「平和を願って」 戦後50年 犬山市民の記録
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
犬山市民の戦争体験
『戦争という狂気の悪魔』 高木眞澄
1995年1月17日、明け方のししまをけ破って阪神地方を大地震が襲った。夜空を焦がす
神戸市炎上のテレビ画面に、 一瞬、戦争下のB29大爆撃の惨状が重なって思わず戦慄した。また
3月20日早朝、東京地下鉄サリン事件の無差別殺戮の惨事は、非人道的な七三一部隊の悪業も
かくやと恐怖に戦いた。
オウム真理教によってマインドコントロールされた人間の「狂気の沙汰」は、半世紀前疑念も
抱かず太平洋戦争を聖戦と信じ、不惜身命に戦った己れの幻影を見せ付けられる思いがした。こ
の年、敗戦五十周年。神が戦争の悲惨と残虐を再警告したのかも‥…と。
1929年(昭和4年)生まれの私が入学した北長森尋常高等小学校は、第68連隊(現・
岐阜市)と陸軍病院との隣り合わせにあった。校章は『帝国陸軍』の星のマークの中央に「北」
という文字が描かれ、それが誇りでもあった。学校行事の数々は傷病兵士らを招いて開催される
など、まさに「軍学一体化」していた。
我々昭和一けた世代は「戦争の授け子」かのようにして生まれ、幼年期は「満州事変」、小学校
時代は「支那事変(日中戦争)」、旧制中学時代は「大東亜(太平洋)戦争」と、常に戦争とと
もに生きる運命にあった。
1942年。喜び勇んで入学した旧制中学は、
「軍事教練」の特訓の場でもあった。陸上競技
は姿を消して戦場競技となり、配属将校の指揮のもと匍匐前進・手榴弾投擲・城壁登はん、はて
は射撃訓練に加えて銃剣での敵兵刺突訓練と、厳しい猛訓練に明け暮れた。広い太平洋も敵の潜
水艦の跳梁の場となり、食糧増産が緊要となった。
一年生の錦秋から出征兵士宅の援農作業、入鹿池水門工事、一宮市郊外の潅概用水路建設、国鉄
稲沢機関区での石炭積降ろし作業等と、13歳の少年ながら苛酷な肉体労働に従事させられた。
政府は1943年(昭和18年)6月に「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定し、兵士大動員
のあとの労働力不足を、学徒によって補填することをさらに強化した。陸軍が名古屋防衛のため
に豊場飛行場(現・名古屋空港)建設を開始し、二年生の12月から動員された。吹雪や伊吹颪
の吹き荒ぶ極寒の中、滑走路建設もスコップとモッコだけが頼りであった。やっと戦闘機「飛燕」
が離着陸できるようになった翌年2月、動員を解除された。
1944年(昭和19年)に入るや、政府はさらに「緊急学徒動員方策要綱」
「決戦非常措置 要綱に基づく学徒動員実施要綱」など、矢継ぎ早に諸策を決定。三年生に進級したのも束の間、
6月からは甚目寺飛行場建設に駆り出される羽目となった。臨時のパラック兵舎で兵士と起居を
共にすること三ケ月.雨季と粗食と重労働に耐えた。海抜0メートル地帯の津島地方のこと、水路
は蚊の発生源となり、また、その上、就寝後は蚤やシラミの吸血鬼との戦いでもあった。昼間の重
労働に加えて深夜は一時間交替の不寝番で、我々は次第に疲労が蓄積し、思考力を失っていった。
真夏の夕食後、快い涼風が肌をなで、鈴鹿連峰の頂が茜色に映えるころ、突然、非常呼集で営庭
に整列させられた。聞き馴れた配属将校の癇高い声の檄が飛んだ。
「予科練(海軍甲種飛行予科 練習生)志願」の半ば強制であっだ。
150余名のうち十数名が国難に殉ずる情熱に燃えて壮途
につき、二人が還らぬ人となった。人間は幼少年期から徹底的に軍国主義教育で洗脳されると、
美化された己れの英雄的幻影に陶酔し死をも恐れなくなる。げに教育ほど恐ろしいものはない。
8月下旬、動員を解除され学校へ復帰した。脳味噌は肉体労働にふやけ切って勉強への意欲を
失い、うつろな心で「葉隠」や「戦陣訓」に死の意義を求めた。次に待っていたのは9月からの
「学徒通年工場動員」であった。愛知県は全国有数の軍需産業地帯であり、動員先の豊和重工業
西春工場では、15、6歳の学徒(旧制中学生と女学生)と女子挺身隊員が生産の主力を担った。
背文の低い者は木箱を踏み台にし、 「九九式小銃」と「九四式山砲」の生産増強に健気に励ん
だ。学業を捨て、 「八紘一宇」の大理想実現に身命を捧げる身には、わが青春を顧みるいとまも
許されなかった。ただ、身を挺して「撃チテシ止マム、鬼畜米英撃滅」に邁進するのみであった。
肌寒い10月のある日、県下でも銃剣術の名手であったK君が、不覚にも小銃の部品約100個
のオシャカ(不良品)を作ってしまった。
「この物資の欠乏している時、鉄の一塊は人肉の一塊よりも貴重だ。たとえ鉄の一片たりとも、
上御一人(天皇)から賜った資財である。貴様は重営倉(軍隊の牢屋)だ!」
と直属上司や軍の技術将校から一喝された挙げ句、ぶっ倒れるまで殴られた、と聞く。
ことのほか生真面目であった彼はその責任の重大さを痛感し、兄の形見の短刀で勇敢にも割腹
自決を遂げた。いたいけな十五歳の軍国少年の、悲壮な「殉国の死」であった。戦争の悲劇は、
なにも第一線だけではなかった。
1945年(昭和20年)、B29の徹底的な爆撃で軍需工業地帯は壊滅.沖縄も敵の手に落ち、
遂に本土決戦は焦眉の急となった。政府は男子15歳、女子17歳以上の少年少女をも根こそぎ
動員する「義勇兵役法」を公布した。はかない「人生20年」の夢さえ潰え去ったが、犬死にだ
けはしたくなかった。
7月末、 「本土決戦の先兵は学徒で」と、東海軍管区が全国でも異例な「学徒義勇隊」を編成
した。まず、強靭な体力と精神力を持つ四人が選抜されて出陣し、爆雷を背に模擬戦車めがけて
突撃、玉砕戦法「人間地雷」の特訓を受けたと、戦後、彼らは語った。
そして敗戦、平和の到来……。 一昨年、戦後50周年に当たり、期待の首相声明も「植民地支
配と侵略は、アジア諸国に多大な損害と苦痛を与えた」に終わり、近隣諸国の謝罪要求に油を注
いだ。今や「戦争の風化」と「平和ポケ」の陰で、再び「戦争」という狂気の悪魔が次の出番を
密かに狙っているのが恐ろしい。
<参考文献>
「歴史評論」96年8月号掲載 「本土決戦と東海学徒義勇隊」佐藤明夫
「21世紀への伝言」 (三重県戦後五十年体験文集)掲載「私の青春前期」伊藤光典(了)
愛知県犬山市 平成9年8月15日発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)
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