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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『私は海軍特別年少兵』 石神玉雄さん 

(1)特別年少兵制度について
「幻の兵隊」海軍特別年少兵を知る人は少ない。ミッドウエーの敗戦で日米の攻防が逆転しつ つあった頃から、帝国海革の基幹となるべき中堅幹部の養成を目的に昭和16年創設されたもの で、少年航空兵、少年電信兵(16歳以上)よりも若い14、15歳であることから、海軍特別 年少兵と呼ばれ、特年兵と略称された。

 この制度について元海軍大臣嶋田繁太郎氏が九十余歳でご健在の昭和50年、 「海軍特別年少 兵とは、太平洋戦争が激化した昭和16年、帝国海軍は日本の海外進出に伴い、また将来の発展 に備えて、大量の中堅幹部の養成に迫られた。ここに海軍は特年兵制度を創設し、昭和17年よ り心身ともに優秀なる人材を全国に求め、三年間の基礎教育を与えた後、海軍兵学校に学ばせ技 術幹部に養成し、帝国海軍の一翼を担わせる目的であった。しかし、計らずも戦局は我に利あら ず、 一年有半の教育をもってこれら年少兵たちも第一線に送り出さなければならなかった。幼き 年少兵たちは祖国の存亡を憂い、進んで危険なる戦火の中に身を挺していった‥」と述べておら れる。

 これら特年兵の第一期生は昭和17年9月、全国から募集され続いて第二期生が18年7月、 第三期生が19年5月、第四期生が20年5月に募集された。採用総数は約11200名で佐 世保、呉、舞鶴、横須賀の各鎮守府において教育を受けた。このうちの第一期生の約三分の一の 実に三千数百名の若き命が祖国の安泰を信して“水漬く屍”と散華して行った。

(2)志願兵になるために
 私たちは昭和18年の春、学校の先生に進められて、海軍特年兵に志願した。弱冠とも言い難 い14歳の少年たちは、何のためらいもなく、半数以上の生徒が祖国防衛の熱意に燃えて志願し た。

 父母に話す私の顔をながめて、唖然としていた母、暫くして小さな声で「そうか」と言うのが やっとの様子だった。父は無言のまま複雑な表情で、ゆっくりと印鑑を押してくれた。体格検査 では重量不足で、水を飲みに井戸に走る少年が何人もいた。

 合格通知は半数以下の10人程度だったと記憶している。年が明けて三月、遂に来た採用通知 は私一人だった。5月22日、15歳で出征することになり、氏子神社まで四キロ余りの山間 の路を大勢の人に送られて歩いた。神社では、武運長久祈願と激励の言葉を受けたあと、 一時間 も遅れて来た木炭自動車の定期バスに乗って征途についた。

 全国各地から集まった2300人の少年たちは、5月25日憧れの針尾海兵団に入団した。

(3)私の特年兵体験
 特年兵教育は一般志願兵の教育と比較して、特に訓練と普通学に重点を置くことに特徴があっ た。午前普通学科、年後軍事訓練と体育に充当された。現代の14歳の少年達には到底想像も出 来ない程の猛訓練と猛勉強が海軍の網領に基づき厳正に実行され、 一日24時間、全く容赦を しない帝国海軍伝統のスパルタ教育が課せられた。

 また海軍の罰直には伝統のパッターがあった。忘れもしない入団式から十日過ぎの夜のこと、 持ち物点検があり家からはいて来た靴を隠し持っていたことを理由に、 一人の特年兵が罰直を受 けた。

 兵舎の通路に立ち腕を前に上げさせ、樫の棒をもった教班長が力一杯ふり上げて尻を叩く、二 本目で悲鳴をあげて倒れた。これに水を浴びせられ気が付いて立ち上ると再び樫棒がとんだ。初 めて見るパッターに よる罰直で分隊全員 が背筋が凍るような 恐怖だった。それ以 来すべての競技に負 けたり、心に緩みが あれば、必ず罰直が あった。

   そんな毎日で11ケ月の基礎教育を修了した私は、電波兵器普通科練習生に進み、四ケ月後卒 業と同時に左腕の桜のマークを誇らしげに特攻基地に配属され任務に就いた。その頃すでに敗色 濃く、毎夕のように送り出した特攻兵たちは、見送りの整備兵たちに「お世話になりました」と 元気な声を残して、二度と飛行場に帰ることはなかった。

 運命の八月十五日の玉音放送を島根の基地で聞いた数日後、私は故郷に向かった。 一年数ケ月 前に見送られて歩いたその路を、衣嚢(海軍兵の身の廻り一切を入れる袋)を担いで、 一人ひそ かに家路を急いだ。「国破れて山河あり」、山や川は何事もなかったかのように私を迎えてくれた。

 そんな路を誰の知らせか途中まで迎えに 来てくれたそのときの父の嬉しそうな顔は今 でも脳裏にある。第二期生の我々有志は、元 海兵団跡地で現在、長崎ハウステンポスわき の公園の一角に、この地で体験した貴重なそ して歴史的な事実を後世に伝え少年兵たちが 学業を半ばにして、兵士として動員されるよ うな悲惨な戦争を二度と起こさないことを願 って、記念碑を建てた。

 「安らかにねむれ昭和の白虎隊」。(了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

      (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)



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