「平和を願って」 戦後50年 犬山市民の記録
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
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犬山市民の戦争体験
『私は予科練の特攻隊員』 森 義徳さん
”歌”若い血潮の予科錬の七つボタンは桜に錨、と歓呼の声で送られて19年6月15日、鹿児島県第二鹿屋海軍航空隊へ予科錬として入隊した。我々は海軍乙種飛行予科練習生射爆第一期生で小型機10班700名、大型機8班600名の計1300名、15歳より20歳までの若人が日本全国4つの鎮守府より志願して入隊したのです。
我々は射爆を専門とする日本海軍では、最初の特殊技能を持つ予科練だそうです。3ケ月(二等飛行兵)にわたる新兵教育が始まった。射は撃つ。7・7ミリ、13ミリの機関銃、25ミリの機関砲。爆は爆弾、500キロ、800キロ、1000キロまでそれぞれの構造、名称、操作等の専門知識を頭の中に叩き込む。4ケ月(一等飛行兵)は新兵で習った教育を実務体験で開始、射撃は模擬射撃から始まって屋外での実弾射撃まで7・7ミリ、13ミリはまあ大した事はないが、25ミリ機関砲ともなると音や振動は本当に凄い。最初の内は引き金を引く瞬間に目をつむってしまうので、標的に当らず全く苦労した。
爆弾は超重い台車に乗せるのに一苦労、上げて装着するのに又一苦労。プロペラニ基の一式陸
攻でこんな重い爆弾を積んで大空へ飛び上がるなんて、私は子供心に不思議に思った。
私は七月で満15歳になった。七ケ月間の新兵教育期間中1300名の兵(とも)の使用する
風呂は部隊には一ケ所のみ、各分隊には右舷左舷に分けられ交互に入る。
風呂の中はタオルと手は頭の上に乗せ、 10メートル程ある浴槽を右から左に首まで湯につか
り動いて進むだけで、風呂では一切体を洗う事が出来ない。これでは体は皮膚病の世話にならな
い方がおかしい。洗濯も週二回のみ、シラミや蚤を自然繁殖させているようなものだった。
罰直が一番怖い。実務の競技、運動の競技、官服の遺失や班の落伍者等の罰には飯抜きで、時
には他の班に見せしめで軍人精神注入棒(バッター)が容赦なく飛んで来る。平均して三発位は
叩かれる。 一発目でふっ飛び、二発目で倒れ、三発目で失神し足腰が立たないようになる。
いつも我々のお尻は黒ずんでいた。痛くて走れない。便所ではしゃがむ事が出来ない。ひどく
傷ついた兵(とも)で入院したり死亡した者もいた。
喜怒哀楽とは良く言ったものだ。軍隊はこれの標本みたいだ。酒保には酒あり煙草あり甘い菓
子類も一杯あった。飲み物も日常雑貨品も豊富で、本当に酒保には心が安らいだ。半舷外出両分
隊共に二週間に一度右舷と左舷に分かれて日曜日は朝九時から夕方五時まで外出が自由であり、
大里の村に下宿を借りて一日中寛(くつろ)ぎ、さつまいもや、ゆがいた落花生を腹がへんにな
るほど一杯つめこんだ。
11月3日は明治節、今日は休日、無礼講です。何をやっていても一日中構わない。突然、兵(とも)が私を呼びに来た。父母が来ているよと言った。えっ真逆(まさか)、私は半信半疑で面会所にすっ飛んで行った。
父母は腰かけて待っていた。私の姿を見るなり笑顔で近づいて来た。子供可愛さによくもまあ
九州くんだりまで来れたもんだ。私は半年余りの訓練の辛さで、人隊時より一貫目位い痩せた体
を父母の体にすりよせて暫らく泣いた。持って来た食べ物は当直兵の検閲を受けた後、腹一杯食
べた。
1月10日頃班長より全員集合がかかった。恐る恐る集まった。班長はおもむろに射爆第一期生
は1月1日付けで上等飛行兵に進級した、と同時に晴れて特攻隊員に編入された。これから桐の
箱を渡す、この箱には父母や兄弟に宛てた遺書と遺品を納めるように。
自分達に万が一の時には陸下より御下賜されるまで分隊で保管するとの事だった。15日頃実
習教育も全課程が終り、転勤先の実施部隊の選択が第一志望より第二志望まで書いて提出してい
たものに従い、班長と本人が面接、長男、次男、三男の順で希望実施部隊が決められ、私は豊橋
海軍航空隊に配属される。二十二分隊の中から近畿地方11名、愛知14名の計25名が揃って
1月20日、豊橋海軍航空隊に無事到着した。
実施部隊に着いて驚いた。色々の服を着た兵隊が右に左に忙しそうに飛び廻っていた。兵舎も
格納庫も全く違っていた。これが第一線基地の航空隊だなあと痛感した。飛行場には零戦と月光
や一式陸攻の雄姿があった。
我々予科練も初めての実戦機での特訓が始まった。石川県小松飛行場への往復射爆模擬訓練、
特攻隊員の名に恥じない動作を磨く毎日、その頃より日増しに空襲警報の数が多くなり飛行機の
退避が続く。三月、四月と特攻機が飛来しては出撃する数が急に増える。
戦局も急を告げている事を知る。連日朝靄を突いて特攻機は行く。滑走路には両側に並んで帽
振れ!で残った兵隊が涙を流して見えなくなった僚機を追う。連日連夜の大空襲で飛行場全部が
大打撃を受け、すでに機能を完全に失っていた。
右から左からと突っ込んで来る敵艦載機と、死にもの狂いで掩体壕より二五ミリ機関砲で応戦
する我々予科練もこれが最後の抵抗だった。特攻隊員として出撃の経験なく終戦を迎えた。(了)
愛知県犬山市 平成9年8月15日発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)
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