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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『生き埋め』  井上家範さん

 "生き埋め"なんと悍しい言葉だろう。生あるものが地中に埋められる。弟 や従妹弟二人はそのまま幼い命を奪われた。窒息死である。

 昭和19年の暮れごろから強い地震(三河地震)や米軍による空襲が相次ぎ、父 は「いざという時には布団を被って、なるべく川の土提や低いところに身を ふせるように」と、よく言っていた。

 川を隔てた向こう側は名古屋市で三菱発動機の軍需工場が立ち並んでおり、 空爆のたびに黒煙が上がっていた。「B29の編隊は潮岬南方海上を北上中」 というラジオのアナウンスも聞き慣れたものだった。

 昭和20年3月25日未明のそれは平素と様子が違っていた。私たち子どもは親と 別棟に起居していましたが、何時頃か父か母の声にたたき起こされ、灯火管制 下の暗闇の中で着替えをし、布団を被って防空壕へと走った。

 牧童部屋のトタン屋根に、何かがはじける音と、暗闇であるべきはずの夜空 を真昼の様に赤々と照らす何ものかがゆらゆらと空から舞い降りてくる。まさ に舞い降りてくるというにふさわしい情景であった。照明弾である。

 壕の中で蒲団を被ってしゃがんだ途端、どんとした重みで体が動かなくなった。 どうもがいてもびくともしない。どのくらい時間が経ったのだろう。だんだんと 息苦しくなってくる。"生き埋め"という言葉が頭を掠めた。ますます息苦しくな ってくる。幸い蒲団を被っていたので、顔の周りにわずかの空間があり、かろう じて息をしているわけだが、もうこれで死ぬんだなあと思ったりした。

 さらに時間が経過する。父や母はどうして助けにきてくれないのだろう。いろ んなことが頭に浮かぶ。小学校のこと、これから通う中学校のこと、みんなと遊 んだいろんな出来事、仲の良かった友達の顔…。さらに時が経つ。朦朧とした中 で意識が薄らいでいくのを覚えた。

 時々、サラサラ…というような音がする。ああ、誰かが掘り起こしてくれてい るんだと思った。しかし、それは繰り返す空爆で槌が覆い被さる音だったようだ。

 どのぐらい時間が過ぎただろう。今度はゴツゴツと何かをこづくような音だ、 と共に人の声がする。今度は本当に誰かが掘り起こしてくれているんだ、きっと そうだ、土の下から精一杯の大声で「ここにいる。ここにいる」と叫んでいた。

 掘り出されて地上に立ってみて、一番強く感じたことは「なんと空気がおいし いものだろう」ということだった。こんなにおいしいものがほかにあっただろう かと、真っ暗な中にも砂塵の舞う薄汚れた空気がである。

 そのうち母屋のあったあたりから火の手が上がった。何もない。家も何もかも やられたんだ。目の前には蟻地獄のような大きな爆弾の穴が開いている。防空壕 からわずか1メートルぐらいしか離れていない至近距離だった。火柱の薄明かり の中を人影が右往左往している。だれかが戸板に載せられて運ばれていくのが薄 明かりの中に感じられた。誰かが「学校へ、学校へ!」という声にせきたてられ るように、小学校へ避難させてくれた。校番さんのところで二晩泊まったが、ど うして母は迎えに来てくれんのだろう、三日目の朝、とぼとぼと家へ向って歩いた。

 家の近くのおばさん達が炊き出しの握り飯を食べていた。僕も大きな握り飯を 一つもらってほおばった。おばさんに「うちのおかあちゃん、知らん?」と聞い たら「あそこにおりゃあすよ」と指さす方を見ても、母の姿はない。母が死んだ とは夢にも思っていなかったのである。母の遺骸は柳の木の下に菰を被せて放置されていた。

 家のあったところは瓦礫の山となっていた。そこに呆然と立ちつくしていた。 誰に聞いたのか覚えていないが、父は消防団の人が大曽根病院へ担ぎ込んだが、 虫の息だったという。兄は戸板の上で「水をくれ、水をくれ!」と叫びながら息 絶えたという。

 それから一、二日経ってから白木の箱が五つ並べられた。母の髪の毛は血で固 まったようになっていた。弟や従姉弟 の死に顔は綺麗で生き埋めで苦しんだ様 子もなくまるで寝ているようだった。不思議に兄の死に顔は思い出せない。

 罹災後、戦中戦後の生活は混沌とした世情に加え、食糧難の時代であり、小学 校を卒業したばかりの少年にとってどうやって生きていくのか、至難のことであった。

 今でこそ平和で、ただただ感謝の気持ちで暮らしているが、あの頃は神も仏も あったものかと、精神的にかなりすさんだ日々を送っていた。物は豊かで豊穣の 時代となっても、あの空気のおいしさはいまだに忘れられない。

 戦争はいかに大義名分を立てようと殺戮行為以外の何物でもない。二度と悲惨 な戦火を繰り返すべきではない。この戦いで幾百万の方々が亡くなられたが、す べて生き永らえた者の死者に対する鎮魂の言葉としたい。



          愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
       「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

        (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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