲や本土決戦と想像を越えるものでしたが、何か楽土のような静かな島 でした。しかし、昭和二十年八月八日にソ連は日本との不可侵条約を一方的に破棄して日本へ宣戦布 告して北の国境より進攻して来ました。恵須取・敷香の人々はソ連軍の砲撃を逃げ南の真岡や豊原に 避難して来ました。私の町の真岡は八月十五日の終戦により平和を迎えるが如く見えました。

 この日から各地より集結した人々や、真岡の人々などが港から引き揚げる様になりました。父より 「お前は中学生で男子だから残務整理に残り、女子を優先に引き揚げさせる。母や、姉と妹の乗船日 は八月二十日の七時の旨」言い渡されました。残された二・三日、家族は引き揚げ準備や引き揚げの 後の本土の事などを話し合いました。その時はよもや八月二十日の戦火が私たちの身の上にふりかゝっ てくるとは思いもしませんでした。

 そして、運命の日の八月二十日が来ました。その日は父が会社の夜勤で不在でした。港に七時乗船 のため家族は五時に起床し早々に食事を終えました。六時頃でした。母が私に「先に引き揚げるが、 病気の兄をたのむ、お前も身体に気をつけて、無事に引き揚げてくる事を願っている。と涙を流して 申しました。そして、母と姉妹の三人出発のため靴をはき始めたその時に大地をゆるがすが如き轟音 がひびき渡りました。

 私たちの住む高台より北の約六キロの場所の荒貝沢を通り熊笹峠があり、軍の主力部隊がおりまし た。豊原市(現名 ユージノ・サハリン市)へ避難する人々が大勢逃げて来て、皆さんを逃がすため 軍上層部の絶対に発砲を禁止の命令を破り、兵隊がやむに、やまれず発砲したので、この地を集中的 に艦砲射撃がなされた事を後日知りました。この戦闘は、最大なもので、現在ロシアの記念碑が建立 されているそうです。ともかく状況を見るため私は隣家の中野さんの兄さん(俳優センダ・ミツオの 兄さん)と外に出て海を見ましたが、 一寸先も見えない濃霧でしたが、やがて霧の合い間に今まで見 た事のない大きな軍艦らしき船を何隻も見つけました。五メートル位の所に日本の兵隊が機関銃を据 えつけ眼下を見おろし、私たちに「こゝは、戦場になり危険だから何処かへ避難するように」と申し ました。家に帰り母にその様に話しをいたしました。

 やがて銃弾が激しくなり、 一家で押し入れに身をひそめましたが、ブス、ブスと家のはめに弾がつき抜けるようになり、 一旦外に出て中野さんの防空壕へ入りましたが、こゝも危険を感じ、家の中の室に身をひそめる事にしました。この事が中野さん一家、私たち一家の生死のわかれめとは思いもしませんでした。後日、家に帰って見てビックリしました。防空壕は手榴弾を投げこまれて吹き飛び、近くの玄関の戸も粉々でした。

 家の室に入りふとんを頭からかぶって身をひそめていました。私の兄(当年三十三才)が家で療養中でし た。母が、いくら敵でも病人まで殺しはしないと申し、兄も俺はこゝに残ると申し、私たちは兄に手を合せ、四人で室に入ったのでした。

 幾刻がたったか時計も持たずに逃げたので時間がわかりませんでした。室の上でコト、コトと音がして私 たちを呼ぶ声にて、母が出て見ると兄が、日本刀を杖に私たちの所に来ました。母があわてゝ兄を入れました。兄は、もはやこれまでと父の愛刀で自刃を図ったが、左ききで、長い間の療養で身体も衰弱気味でしたので傷が心臓をそれ、死にきれず私たちの元に来ました。傷は深く、母は自分の着物を破り傷口をぐるぐる巻にして止血に努力をしました。空腹と疲れで私は、イビキをかき寝始めました。母が時々、イビキが大きいと鼻をふさぎました。相変わらず艦砲射撃の音が激しく耳に入りました。そんな時、なにやら外が、そうぞうしくなり、入口で聞きなれな い言葉が耳に入りました。

 母は、私たち二人を抱えて「死ぬ時は一緒よ」と私たち三人を強く抱きじめてくれました。幸いに、 私たちは見つかりませんでした。母が、フタの上に食卓を置いてあつたのが、原因のようでした。又、 ガヤ、ガヤ別の兵隊が来ましたが見つかりませんでした。その後、静かになり、空腹と恐ろしさで、 うとうとと眠りこみました。ふと、聞きなれた声が耳に入りました。誰かが私たちを呼んでくれてい るようでした。「もう大文夫だから出て来なさい」と声がしました。半信半疑の思いで外へ出ました。 中野さんの家族と近所の方々でした。

