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「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて  

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

戦争体験者の証言

「九死に一生の特攻隊員」

                        板津忠正(特攻隊員)=犬山市犬山西三条

 戦局が不利となってきた昭和十九年秋、日本軍は「一機一艦撃沈」の名のもとに特別攻撃隊を編成した。まだ二十歳そこそこの若者が爆弾を積んだ飛行機もろとも敵艦に体当たりするというなんとも悲壮な戦法で、実に三千五百人余が死んでいる。これら特攻隊員の生き残りの中に、板津忠正さんがいた。

 板津さんは名古屋市役所施設局(いまの土木局)に勤めていたが、民間機のバイロットヘの夢を捨てきれず昭和十八年十月 市役所を退職 米子航空機棄員輩成所に進んだ。戦争が激しくなり、戦闘機のパイロットが不足してきたため、板津さんは志願し陸軍飛行学校に入隊した。昭和十九年十月、レイテ作戦でフイリピンの基地から初めて特別攻撃隊が編成され、米艦隊に突入していった。翌年五月二十八日朝、今度は板津さんたちが鹿児島の知覧基地から掌ることになった。

 十二機は次々と南の空へ飛び立っていった。胴体の下に二百五十キロ爆弾を抱え、しかも燃料は片道の七百キロ分しかなかった。出撃したら最後、もう基地には戻れない。沖縄へは南西諸島の島づたいに飛べば簡単だが、島の制空権は米軍が握っていた。このためまっすぐ南へ海面スレスレに飛び、途中から右旋回するコースをとることになった。沖縄までは七百キロ、約二時間の飛行だ。ちょっとでも操縦かんをずらせば、海面に接触するため、少しの油断も許されない緊張の連続だ。

 四分の三近く飛び、沖縄まであとわずかのところで、板津伍長の乗機に異常が起きた。計器盤の針が極端に左右にふれだしエンジンの音も「ガーガー」と不調になり、下がりだした。このため手合図で小林隊長機に「われエンジン不調」と告げると、小林少尉は手を左右に振りながら「早く離脱せよ」と指示してきた。 「もはやこれまで」と板津さんは涙を飲んで翼を上下にバンクさせると右旋回し編隊から離脱した。まもなく二百五十キロ爆弾を落とすと、軽くなった板津機は急上昇した。やがて真っ青な海面のなか、右下に島が見えてきた。

 「あの島の砂浜に不時着しよう」と着陸姿勢に入ったとき、エンジンがストップした。すぐにスイッチを切ると、グライダーのように着陸し始めた。しかしかなりの速度が出ていたため、着地してしばらくして車輸が砂地に埋まり、勢いがついていたため尾翼が持ち上がりあおむけにひっくりかえって止まった。板津さんは操縦席に体を固定していたため、ちょうど逆さになったままだった。風防ガラスと垂直尾翼が機体を支えていたため、頭部と砂地との間にすきまができていた。

 まもなく二人の島民が駆け寄ってきた。そのうちの少年が板津さんの顔をのぞきこんで生きていると確認したが、板津さんはもう一人の老人に「おっさん、掘ってくれ」と言うと、この老人も「おっ、生きとる、生きとる」と両手で懸命に砂を掘った。エンジン・スイツチを切っていたため、機体を損傷しても火を噴くこともなく、板津さんはかすり傷一つ負わず奇跡的に助けられた。この島は、沖縄から百五十キロ北の徳之島だった。

 やっとの思いで知覧基地へ戻ると、生きて帰った板津さんの姿にどの隊員も驚いた。いっしょに出撃した十一人はだれも帰ってこなかった。生きて帰ったことが板津さんの心に重くのしかかった。隊員の板津さんを見る目も、なぜか冷たそうに見えた。 「周りの目に耐えられぬ。もう一度早く出軽命令を出してほしい」。板津さんは毎日のように戦闘指揮所へ出向いて頼み込んだ。「あわてるな。待て、待て」という返事に板津さんははやる心を抑えることはできなかった。

 板津さんの熱心さにうたれ二回出撃命令が出たが、二回ともドシャプリの雨のため中止となった。南九州はすでに雨季に入り、ときたまスコールのような激しい雨が降るのだった。四回目の出撃は八月十五日と決まったが、終戦となり出撃することなく板津さんはまさに九死に一生を得たのだった。

 終戦後、板津さんは自分が生き残ったことを、他の特攻隊員にすまないと心の中でこだわり続けてきた。このため全国の遺族宅を探し回り、自分の知るかぎり隊員の最後の状況を詳しく話した。名古屋市役所へ復職してからも、慰霊の旅を続けたが、昭和五十四年、隊員の両親が高齢になり生前中に会えない可能性も出てきたため、板津さんは定年を待たず退職した。

 こんな最中、特政基地跡に、隊員の霊を慰め後世に歴史的事実として語りつごうと特攻平和会館が完成した。板津さんは昭和五十九年、請われて館長を引ぎ受け、見学者に体験談を通して平和の尊さを話し続けてきた。この特攻平和会館には知覧基地から飛び立った千二十六人の遺影を納めるコーナーが設けられている。大半は板津さんが集めたものだ。生前中に一枚残らず集めようと、昭和六十三年六月、館長をやめ自由の身となって再び遺影集めに全力を注ぎ、ついに全部集めることができた。

 板津さんは「英霊がお前にこういうことをさせるために生かしておいたのだ、と私に言っているようだ。二度と前途有望な若者を死に至らしめてはいけない」と願っている。
(「犬山市民 戦争と平和」より)

          愛知県犬山市役所総務部企画課発行  1995年発行 
          「ノーモア戦争
平和シンポジウムに寄せて」より転載
           (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)

          ※「平和を願って 戦後50年犬山市民の記録」
            (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)の
            ”無駄にするな特攻隊員の死”と同じ内容です


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