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「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて  

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

戦争体験者の証言

「怖かった機銃掃射」

                    小松久夫(当時楽田小四年)=犬山市楽田襲之門
                  小島成元(当時北小六年)=犬山市犬山薮下


 戦争も終わりに近づいた昭和二十年春、犬山にも艦載機(航空母艦から発着した戦闘機)が来襲するようになった。近くに各務原飛行場や小牧飛行場があるため、爆撃のついでに艦載機は住民を見つけると機銃掃射を浴びせた。このためけが人も出たほどだ。本曽川で水泳中や下校途中に逃げ回った小学生もたくさんおり、いま大人になった当時のチビっこ達は「あの頃は飛行機の爆音が聞こえただけでも、肝を冷やしたものです。ファミコンに夢中になっている、いまの子供は本当に幸せだ」とうらやましがっている。

 犬山市は木曽川の北側に陸軍の各務原飛行場や戦闘機を作る工場、南には小牧飛行場があり運悪く軍の重要施設に挟まれた地形になっていた。このため南方のテニアン島や航空母艦から飛び立った爆撃機や戦闘機は、犬山上空が飛行コースになっていた。とくに昭和二十年五月ごろからは毎日のように上空を通過した。

 名古屋方面から来た米軍機の編隊は、楽田から木津用水を通り各務原飛行場など軍需施設を爆撃した後、大きく右へ迂回し美濃加茂方面から瀬戸、豊田方面へ抜け、南方へ飛び去った。編隊には必ず護衛の戦闘機がビッタリとくっついており、その中の一機が地上の住民を見つけると、編隊から離れて機銃掃射を浴びせたりした。

 楽田小学校四年生だった小松久夫さんは、この時の状況を昨日のことのようにはっきりと覚えている。ちようど学校からの帰り道だった。 「ブーン」という爆音に、振り返ると遠くに戦闘機が一機見えた。二百メートル離れた自宅へ急いで逃げ帰り 鶏小屋の陰に身を隠した。西側の空を見上げると、左から右へ屋根スレスレの低空を、グラマンかロッキードだろうか、戦闘機がものすごい早さで飛び去った。

 バイロットは、ちようどこちら側を見ていた。飛行服に身を包み風防めがねもはっきりと見えた。楽田はまだかやぶきの農家がたくさんあった。米軍バイロットは日本の田園風景を見ながら何を思っていただろうか。小松少年は生きた心地もしなかった。恐怖心からしばらくは身動きもせずジーっとしていた。畑や田で友人と遊んでいて戦闘機の姿が見えたため、あぜみちの陰に身を隠したことも二、三回あった。楽田から名古屋の夜間空襲もはっきり見えた。真っ赤な炎が夜空を焦がし、まるで花火のようだが、そのなかで何の罪もない多くの人達が死んでいったのだった。

 木曽川で水泳中に米軍機が見えたため、逃げ回った少年もいる。当時、犬山北小学校六年生だった小島成元さんは、八月の初めごろ、友人と水泳を楽しんでいた。当時、北小学校裏の竹林を通り過ぎると木曽川の水泳場に出た。コンクリート製の中洲が川の中央にあり、小島少年らは岸と中洲との間を泳いで往復していた。他にも水泳中の子供がたくさんおり、チビっこの歓声でにぎわっていた。

 突然だれかが「飛行機だ」と叫んだ。小島少年も西の空を見上げると、戦闘機が一機、西の空を悠然と飛んでいるのが見えた。

 楽しい遊びが一転、恐怖に変わリパニックになった。泳いでいた子供たちは我先にと岸へ上がり、竹林のなかに逃げ込んだ。中洲に取り残された少年たちは、川へ飛び込み潜ったり、中洲の陰に身を隠した。幸いその戦闘機はこちらへ向かってくることはなかったが、どの少年たちも生きた心地はじなかったに違いない。

 このように戦争とはなんの関わりもない少年たちも、不安な時代を過ごした。
(「犬山市民 戦争と平和」より)





          愛知県犬山市役所総務部企画課発行  1995年発行 
          「ノーモア戦争
平和シンポジウムに寄せて」より転載
           (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)


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