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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『毎日が学徒動員』  梅村照義さん  

 「戦争は終わった。家へ帰るように・・・・・」

 昭和20年8月15日の夕方6時半頃、工場の門で言われ、途方にくれた。二交代制勤務のため、小牧駅から歩いてきたばかり。このとき私は15歳、K中学の三年生。工場はいまの春日井市鷹来中学校の南あたりだ。さいわい小学校依頼の同級生のW君を見つけ、二人で歩いて帰ることにした。名古屋上水道の側道を、いまの味岡の西友に出て旧41号線を羽黒まで約15キロメートル歩いた。

 当日は全くの闇夜で道幅すらおぼつかなく、点在する家から明かりはもれていなかった。が、妙に恐怖感はなかった。いまひとつはともかくも原ペコだった。下末あたりでおくての桃を無断で三〜四個もぎり、防空頭巾の中に入れ、かじった。実にうまかった。二人で調子はずれの軍歌を歌い、11時過ぎに家に着いた。

 「戦争は敗けた。が、終わった!」もう爆弾も焼夷弾も落ちず、機銃掃射もない。安ど感と開放感で日本国の敗戦ショックは、15歳の私にはなかった。

 鷹来の工廠に通ったのは、二年生の二学期から三年生の8月までの11ケ月。一学期は小牧近郊の農家へ麦刈りなどの手伝いに、一年生の一学期の終り頃と三学期は、豊山飛行場(いまの小牧空港)の造成にでかけた。「飛行場の離発着のさい、小波はいいが、大波はいかん。高いところを削れ!」監督の兵隊に叱咤(しった)されたことや、小雪の舞う吹きさらしに指はかじかみ、やけにスコップが重かった。10回位歩いて通っただろうか。どうにか間引き授業ながら、教室でできたのは二年生の一学期までだった。

 太平洋戦争も三年目に入り、戦局の劣勢を挽回するため、中学生・女学生・国民学校高等科の14歳〜16歳の生徒は、昭和19年9月から全員軍需工場などへかり出された。K中学二年の三クラスは春日井市の鷹来陸軍工廠に決まり、本工廠へ二クラス、、小牧駅東の分工場へ一クラス配置された。

 当工廠で造っていたものは鉄砲の弾。工場は7つにわかれ、私どもは第四工場。99式の小銃の弾の部分を造っていた。30歳前のI技術中尉が工場長。補佐役には50歳がらみの職長が統括し、20数工程を10人くらいの班長が生産・品質などを担当。要員は夜勤帯で職工が10数名、養成工が数名、中学生が20数名の合計40〜50名。昼勤帯は20〜30%多かったようだ。

 工場の二階の広間では、終戦半年前位から、静岡のI女学校1クラスが昼夜兼行で風船爆弾の風船部分を、和紙をこんにゃく芋の粉で張り合わせ作業をしていた。

 小銃弾を造るプロセスは、銅板(終戦間際は鉄)を2〜3センチ角に打ち抜き、その板を指状の棒で何度も突き、鉛筆のさや状にし、中に粉を入れ銃弾部分完成。薬きょうに火薬を入れ、雷管をつけて1発の銃弾となる。私は銃弾の元に薬きょう部分の止めのぎギザギザ付けのローレット機の担当。「ジーチョン、ジーチョン」と単調なリズムを思いだす。何せ一夜に二万五千発が最低のノルマであった様に憶えている。14〜15歳の中学生には夜勤はきつく、品質は二の次だった。

 次いで服装。汗と油にまみれた帽子、夏は開襟シャツ、冬は詰襟。いずれもつぎはぎだらけ、ゲートル着用、靴は布製。地下足袋は上等の部類、下駄や藁ぞうりが普通だった。

 色はどぶねずみ色が良く、上空から目立つ色はご法度。両肩に防空頭巾と雑のう(かばん)をクロスに掛け、三角巾と止血棒を持っていた。また腕には「K中学校・勤労報国隊・名古屋陸軍造兵廠」の腕章をつけていた。

 苦労したことは通勤。自転車があれば楽だが欲しくてもない。鷹来へ通うには、小牧線とバスを乗継ぎで、約一時間半はかかる。当時の車両もバスも燃料がなく、木炭車だ。エンジンがなかなか起動せず出力も弱く、味岡の坂を乗客が下りて押す喜劇(?)も度々。1両だけのため南行きは楽田で鈴なりの超満員、目的地に着くとへとへとの毎日だった。

 戦争は人の心も衣・食・住・情報も全て荒廃させる。特に身内や友の死はむごい。小牧分工場で8月2日正午前、小型機の機銃掃射でI君が死亡した。葬儀の連絡もなかった。私も6月9日機銃掃射の銃弾を浴びた。道路沿いの小川に転げ込み、肝をつぶす思いだった。今から思えば確かにひどい環境だった。しかし悲惨な生活の中にも、家族や友達や職場では笑顔でたくましく生きていたように思う。

 今回、市の企画ですっかり忘れていた中学の生活を思い出し、つたない自分史の1頁ができた。数値や日時はいささかおぼつかない。この拙文を読まれた学生さんにぜひ願いたい。明治維新以降の日本史と大航海時代以降の世界史を読まれること。さらには”自分の目と足で生の外国”を見られることを…。 (了)

   <参考資料>「楽田村史」第二章大東亜戦争米軍機空襲状況、
          「駒来」小牧市文芸協会編、95年8月号「古びた日記」さはし・かつきよ氏

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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