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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『無駄にするな特攻隊員の死』  板津忠正さん

 知覧町は、薩摩半島の山合いに囲まれた麓川の水清く美しい城下町である。かって島津藩の外城(とじょう)であった町はずれの台地、木佐貫(きさぬき)原には半世紀前、純真無垢な若人達が、至純な心で出撃していった特攻基地があった。

 私は昭和18年、米子航空機乗員養成所に入り民間のパイロットをめざしたがしかし、戦時の逼迫により民間に出ることなく軍隊に入らねばならなかった。太刀洗飛行学校を卒業し、戦闘機操縦者として台湾各地を経て、19年末、兵庫県加古川飛行場へ移り、戦技を磨いていた。

 20年2月、「と号作戦」が発令され、直ちに特攻訓練に入った。5月末、知覧に前進するまで連日1,300メートルの高度より60度の急降下と夜間飛行の訓練にあけくれた。

 4月20日、特攻隊員となるための命下布撻式が行われた。部隊全員の整列する中で振武隊員(沖縄特攻作戦を指揮するため九州に指令部を置いた第6航空軍所属の特攻隊の総称)を命ぜられ、感激を新たにした。空に憧れ、飛行機を飛びかって御国の為に同期の先陣になった事を満足に思った。

 当時、隊員たちは内地はもとより中国、朝鮮、満州の各地より知覧に集結し、2,3日後にはこの地を離れ、雲流るる沖縄の空に散華していった。両親や肉親に連絡をとって面会に来た時にはすでに出撃して行った後で、軍の秘密主義から我が子や兄弟がどこから飛んで来て、どの基地から出撃して行ったか、全く知るよしもなかった。

 5月25日、部隊全員の見送る中で加古川飛行場を後にして熊本菊池を経て26日知覧に到着、直ちに赴任申告をなし、三角兵舎の人となった。半地下のこの兵舎には29人余が寝起きしていた

 翌日、出撃命令が出て、兵舎内は緊張感がみなぎった。ある隊は経路の航法計画をたてたり、ある者は最後の便りを認(したた)めていた。

 「いよいよ明日は出撃だ。この為に技量を磨いて来たのだ」と正直私はうれしかった。隊長についていけば不安はない、全てを任せようと同僚達と気勢を上げ、「必ず轟沈し靖国神社に集まろう」と叫んだ。

 4月16日以降、沖縄の日本の飛行場は占領され、常時60機乃至90機の敵戦闘機が内地から飛んでくる特攻機を待ちうけ、完全に迎撃体制が整っていた。その為、制空権をとられていた南西諸島の島伝いに飛ぶ事を避け進路を東にふる航法を練った。

 5月28日、起床の声に飛び起き飛行場に向った。空を見上げると木々の間から月が照り美しい黎明であった。飛行場の戦闘指揮所付近にはすでに250キロ爆弾を搭載した機体が一線に並びエンジンを始動していた。

 爆弾が思いので機関砲は全部おろし、無線でさえ僅か隊長機か小隊長機が持つのみで他の機はどのような艦船に突入したのか、無線室にも傍受が出来なかった。

 この日、沖縄航空総攻撃は知覧から28機、万世、都城から17機が突入散華した。しかし何と言う運命の悪戯か、私の愛機は途中滑油もれから機関に故障をおこし、生き残る破目になってしまった。

 敵機の哨戒をさけ、超低空で翔んでいた。400キロも飛んだであろうか、今まで快調であったエンジンは突然ブスッブスッという音を発した。隊長機はいち早く察知して早く離脱せよ、別れて行けと合図をするが、皆と別れる気持ちになれない。

 当時私は20歳でした。戦友と生まれた時は別々でも死ぬ時は一緒と誓いをたて知覧に来て出撃し、あと僅かで祖国のため肉親のため目的を達しようとしている時のトラブル、こんな悔しい事は無かった。操縦桿を引き気味に追従した。いよいよこのままでは海没と判断し、涙をのんで別れのバンクをし右に変針した。

 爆弾を落とし身軽になった愛機は上昇した。見渡す限り海また生み、早く島に辿りつかねば海没だとあせり祈るような気持ちであった。遠くに島が見え出し、白浜がみえ段々近づいてきた。高度1,500メートルでとうとうエンジンは停止してしまった。落ち着け落ち着けと自分に言いきかせエンジンのスイッチを切った。海岸に向って滑空し、水際で機種をひねり、落着気味に接地した。しめた、うまく接地が出来たと思った瞬間、脚が砂地に食い込み、デエンと大きな衝撃と共に逆立ちとなり背面になってしまった。

 空中でエンジンストップした時、冷静にスイッチを切った事が幸いしてか、火は出なかった。怪我も無かった。敵機にも遭遇せず奇跡的幸運が続いたが、この一瞬愛機を壊した悔恨が頭をよぎった。

 島民は日の丸をつけた飛行機が不時着するのを見ていたのか、すぐ走って来た。「小父さん掘って」と頼むと「生きてる、生きてる」と犬かきで懸命に砂をかき上げてくれた。バンドをはずし、風防ガラスと砂地のすき間から機外に出た。助けて頂いた島民に、丁重に礼を述べると同時に、特攻隊員として不時着、生き残った事の悔しさと恥ずかしさが込み上げて来た。

 かくして6月初旬、再び知覧に戻る事が出来たが、廻りには自分の隊の者は一人も居らずいたたまれなかった。毎日戦闘指揮所へ出撃命令をくれる様、頼みにいったが、「待て待て」といって仲々下りなかった。

 やがて待望の命令をもらった。これで皆の後を追う事が出来ると思ったのもつかの間、梅雨に入り折角の出撃命令も二度まで雨に流されてしまった。

 6月下旬、沖縄は陥落し沖縄特攻作戦は終わりを遂げ、本土決戦要員として知覧に留まったが、終戦を迎え慚愧に堪えない重荷を追いながら復員した。

 特攻隊員には国を憂い、私情の総てを無にして殉じた清純そのものの青春群像があった。再びあの悲惨さを繰り返さない為にも、特攻隊員の死を正確に理解し、歴史の一コマとして事実を後世に残し、亡き隊員の死の無駄でなかった証(あかし)をたてる事こそ、私に与えられた使命で「おまえがこう言う事をやるために命を助けたんだ」と見えざる力に引きづられるように助けられている。生きて仲間を弔う使命があると思う様になった。

 昭和49年、単身で始めたご遺族探しも住所がわからず困難を極めた。市町村役場に問合せたり、直接調査に立ち寄っても決まって「プライバシー保護のため教える事は出来ません」と断わられたが、努力の甲斐があって、隊員の残した遺書、遺影、絶筆、最後の手紙等貴重な資料も順調に集まり、20年後の平成6年1、035名全員の遺影が揃った。

 昭和62年2月、知覧特攻平和会館が新築し、初代館長として入館者に特攻の真実と平和の尊さを語り、生と死が180度違った運命をたどった重荷が少しずつ軽くなっていく様な気がしていった。

 戦争を知らない世代が70%を越え、段々と風化してゆく時、平和と繁栄の蔭には尊い犠牲の上にある事を戦争体験を生かして語り伝えていかねばならない。(了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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