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『復員少年が見た敗戦直後の浜松市街』
蜆塚三丁目 河合達雄さん
全文紹介

復員少年が見た敗戦直後の浜松市街

蜆塚三丁目 河合達雄さん

 昭和20年8月25日(敗戦10日目)午後8時すぎの豪雨の夜、浜松駅に着いた復員列車の窓から、私はあわててホームに飛び降りた。

 列車が天竜川の長い鉄橋を渡ってから、下車の用意はしていた。夏の日はすっかり暮れ車窓はすでに真っ暗である。戦争で荒れ果てた車内に、案内放送なんて望むべくもない。

 車内は故郷に帰る復員兵で満員も満員、通路も網棚も荷物で身動きならず。少年兵も老年兵も、陸軍も海軍も、長かった戦いの疲れを一気に取り戻そうとするかのように、暗い車内灯の下で、大抵が正体もなく眠っている。彼等をよけて降りるには客車の窓しかない。

 仕方なく窓からの下車の段取りを仲間と決め、浜松駅到着を待った。敗戦直後の、それも豪雨の夜である。車窓に過ぎ去る灯は一つもない。列車が止まった。が、車窓からは何も見えない。ただ真っ暗である。赤信号か、故障か。浜松へあとわずかというのに、停車とは不吉である。

 「こりゃあ、浜松駅まで歩かせられそうだぜ」と、仲間が先を案じる。と、窓の外から呼び声がする。仲間が窓を上げて耳を澄ます。雨粒が飛び込んできた。

 「はままつー、はままつー」と聞える。「おい、着いたんだぞ、浜松だぞ」。「えっこんな田舎の田んぼの中が浜松駅かあ」。そこは軍隊で鍛えた仲、申合せどおりのすばやい段取りで連携行動、私たちはつぎつぎと列車の窓から飛び降りた。降りた所は「田舎の田んぼの中」ではなかった。足元にはプラットホームがあり、ホームの先には雨に濡れた駅舎らしい小さな建物が、裸電球に光っている。れっきとした浜松駅構内であった。

 ただし、ホームには電灯もなく、屋根もなく、ただその支柱だけが飴のように曲がったまま残って、折からの土砂降りの雨水が、音を立ててホーム全体を洗っていた。

 やっと浜松に着いた。今朝早く土浦を出て、 15時間である。

 私は、軍国少年として人並みに兵隊になったが、わずか一年で敗戦となり、土浦海軍航空隊からこの日、故郷浜松へ復員したのである。満16歳になったばかりであった。

 復員列車は東京発神戸行きである。車窓から見える敗戦の生々しい状況は、軍隊内で世間の情報から隔離されていた少年兵にとって、初めて目のあたりにする悲惨な戦跡であった。 東京市中を始め、横浜までの京浜地帯、平塚、小田原、沼津、清水、静岡と、復員列車 の通過するどの都市も、赤錆と灰色一色の焦土と化してしまっていた。

 一年前、出征兵士として、町内会の多くの人たちに囲まれ、氏神に詣でて奮闘を誓い、目抜き通りを駅まで見送られ、吹奏楽の華々しい演奏の中、浜松を発ったばかりである。

 あの街角、あの人たち、そし親兄弟は、今どうなんだやっと浜松に着いた。ある程度は予想し、覚悟もしていたが、帰郷第一歩の浜松駅は、これが東海道有数の駅だったかと思わせるほどに、惨めであった。降りたプラットホームには照明もなく、暗く狭い通路は仮の板囲いで、雨は容赦なく降り込み、風雨に揺れる裸電球が、遠くから顔を照らすだけであった。合羽のフードを目深にかぶった駅員が、たった一人通路の曲がり角に立ってはいたが、ただそれだけである。駅員に声もなく、無論、駅特有のスピーカーも一切鳴らず、焼けトタンを打つ雨音だけにせか されて黙々と前に続いて出□に向った。

