[ TOP ] [ 新着 ] [ 太平洋戦争 ] [ 自費出版 ] [体験記] [ 活動 ]
[ リンク ][ 雑記帳 ][サイトマップ] [ 掲示板 ] [ profile ]

「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて  

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

戦争体験者の証言

「ピカッーゴーとものすごい風

                       杉戸縫子(長崎で被爆)=犬山市塔野地青木

 私は昭和十九年(一九四四年)八月一日より、長崎三菱兵器製作所精密工場へ女子挺身隊員として勤務していました。

 二十年八月九日朝、夏の青空は高く澄み渡り、太陽は又、今日の暑さを思わせる程ギラギラと照り出し、裏山のセミの騒々しい鳴き声、三週間の深夜勤務を終え、私は同僚の梅本美津子さんに、仕事の申し送りをしました。彼女は実は深夜勤務のはずでしたが、昼勤の私に班長を通じて交替を依頼したのです。

 私は母から叱られることを覚悟して、それを引き受けました。案の定母から「三週間もぶっつづけの深夜勤務、女の子のやることでない」と、叱られたのでした。しかしそれが私の生命を助けてくれたのです。原爆投下後、工場は全滅、彼女の首は裏山に飛び、身体は六尺旋盤の下敷という哀れな最後でした。それは私の姿でもあった事と思います。

 自宅で仮眠中にピカッと赤色か、白色か、あるいは青色かとわからぬ程の強烈な光りを受け、ハッとして首だけをもたげた私の身体の上をゴオーッとものすごい風が過ぎていきました。慌ててモンペをはき、階下へ降りようとしましたが、降りるより落ちていったと記憶しています。モンペの中から血が流れ出してきています。見ると両方の太腿に数十個のガラスが突き刺さっていました。抜いてみると鋭い角度のガラスの端片です。ミシン針のようだなーと感じたことを覚えています。

 家族を防空壕に入れました。父は中国、兄はビルマ、弟は予科練から病気除隊と、男手のない私の家は、二十一歳の私が責任者でした。

 外に出て、街の様子を見ようとしましたが、ただ、ただ、シーンとしています。街全体が死んでしまったのでしょうか。

 人間いや、生きとし生けるものの息吹一つ聞こえない静けさ、生まれて初めて、死後の世界を見た思いでした。

 本能的に何かあったと思い、救急隊員であることを思い出し、工場へと救援に向かいました。県庁前の小高い丘を登りつめ、ふと左手の県庁を見ると、青銅の屋根から十数本の白い湯気が、ゆらゆらと立っているのです。それがとても美しく感じられました。あとでわかったことですがそれは県庁の燃え出す寸前の状態だったという事です。

 長崎駅まで来ますと、赤、黒と、もうもうたる土ぼこりが立ちこめていて、中には一歩も入れない状態で、恐ろしくなって帰宅を致しました。

 年後四時頃もう一度、工場へと出かけました。私の家のすぐ近くの寄合町を下りてきますと、下から赤いダルマさんが歩いてくるのです。すれ違った時に見ると、赤いと思ったのは、上半身の皮膚が火傷でむけてしまって、丸裸の状態です。

 ズボンもほとんどなく、ベルトだけ、頭、顔も血だらけです。私はその人に声をかけました。「どこへいかれますか?」 「東小島町に帰っていくのです」としっかりとした声でした。声をかけた私もおなかの中で、 この傷では五分か、十分ももつかな」と考えていたのです。戦争の狂気、人間性の喪失、若い二十一才の女の子が、そのことを大変だなーとか、衷れだとか考えないで、死ぬ時間を考えている、日本人全体が狂っていたのです。



          愛知県犬山市役所総務部企画課発行  1995年発行 
          「ノーモア戦争
平和シンポジウムに寄せて」より転載
           (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)

           ※「平和を願って 戦後50年犬山市民の記録」
            (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)の
            ”一ぱいの水”と同じ内容です。


九死に一生の特攻隊員
今も不可解な発熱
ノーモア戦争 目次
戦争体験記の館 原爆被爆体験記