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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『爬虫類も食べて生き延びた』 木米重さん 

1.昭和14年1月10日 名古屋第二師団歩兵第六連隊入営。

2.同年4月3日 神奈川県(渕の辺)陸軍工科学校練習隊として入校。

3.昭和15年4月 同校修了現隊復帰(技術兵)。

4.昭和15年6月21日 南支那野戦自動車廠(河田部隊)廣東省黄捕港上陸{広東市河北}。

5.昭和16年8月 仏領印度支那(ベトナム)西貢港上陸、内地より軍需品関係ある戦車(中 型九七式)各種自動車(乗貨車)単車(アサヒ)等々揚陸作業。ドラム缶(ガソリン)ゴ ム林内分散集積作業。

6.昭和16年12月8日 大東亜戦争。

7.同年同月10日 泰国国境通過盤谷に進駐自動車修理補給業務、 一部マレー方面へ…。昭和17年頃まで第十五軍野戦自動車廠(林第10357部隊)。

8.昭和18年4月 泰緬国境通過、山岳(ジャングル)地帯路面(急坂)前進のみ。自動車故 障せば谷底へ放置(現状態)だった。戦友諸氏成田君あの時は戦利車(インタナショナル 組立車)で通過したネエー。始めて食べたジャングル野菜?…ビルマ、ラングーンモンキ ポイントに入る。ここは重慶〜ビルマルートの起点だ、敵軍需物資の山々、自動車等々し ばらく自動車修理業務に。毎夜の空襲だ。次第に熾烈化して昼間の来襲とともに爆撃され 数人の戦死も出て工場内も破壊、激化。

9.コカイン地区に移動。ローヤル湖畔に分散、地下壕内での作業機工部に在りては代用手榴弾 の製造など自動車関係外でもあった。現地人(正員)も減少し避難する。またまた爆撃さ れ一面廠内も火の海と化し多数戦死者が出、業務も出来なくなった昭和20年3月頃(合 掌)

10.「ウ号」 「九号」 「断」作戦インパール作戦の後退と共に前線の支廠はそれぞれの指揮下に 変って編入された。

11.昭和20年4月10日克作戦(中緬甸防衛戦及緬甸撤退作戦参加、本作戦に於て緬甸方面軍 特別混成旅団第二大隊(蘭第二部隊)の編成を命ぜられ本廠要員並に第一勤務中隊の大部 分180名出動し、 「トングー」附近の戦闘に参加。戦死11名、戦傷5名、戦病死24 名、俘虜4名、生死不明160名、遺棄、焼失兵器軽修理車29輔、修理所用工作車並製 造用生産施設悉皆。

12.昭和20年4月12日 戦況の推移に伴いラングーン防衛の為、軍特別混成旅団の編成下 命ぜらる。当廠は同旅団第二隊(蘭第二部隊と呼称)第一、二、三中隊、機関銃中隊。作 業小隊による(500名)兵の主力を昭和20年4月13日「トングー」出動該部隊は大 部分が技術兵を以って編成し、装備訓練共に良好ならず為にメークテラ附近に出現させる 優秀なる機甲部隊を捕獲する。戦斗力を欠き所期の効果を収め得づして散々後退し主力は 集結後戦斗しつつラングー方面へ?…‥一部は本隊と連絡断ち各々兵団に編入第一戦に参 加した。 (地名は前後する「メイミョウ」 「エナンジャン」 「コーカレー」 「ケマビュ」 「チェンマイ」 「ノンホイ」北泰方面へと?…‥食糧は全く無くジャングル野菜、爬虫類 など何でも食べた五ケ月間だった。)例をあげれば夜襲攻撃に参加する楽しさ、敵地に入 り捨て残していった食物(小麦粉をねって焼いたもの)空缶(食べて缶に附着する什物) 等、明るくなって探し求める食物、衣類)浅ましき次第なり……。体力は頓に衰弱低下、 長遠なる山岳路カチン族部落へ入ることすら‥‥死を覚悟して食糧探し。 「マラリヤ」ア メーパ赤痢、脚気等々併発疾病薬物供興亦皆無一名白骨地帯とも(合掌)。どうすること も出来得ない一人一人の気力のみでの生き残りでした。願わくば多くの英霊に対し安かれ と念願するのみ。戦争はゼッタイするな、さそわれるなと。叫ぶ此の頃の老後兵(了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)



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