 皆さんは見つかり、港の倉庫に押し込まれて二晩めに帰されたそうです。外は暗かったが、街のほ とんどが焼きつくされ、王子製紙の紙の倉庫が焼かれ、紙が、夜空を赤々と焦がしていました。

 私の友達の家では、姉さんが生まれて二カ月位の子を、泣き叫ぶので、家の人々に「泣き止まない とソ連兵に見つかり全員が殺される」と責められ、後ろ髪を引かれる思いで我が子を湯船に沈め殺し てしまい泣きくずれていましたが、慰めの言葉もありませんでした。

 とりあえず王子製紙のクラブに皆さんで集まる事にして、少々の物をもって集合いたしました。私 たちの所に親子の人が助けを求めて来ました。母親は舌をかみ切り、子供は、ぐったりしていました が、医者もいなく私たちでは助けて上げる事も出来ませんでした。

 ここへ参る前に兄を寝かして来ましたので兄の様子を見に家に戻る途中に、ソ連兵の声と共に銃弾 をあびせられましたが、急いで身をかくし助かりました。兄は無事でしたが、家の壁の大部分が銃弾 のためか、くずれ落ちて足のふみ場もありませんでした。押し入れも無数の穴でした。

 三日後に父が会社から戻って来ました。会社でつかまった父は、ソ連兵の将校から、配給所の番を 命ぜられ、その合間に私たちを見に来ました。

 やがて砲撃も止み、家に帰る事も出来ました。日がたって街での色々の出来事などが人伝いに耳に 入る様になりました。真岡郵便局の電話交換手の集団自決、江村少尉一家の自決など涙なしでは聞く 事は出来ませんでした。その真相を皆さんに知っていただきたく、樺大終戦史より抜粋しました。

 北海道の最北端の稚内の小高き丘に殉職九人の乙女の碑があります。その碑文には、「昭和二十年 八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電信局に勤務する九人の乙女は青酸加里を渡され最後の交換 台に向った。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまゝに青酸加里をのみ、最後の力をふりしぼってキ イをたゝき皆さんさようなら、さようなら、これが最後です」の言葉を残し、夢多き若い命を絶った。 戦争は二度と繰りかえすまじ、平和の祈りをこめて、こゝに九人の乙女の霊を慰む。昭和三十八年八 月十五日と書かれています。

 当時、電信局の上層部では、女子職員は全員を早期に引き揚げさせ、替わりに中学生を配置する計 画があつたが、血書・血判をもって自分たちが職場を守る義務があると引き揚げの説得に応じなかっ たと言っています。しかし、局長としては、命令をもって引き揚げさせる手配をしたが間に合わず八 月二十日を迎えたと書いています。この事は「決して軍の命令とかでなされたわけでなく、彼女たち の純粋な気持で最後まで職場を守り通そうとしたのです。それを軍の命令でというのは、この人たち を冒涜するのもはなはだしい」と上司だった当時の上田局長は申しています。上田局長は、このよう に書いたあと「あらゆる階層の人たちが、あわてふためき、泣き叫び、逃げまどっていたなかで、郵 便局の交換室、ただ一カ所で彼女らが、キリリとして活動を続けていたのである。このようなことが 他人の命令でできることかどうか、その一点を考えてもわかることだ。崇高な使命感以外にない」と きっばり申しています。

 朝早に局長は彼女たちの事が心配で家を出て局へ向ったが、ソ連軍の銃撃がすさまじく、目の前で バタバタと避難の民間人が機関銃の的になり殺され、自分自身も脚に貫通銃創で動けなくなったと申 しています。

 後日、製作年月日は不詳ですが、映画化され、永雪の門と題名され上映される運びになったが、当 時の政府のソ連への感情の配慮で全国上映も出来ず、本当に残念です。たまたま富士宮市の青年会の 皆さんの力で上映させていただき、感慨無量の気持でした。