 「この駅は、死に駅だ。ただ、俺たちを降ろすために停車したんだ」仲間の一人が軍隊調で咳く。周囲に聞こえていても言い返す者もない。

 ところが、出口まで来て驚いた。戦火に焼かれた「死に駅」に2〜30と思われる出迎えの人が、身を乗り出して私たちを待っていたのである。

 「兵隊さん、ごくろうさん。どこの部隊?」 「お帰んなさい。海軍でしょう。どこからー」「その隊の、□期生の□□は乗っていませんでしたか」と私たちを問い詰める勢いである。私たちは一旦駅の待合室に入った。待合室といっても仮小屋同然で雨漏りがひどく屋内にいながら雨合羽が脱げない。駅員は雨漏りのない所を選んでは、事務机を移動して いた。 「お宅は多分全焼しているでしょうね。雨もひどいから、とりあえず今夜はここへ泊まったらどうですか」と、駅員が親切に言ってくれた。

 激しかった雨もやっと小降りになったころ、「町の様子を見てくる」といって、暗闇の市中へ出ていった元気なやつが帰ってきた。

うたた寝をしていた私たちは、その大声に驚き、 「やっばりな」と沈うつになった。浜松が何度か空襲を受けたことは知っていたし、覚悟もしていたが、8階建てのビルが吹っ飛ぶほどにやられ、東海道線をくぐる地下道が埋まってしまうとは……。戦火に追われた親兄弟の身の上に思いが走る。

 しばらくして、それを確かめに行った仲間が帰ってきた。「あわて者めが、東と西を逆に見やがって…。おい、みんな、松菱も有るし、地下道だって通じているぞ」と嘆いて、笑って帰ってきた。

 「ここじゃ休まれませんから、家へ来ませんか」と一期後輩のW君を迎えにきた父親に勧められた。W君とは、同じ隊で同郷のよしみから車中で話が合い、意気投合していた。

 「電車はもうないから、歩いていきます。そんなに遠くありませんよ」

 私は意気揚揚と荷物を肩に担ぎ、待合室を出た。駅前に出たとたん、足が止まった。暗闇の中か焼け跡特有のあの強い臭いが鼻をついて来たのだ。目を凝らすと、駅前広場に掻き集められたと思われる焼け焦げた廃材と、土砂の山があった。そのかたまりから、雨水とともにあの悪臭が発散して鼻をつくのである。自分の隊が空襲された時も、東京の焼け跡を歩いた時も、この臭いであった。

 「この防空壕では7月29日に艦砲射撃の直撃を受けて、大勢の人が死にました。汽車の乗客が多かったそうですよ。まだ、ひと月にもなっていません。埋まったままの人もいるんじゃないですか」とWさんの父親の説明も声が低い。暗闇に目を凝らして近寄ってみると、たしかに筑山状に土砂を盛って作ったと思われる防空壕であった。艦砲射撃の破壊力は、海軍でよく教えられている。艦砲の威力を知る海軍の兵隊の私が艦砲射撃に遇わず、所用で汽車の旅を続けていた民間人がやられるとは…。敗戦のむごたらしさに、軍服でここに立つのが恥ずかしい想いで あった。

 また、雨が、心残りのように少し降ってきた。W君を先頭に私たち3人は、西鹿島線に沿った道を北に進んだ。板屋町、田町、早馬、常盤から八幡町、元浜町と、これらの町々は夜目にもそれと分かる一面の焼け野原であった。焼け落ちて立体物のなくなった街角は、近く、狭く感じる。だから、慣れた町でも彷徨しがちである。ましてや、雨の深夜である。私たち三人は時々立ち止まって、通りの名を確かめ合いながら、歩いた。歩き始めは焼け残った土蔵の壁や鉄骨の立ちようで、何屋の屋敷だとか、何工場の跡とかをいちいち押さえながら進んだが、延々と続く 焼け跡と、その特有の悪臭に、三人は次第に無口になっていた。私も、肩に食い込む復員荷物と戦いながらただ黙々と歩いた。

 道の中央部分はよく片づけられていて、暗い足元もスムースであったが、人っ子ひとり通らずの、焼け跡の長さにはほとほと参ってしまった。W君は荷物の半分を父親に持たせているが、私は全部である。

 「お宅はまだですか」と弱音を吐いた。「もうすぐですよ」と返事が帰ってくる。やっと焼け跡がなくなり、見慣れた温かい家並みがもどり、そこをしばらく歩いた。

 「さあ、着きました。疲れたでしょう」W君の家は曳馬町であった。


平成7年8月発行「浜松戦災資料展」より転載しております。
転載は、静岡県浜松市中央図書館郷土資料室の御協力により、河合さんご本人の 許可の確認を頂いております。  
無断で転載・引用は厳禁です。  


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