「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて」
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
戦争体験者の証言
「イナゴ取って食料の足しに」
今枝豊(当時楽田小六年)=犬山市楽田前田面
在校当時の記憶をたどると、それは戦時下のこと以外思い出せない。学校生活、登下校、衣食住どのことにも戦争がからんでいた。
まず、学校生活から思い出してみると、昭和十六年頃からは小学校を国民学校と呼ぶようになった。教科書もお粗未なものであった。ひどいときはわら半紙に印刷されたものをとじ合わせて使用した。昼間でも桑の木の皮むき等の勤労奉仕もした。勉頼は二の次であった。家での勉強も夜は灯火管制でできなかったように記憶している。
当時の通知表の採点は優良可であり、女学校出の代用教貝が、この頃からだんだん多くなっていった。服装も男子は戦闘帽にゲートルを巻いた姿で、女子は母親の着物をモンペにして着用していりた。登下校は必ず防空頭巾を持ち歩いていた。衣類、調味料、タバコに至るまで配給制であった。「自給自足」
「物々交換」 「欲しがりません、勝つまでは」。これらの言葉は戦時中に覚えた言乗である。
学校でも空き地等に主にさつまいもを作って給食で食べたりした。また、たんぼに行き、イナゴ取りをして食料の足しにもした。昭和二十年には空襲が一段と激しくなり、名古屋方面から親類を頼っての疎開者が多くなってきた。そんな苦しい学校生活の中で、ただ一つの楽しい思い出、それは伊勢・二見ケ浦の一泊二日の修学旅行であった。それ以後、ますます空襲は激しくなっていった。
(「楽田小学校百十年誌」から)
愛知県犬山市役所総務部企画課発行 1995年発行
「ノーモア戦争平和シンポジウムに寄せて」より転載
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)
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