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『阿鼻叫喚の豊原』
富士宮市元城町二六−三 柏木 茂さんの戦争体験記
全文紹介

 昭和二十年八月九日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破美し、樺大国境を越境、攻撃してきた。 日本の守備隊は陸海空の圧倒的武力に抗する事ができず、犠牲者を出しながら、じりじりと後退。十 五日、日本が降伏しても、なおソ連軍は攻撃をやむどころか、十六日に浜塔路に上陸。恵須取に進撃、 十八日は西柵丹、二十日には真岡市街に艦砲射撃と共に上陸、二十一日内渕の人造石油、落合駅付近 を空襲、樺太全域が戦場となった。

 落合陸軍病院は二十二日未明、現役の将校・下士官兵以外は黒田大尉の指揮により北海道稚内で復 員する事になり、患者輸送車とトラックに分乗し、大谷を出発南下した。小沼付近から沿道の家々に は、白旗また赤旗を掲げてあり、戦争に負けた事が実感として沸き、腹立たしく悲しかった。豊原駅 前広場に停車、駅二階の停車場指令部から、大泊船舶指令部に電話連絡のため、黒田大尉と糸納曹長 が下車。広場は敷香、知取方面からの避難する人々を乗せた列車の到着直後で混雑を極め婦女子が多 かった。私達はトラックの荷台に乗ったまま、黒田大尉の帰るのを待つことになった。

 午後三時頃だったと思う。突如飛行機の爆音が聞こえ始め、大型二機、小型二機の機影が見えた。 突然大型機が急降下に移る。「空襲だ退避」と大声で叫んだ。同乗の横浜兵長に防空壕に退避する様 促し最寄りの壕に飛び込んだ。数秒後物凄い炸裂音と地震の様な地響きがあり、壕の中は誰も無言、 一刻が数年になるような時間が過ぎた。機銃掃射も終わったらしく爆音も間こえなくなったので恐る 恐る壊を出た。焼夷弾のため旅館・民家を真紅の炎が覆い、猛火は夥しい火の粉を吹き上げていた。 被弾による死者、助けを呼ぶ悲鳴、駅前広場は一瞬にして阿鼻地獄そのもの。トラックに戻ったら荷 台は傾き、積んであった衣類食糧は燃えて、砂糖が燐の様な炎を出し、傍らに横浜兵長がうつバせに なり無残にも爆風のため即死していた。運転手の山田上等兵が、戻らないので防空壕、瓦礫の中を探 したが遂に見付けることができなかった。

 八月になると、豊原駅頭の惨状を想いだし、ソ連軍の非人道的行為を忘れることはできない。

平成7年発行「富士宮市民がつづる戦後50年」(地方公共団体発行分NO.9)より転載しております。
転載は、静岡県富士宮市役所社会福祉課のご協力により戦争体験記をつづられた方の許可を頂いております。
無断で転載・引用は厳禁です。  


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