「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫
全文掲載 |
これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。
仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
第一章 東京陸軍航空学校
八 分科決定 卒業
昭和十七年四月入校の我々十四期生には一年三回の休暇が与えられ、昭和十八年の正月を自宅で迎えることができた。この頃になると外出用の第二種軍装も身体にピッタリ合うようになり、飛行機の事はまだ何も知らない飛行兵が胸のウイングマークをこれみよがしに意気揚々と闊歩したものである。
そして正月休みが終るといよいよ立川の航空実験部で各人の適性を検査し、操縦、通信、整備と分科が決定され、自分の針路が定まるので、どんな検査があるだろうか、自分はどんな成績がとれるだろうか、とお互いに落ち着かない雰囲気の毎日が続いた。少年飛行兵を志願した者は全員操縦へ行く希望をもっているので、人に負けないように競争して勉強するのもその希望を実現させたいためである。
その適性検査は約一週間を要した。記憶をたどってみると、厳重な第一次身体検査から始まり
@呼吸停止。七十秒から八十秒、この程度が普通二分くらい停めているつわ者がいた。
A目を開じて片足直立左右、各六十秒。この六十秒は非常に難かしい、ふらつきにかかると止まらない。
B六メートルの平均台を目隠しをして渡る。
C五桁数字の瞬間判読と記録。 一センチ弱の間を数字が瞬間に通る、これを読んで書き取る。
D反射神経の測定。スクリーンに右か左にかたむいた飛行機が現われる、スイッチは左右画像の反対方向へ倒す、目で見て判断し手足が対応する速さを千分の一秒単位で側定する。現在これと同じような機械が交通安全センターで使われている。
E回転椅子。この検査が一般によく知られている、椅子に座って回転させ眼球震蕩が回復する時間を測定する。
F高空耐性。気密室に入り気圧及び酸素を大気の約半分に減らすと高度五千メートルの状態になる、そこで一桁数字の計算の速度、手足の関節の検査、但し温度は下げないのでそれだけは助かる。
G加速度耐性、これがこの検査のメーンエベントである、五G(地球上の重力の五倍)の加速度をかけられると体重六十キロが三百キロになる理屈で、事実身動きもできない、そして頭の血が下がるので目の前が真っ暗になってくる、そんな状態で計器板上で点械する数字を読む、この場合身体に大きな圧力がかかっているので声は出ない、それで喉に発声帯が装着されている、非常にハードな検査で弱い者は失神する。この加速度だけはその当時地上では体験することは出来なかったが、現在は遊園地に行けば(一)G、
(+)G、どちらも体験することが出来る、但し失神するような心配はない。
まだ他にも検査はあったと思うが、今でも覚えているのはこのくらいで、
一喜一憂しながらも大過なく全コースを無事終了することができた。後は人事を尽くして天命を待つという気持で、
一年間の教練の総決算である習志野の大演習に一週間の予定で出発した。
東京陸軍航空学校最後のしめくくりの演習であるから当然びっしリハードスケジュールが組まれていて、終りの二日間は四十八時間ぶっとうしの演習の予定であった。この演習場の跡地は広大な住宅団地に変貌して、つわものどもの夢のあとは遠い昔話になったが、毎日、朝から晩まで広い演習場を駆け回り、前に書いたように二、三人分の空包を撃ちまくった、図にのって軽機関銃の空包まで撃ってみたが、これはさすがに区隊長、火薬の量が違い発射音が違うのでいっべんにばれ、危険だからと大目玉をくった。演習の予定が半分終った頃
突然命令が伝達され今度は後楽園球場で行なわれる体操祭にマット運動で出場することになり後半の演習を免除された、なにしろ一週間のうち前半は今迄の復習であり、後半が演習の山場であるだけに非常に皆から羨ましがられた。特に今日は神宮外苑と違い小人数とのことで、各班から
、1、2名程度であったから尚更である。戦友達が完全軍装で演習に出かけるのを見送って後楽園組は習習志野演習場を後にした。『空戦』の選手に選ばれていたことに感謝しながら超満員の後楽園に出場したが、二回目ともなれば観客席を見渡す余裕もでき、落ち着いて演技を披露することができた。そしてこの行事を最後に分科発表、卒業を待つばかりになった。
分科発表!これは後に生死を左右する重大な意味を持つことになるが、その運命の日はきた。
区隊長が上級学校名と名前を読み上げる、発表が終ると「ウワーッ」というどよめきがおきた。悲喜こもどもの状態でもう一度区隊長室へ再確認に走る者、いずれにしても自分達の進路は個人の意思に関係なく決定されたのである。幸運にも熊谷陸軍飛行学校要員の中に自分の名前はあった。
一般的な確率からみれば操縦へ進んだ者の戦死が多い筈であるが、我々十四期生はその逆になり通信、整備へ進んだ者に戦死者が多かった。その理由として操縦の場合は教育期間がどうしても長期間必要であり、養成機関も航空士官学校、下士官学生、特別操縦見習士官、逓信省の航空乗員養成所、そして少年飛行兵と比較的多かった、しかし航空通信、航空整備に関しては専門教育をする学校が少なくて、作戦部隊では年は若くても少年飛行兵は実に貴重な『金の卵』のような存在として活躍したのである。
我々操縦へ進んだ者が飛行学校を卒業して教育飛行隊で実用機のヨチヨチ歩きをしている時機に通信、整備はそれぞれ機上通信、機上機関として作戦任務についており、特に通信学校出身者は例外なくどの部隊でも隊長機の通信士として重用されたと聞いている。当時はどの分野でも正規に教育を受けた技術者が少なく、それを補充するために少年飛行兵乙種制度、特別幹部候補生制度と人は集めたが戦局の悪化するのが早く、教育も受けられぬうちに終戦を迎えた少年兵が実に数万人も居たのである。少年飛行兵でも正規の期間、教育を受けたのは十四期生が最後で十五期生以後はどんどん教育期間が短縮された。それでその時は「俺達は損をした」とぶつぶつ文句を言っていたが結果的には長期間の教育のおかげで命拾いをしたことになる。今はその学校跡も大きな住宅団地になり、わずかに敷地の一角に慰霊塔だけが建立されている。
昭和62年発行
「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載
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