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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『ないないづくしの時代』 高 木 イ ト   

 今でも時たま「三好屋さん」と呼んでいただける人があります。私の家は戦中・戦後の20年 間ほど「三好屋」という屋号で、呉服と洋品雑貨の店を営んでおりました。田舎のよろず屋に過 ぎませんでしたが、でも城東村では一軒しかない衣料品と雑貨の店でした。

 南京が陥落すれば支那事変(田中戦争)は終る、といわれていましたのに、蒋介石は奥地の重 慶へ首都をさっさと移してしまいました。国民はいつ果てるとも知れない戦争に疲れ、勝利への 気勢さえ失いつつありました。

 戦争開始から3年目の昭和15年は、神武天皇のご即位から「皇紀2600年」に当たるとい うことで、政府は全国的に盛大な慶祝行事を行なわせました。沈滞した国民の戦意を高揚させる ためであったようです。この年、政府は「大日本帝国国民服令」を決めました。主人も早速、国 民服を新調し、胸に大きな犠式用の記章をつけて「大政翼賛会」支部結成大会に着て行ったこと を思い出します。

 「もう、戦争はいや」と思っているさなかの昭和16年12月8日、世界を相手にまたもや大 東亜(太平洋)戦争という大戦争が始まりました。4月に「生活必需物資統制令」が公布されま したが、国民はそれが生活にどう影響するかも知らずにいました。気が付いた時には、六大都市 で一日二合三勺(300グラム)の米穀配給通帳制度が開始されていました。

 明けて昭和17年2月に、衣料品の切符配給制度が実施されました。呉服は綿の絣や浴衣の着 尺物の仕入れがやっとで、よそ行きの銘仙やお召などは店の棚から姿を消してしまいました。戦 争のための武器弾薬の生産が第一で、生活用品の原材料も軍需用品製造が優先されました。そん な中で「欲シガリマセン勝ツマデハ」が流行り言葉になりました。 「戦争に勝つまでは、辛抱し ましょう」と言われれば、誰も文句は言えませんでした。

 衣料切符は1人が1年80点と決められ、服や着物一着分が50点、足袋・靴下は2点、手ぬ ぐい・タオルは1点だったように思います。切符はあっても肝心な品物がない状態でした。

 そうこうしているうちに、 「金属回収令」が出ました。公共施設や家庭にある金属類を回収し て、武器弾薬を造るためです。父が大切にしていた仏具や真鍮製の手火鉢、かね火箸も、止むな く供出させられました。

 昭和18年になると、もう店に並べる商品がほとんどなくなってしまい、全国どこの店も開店 休業に等しくなりました。

 そんなころ、村役場から国策による「城東村繊維製品配給所」と「城東村家庭用品配給所」に 指定されました。早速、役場の吏員が、いかめしい大きな配給所の看板を、達筆で書いていただ け店先に掲げました。

 政府は「贅沢ハ敵ダ」という標語のもとに、 「戦時衣生活簡素化実施要綱」を決めました。男 性は労働作業着か筒柚、女性はもんぺ姿か元禄袖、と国民の日常衣服にまで口を出すようになり ました。

 当時の城東村は、富岡・善師野・塔野地・前原・今井・継ケ尾・栗栖の七部落でした。役場の 配給係は佐分利さんで、全村の衣食に関する配給事務を取り仕切ってみえました。各部落の隣保 班(隣組)ごとに配給品を割り当て、班長に通知をされます。隣保班長はそれをだれに何を配給 するかを決定し、衣料切待を集めて私の店「三好屋」へ受け取りにこられました。色もサイズも おかまいなし、配給を受けられるだけで有り難い時代でした。年に3、4回、その都度リヤカー 2台分程度が全村の配給量に過ぎませんでした。

 塔野地に宗栄寺という格式の高い尼僧寺院があって、当時は修業中の尼さんが2、30人おら れました。副住職の文昌さんは、さばけたお方でした。 「質素な尼寺生活でもこれだけ物が不足 しては生活できません。こうなったら配給と名が付けば男でももらいます」と冗談を言われたこ とが、今でもわが家の語り草になっております。

 昭和19年11月ごろからB29が本土を爆撃するようになり、風雲急を告げました。終戦の昭和20年になりますと、空襲と艦載機の機銃掃射が毎日のようになり、身を守るのがやっとで、 「食」が第一、 「衣」は第二でした。第三の「住」も大都会では延焼防止のために建物取り壊し が始まりました。人間が生きていくのに最低限必要な「衣食住」すらも政府は面倒を見てくれな くなってしまいました。国民は「自給自足」の原始生活に突き落とされ、「衣食を断って礼節を 知る」どころか、道義は地に落ちてしまいました。

 今年、戦後52二年を迎えました。それでも、当時の耐乏生活の日々を忘れることが出来ませ ん。戦争に勝っても負けても、銃後を守る老幼婦女子にまで大きな負担が掛かることを身をもっ て体験しました。

 あの苦い戦争下の生活を、孫や曾孫に二度と味合わせたくありません。 (了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)


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