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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『大空襲 今もなお鮮やかに』  林 たけさん

 終戦から52年、半世紀余が過ぎた。今も工場や火事のサイレンが鳴り出すと一瞬ドキッとする時がある。戦中の後遺症かなと思うとあまりいい気がしない。

 昭和20年4月、名古屋市西区にある学校に入学、そして寮に入った。寮は空部屋が多く5、60人くらいの上級生が見えただろうか。顔を会わせるのは食事、日曜日位で、皆学徒動員で工場へ行ってみえた。私達進入生徒は20人ほどで3室にわかれた。各部屋に室長、副室長の上級生がみえ、一緒に生活する事になった。

 毎日のように空襲があり、夜寝る時はすぐ避難できるよう必要な物を置くように言われた。衣服、履物、防空頭巾、非常袋の中は、三角巾、傷薬、非常食として豆の炒ったものが少々入っていたが、後は何が入っていたのか思い出せないでいる。夜の空襲が続き警戒警報と同時に身支度をし防空壕にとび込んだ。爆弾が多く、ヒュー・ドスンという音と同時に壕が揺れ動き、不気味であった。

 忘れもしない昭和20年5月14日早朝、偵察機が来た。皆空襲があるとは思っていただろうが口にはしなかった。

 朝食を終え、そろそろ通学生の登校が始まる頃、警戒警報、続いて空襲警報のサイレンが鳴り防空壕にとび込んだ。が何時もとは様子が違っていた。何がどう違っていたかは思い出せない。壕の中に煙が入り込み、息がしにくく咳こんだ。タオルを口に当て頑張っているうち壕の枠が燃え始めた。今まで無言であったのが、誰言うとなく「外に出よう」と言い出した。壕の中で何が頭の中を去来したのか、何をしたのか、また空白の頭の中であったかも解らないままである。壕の外に出ると煙でうす暗く焼夷カードが燃えながらチラチラ落ち、その中を焼夷弾が落ちてきた。

 校舎のあちこちから火が出ていた。瞬間、「校舎が燃える」と思った事を覚えている。校舎の間を抜け、講堂の方へ走った時、中で火を消している教頭先生と二、三人の通学生が見えた。が落ちてくる焼夷弾の数が多く手がつけられない。「もういい、逃げるんだ。気をつけて逃げよな」の声に西の道へ走ったが、道は避難する人でいっぱい。中には担架の人もいた。私は仲間とはぐれていたとにかく西の方へ逃げようB29は西の方から来ている。弾の方へ向って走ればいいんだと思ったが、人、人で身動きがとれず、疎開で空家になっている家の中を走った。
 走って走ってようやく麦畑に出た。B29の襲来は続いている。焼夷弾は横に7、8発、縦に十段ほどあっただろうか。整然と長方形に並び、ザーッと雨の降るような音と共に落ちて来るが、、もう走る気力は無かった。麦と麦との間にすわり込んだ。

 そして母のくれたお守り袋をなで、「どうかお守りください」と祈った事を覚えている。このお守り袋は今も大切に持っている。本籍地、現住所、校名、学年、氏名を白木綿に墨で書いてあり、字はうすれてはいるがはっきり読める。

 少し落ち着き、南の空を見た時、よく澄んだ青空に炸裂した機体と落下傘で降りてくる人が見えた。彼の空の青、、真っ白な落下傘、機体が火を噴きながら螺旋状に落ちてくる光景は昨日の事の様に脳裏に焼き付いている。上を見ると機体の一部がやはり螺旋状に落ちてくる。また走った。走っても走っても頭の上にあった。やがて防空壕の入り口があいて話し声がしたので入れてもらった。空襲も終わりお礼を言って外へ出た。

 さあ、神戸製鋼へ急がなければと思ったが、随分西の方へ来てしまっている。児玉の消防署を目当てに歩いた。途中私の頭上を舞いながら落ちてきた機体が土中に半分埋まり燃えていた。

 神戸製鋼で昼食を頂き春日井の友達三人と帰ることにした。「電車賃は有るか、体に気をつけて」と言う先生の声を後に、上飯田の方向に歩いた。そこ迄行けば軌道車に乗れるはずである。

 途中、友達の親戚の家の前を通る時、呼び止められて大きな真白なおにぎりを頂いた。嬉しさよりも四人もいるのにと思い申し訳ない気がした記憶がある。やっと駅に着いたが不通で、線路の脇には大きな爆弾の落ちた穴があった。その日は春日井に一泊し翌日、犬山へ帰った。

 後日、名古屋城が一緒に焼け落ちた事、通学生が直撃を受けて亡くなった事を聞いた。空襲の恐怖に何度もあいながら皆冷静に行動していた様に思った。

 衣食の乏しい折、戦争のため家族を失った人が多い中、お互いに相手を気づかいながら生きた時代でもあったように思う。(了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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