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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第四章 水原 朝106部隊へ
 二 特攻訓練(と号訓練)

水原の飛行場にも大分慣れた頃、珍しい実験に参加することになった、それはアルコール燃料による実用実験である。最初五〇%の混合で数回飛行し、次は一〇〇%アルコール燃料による飛行に挑戦した。巡航速度ではトラブルはなかったが、気化性の問題であろうか余程慎重にスロットルレバーを操作しないとエンストを起こすので、地上滑走から離陸直前までは始動車のお世話になればよいが、第四旋回以後の着陸操作ではそうはゆかない。或る日、富取兵長(東京在住)操縦の飛行機であったと記憶しているが遂に心配していた事故が起きた。

第四旋回以後のフアイナルコースでは一定の降下角度、速度を保つ為にエンジンの回転を上げたり下げたりして調整するが、この場合もその操作中にエンストを起こし飛行場外に接地して特大のバウンドをして滑走路には入ったが、そのまま機首をつき逆立ちの姿勢のまましばらく持って止まった。搭乗者が天蓋を開き飛び降りるのと同時に発火してアッという間に一機燃えてしまった。これは舗装した滑走路だったので運良く逆立ちの姿勢で止まったからよかったが、もし草地の飛行場だったら飛行機がひっくり返しになって火災が起きたのではないかと思う、そうなれば怪我もするであろうし脱出に時間がかかるので実に危険な一瞬であった。


この事故でどうも実験は終ったようであったが燃料消費量は一・五倍であり、結局は実用には使用されずにすんだようである。

昭和二十年春、戦局はますます悪くなり陸軍からも特攻隊が編成されるようになり、当然我々の練成教育は特攻作戦要員の訓練に変わり、いわゆる『と号作戦』なるものの教育を受けることになった。

その方法は五〇〇キロ〜八〇〇キロの爆弾を搭載して四十五度の降下角で突撃するという想定の下で訓練が始まった。先ず砂袋を積んで重量搭載時の離着陸の訓練から始まり、問題の急降下はもし少しでも引き起こしのタイミングが狂えば間違いなく地上へ激突してしまうので慎重に課目が進められた。なにしろ重量四トンの機体を制限速度いっばいで急降下するのであるから、引き起こす時に四Gの加速度がかかるとすれば機体の重量は十六トンになり物凄い力で惰性が働くので目標の布板の上を二十メートルで通過するのは容易な技
ではない訳である。

早速地上二十メートルの超低空で最低高度に目を慣らして急降下に挑戦し、徐々に角度を探くしたが高度計というのは気圧計と同じであるから急降下の場合指示に遅れが出る、その遅れを考慮して高度計指示何メートルで引き起こしにかかるか、これが一番のポイントになるのである。

今から考えてみればそれは自分達が死ぬ為の訓練なのであるが、その時我々は何の疑念も持たず迷いもせず危険な訓練に明け暮れた。

降下角度四十五度とはどんな角度かというと、観光地に空中ケーブル、ケーブルカー等があるがあれが大体三十度前後の角度である。最初は垂直降下をしているようなつもりで突っ込んでもまだ規定の角度に達しない、それもその筈、練習機で特殊飛行をやっているのとは違って、あまり急操作の出来ない大型機に乗っているのである、高度が下がるにつれて速度は早くなり地面は近くなる、そうすると操縦桿を押している手がどうしても押え切れなくなり、結果的に引き起こしの時期が早くなり過ぎて緩降下になってしまうのである。

自分で操縦桿を握っているとこんな感じになる。先ず飛行場に設けられた目標の侵入コースに対して直角になるように接近する、そして目標を左側の窓から見ながら「ここだっ」という時にスロットルレバー全開、左へ垂直旋回をする、これで機首がガクンと下がるので目標へ機首を向け急降下にうつる。高度計の指示高度と指示の遅れをにらみ合せて引き上げのタイミングを決めるのであるが、飛行機を引き上げる時の加速度は機体の重量が四倍、五倍になるだけではなく、操縦者にもその力が加わるのでもし最初からそんな大きなGをかければ目がくらんでしまうが、回数を重ねる度に身体が慣れてきてその心配はなぐなる。

とにかく、引き上げ操作に移ってから惰性で高度が下がったり、高度計の指示が遅れるのは降下角度、速度によってそれぞれ違うので何回も繰り返して会得する以外に方法はないので、毎日々々この急降下を互乗で訓練させられた。しかしこれは実に苦しい訓線で、突っ込む時はマイナスGで身体が浮き上がり、引き上げる時はプラスGで目がくらむのを十回、十五回と続けると着陸する頃にはふらふらになる、但し自分が操縦桿を握っている場合に限ってなんともないから面白い。

急降下の次は海上超低空である。仁川港へ行き三機編隊で高度計0メートル、波のしぶきがかかるような高度で航行する船を目標にして飛行するのである。これは通常、飛行軍規では禁止されている飛行方法であるがこの場合は訓練として大威張りで超低空が出来るので助教も非常に張り切っている、助教とはいっても年令は一、二才しか違わない血気にはやる同年代の若者ばかりであり、我々もその頃にはどんな急激な編隊運動にも長機にビッタリと追随できるだけの技□になっているので、この演習を結構楽しみながら技□の向上を図ることができた。

