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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『わが青春の日々』  鈴木基治  

 第二次世界大戦が半世紀にわたる戦史の終章として敗戦という、余りにも大きな代償によって 終結してから早くも52年の歳月が流れ去りました。

 昭和6年の満州事変に引き続き昭和12年の支那事変、そして昭和16年12月8日「米英と 戦争状態に入れり」真珠湾攻撃「ニイタカヤマノボレ」、そして大東亜戦争へと戦争が拡大する につれて、学校にも戦時体制の色彩は年毎に色濃さを増しました。

 その年わたしたちは旧制中学に入学しました。配属将校の権威も増大し、軍事教練の強化、国 策にそうべく勤労奉仕の増加はかなり学業の犠牲をしいてきました。クラブ活動といえば、新た に銃剣術、射撃という軍隊向きの新クラプが生まれ、私たち生徒の士気を高めようとプラスバン ドも結成され、ラッパ部とともに行軍分列行進に活躍したことも、今はわたしの脳裏を走馬灯の ごとくかけめぐります。

 戦争も末期となり、血気盛んな生徒は多く予科練を志願し進んで軍隊へ入隊しました。昭和1 6年12月には繰り上げ卒業で、三カ月も早く軍需工場などへ労働力不足を補うべく巣立ってい きました。昭和17年には勤労動員で出征兵士の留守農家へ手伝いに行き、18年には軍需工場 で九九式小銃、山砲などを造っておりました。

 また健民修錬(強健な精神力と体力錬成のための訓練)といって、合宿訓練をしたりして教室 で授業を受けることはほとんどなく、週一回学校におもむき竹槍訓練など軍事教練を受けたりし て、その日その日を過ごしました。

 食料難で苦しみ、教科書も新聞紙大に刷られたものを配布され、また内容も軍事色一色に塗ら れていました。外国語はいっさい使用せず、数学や理科の中からも外国名の記号を取り去り、不 自然な日本名に改められていました。そうした中で、軍事教練を通して何事も全体責任というこ とがやかましくいわれ、班の中で誰が脱落してもいけないというものでした。寒風の吹きすさぶ 最中、訓練と称して運動場で正座させられたこともありました。

 旧制中学へ入学すると中学生活になじめない輩も多く、それは当時の「学徒動員令」に反発し たりしながら本土決戦に備えたものでした。

 本土決戦、 一億玉砕と悲壮な掛け声の飛び交う戦争末期の昭和20年8月15日の終戦「‥堪 え難きを堪え、忍び難きを忍び‥」との玉音放送に涙したのは、学徒動員令のもと、旋盤、フラ イス盤やボール盤などの並ぶ軍需工場でのことでした。

 当時は社会的にも、経済的にも混乱期であり、食糧不足、教材不足等々重なってクラス全体勉 強に身が入らない、年が改まっても、物不足は深刻、特に食糧不足は餓死者が出るほどで、闇米 の取り締まりが新聞紙面を賑わしていました。

 いま、わたしたちは自由と平和に馴れ、何一つ不自由のない文明社会を謳歌していますが、戦 時中の苛烈な苦難の日々を生き抜き、戦後の忍従と試練の日々を克服してきたわたしたちの世代 にとって、戦争の傷痕は、 「国破れて山河あり、城春にして草木深し」の感慨と共に、終生忘れ ることのできない鮮烈な記憶として、いまなお、脳裏から消し去ることができません。

 国民の半数以上が、戦争を知らない人々によって占められる現在、その人たちに、二度と繰り 返してはならない戦争の悲惨と痛恨の事実を克明に伝えることは、戦争経験者として、残された 生を刻むわたしたちの世代の義務であります。 (了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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