「平和を願って」 戦後50年 犬山市民の記録
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
犬山市民の戦争体験
『クレ高地の激戦』 奥村定雄
昭和19年1月、シンガポールに上陸、その後風雲急を告げるビルマの助っ人部隊要員として
従軍し体験した実話です。
クレ高地とは、ビルマ中央部マンダレー東方の高地で、敦貿歩兵119連隊「安10020部
隊」の死闘潰滅の地でもあります。浅い雑木まじりの竹薮ジャングルに、我が第三大隊本部は陣
地占領した。クレ高地攻撃の命が下った様だ。何とも嫌な気持ち、何か良くない事が脳裏をかす
める。夜陰に乗じ前進を始めた、といっても我々兵には方向も地形も作戦も分からない。だいぶ
更けた頃、友軍陣地より高地目掛けて砲撃が始まった。耳をつんざく炸裂音、そして前方高地が
赤々と炎を上げる。砲撃も静まった頃、示し合わせたように前進命令が下った。そろそろと山を
登り始めた。その頃より河向こうの敵陣から迫撃砲の攻撃が始まった。砲弾が不気味にヒュルヒ
ュルと我が背をかすめる。木の梢に触れればたちまち炸裂する。身のすくむ思いがした。
しばらくしてその時が来た。すごい炸裂音と共に、何中隊か分からなかったが、散開して地を
這う兵が呻く。やられたのだ。 「お母さ―ん」と叫ぶ、
「天皇陛下バンザイ」と叫ぶ兵士等の声 を暗闇に聞く。なだらかな傾斜地を這いながら、未明近く平らな地形だが大きな石がごろごろ転
がる頂上付近にたどりつく。向こうの端の方には、敵のトーチカがあって、その銃眼から炎が、
そして銃弾が我が方目掛けてビシッ、ビシッと飛来する。はじめての接近戦でした。
その間わずか百メートルぐらい、まだうす暗い。その時、私達のすぐ後で指揮しておられた和
歌大隊長殿が、 「自分が号令を掛けるから前方の建物まで一人ずつ進め。いいか。まず立田一等
兵、お前からだ。 一、二の三、それっ」。 一目散に突っ走る。その間、我々は小銃で援護する。
「次は山本お前だ。それっ、 一、二、三」。
私の番が回ってきた。もうそれこそ一目散、死に物狂いで建物の角まで走った。30メートル
位だったが、長く感した。敵弾がパシッ、パシッと砂煙を上げる。その頃になってようやく人の
顔が見えるようになって来た。すっかり明るくなって、銃弾も激しさを増してきた。左側傾斜地
を更に敵陣に向って前進していた。隣に戦友がいないのも知らず、夢中で敵トーチカに向って銃
弾を撃ち続けていた。ふと気付くと私と田中兵長だけ、他に戦友の姿がない。ハッと驚いて後方
を振り返ると5、60メートル後方の斜面にチラリと上半身を覗かせて手招きしている姿が見え
た。宮部副官殿だと思った。これはいかんと思う暇もなく敵の集中射撃。目標は我々二人、そし
て手榴弾も身近に飛んで来たが、幸い不発で大きな石の間に転がり落ちた。
でも敵に背を向けて走ることも出来ず、銃を撃ちながら後ずさりして、敵の目に隠れる斜面ま
で私が先に辿り着く。つづいて田中兵長も私のそばへ来た。二人ともよく助かったものだ。九死
に一生を得たとはこのことだろう。
その頃は、もう戦友達の姿はなかった。山の中腹まで下った時、友軍の機関銃が一基放置して
あった。二人でそれをかついで山麓まで下った。大隊本部の皆が心配して待っていてくれた。日
も高々と昇っていた。初めて生きていたなーと感じた。見ると大隊長殿が負傷されていた。
第一回クレ高地攻撃が終り、第二回目の攻撃命令が下ったようだ。私は病気のため、後方陣地
の装具監視に残され、戦友の安否を気遣いつつ前線へ送る食事を作り送り出していた。
ある日、宮部副官殿が血まみれになり、悲痛な面ざしで掃つて来られた。
