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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『焼け残った井戸のポンプ』  奥村章子さん 

 昭和16年12月8日、大東亜戦争勃発と共に、大本営発表の情報がラジオから流れてくるようになりました。

 次第に戦争も烈しさを増し、食糧やその他生活用品も不足して来ました。お米はいうまでもなく、野菜物など家族の人数に応じて配給されました。

 昭和19年、私は小学校(当時の国民学校)を卒業して女学校へ入学しました。通学時は防空頭巾、防毒面、救急袋を両肩からかけて行きました。救急袋の中は三角巾など救急用品の他に、非常の食糧として炒り大豆を缶に入れて持っていました。通学に乗るバスはいつも満員でぎゅうぎゅう押しこまれました。道路の両側には、急の空襲に備えて防空壕が沢山掘ってありました。通学途中何回も防空壕へ避難しました。

 3月9日の東京大空襲では、B29の爆撃に依り大勢の人が焼け出されました。沢山の犠牲者も出ました。それ以来登校して来なくなった友達もいました。

 女学校二年生になり学徒動員で、工場へ通い始めました。「勝つまでは」と、毎日一生懸命に手榴弾の筒を沢山作りました。

 空襲警報のサイレンは、昼となく夜となく鳴り響きました。明日は我が身かと思いながら頭上を通り去っていくB29の不気味な爆音にひとまずはほっとする毎日でした。

 4月13日夜、空襲警報のサイレンで外へ出てみました。あたりは夜とは思えない明るさでした。あちらからも、こちらからも焼夷弾の投下で火の手が上がっていました。照明弾も落とされたらしい。避難命令が出ました。

 皆リュックサックを背負い、防空頭巾の上から布団をかぶって避難しました。道路は避難する人でいっぱいでした。轟音と共に爆弾が投下され、何回も何回も道に伏せました。漸く広場にたどりつきました。そこも避難してきた人でいっぱいでした。

 翌日、火のおさまるのを待って焼け野原と化した焼跡へ我が家を見に行きました。家は跡形もなく、ただ焼けただれた井戸のポンプだけがぽつんと立っていました。

 戦争が終わって52年、今省みてこんな豊かな時代が来るなどと、当時は夢にも思っていませんでした。平和の尊さをしみじみ感じる毎日です。




     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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