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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『無邪気な軍国少年』 小田昭午さん  

1.軍用列車を見送る
 私は、小学校1年の頃、ピョンヤンの郊外に住んでいました。父が朝鮮の子供達の為の小学校で教鞭をとっていたからです。近くに日本人の子供はいませんでしたから、朝鮮の子供達と毎日暗くなるまで遊んでおりました。学校では朝鮮の子供達と一緒に、日本語や朝鮮語を学んでおりました。その頃まだ義務教育ではありませんでしたので、クラスには4、5歳年上の人もいました。

 昭和12年7月7日、支那事変(日中戦争のことをそう呼んでいました)が勃発しました。中国北部へ向う日本軍は朝鮮半島を縦断する鉄道で輸送されました。

 そんなある日、私達のクラス全員が銘々日の丸の旗を作って、戦地へ向う兵隊さんを見送りに行ったことがあります。駅までは5キロ程あったでしょうか、もちろん徒歩です。騎兵隊でしょうか、有蓋貨車に馬と一緒でした。私達が日の丸を振ると兵隊さん達も力一杯手を振りながら、黒い煙を残して、長い貨物列車は消えてゆきました。これが戦争というものに(裾の方ですが)触れた最初でした。

2.飢え
 中学は平壌(ピョンヤン)一中に行きましたが、この学校は汽車通学を認めませんでしたので寮へ入ることになりました。大東亜戦争(米国では太平洋戦争と呼んでいた)は最も熾烈な頃で、ガダルカナル島では日米両軍が死力を尽くして、天下分け目の決戦を繰り返していました。

 食糧の配給は次第に質・量共に悪くなり、寮の主食は米と麦と大豆の絞りかす(大豆油を絞ったカス)を混ぜたものでした。それでも下痢をしている余裕がないほど量が少なかったのです。腹がへって眠れないので、水を飲んで眠ろうとするのですが、それでもなかなか寝付かれませんでした。

 寮の廊下にこんな張り紙がしてありました。「寮生注意! これ猫いらず」張り紙の下にはそれらしきものが置いてありました。あの頃ネズミは何を食べていたのでしょうか。

3.蚤とシラミ
 中学一年の夏休みに勤労動員で塩田に行きました。朝鮮の西海岸は潮の干満の差が大きかったので、天日製塩の塩田が延々と続いておりました。満潮の時に海水を塩田に導き入れ、天日で濃縮してゆきます。何日かたって、最後の塩田で塩の結晶が出来るわけです。

 私達の仕事はその結晶をモッコでかついで倉庫まで運ぶことでした。背中は真っ赤に腫れる、皮はむけてヒリヒリする、全く地獄の強制労働のようでした。それでも何とか一日の労働を終えます。

 夕食をすますと、。みな疲れ果てていますので、直ぐ眠ってしまいます。そこは塩田に近い小学校の教室でした。かゆくて目が覚めるのが普通でした。腰の周りが真っ赤に腫れています。パンツのゴム紐を通す縫い目に沿って、血を吸って真っ黒になったシラミがびっしり並んでいるのです。

 丹念にこれを潰すのですが、翌朝にはまたビッシリ並んでいるのですシラミだけではありません。蚤も動けない程血を吸っているのです。

4.無邪気な軍国少年達
 中学2年になると、クラスでの話題は軍人になる学校への受験のことで賑やかでした。「僕は陸軍だ」「いや海軍のほうがスマートだぞ」「俺は飛行機に乗るんだ」と、まるで修学旅行の行き先でも議論しているような陽気で無邪気な雰囲気でした。軍人というものの仕事が何で、戦場へ行けば死を覚悟せねばならないことなど、全く念頭にないように思われました。

 その頃私はまだ軍人になる気などありませんでしたので、みんなの話しをニコニコして聞いておりました。そんな時、「小田、おまえは行かんのか」「A君も、B君も、C君も受けるって言ってるぞ」。こんな会話が支配していたクラスの中で、一人ぼっちになるのも困るし、仲間意識というのでしょうか。「みんなで渡れば怖くない」の心理でしょうか。私も次第にその気になって来て、遂に陸軍幼年学校の受験を申し込むに至りました。

 昭和20年4月1日、大阪の陸軍幼年学校へ入りました。華麗で、規律正しく、活気のある生活が始まりました。食事も一転して食べきれない程出てくるのです。毎日軍人精神を叩き込まれました。百日鍛えると軍人精神は出来あがると言われていました。

 8月に入ったある日、全校生徒が集められ校長の命令を聞きました。校長はもの静かで柔和な陸軍少将でした。「誠に残念であるが、今日限り学校での勉学や訓練は中止し、和歌山県の海岸に移動して貰う」というものでした。和歌山の海岸は米軍が本土に上陸してくる候補地の一つでありました。「諸君を前線に立たせるのはしのびないが…」と言う校長の言葉が今でも耳に残っています。「チョット待ってくれヨ。死ぬのはまだチョット早いぜ」これがいつわざる心境でした。もちろん、軍人となったからには、いつか死ぬ時の来ることは覚悟していたが、こんなに早く来るとは夢にも思わなかったのです。

 翌朝、和歌山へ向けての行軍が開始されました。最早無邪気な軍国少年ではなくなって、黙々と行軍を続けていました。「もう一度おふくろに逢わせてくれ」「だって『サヨウナラ』も言ってないんだぜ」。そんなことを考えながら歩き続けました。

 無邪気な軍国少年たちは戦争がどんなものか、考える暇も、資料も、雰囲気も与えられることなく「みんな行くんだから」「みんなで渡れば怖くない」と陽気にはしゃいでいる間に、みんな丸ごと戦場につれて行かれてしまったのです。「みんな行くんだから」「みんな同じ考えだヨ」「みんな良い仲間だヨ」こんな恐ろしい状態は無いと警告したい昔々の無邪気な軍国少年です。 (了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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