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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『地獄絵図の岐阜空襲』  山口芳明  

 昭和20年7月、当時私は国民学校(現在の小学校)四年生で旧岐阜市内に住んでいました。 通学時には必ず防空頭巾(座布団を折り曲げて作った手製のもの)を持参していました。夜はほ とんど毎晩のように町内会単位による消防訓練がありました。

 中でも一番人気があったのはパケツによる消火訓練で、各自が防火用水から水を運んで目標と する大きな木桶に放水し、 一定時間内にどれだけ桶に水を溜めることが出来るか、ちょうど今の 運動会の玉入れのように各班ごとに競い合うというものでした。桶の手前には30センチぐらい の穴の開いた板がおいてありますから、その穴に命中させなければ桶に水は溜まらないような仕 掛けになっていました。

 岐阜市に対してそれまでにあった米軍機の襲来はというと、高度1万メートルぐらいの上空を 飛行機雲を引いたB29の単機(多分偵察写真撮影?)と各務原にあった川崎航空機工場を襲撃に 向かう艦載機の編隊の通過でした。岐阜市と各務原との間には低いながらも山があるので、その 山陰から突如現れて攻撃しようというわけです。そのため岐阜市内の屋根をかすめんばかりの超 低空を全速力で通過するのですが、それを見たくて家にいるときは、空襲警報のサイレンが鳴る と、すぐに屋根に上って艦載機の通過を今か今かと待ったものです。

 どうしてそんな悠長なことがしておれたかというと、当時の岐阜市内には他の名古屋などの都 市と違って工業地域もなく、軍事的な色合いのないほとんどが木造の住宅街だったので、米軍も とりたてて神経質に攻撃することもなかったためと思われます。

 しかしそれもついに最後の時がやってきました。7月7日の晩のことです。

 いつもの警戒警報の時と違って、 「どうも今夜は危ない」という話が伝わってきたのです。お そらくいつもの単機での行動と違うB29の大編隊が北上し、岐阜方面へ向かっているとの情報が 入ったのでしょうか。対処として近くの空き地に共同で作られていた防空壕の中に入る人や、郊 外へ避難していく人とまちまちでした。

 私は家族と一緒に防空壕の一つに入りました。防空壕といってもコンクリートで作ったような 完壁なものでなく、丸太で土止めした簡易型で内部はTの字型になっていて、土盛りの天井は一 応ついていました。壕の中には20人ぐらいはいたでしょうか、皆しゃがんだり腰を下ろしてい ました。

 やはりその夜、B29の大編隊は岐阜市を目標にしていて、大量の焼夷弾攻撃を一気に掛けてき たのです。空襲は何時頃から始まって、何時頃終わったのかわかりませんでした。防空壕の近く には落ちなかったことと、爆弾と違って着弾の衝撃がないからです。ただ壕の出入り口付近にい た人が時々戸を開けて外へ出ては「始まったぞ」とか「もう一面焼け野原になっている」と外の 様子を知らせてくれました。

 壕の中にいても直撃弾を受けたらと思うと心配で一睡もするどころでなく、特に恐怖の種だっ たのは夜明け近くになった頃、壕の外でサラサラという音がするようになったことです。それが 何の音なのかわからず、ガソリンでも流れ込んでくるように思えたのです。結局後になってわか ったのですが、壕の近くにあった柿の木の葉が熱でいっぺんに枯れ、大火災で起きた風で触れあ って生じた音だったのです。

 すっかり朝になってから、もう大丈夫ということで壕の外へ出て、昨日まであったはずの家に たどり着きましたが、その途中で、この世のものとは思えぬ恐ろしいものを見ました。それは前 述の消防訓線の際に水源として使われたものでコンクリート製の水槽が道路の所々においてあっ たのですが、その内側へ頭など上半身を折り曲げて黒焦げになっている多数の死体です。どこも ずらりと鈴なりになっている状態で、周囲を火に囲まれ逃げ場を失った人達が焦熱から少しでも 逃れようとした結果の無惨な姿で、まさにこの世の地獄絵図でした。

 焼夷弾の大量攻撃の前には、パケツによる消火訓練など何の役にも立ちませんでした。火の手 は一カ所やニカ所ではないのです。おまけに消えにくい油脂系の原料が使ってあったり、ガソリ ンでは水を掛けても余計火が飛び散るだけです。

 一方、郊外へ避難していった人達の中にも不運な人もいました。後で聞くところによると、私 の家のすぐ前に住んでいた家のご主人ですが、なんと焼夷弾の直撃を体に受けて即死されたとい うことでした。

 岐阜市もあの夜から52二年、今は平和で華やかな街ですが、こんな受難の日もあったのです。  後年、私は岐阜市立図書館を訪ね当夜の空襲に関する資料を調べたのですが、以下はそのうちの 一つです。

 『来襲したB29は米国側の発表では130機で深夜に数万個の焼夷弾を投下し、被害は旧市内 の八割に及んだ。まず旧市内の周辺部を焼いて後に中央部を狙い、更に避難路を絶つとの戦法を とった。これを繰り返し、このため退路にあたる農村への焼爆攻撃は激しく合渡村では八割が罹 災し、その罹災率は村としては全国でも珍しいという…「図説岐阜の歴史」吉岡勲著』。

 これで前述の郊外へ避難しながら亡くなられた理由も納得できました。当夜の空襲は住宅街を 焼き払うことのほかに、市民の殺りくをも目的としていたのです。

 戦争はこんな狡猾で残忍な大量殺人でも合法化します。そしてそれをより多く犯し、平時なら ば血に飢えた殺人鬼と忌み指弾される人ほど、人々から笑顔でもって賞賛されるのです。同じア メリカでも平和時の現在においては、例えばどこかに落ち込んでいた犬を救助しても、マスコミ が大きく取り扱うこともあるというのにです。本当に戦争は全ての人を狂気にしてしまうもので す。(了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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