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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『手帳が語る終戦の思い出』  長谷川勇喜  

 昭和15年12月1日、北支秋第4283部隊に現地入隊。16年4月より中原会戦に除州よ り参戦。この後大東亜戦役に従事、十数回の作戦に参加、東平湖作戦中に高熱にて病院に収容。 18年4月に現役除隊後、羽黒村役場に19年より2年半奉職。

 身の回りの物を整理していると古い手 帳が出てきた。ああ、これは病院船で大 阪港に帰り上陸した時、迎えの国防婦人 会の方より戴いた「海運報国」と書いて ある大阪商船の手帳。役場にいた頃持ち 続けた物で、見ると色々と思い出の事が 書いてある。

 20年2月、私のいた部隊も北支で師 団が編成され沖縄に来て玉砕。沖縄戦が終った7月頃から本土も急に戦場化して行く様に思えて 来る。三河方面での色々のデマがとぶ。

 その頃の記憶を思い出して見る。

 6日広島、7日豊川、9日長崎と、次々と主要都市が爆撃され国民には真実は報道されなかっ た。岐阜の各務原第一、第二飛行連隊は毎日の様に爆撃や艦載機の銃撃を受けた。この辺りでも 羽黒農協倉庫やめぼしい二階建ての家は目標になった。今でも弾痕穴が残っていると思います。

 そんな頃、東海軍師584作戦室(旧大山町のどこかの二階にあったと思います)の山崎中尉 から「緊急工作隊員15名は8月8日午前6時、鵜沼駅前集合せよ」との命令。手帳を見ると羽 黒より長谷川鎌一、奥村昇、奥村保、奥村渡、河村浜一、福富為吉、石田鯉三郎、石田捨一、武 内唯一、長谷川亮一、高木経夫、吉野鈴一、吉野宗一、吉野敏夫の皆さんと私で15名が参加。

 中尉の指揮下に入って大安寺の壕の中で一日中トロッコで土運びする。昼夜三交替で大分、中 の方まで進んでいた様であった。何のための壕掘りかは知らされなかった。いま思えば本土決戦 のためであったと思う。

 8月10日頃の記憶、兵事係さんにきた「丸秘本土決戦にそなえて」の別紙を手帳に写しておいて くれとの事。 手帳より。

 別紙
 一、未教育入営者ハ最初ノ応召ナルヲ以テ氏神等に集合シ町村民ヲシテ壮行式ヲ催セシメ兵役 義務ノ崇高ナル所以テ銘肝セシメサレタシ

 一、郷当ヨリ召集部隊二至ル間、上司トシテ引率スルコト

 一、被服ハ略帽二軍服又は国民服、作業服、靴又ハ地下足袋二巻脚絆ヲ着装ス 防雨外套ヲ所持スルモノハ之ヲ携行セシムルコト

  携行品(応召者全員)
   1奉公袋(遺髪ヲ忘レザルコト)
   2兵器(九九式銃) 訓練銃又ハ木銃、竹槍
   3食器 飯盒又ハ弁当箱(箸共)汁茶碗、水筒

寝具(布団一枚) 糧食(弁当二食及米一升) 被服(襦袢、袴下)各一 略帽ニハ星章ヲ準備スルコト、携行品中各人所有セザル兵器、装具等ハ青年学校所 有スルモノヲ借上ゲ携行スルコト

     布片ヲ附ス
    鉄棒マタハ防空ズキンヲ携行スルコト

 三河地方には艦砲射撃があったとか、いよいよ本土決戦かと思う。

 15日朝、村長さんより正年に重大放送があるとのこと。 一億火の玉となって本土決戦の大号 令がかかると皆の人が思った。

 11時頃、村長さん、助役さん、収入役さん、兵事係さんと私は宿直室にて早目に食事をすま せ、正午よリラジオ放送を聴く。外に7人女子吏員さんがおられたが家に帰って食事だったと思 う。本土決戦でなく降伏との事。終ると同時に、村議をしておられた郵便局長さんが大声で「村 長、羽黒村の態度は」と来られ、村長さんが「陸下のお心にそうよりしようがない」と言われ、 皆さんの目が血走り、涙が流れていた。そんな一場面もあった。今は、皆さんが他界されてしま った。玉音放送後も19日まで燈下管制が続けられ、20日より電気を明るくしてもよいとの通 達、これでやっと戦いが終ったと思った。

 25日、羅災者用寝具30世帯分供出、防空頭巾一世帯2個供出、必ず通達
 30日、第一回刀剣類供出、松浦浅吉さん二本・・・・・武内庄吉さん一本、13名で17本、二回、三回と霊ねて最期9月末日、リヤカーで犬山警察署に納めた。合計341本

 以上のような事が手帳に書いてあった。

 一カ月玉音放送が遅かったら本土も沖縄と同様になっていたと思います。戦争は二度としては いけません。民族が減亡してしまいます。地球が無くなってしまいます。

 昭和21年2月1日午前零時をもって今までのお金は使えなくなり、新円制度が始まった。 最初は新しい紙幣がないため、 一人当たり200円まで証紙を貼って使用することとなった。復興 と平和の鐘をならしてスタートしてから51年6ケ月、見事に実りました。

 これからも若い人達がいつまでもいつまでも平和に暮らしていかれることを願って終ります。  (了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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