「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて」
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
戦争体験者の証言
「子供から楽しみ奪った戦争」
杉本信(当時楽田小六生)=犬山市楽田高根洞
「咲いた咲いた桜の花が・・・」で始まった小学校時代。遠足や運動会がとても楽しかった。しかし、四年生になった昭和十六年十二月八日、この日をもって、すべての楽しみは、この大東亜戦争によって奪われた。当時、部落にはラジオはまだ三、四台しかなかった。そのラジオは夜昼なしに大本営発表ばかりを流していた。
そのころ私達の登校下校時に歌う歌といえば
「勝ってくるぞと勇ましく」という軍歌ばかりになっていた。そして校庭では青年団による銃剣術の練習が日を追うごとに、熱のこもったものになっていた。そんな頃ラジオは連日のように「南方○○島を占領」という日本軍の勝利を伝えていた。
戦争が長引くにつれて、次第に食料事情が悪くなっていく。学校にも勤労という時間ができ私達は遠い名古屋水道の通る巾まで行き、水道脇に芋や大豆などを作った。その後間もなく校庭を半分ほど耕し芋、大豆などを作った。この頃私達の弁当は米麦半分半分の弁当から芋麦などの人った五目弁当となり、次第に弁当を持ってくることのできない者も多くなっていた。
時はすでに昭和二十年五月、夜昼なしの空襲、時には開墾帰りに敵の艦載機に出会い「バンパンパン」と機関銃の音、思わず田んぼに伏せる。過ぎ去って全員無事、
「臭い臭い」で立ち上がる。 「よかったよかった。運がよかった」。見るとかけたてのうんこが付いていた、ということもあった。
(「楽田小学校百十年誌」より)
愛知県犬山市役所総務部企画課発行 1995年発行
「ノーモア戦争平和シンポジウムに寄せて」より転載
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)
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