 次に江村少尉一家の自決について簡単にまとめたいと思います。当時、真岡中学校の教練の教官で あった江村少尉は、 一兵卒よりこつこつと苦労して少尉になられたと聞いております。当日は、江村 教官の家族も、私の家と同じ引き揚げの日だったと聞いています。隣家の体育の平野先生宅も一緒で、 隣組の班長であった平野先生は、連絡のため奥さんが子供を連れて江村宅に来ていました時に艦砲射 撃が始まり港のすぐ上の丘の官舎は銃撃が激しく、平野先生は他の二人の子供さんと豊原へ逃げ、九 月に入って帰宅して、奥さんと子供さんが江村少尉一家と死を共にした事を知りました。

 平野先生は次のように申しています。「私としては、相手がソ連兵でなくてよかった。日本軍人、 しかも長い間の友人によって、その一家と死を共にしたのだから、何もいうことはないと思った、叱っ て妻を区長のところへやったことが、こうなったものだと思うとくやまれてならない」と申していま す。

 やがて、江村少尉の自刃の様子をくわしく聞く事が出来た。六畳の仏間で江村少尉は、清子夫人 (当年四十五才)と二人の子供、静子さん(十八才)実さん(十五才)豊さん(十二才)と私の妻と 剛男(九才)五人を目かくしさせて、首をはねたあと、最後に自ら仏壇に面して切腹した。その事は 仏壇の血しぶきを見てもあきらかであったと申しています。ヤポンスキ(日本人)ハラキリとソ連軍 兵士にも非常に深い感銘と畏怖を抱かせた、悲劇でもあった。平野先生は後日、このように申されて います。江村少尉の処置は″誇るべき軍人″江村少尉であったと尊敬をするが、又、おとなは、ある 覚悟があって切られ、自決したのであろうが、子供たち五人は目かくしをされ、合掌し、お題目をと なえながら首をはねられたのであろう。その時の気持を思いやれば、悲しかったであろう子供たちの 気持を想像する度に、夜も眠りつけない日々であったと書かれています。

 戦後、真岡中学校と真岡商業学校の併合により短い期間であったが平野先生に教えを受けましたが、 さびしさを隠し、きびきびと教鞭を執る先生のお姿に接し、敬服いたしました。その他、この一日半 の戦火で、あい次ぐ自決、又、防空壕へ手榴弾を投げこまれて、 一家全滅等の犠牲者は大勢でした。 町へ公式に届けた人々だけでも五百名以上、これに行方不明者、軍関係を集計すると千名以上となろ うかと思います。

 私の兄は、昭和二十年九月十日、享年三十三才の若さで淋しく生涯を閉じました。半年位土葬にしてあったが、ソ連側の許可があり、 一家で、火葬場で茶毘にし骨をもって来る事が出来ました。

 私たち一家は、父の仕事の関係上、なかなか帰国の許可がなく、一年半後の22年6月頃に帰国して来ました。着のみ着のままの姿で函館に上陸した時、父は王子製紙を定年で退職されたことにされ、富士宮に来てからは、学業もあきらめ一家の生活のため苦労もいたしました。苦労を共にした父や母、姉も他 界し、現在は芝川町に住む妹と二人となりました。戦後、五十年の本年八月、ロシア側の好意により、当時の戦火で身元不明の遺骨や事情により骨を持ち帰れなかった遺骨等を皆さん五千円以上の浄財を出し合い、真岡町(現ホルムスク)の小高い丘の公園に鎮魂の碑を建立させて頂き、約百名以上の方々が除幕式に参加、ロシア側と合同にて除幕式が取りおこなわれました。私も健康であれば参加したかったが出来ませんで した。以上知らされていない真岡町の惨状です。

 戦後五十年の記念誌の発刊にあたり、少しでも皆さんに、戦争の悲惨さを知っていただきたく、つ たない文ですが書き留とめた次第です。

 今、世界は、東西の冷戦も終り平和の均衡が保たれていますが、小さな民族戦争が、あちらこちら で行われて、その度に多くの尊い命が失われています。私たちは、この現実を強く受け止め、世界平 和の為に一人一人が立ち上らなければと思ヽつのです。

 文の最後にあたり、今、太平洋戦争で犠牲になった人々そして不条理な戦いで戦後の犠牲者となっ た樺太島民の多くの方々の御霊に心安らかに、お休み下さいと合掌する次第です。

平成7年発行「富士宮市民がつづる戦後50年」(地方公共団体発行分NO.9)より転載しております。
転載は、静岡県富士宮市役所社会福祉課のご協力により戦争体験記をつづられた方の許可を頂いております。
無断で転載・引用は厳禁です。  



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