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『浜松大空襲』
上島国民学校の報告書より 紹介
全文紹介

浜松大空襲
 「浜松戦災史資料」上島国民学校の報告書よ

 6月18日、浜松市空襲時の吾人の経験より推察するに、日曜日の晩なりしかば、浜松の人々は”今晩もまたお客様(B29)が来るかな”ぐらいに思いつつ床に就けり。今まではたいてい大都市の爆撃にして、 昼間の攻撃は4月30日及び5月19日が比較的大規模なりしも、市内の一部分を爆弾攻撃したに過ぎず、夜間の集中攻撃を中都市に及ぼすと思ってはいたものの、まさか今夜浜松をやるとは誰も予期した人は少ないと思いたり。

 寝盛りの午前0時ごろ、突如警戒警報のサイレン耳に入りたり。それまたお客様と例のごとく悠々と蚊帳より寝間着のまま出でたる瞬間、早や照明弾は鴨江町方面の上空に投下され、近辺昼間の如くなりたれば、すわ今晩は危険なりと直ちに防空服に身を固めんとする閑もあらばこそ、ザアーといった落下音は雨の如く響き来たり、各壕の中へ裸に近き服装にてとび込める状態なりき。

 ラジオのスイッチを入れしに、ラジオは悠々と「敵の一編隊は御前崎上空を東進中」と 喋りつつあり。はやその時分には市の周辺に続々と焼夷弾は投下され、機数はその時不明 なりしも後で諸人の言を総合すればB29数十機(50〜60)なりし由、市を○く中にまた無数に 投下せしものの如し。焼夷爆弾と称する直径30センチ、長さ1メートル余りの焼夷弾の威力にはバケツリレーやタコの足と称せられた火叩きではとても消火は不可能なりき。馬鹿正直に消火に従事し、逃げ遅れし者はたいてい焼死の運命を辿ったものの如く、ただし逃げ遅れしも橋の下や水のある防空壕で煙にまかざれし者はたいがい助かりしようすなり。吾人等はその一人なり。

 近隣の者にてリヤカーに老人を乗せて逃げ出し、リヤカーのみ助けて老人はどこかへ落としてしまったと言うものあり、着のみ着のままで逃げ出し、一息ついて見たら下着を失い_婦人もあったとの由。

 吾人等は橋の下に隠れること2時間半余り、おおむね中央部の建物は焼け落ちし時刻はだいたい午前4時ごろならんか。松菱の窓より火をく光景は壮観なりき 4時過ぎ東方の空やや白みし時分は敵機も去り、余燼濠々たる大通りを通りて自宅の焼跡に行かんとせしに、数歩出ざるに道路の中央に焼死体ありて、それを男女と判別するに困難なりき。

 頭髪はなく、顔も皮膚も真黒にしてピンーとして剛直していたり。田町の一防空用水の中に少年らしき者、首だけ出して死におるしも悲惨の極みなりき。

 防空壕に入らんとして満員のため断られ、逃げのびて助かりし者もあれば、断りし防空壕の中の者はむし焼きとなりて全滅せし者もあり。大きくて安全だという心持ちで逃げおくれし者ならん。 焼跡にぼう然として立ちたる人々の中には、何のために防空壕を作ったか、何のために防空演習をやったのかさっぱり意味が分からんという者あり。ある人に悪く言われても早く疎開したほうが利口だという人もあり。こんな風になるなら強制疎開(家屋)をした方がよかったと言った者もありき。

 焼けた町は二度と攻撃はしないからかえって安全だろうと言った者もありしが、7月29日晩の艦砲射撃を受けるに及んで浜松市の人心は極度に不安となりて、人口は激減の一途を辿りしものの如し。


平成7年8月発行「浜松戦災資料展」(地方公共団体発行分NO.3)より転載しております。
転載は、静岡県浜松市中央図書館郷土資料室の「学校のもの ですし,掲載することに問題はないでしょう」との判断を頂いております。  
無断で転載・引用は厳禁です。  



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