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「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて  

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

戦争体験者の証言

『「学徒退避!」勇気ある決断

           日比野信子(当時犬山高等女学校生徒)=犬山市犬山薬師町

 ムッと暑い日だった。 「今日は名古屋から陸軍のおえらいさんが視察に来られるから、整列して待つように」と言われていた。

 〃大阪陸軍被服廠名古屋出張所犬山倉庫〃という長い名称の作業所で、犬山高女三年生であった私達は、二年生から終戦の日まで勤労学徒動員隊として働いた。 (そこは、牛、豚、馬の毛皮等を軍靴にするために大きな皮革を型入れし、裁断をする所であった。元はS製糸と呼ばれた小さな個人の工場の跡で、今は無用の煙突ばかりがバカでかい小さな作業場であった。また、何しろ陸軍直轄であったためすべて軍隊調で厳しく命令は絶対服従であった。)

 五郎丸の国道に沿った門の入口に、その上官を迎えるべく整列した所へ、折から空襲警報のサイレンが鳴った。上官が今に見えるという時間であるので工場側はそのままで待てというのを、付き添いの岡部一二三先生は、学徒だけでも退避させてほしいと交渉されたが、どうしてもらちがあかぬまま、これまでと思われたか、顔をこわばらせた先生は突如独断で、「学徒退避!」と大声で叫ばれた。防空頭巾にもんべ、救急袋を肩にかけた動員学徒スタイルのまま、私達それぞれの防空壕めがけて突進した。

 その時だった。各務原の方角からとてつもなく大きな翼をひろげた敵の艦載機が、超低空で私達の鼻先に迫ったのである。作業の合間に自分達の手で掘った、壕とは名のみの粗末な防空壕ヘ飛び込むや否や耳をつんざく爆音と同時にパリバリバリと機銃掃射の音があたりを圧した。

 「お母さん」と呼ぶ子、 「かみさまあ」と叫ぶ友、私は思わず法華経を唱えた。お父さん、お母さん、私はここで…と遺言を書かねばとノートを探った。厚い綿の防空頭巾に汗びっしょりの恐怖の時間が過ぎ、警報解除の知らせで壕から出ると、何と作業所の天井や壁は無残にも穴だらけで、各所に銃弾がころころと転がっているではないか。工場側の髭の主任さんが一人怪我をしたのみで、幸いにも生徒は全員無事であった。聞けば壕まで行けず皮革をかぶって這っていた友もいたとか。

 あの時、岡部先生の一瞬の決断がなかったら、命令がなければ動けぬ当時の私達であってみれば、かよわい無防備の女子学生の集団に犠牲者が出たことは必定であった。壕から出て点呼をされる先生の姿に金色の光がさしたかとまがう神々しさを今も忘れることはできない。

 その頃の誰もがそうであったが、朝「行って来ます」と家を出る時、夕方元気な姿を父母に見せられるかどうかは保証されない毎日であった。体に採じ車の臭いをしみ込ませて、汗して働いた日々。今私達の子等にあの体験をさせてはならない。

  三十余年経てなお耳になまなまし
    動員の庭にききし認勅 信子

 かくして終戦を迎え、八月二十日、他の工場へ動員されていた上級生・下級生とも、さつまいも畠と化した運動場のある学校に集まり、講堂で中村二郎校長先生の話を聞いたのである。

 犬山高等女学校では空襲による犠牲者は一人も出さなくてすんだのだ。
(「犬山高等学校七十年の歩み」より)




          愛知県犬山市役所総務部企画課発行  1995年発行 
          「ノーモア戦争
平和シンポジウムに寄せて」より転載
           (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)


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