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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

犬山市民の戦争体験

『奇跡の生還』 後藤好朗さん 

 私は太平洋戦争当時連戦連勝の勝ち鬨(どき)があがる昭和17年8月末、郷上の方々の歓呼 の声に送られ、名古屋経由にて広島県大竹海兵団へ9月1日入団、三ケ月間の新兵教育を受け18年1月、呉海兵団へ配属され、数日後、戦艦「日向」へ乗艦しました。

 機関兵は船底が作業場所のため油煙と熱風との戦いでした。当時、呉軍港近海に桂島艦隊と呼 ばれた戦艦数隻(大和、伊勢、日向等)が集結し出撃を待っていた。其の間軍律が厳しく艦上よ り投身自殺をする兵士までが出て、夕食後の酒保開けの時間にはほとんど毎晩上官より整列の号 令がかかり、軍人精神注入棒(パット)にて尻を叩かれる等、集団生活の規則を徹底的に体罰に より統率されました。

 乗艦ニケ月を過ぎた頃、内火機械科へ転科の募集があり応募致しましたところ、運よく採用さ れ18年6月、横須賀海軍工機学校へ入校、19年1月左腕に桜のマークを付与され卒業、呉海 兵団へ帰団。まもなく第七輸送隊が編成され木造船にてセレベス島、ジャワ島、ポルネオ島と南 方各島へ食糧を搭載して航海、大海原で敵機に数度にわたり機銃掃射と爆弾投下の攻撃を受け、其 の度に海の藻層となる覚悟でした。

 其の頃、戦況は悪化の一途を辿っていて遂に航海は不可能となり、ポルネオ島のパリックパパ ンヘ上陸するも、米軍による艦砲射撃は激しさを増し、隊員は昼夜に亘り防空壕掘りの日課でし た。

 十日間程続いた艦砲射撃も終り、息つく間もなくB29による爆撃に移行しました。パリックパ パンは石油の宝庫で、当時容量1万トンタンタが100基以上もありましたが、夜間の爆撃を受 け真昼の如く燃え上がり凄惨を極めました。

 その頃、オランダ兵が上陸、夜間の銃撃戦が火蓋を切り、私の近くにいた戦友の夫馬君が頭部 に銃弾を受け即死しました。私も左足首に迫撃砲の弾片を受け負傷しましたが、現地に医療施設 も薬品もなく治療すら受けられず、弾片を足に入れたまま敗戦を迎えました。数日後、オランダ 兵がやってきて、隊員の銃器等は全部没収され、池へ投下されました。

 隊員全員は約半年間、オランダ兵の捕虜となり、私は傷む足を引き摺りながら炭坑の石炭堀り に酷使されました。食事はお粗末で、握り飯に岩塩をまぶしたものが一日三個の配給でした。大 半の隊員がマラリアの発熱と栄養失調による脚気になり、捕虜生活の苦汁が戦後半世紀を経た今 でも戦争の悲惨さとして脳裏より消す事が出来ません。

 21年5月、炭坑の石炭掘りに従事中、内地帰還の一報が入り、戦友同志生きていてよかっ たと、抱き合って歓びに浸りました.戦友の死を悼むと共にご冥福を祈っております。21年 六月、輸送船にて名古屋港岸壁へ上陸し、なつかしい故国の土を踏む事が出来ました。私が復員 後、パリックパパンの銃撃戦にて左足首に受けた弾片を、隣家の元軍医中将でした故後藤鐐枝先 生が私より一足早く朝鮮より復員され医院を開業されていましたので、摘出手術により除去して もらいました。

 終戦後52年の今、人類の殺戮兵器である核廃絶が叫ばれる時、 一部保有国が自国を誇示す るために廃止条約が締結されないのが非常に残念ですが、唯一の被爆国日本の一国民として恒久 平和を祈っております。
  (了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)



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