ここで今思うことは少年時代には、受ける教育如何によって人間どのようにでもなるという事である。

東京陸軍航空学校、熊谷陸軍飛行学校、第四十一教育飛行隊と三年間に及ぶ教育訓練は、あくまで「敵に勝つには」「我が身を守るには」ということが前提である。しかしこの『と号訓練』はそのものずばり自分の死ぬ方法の訓練である、常識的に考えれば当然楽しんでなんかいられない筈なのに、高度な技術をマスターする事にだけ喜びをを見出し、これは自分の死ぬ為の訓練だとは考えないようにしていたのである。又、急降下による攻撃方法については経験のない我々は少しも迷わずにこの方法の訓練をした、しかし、戦後に発行された戦史、戦記を読んでみるとアメリカ艦隊の対空砲火を考えた場合、非常に効率の悪いかなり無謀な攻撃方法であったと思われる。

先輩、同期の多くは部隊の方針で多少の相違はあっても基本は同じであるから、あたら若い命を弾幕の中で無為に失ったのである。日本の失敗した作戦に共通しているのが、現場の情況を知らない指揮官、参謀が机上で立てた作戦が多い事である。この攻撃方法も支那事変当初ならこれでよかったかもしれないが、その当時の対空砲火しか知らない高級将校が机上で考えた計画であり方法としか思えないのである。

昭和二十年になってからの特攻隊の編成表を見れば、陛軍、海軍を問わず殆ど隊長は予備士官、隊員は少年飛行兵もしくは予備下士官で占められている、つまり上層部に対して意見具申のできるような陸軍士官学校、海軍兵学校出身の将校は居なかったという事であり、二十才前後の何も知らない若者ばかりが消耗品的な扱いで作戦に投入されていたのである。

第四十一教飛出身の特攻隊編成もやはり一緒に訓練を受けた特別操縦見習士官第二期生と同期生で編成されたが、幸運にも準備中に終戦になり戦後再会することができた。話が少し前後したが昭和二十年三月、急降下、超低空の訓練が終る頃、特攻隊志願の要請があり、勿論全員が志願した。

その要員の発表があり指名された者は内地へ飛行機受領に帰る事になり、残った者は夜間飛行の訓練が始まった、そして私の名前は夜間飛行組の中にあった。その発表の時の気持は誰も口に出さないし、態度にも現わさないが残留組が一同ホッとした事だけは間違いない。

ではその特攻作戦を飛行兵仲間がどのように考え、どう受け止めていたか。戦後になっていろいろな人が、いろいろに解釈した記述をしている。その渦中の当事者である我々は勿論個人差もあるので一概に結論は出せないが、まず間違いなく共通していたと思うのは
「憂国の至上にかられ、我が身を国に棒げ、天皇陛下のおん為に」というのはあくまで建前であり本音はくどいようだが飛行機を操縦してみたかったという事になる。

しかし、志願した昭和十六年当時とは戦争の様相は一変し、ここまで教育を受けてしまった以上早いか遅いかの違いで当然特攻志願の順番がくるのは誰もが予期していた事であるが、いずれにしても十八才や十九才の若者がそんなに簡単に死生を超越して悟りを開き、神様、仏様のような境地になれるものではない。普通よりは多少血の気の多い若者が集まってはいるが、成人君子にはちょっと程遠い連中である。

その頃空中勤務者の間でよく交わされた会話に「歩兵は小銃一丁だけれど、俺達は数十万円(現在なら数十億円)の棺桶を用意してくれるんだからあまり贅沢は言えないなあ」というのがある。これは自分達は選ばれて飛行機乗りになったんだから普通の兵隊とは違うんだというささやかなエリート意識を満足させ、泣いても笑ってもどうにもならないその立場をなんとか諦めようと一生懸命自己暗示にかけている言葉に外ならない。私はその後に機種が変わり、二式複座戦闘機屠龍の未習教育を受けていたので特攻隊の編成には加わらずにすんだが、もし後、半年、 一年戦争が続いていれば四十年余も過ぎた今日、手記を書く事も無かったであろう。

大義名分はどうあろうと「お前は死にに行け」と人から命令されて、ほんとうに人前で取り乱さずに平気な顔をしていられるだろうか、本音は別として建前の方は「行きます」と志願してしまったのである。『悠久の大義に生きる』等という美文に送られてどれだけ多くの若い命が失われただろう、悲しい事に我々の受けた教育はそれを乗り越えさせるだけの成果を上げていたのである。

特攻隊を正当化する為のこうした美辞麗句を聞かされる度に、自分がその立場に立ったらどんな対応をする事ができるか、それぞれに人知れずそんな素朴な悩みを抱き続けていたのである。

あれから四十年、時代は移り変わり既に戦争を知らない世代の人が人口の九割を占めるようになり、人間尊重がすべてに優先する今日、命令一下従容として死地に赴いた先輩、同期を思う時、戦争が如何にむごいもの、非情なものであったかを少しでも多くの人に知って欲しいと願うものである。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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