「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫
全文掲載 |
これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。
仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
第四章 水原 朝106部隊へ
一 水原飛行場
昭和十九年十二月、教育飛行隊の課程を終了し朝鮮の水原(部隊が移動して次の練成教育が実施される事になり空輸要員の人選が行なわれた、残念ながら小林軍曹の操縦斑は助教戦死、不在という理由で第一番に地上輸送組にまわされた、理由が理由だけにおとなしく命令通りに列車に乗り、夏に来たコースを逆行して朝鮮へ向かった。
水原(スーウオン)とはソウルの南東、京畿道南西部に位置し李朝時代からの地方行政の中心地で、市の中央部の八達山には昔の城壁が現存しており、西郊には西湖があり、その近てに高等農林学校があった。現在は国立農事試験場、ソウル大学農学部になっているそうである。
この飛行場も新設のホヤホヤで、又しても駐屯部隊第一号ということで町の人から大歓迎を受け一足とびに内地まで帰ったような気分であった。ソウルから南いわゆる南鮮には非常に日本人が多く、町並みの屋根の形が違うだけで日本人小学校、中学、高等農林等々いずれも立派なもので外出しても全く言葉で不自由を感じることはなかった。
さてその飛行場であるが、その頃の新設飛行場にしては珍しく立派に舗装された滑走路と未舗装ではあるが並行して離着陸が充分出来る長方形の広い飛行場であった。ところが我々は熊谷、大同と草原の飛行場ばかりで訓練を受けているので、舗装した滑走路での離着陸に慣れるまでが大変であった。第四旋回を終リフアイナルコースに入って滑走路に正対するとその滑走路が非常に細く見え、あんな狭い所へこの大きな飛行機がうまく接地させられるだろうかと最初は恐怖感さえ感じたものである。そしてどうにか接地しても着陸滑走の終り頃が又厄介なのである、それは草地に較べ舗装した滑走路は摩擦抵抗が当然少ないので、方向を維持するのが非常にむつかしくなるのである。
風というものは注文通り滑走路に正対して吹いてくれるのはまれで、いつも横風二十度、三十度が普通である、大きな主翼は風上へ、風上へと方向を変えたがっている、速度はだんだん少なくなり方向舵は利かなくなる、こんな状態の時初動の発見が遅れ一瞬の処置が遅れると見事にヒッカケられるのである。
私も事故にはならずにすんだがかなり派手にヒッカケられた経験がある。水原へ来て間もない頃左から三十度位の横風が吹いているのを承知で着隆をした、そして、この程度の速度になればもう大丈夫だろうと思った瞬間左へ機首を振り出した、「しまったっ」と右の方向舵をいっばい踏み込み左のエンジンを全開にしたが結果はさんざん、左へ廻り出した飛行機は機首の振れが止まるどころか左のエンジンを全開にふかしたので左の翼が浮上り、右の翼端を摺りながら左へ三百六十度一回転して止まった。もう少し速度があったり条件が悪いと逆立ちしたり、脚を折るような大きな事故になるところであったが、幸い翼端の損傷も無く同乗していた同じ操縦班の者が早駆けの道づれにされ、目にあっただけですんだ。
昭和62年発行
「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載
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