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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第五章 転属 終戦
 一 宣徳 第二十五練成飛行隊

水原の飛行場にも町にも慣れた四月頃、北鮮の会文という所へ部隊が移動することになり、世話になった町の人に見送りを受け夜行列車で出発した。目的地の会文へ到着して宿舎へ入ると転属命令が先行しており、そのまま又列車に逆もどりして今度は咸興へ向かった。

北朝鮮の日本海側、咸鏡南道の中心都市、咸興から約三十粁、咸鏡南道咸州郡定平里の海岸に広い草原の飛行場があり宜徳飛行場と称した。

ここには一〇〇式重爆撃機の作戦部隊、九七式重爆撃機によリグライダー曳航を行なう空挺部隊、そして練成飛行隊が同居していて非常に賑やかな飛行場であった。この二十五練飛も使用機種は一式双発高練で、在隊の同期生数名が特攻隊要員に決定し、編成を終って「生きている神様」という待遇を受けていた。

丁度この宣徳に到着と同時に伍長に任官したが待遇は全然変わらずというより非常に悪く、到着当日の夜起こしたトラブルが約ニケ月間の在隊中ずっと尾を引き、我々も徹底的に悪ガキ振りを発揮して遂に追い出される結果になった。

このトラブルの原因は実に単純な理由で、昭和十八年四月に少年飛行兵の乙種制度が採用され、その第一回生が乙種第十四期生として教育されていたのを我々はこの宣徳へ来るまで知らなかった、そして配属された先が乙種十四期生の中隊であったのが事の始まりで、血の気の多い一部の者が到着当日の夜、早速その何名かに
「一年も遅く入校して同期生ヅラするな」と気合をかけてしまったのである。ところが運悪くその中に中隊長お気に入りの優等生が居た事から教官助教が子供の喧嘩に介入してきたので話はこじれた。教官、助教側にしてみれば無理の無い話で甲だ乙だは関係の無い事で今迄一年間自分達が一生懸命育ててきた教え子達を途中から転属してきた「ヨソ者」に気合いをかけられたのでは面白くない筈、 「このふとい野郎ども」と今度は助教にこちらが殴られる番である。

ここ宣徳の教育も特攻訓練だけであったがその第一回の搭乗日に又してもトラ.フルのオマケがついてしまった。それは問題の乙種十四期生が助教代理として搭乗したからたまらない、この日から完全に我々の態度が硬化してしまった。階級による権力の絶対的な軍隊の中であるから現在の暴力教室のように簡単にはゆかないが、あらゆる方法で反抗的な態度をはっきり示したものである。

たまたまこの部隊では前述の急降下の角度を三十度と定めていた。被教育者である我々は教官助教からその日の謀目について色々指示されると返事だけは「ハイッ、ハイッ」と非常に調子がよい、地形慣熟飛行を行なった後、海岸に設置された目標に対して急降下を実施することになった。

その日の一番は私である、何のためらいもなく今迄訓練してきた四十五度方式で目標に接近すると、丁度副操縦席からは目標が見えなくなってしまうので、問題の助教代理がいらいらしているのが手に取るように分かる、反転して突っ込んでしまえば「三十度くそくらえっ」とばかりに急降下する、またたく間に制限速度いっばいになる、助教代理がびっくりして換縦禅を引っ張ろうとするがこちらは両手で力いっばい押えているのでどうする事もできない。最初にやったのは私であるが結局背同じような事を考えていたとみえ、何回やっても誰がやっても一向に与えられた指示、命令を実行しなかったのである。

それからは根気くらべで、少々殴ったり早駆けをさせてもまるでこたえない、罰として早駆けを命じた場合、ふらふらになって帰って来てこそ助教も威厳が保てるが、苦しそうな顔もせずケロッとすましていられてはどうも調子が狂ってしまうらしい。こうなっては甲種、乙種は問題外であり教官、助教対四十一教飛出身者の対立になってしまった。その原因の一つとして考えられるのが、ここ宣徳二十五練飛へ赴任した者は外出しても何もない寒村と海岸があるだけの実に淋しい場所にあり、学校とこの部隊しか知らないので全く学校の延長と同じなのである。

それに反して我々は大同、水原どちらも町に近く、外出しても優遇され、移動すればするほど世間に慣れ、軍隊ズレもするもので、在隊者に比べて「可愛気の無い図太い野郎ども」ということになるのである。

軍隊の教育を一年受けるということは、民間の学校の二年〜三年に相当するといわれていたが、丁度この時期が東航校入校以来四年目を迎えた頃である。そして普通の兵隊と違うところは、しごかれ通しの三年間であるから、体力的に最も充実した時期であり、何をやらせても要領が良い筈である。ある朝、飛行場に整列すると
「お前達は飛行演習に参加するに及ばず、整備班の指揮下に入リドラム缶運びの手伝いをせよ」と命令された。ここで面白いのはこの部隊の整備の兵隊とはまだ殆ど面識は無いのであるが、飛行場にいるので大体の事情は知っている、兵隊というものはいつも弱い立場におかれているので、上官にさからう我々が面白いらしく味方になってくれるのである。兵隊達と一緒にドラム缶をトラックで山へ持って行き、適当に昼寝をして帰ってくるだけで、こんな気楽な罰なら何時迄でもよいと羽根をのばしていた。

反省の色更になしとみた中隊長、次なる罰ゲームは兵舎の近くにある防火用の池の泥をさらうよう命令された、伍長ばかりが池の中で泥だらけになっているのを一つ星の兵隊が敬礼をしながら不思議そうに通って行く、かなり強情な連中ばかりだったとみえ誰も弱音をはかなかった。

今から考えると、ずいぶん無茶な事を平気でやったものであるが、あれだけは今でもやり過ぎたと思っていることが一つある。それは助教に反抗する方法として急降下中に制限速度をオーバーさせることで、これは効果抜群、どの助教も間違いなく青くなって慌てて操縦桿を引っ張ったものである。しかし四十一教飛の機体は新しかったが二十五練飛の機体はかなり古いものであったから、助数が慌てる訳で、よく空中分解等の事故にならなかったものだと、戦後もう一度操縦桿を握ってみて改めて冷汗三斗の思いを新たにした。

悪ガキどものツッパリが功を奏した訳でもないだろうが、転属の希望と未修教育の機種の希望を申告することになり 全員大喜びで転属を願い出た。希望機種は九九式双発軽爆撃機と二式複座戦闘機のいずれかであるが、この際機種ほどちらでもよく、この宣徳から離れられるなら何処でもよいとわいわいがやがやと任地、機種の予想をしていたが、希望通りに機種は二式複座戦闘機、行く先は新義州と決定した。

宣徳に残留する大同以来の戦友達に別れを告げ意気揚々と新義州へ出発したが、まさか二、三ケ月後に彼らはシベリヤヘ抑留され、転属した者は内地へ帰れるとは誰も予想し得なかった事である。もしもあの時おとなしく可愛がられていたら間違いなくシベリヤヘ送られたのであるから、結果としてまさに悪ガキ万々歳であり、この時も又幸運に恵まれたのである。


    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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