一番頼りにしていた 副宮だけに私達もことの重大さに非常に悲しく心も沈む思いでした。その後クレ高地手前の空地
(幅3〜4メートル、深さ2メートル位、長さ100メートル位)に陣取って敵の様子をうかが
っていたところ、上空には敵機が数機爆撃を繰り返しながら舞っていた。上空に気をとられてい
る間に、すぐ日前に敵戦車群が押し寄せていた。そして上空からは機銃掃射の雨。銃をかまえて
いた私の足元1メートル右手に50センチ位円形に、数十発の弾が砂煙を上げた。ハッと足を引
っ込める。もう少し自分寄りだったらと思うと身のすくむ思いだった。
その内、ゴウゴウとすさましい音と共に戦車が数台歩兵を従えながら目前200メートル位ま
で接近して機関銃で、ダ、ダ、ダと撃ってくる。交替で敵の様子をうかがっていた私と、その近
くに機関銃中隊の兵三人と同中隊の将校さんがいて、その兵達に吸着破甲爆雷を戦車に着けて来
るよう命じていた。戦車は7、80メートル位まで近づいている。
兵達は顔色を失っていた。その将校は全く知らない私にも行くよう命じた。でも「自分は大隊
本部の命で見張っているので従わない」と言った。しかし、
「そんな場合か」と言われたので行 くことにした。飛び出したら命はいくらあっても足りない。もう駄目かなと思って着剣した銃を
抱いて立っていたら、突然パッと強いショックを受けた。
私のすぐ後に立って、双眼鏡で戦車を見張っていた将校が、ウッと言って後にのけぞった。見
るとのどに弾が当って戦死された。他の中隊で誰であったか、名も知らない。私の剣を見たら弾
が買通して穴があいていた。我々もいよいよ最後の時が来たという感じであった。
その晩、我が連隊長殿が、敵戦車群の中に突入されたことを知らされた。真っ暗な夜でした。
その頃か敵陣地より激しい銃声と爆発音と共に、中天高く炎が赤々と立ち上がっていた。その夜
も深まる頃、我々は敵包囲の間を、地を這い、すりぬけ脱出に成功、次の作戦に向う。
メイクテイラ付近であっただろうか、夜になり急に斥侯について行くよう命じられた。大隊本
部付岡田中尉と下士官と私である。三名は暗闇にまぎれ出発、30分位歩いたらもう敵陣地内で
ある。壕が掘ってある背丈程の深さ、巾70センチ位の中へ入って手探りで進む。ぐねぐねと曲
りくねっていた。いつ敵に出会うか気が気でない。敵の壕だから敵がいて当たり前だが、外へ上
って眠っていただろうか、暫らく進むと現地人の建物がある。床下は高く立って歩ける。そっと
忍び寄るとほのかな明かり、そして話し声、もちろん言葉は分からない。でも地形などを調べ、
ほぼ目的を達して帰路につく。
ジャングルの小道をたどっていると、突然3、4人の人の影が見えた。敵か味方か、友軍陣地
に近いところだったので友軍かと思ったが、
「誰か」と言うと、自動小銃でバリパリと撃って来
た。こちらは三八式小銃、腰だめはできない。素早く茂みに飛び込み難をまぬがれた。
テジヤインの渡河(イラワジ河)
夜も更ける頃
渡河が始まる
イラワジの大きな流れ
斜めに進む舟、舟
幾隻かの舟艇に分乗
しばらく進むと
我々の乗った舟が浅瀬に乗り上げる
浅い水中に降りて皆で押す
なかなか動かぬ夜が白み始める
敵機が気になる
その内、何とか動き出した
水量がどんどんヘる
明るくなってしまった
何とか対岸にたど少つく
少しの違いで
敵機が舞った
(了)
愛知県犬山市 平成9年8月15日発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)
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